جميع فصول : الفصل -الفصل 80

97 فصول

日本人形の面影

瑞希の指はキーボードの上で止まったままだった。あの頃、真希は本当はどう思い、自分を見つめていたのだろう。車椅子から見上げる視線に、どんな感情が宿っていたのか。嫉妬か、羨望か、それとも静かな殺意か。想像は羽ばたくことを知らず、ただ暗い井戸の底を這い回るだけだった。瑞希は初めて「書く」という行為の、冷たく高い壁に阻まれていた。 ……書けない。文字が浮かんでこない。 彼女は机に突っ伏し、深いため息をついた。温かな雫が頰を伝い、キーボードの隙間に静かに落ちて、黒い斑点を広げていく。肩が小刻みに震え、喉の奥から嗚咽が漏れた。書けば書くほど、真希が生きて動き出し、自分を嘲笑っている気がした。 その時、ベビーモニターから衣擦れの音が聞こえた。続いて、小さな吐息。「……もう起きちゃったのね」 時計を見ると、午後四時をとうに過ぎていた。オレンジ色の夕日が、蔦の這う窓辺から斜めに差し込み、リビングに長い光の筋を描いている。瑞希は重い体を起こし、子供部屋のドアを開けた。「爽子、おはよう」 瞬間、心臓が跳ね上がった。 爽子がベビーサークルにつかまり立ちをしていた。まだ十ヶ月なのに、しっかりと両足で床を踏みしめ、こちらを見上げている。漆黒の髪が肩まで滑らかに伸び、ガラスのように薄く透明な茶色の瞳が、夕陽を反射して妖しく輝く。真っ赤な小さな唇が、ゆっくりと弧を描いた。 日本人形のような、完璧で冷たい美しさ——それは、真希そのものだった。「まーま」 得意げに、はっきりと言った。声は甘く澄んでいたが、その笑みにはどこか勝ち誇ったような翳りがあった。顎の下のホクロが、夕陽に浮かび上がる。瑞希の足が床に縫い付けられたように動かなくなった。抱きしめなければいけないのに、腕が上がらない。愛しいはずの娘の姿が、死んだ妹の亡霊と完全に重なり、胸を締めつける。 爽子が両手を伸ばして「まーま」ともう一度呼んだ。瑞希は震える指で口元を押さえ、後ずさりした。背中が壁にぶつかる。温もりを、愛情を、すべて拒絶するように。「……やめて……お願いだから……」 小さな声が、夕焼けの部屋に虚しく溶けた。爽子の笑顔は、ますます深く、ますます美しく、真希の最後の微笑みをそのまま映しているようだった。
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瑞希の限界

瑞希はもう、完全に限界を迎えていた。 爽子の笑顔が、真希のそれに重なる。離乳食を食べる仕草、夜中にふと目覚めたときの吐息、時折見せる大人びた眼差し——すべてが、死んだ妹の影を宿しているように感じられた。陽翔を抱きしめるときは自然に愛情が溢れるのに、爽子を抱こうとすると腕が硬直し、胸が締めつけられる。愛せない。自分の産んだ子を、愛せない自分がいた。 ある夜、智久が帰宅した後、瑞希はリビングのソファで震える声でようやく打ち明けた。「……智久さん。爽子が、真希にしか見えないの」 智久はコーヒーカップを置いたまま、言葉を失った。妻の顔をじっと見つめ、長い沈黙の後、ゆっくりと息を吐いた。これまで薄々感じていた違和感——夜中にうなされる瑞希、爽子を抱くときのぎこちない笑顔、母子手帳に書く文字の震え——すべてが、今、はっきりと繋がった。「瑞希……」 智久は妻の肩を引き寄せ、強く抱きしめた。温かい胸の感触が、わずかに瑞希の凍えた心を溶かす。でもすぐに、爽子の寝室から聞こえる小さな寝息が、再び恐怖を呼び起こした。「陽翔はおばあちゃんの家に預けて、瑞希……心療内科を受診しよう」 瑞希は智久のシャツを握りしめ、顔を埋めた。涙が熱く溢れ、布地を濡らす。「……私、狂ってるの? 自分の子を、妹の亡霊だなんて思ってしまうなんて……」「狂ってないよ。ただ、疲れすぎてるんだ。真希のことが、まだ心に残ってる。専門の先生に相談すれば、きっと楽になる」 智久の声は優しかったが、目には深い疲労と不安が浮かんでいた。彼もまた、爽子の顎の下のホクロや、時折見せる冷たい微笑みに、薄ら寒いものを感じ始めていた。 その夜、瑞希は爽子のベビーベッドの傍に座り、娘の寝顔をじっと見つめた。漆黒の髪、薄茶の瞳、赤い唇。そして、顎の下の小さなホクロ。爽子が夢の中で小さく笑った瞬間、瑞希は思わず後ずさった。 心療内科——そこに行けば、この呪縛から逃れられるのだろうか。それとも、真希はさらに深く、爽子の体を通じて自分を追いかけてくるのだろうか。 窓の外では、秋の冷たい風が木の葉を散らしていた。瑞希は両手で自分の顔を覆い、静かに嗚咽を漏らした。愛すべきはずの家族が、今は彼女をゆっくりと蝕む影となっていた。
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心療内科

