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新婚初夜あなたは妹のベッドにいた のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

97 チャプター

対談へのカウントダウン

「その日は都合がつかないな……」 智久はネクタイを緩めながら、疲れた顔で瑞希に向き直った。帰宅したばかりの彼のシャツには、出版社の残業