瑞希は生まれて初めて心療内科を受診した。クリニックの待合室は、思ったより明るく穏やかだった。一見すると、どこにでもいる普通の人々が、静かに椅子に座っている。けれど彼ら一人ひとりが、自分のように「心に何かを抱えて生きている人々」なのだと思うと、不思議と気持ちが落ち着いた。自分だけじゃない。自分だけが毎夜、死んだ妹の影に怯えて眠れぬ夜を過ごしているわけではない。そう思うだけで、胸の奥が少し軽くなった。 小鳥の囀りと小川のせせらぎを流れるBGMが、柔らかな日差しとともに天窓から降り注ぐ。穏やかなラベンダーのアロマオイルの香りが鼻先をくすぐり、瑞希はソファに深くもたれかかった。肩の力がゆっくりと抜けていく。 隣には爽子を抱いた智久が、膝の上に娘を乗せたまま緊張した面持ちで辺りを窺っていた。爽子の小さな手が智久のネクタイを握り、時折「ぱぱ」と甘えた声を上げる。「どうしたの?」「……いや、なんだか緊張しちゃって。俺まで診察されるみたいだな」 瑞希は思わず小さく笑った。夫の素直な緊張が、妙に愛おしい。この人のためにも、陽翔のためにも、爽子のためにも——ちゃんと治療に専念しよう。そう心に誓った。 爽子の顎の下のホクロが、柔らかな光に浮かび上がる。今日も美しく、日本人形のように整った顔立ち。でも今は、その美しさが怖くないように思えた。治療すれば、きっと普通の母親になれる。真希の影から逃れられる。「岡部さん、岡部瑞希さん」 受付の柔らかい声が待合室に響いた。瑞希は智久と目を合わせ、深く息を吸った。智久が「行ってらっしゃい」と小さく頷く。爽子が「まーま」と手を伸ばすが、瑞希はそっとその手を握り返し、立ち上がった。 診察室のドアを開ける瞬間、背後に爽子の視線を感じた気がした。薄茶の瞳が、まるで真希のように静かに微笑んでいるような——。 瑞希はドアノブを握る手に力を込め、一歩を踏み出した。この扉の向こうに、自分の救いがあることを願って。診察室には、ふくよかな体型の親しみやすい医師が柔らかく微笑んで座っていた。白衣の下にギンガムチェックのシャツを着て、2台のパソコンとプリンターが並ぶデスクの端には、0カロリーコーラの黒いペットボトルが置かれている。飲み過ぎなのか、ボタンがはち切れそうに張っている腹部が、妙に人間味を感じさせた。
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双子の顔をした娘

爽子はつかまり立ちから伝い歩きへと、日々着実に成長していた。顔立ちもはっきりと整い、漆黒の髪、薄茶の瞳、真っ赤な唇——すべてが真希に瓜二つだった。スーパーで買い物をしていると、ベビーカーの中で笑う爽子と瑞希の顔を見比べた人々が、誰もが優しく声をかける。「お母さんとそっくりですね。双子みたい!」 その言葉に、瑞希はぎこちなく微笑むしかなかった。それもそのはず。私と「彼女」は本物の双子なのだから。当然のことだ。 爽子はベビーカーの中で、顎の下のホクロを小さな指で触りながら、瑞希を振り返った。大人びた、静かな微笑み。まるで真希がかつて見せていた、あの勝ち誇ったような笑みだった。ベビーカーを押す瑞希の手が、ぴたりと止まる。その仕草は、真希そのものだった。 イライラすると爪を噛む癖。考え事をしていると髪の毛をくるくると巻く癖。離乳食を拒否するときの眉の寄せ方まで、すべてが真希と同じだった。 心療内科のカウンセリングと、処方された抗不安薬を飲み続けたおかげで、夜の眠りは幾分か深くなった。夢に真希が現れる回数も減り、朝までぐっすり眠れる日が増えた。 けれど——。 ある深夜、瑞希はふと目を覚ました。ぼんやりとした寝室の闇の中で、すぐ近くに小さな影があった。爽子がベビーベッドから這い出て、ベッドの横に立っていた。薄い月明かりに照らされた顔が、じっと瑞希を覗き込んでいる。 その瞳は、幼児のものとは思えないほど冷たく、深かった。「……!」 瑞希の喉から、獣のような声が漏れた。「嫌! 来ないで!」 反射的に手を振り払った。勢い余って爽子の小さな体が後ろに倒れ、床にぶつかる音が響いた。瞬間、爽子が甲高い泣き声を上げた。「うわああああん! まーま……!」 その声で、瑞希はようやく我に返った。心臓が激しく鳴り、冷たい汗が全身を伝う。慌てて爽子を抱き上げ、背中をさすりながら震える声で謝った。「……ごめんね、ごめんね……ママ、夢を見て……」 爽子は泣きじゃくりながらも、瑞希の首に小さな腕を回してきた。その温もりが、愛おしいはずなのに、今はただ重く、恐ろしく感じられた。 智久は隣でぐっすり眠ったままだった。瑞希は暗闇の中で、娘を抱いたまま天井を見つめた。薬を飲んでも、カウンセリングを受けても、真希の影は少しも薄れない。むし
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クリスタルのトロフィー

「ここが……私の家……」 相馬螢子は高級静養施設から退所し、自宅マンションの玄関ドアを静かに開けた。足音が大理石の床に響き、広々としたリビングに柔らかな午後の光が差し込んでいる。ハウスキーパーが不在中も丁寧にメンテナンスしてくれていたのだろう。埃一つ落ちず、鏡のように磨かれた家具が、まるで彼女を待っていたかのように整然と並んでいた。 チェストの上には、クリスタルガラスの盾やトロフィーがずらりと並び、窓から差し込む光にきらめいている。螢子はゆっくりと近づき、その中の一つを手にした。冷たいガラスの感触が指先に伝わる。《第45回日本映画アカデミー賞 主演女優賞 相馬螢子》 一瞬、煌びやかなライトが視界を埋め尽くし、レッドカーペットの感触、瞬くカメラのフラッシュ、拍手と歓声が脳裏をよぎった。ドレスの布地が肌を滑る感触、マイクを握る手の震え——しかし、それらはすぐに白い靄に包まれ、溶けるように消えていく。「……これが、私のものだったの?」 螢子はトロフィーを両手で抱え、静かに目を閉じた。記憶の断片が、まるで他人の人生のように遠い。足がわずかに引き摺り、右足の違和感が再び疼いた。八重咲きの芍薬が飾られた花瓶の香りが、部屋に優しく漂っている。 佐々木公彦が後ろから近づき、彼女の肩をポンと軽く叩いた。「急がなくてもいい。いつか、全部思い出すさ」 彼の声は穏やかだったが、眼鏡の奥には隠しきれない心配が浮かんでいた。螢子はトロフィーを胸に押し当て、弱く微笑んだ。「……公彦さん。私は本当に、相馬螢子だったの? それとも……」 言葉を飲み込む。台本の「真希」のセリフが、頭の中で勝手に響く。「陸斗……ずっと、愛してた……」あの台詞を口にすると、自分の声が真希のそれに聞こえる。瑞希の視点で書かれた物語の中で、真希はただの被害者ではなかった。嫉妬し、計算し、勝利を掴もうとした女——。 螢子は窓辺に立ち、街並みを眺めた。遠くに港が見える。卯辰山の桜並木が、記憶の底でかすかに揺れている。退所した今、オーディションまで残り二週間。阪崎絢音に勝ち、真希を自分のものにしなければ。 公彦がキッチンでコーヒーを淹れ始める音が聞こえた。螢子はトロフィーをそっと胸に抱いたまま、静かに呟いた。「……私は、真希になりたいのかもしれない」 その言葉
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赤い訂正

螢子は午後の柔らかな日差しが差し込むサンルームで、「私のすべて」の台本をめくっていた。白い観葉植物の葉が、空調の風に静かに揺れる。ページを追うごとに、「真希」という人格が、彼女の中で息を吹き返していく。輪郭が鮮明になり、血の通った体温さえ感じられるようだった。「……これは違うわ。これも! 真希はそんなことを考えない!」 螢子はブツブツと独り言を繰り返しながら、赤ペンでセリフを太く消し、新しい言葉を書き連ねた。紙が擦り切れるほどの勢いだった。女優がアドリブでセリフを変えることはあっても、オーディション前にここまで大胆に台本を書き直すなど、異例中の異例だった。 佐々木公彦がコーヒーカップを手に、ため息混じりに声をかけた。「螢子、そんなことをしてオーディションに落ちたらどうするんだ? 監督の目にも留まるぞ」 螢子はペンを止めることなく、巻毛を指でくるくると巻きながら答えた。声が低く、熱を帯びている。「真希はこう思っていたのよ……『瑞希はいつも強い。強いから、全部持っていける。陸斗の視線も、両親の愛も、私の体が動かないせいで、全部奪える』って。台本の真希はただの被害者でしかない。でも本当の真希は、弱さを武器に、姉を呪いながら愛を独占しようとした女なの」 その眼差しは鬼気迫るものがあった。琥珀色の瞳が、まるで別の人間の光を宿している。右足が無意識に床を軽く引き摺り、痛みなど感じていないかのように赤ペンが走る。 公彦は言葉を失い、ただ黙って彼女を見つめた。事故以前の相馬螢子は、ここまで一つの役に取り憑かれるような女優ではなかった。記憶を失ったはずの彼女が、なぜ「真希」という存在にこれほど深く入り込めるのか。夢で見た桜の樹、車椅子の少女、陸斗という名——すべてが、螢子の内側でゆっくりと形を成している。 螢子は最後のページを書き終えると、台本を胸に抱きしめ、窓の外に目をやった。遠くに見える港の風景が、脳裏の桜並木と重なる。「……私が、真希を生きる」 その呟きは、静かな決意と、得体の知れない歓喜に満ちていた。サンルームに差し込む午後の光が、彼女の横顔を美しく、しかしどこか不気味に照らしていた。
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舞台袖

舞台に冷たいスポットライトが白く降り注いでいた。舞台袖の緞帳の陰に身を潜め、相馬螢子はライバルの阪崎絢音の演技に釘付けになっていた。 絢音は腰まで届くストレートの黒髪を艶やかに染め、毒々しいほど真っ赤な口紅を差していた。車椅子に腰掛け、弱々しく微笑みながらも瞳の奥に冷たい光を宿す——それは台本からそのまま抜け出てきたような「完璧な真希」だった。セリフは一切澱みなく、声の震えも、視線の揺らぎも計算し尽くされている。観客席にいるはずの審査員たちから、感嘆の吐息が漏れるのが聞こえた。 螢子の背筋に、凍てつくような負の感情が這い上がった。(真希が……奪われる)胸の奥で、黒い炎が勢いよく燃え上がる。自分のものにしなければならない。この役は、私が生きなければならない。「大丈夫か? 顔が青いぞ」 佐々木公彦が心配そうにホットコーヒーの紙コップを差し出した。螢子は無言で首を振り、自身の台本を強く握りしめた。ページの端はすでに擦り切れ、赤ペンで書き直された文字がびっしりと並んでいる。原作者・岡部瑞希が描いた「真希」を、真っ向から否定したセリフ。自分の奥底から湧き出した、嫉妬と執念と、歪んだ愛情——それが、螢子の血のように紙面に染み込んでいる。 暗記したセリフは、すべて自分が書き換えたものだった。 その時、スタッフの声が響いた。「相馬螢子さん、どうぞ」 舞台袖ですれ違った阪崎絢音は、汗ばんだ額を拭いながら自信たっぷりの微笑みを浮かべた。「お疲れさま。頑張ってね」 その言葉に含まれた余裕が、螢子の胸を抉る。喉がゴクリと鳴った。足がわずかに引き摺るが、今は気にならない。この選択は間違っていない——そう自分に言い聞かせ、螢子はゆっくりとスポットライトの下へ足を踏み出した。 舞台の床が冷たく足裏に伝わる。「相馬螢子です。よろしくお願いいたします」螢子は深々とお辞儀をする。両足が震えているのが分かった。車椅子のセットが、中央に置かれている。螢子は深く息を吸い、ゆっくりと腰を下ろした。観客席の闇に向かって、琥珀色の瞳を細める。 ここから、真希が始まる。 彼女の唇が、静かに弧を描いた。その微笑みは、阪崎絢音のものより深く、暗く、しかし美しかった。
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呼び覚まされる鼓動

オーディションで螢子に課されたのは、卯辰山の桜の樹に登る瑞希を見上げるシーンだった。 台本には、車椅子に座った真希が優しく空を見上げ、「危ないわよ、降りてきて」と穏やかな声で姉を気遣う姿が書かれていた。膝にブランケットを掛け、儚い微笑みを浮かべながら、快活に木を登る瑞希を見守る——それが原作者の描いた「真希」だった。 しかし螢子は、そのページを真っ赤なマジックで塗りつぶしていた。「……こんな風に笑えない。本当の『真希』なら、憎いと思っていたはずよ」 彼女の声は低く、震えていた。瑞希への羨望、憧れ、そして底知れぬ憎しみと衝動的な怒りが、胸の奥から煮えたぎるように湧き上がる。舞台に置かれた車椅子に腰を下ろした瞬間、それは確信に変わった。「……私は、瑞希を憎んでいる」 表情が禍々しく歪む。唇を血が滲むほど強く噛み締め、指先が白くなるまで車椅子の腕置きを握りしめた。次の瞬間、螢子はゆらりと立ち上がった。右足がわずかに引き摺るが、構わず一歩を踏み出す。「瑞希! 私を見下ろして満足!? でも私は、脚が動かない分、みんなから愛されている! 悔しいでしょう! 陸斗の視線も、両親の優しさも、全部私のものよ! あなたがどれだけ強くても、結局は何も持っていけない!」声が舞台全体に響き渡る。鬼気迫る怨嗟と、勝ち誇ったような喜びが混じり合った叫びは、阪崎絢音が演じた台本に忠実な「優しい真希」とは全く違うものだった。そこにあったのは、生々しい嫉妬と、長い年月で熟成された憎悪。そして、歪んだ愛情だった。 審査員席からどよめきが起こった。意見は真っ二つに割れた。「これは……真希の本質を掴んでいる」「だが、原作者の意図を完全に無視している」「しかし、この迫力は……」 スポットライトの下で、螢子は荒い息を吐きながら、ゆっくりと車椅子に戻った。額に汗が光り、琥珀色の瞳が暗く燃えている。舞台袖から見守る佐々木公彦は、言葉を失っていた。 この演技は、ただのオーディションではなかった。相馬螢子は、真希という存在を自らの体に呼び覚まし、完全に飲み込もうとしていた。
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真希の覚醒

螢子が最後のセリフを吐き終え、車椅子に呆然と座り込んだ瞬間、観客席からパラパラと、しかし確かに拍手が上がった。阪崎絢音が演じ終わったときの、礼儀正しい控えめな拍手とは明らかに違っていた。審査員たちの頰は興奮に紅潮し、目がぎらぎらと輝いている。プロデューサーは苦虫を潰したような顔で腕を組んでいたが、監督は立ち上がり、惜しみない大きな拍手を送っていた。「……「真希」……あなたが見えるわ」 螢子は眩しいスポットライトに照らされながら、全身で確信した。髪の毛の一本一本、指先、つま先、引き摺る右足の感覚まで——すべてが「真希」そのものだった。彼女はゆっくりと息を吐き、唇を湿らせた。 私は「真希」だわ。そう、私は「真希」。呪いの言葉を吐きながら死んだ「真希」。姉を恨みながら、陸斗を独り占めしようと最期まで足掻いた、あの「真希」。 螢子の中に長く眠っていたもう一人の人格が、静かに、しかし確かに覚醒した。胸の奥で黒い喜びが渦を巻く。彼女は車椅子から立ち上がり、右足を引きずりながらゆっくりと前に進み出た。審査員席に向かって深々と頭を下げ、その口元は妖しく、勝ち誇ったように弧を描いた。「……ありがとうございました」 数日後、佐々木公彦のスマホに一通のメールが届いた。「私のすべて」のプロデューサーからだった。 公彦はソファで台本読みをしていた螢子に声をかけた。「おい、螢子」 螢子は気だるげに顔を上げ、巻毛を指でくるくると巻きながら答えた。「なに?」 公彦は息を呑み、画面をスクロールした。「……原作者の岡部瑞希がお前に会いたいそうだ。『真希役を演じた女優と、直接話をしたい』と」 螢子はゆっくりと微笑んだ。琥珀色の瞳の奥に、冷たい光が宿る。台本を胸に抱きしめ、窓の外の港の景色を眺めた。遠くに卯辰山の桜並木が見える気がした。 瑞希……。ようやく、会えるのね。 螢子の唇が、静かに動いた。声には出さず、心の中でだけ。「……お姉ちゃん」
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プロデューサーからのメール

瑞希の元に、プロデューサーから連絡が入ったのは、螢子のオーディションが終わって数日後の静かな午後だった。スマホに届いたメールの件名はシンプルに「最終オーディション映像 ご確認ください」。 瑞希は爽子をベビーサークルに座らせ、深呼吸をして動画を開いた。 最初に流れたのは阪崎絢音の演技だった。長いストレートの黒髪、毒々しい赤い口紅、車椅子に腰掛けた儚げでいて狡猾な佇まい——それはまさに瑞希が脳内で描いていた「真希」そのものだった。「……これは、真希だわ」 瑞希は思わず息を呑んだ。完璧だった。弱さを武器にしながら、姉を静かに見つめる視線。台本通りの優しさの中に、わずかに滲む影。まさに自分が書いた通りの、真希だった。 しかし、次の動画に移った瞬間、瑞希の背筋が凍りついた。 画面に現れたのは、栗色の巻毛を優雅に揺らす相馬螢子。一見して「真希」とは程遠い、華やかなイメージの女優だった。なぜ最終候補に残ったのか、最初は不思議に思った。 5秒、4秒、3秒……1秒。 間を置き、螢子は車椅子からゆっくりと立ち上がった。右足を引きずりながら。「瑞希! 私を見下ろして満足!? 脚が動かない分、みんなから愛されているのよ! 悔しいでしょう! 陸斗の視線も、両親の愛も、全部私のもの! あなたは何も持っていけない!」 その叫びは、瑞希が書いた台本とは全く異なるものだった。消えゆく命が最後に燃え盛るような激しさ。嫉妬と勝利の喜びと、底知れぬ憎悪が渦巻いている。髪の毛をくるくると指で巻く癖、引きずる右足、勝ち誇ったような唇の歪み——すべてが、ゾッとするほどに本物の真希を連想させた。 瑞希は思わずスマホをソファに投げつけた。画面が回転しながら床に落ちる。「……違う……こんな真希じゃない……」 声が震えた。胸の奥で冷たい汗が噴き出す。爽子がベビーサークルの中で「まーま?」と首を傾げたが、瑞希は娘の声すら耳に入らなかった。 プロデューサーのメールの最後には、こう締めくくられていた。『相馬螢子さんとの面談を希望します。ご都合はいかがでしょうか。』 瑞希はソファに崩れ落ち、両手で顔を覆った。指の隙間から零れる吐息が熱い。死んだはずの真希が、画面の中で確かに息をしていた。そして今、彼女は瑞希に会いたがっている。 この女優は、ただ真希を演じて
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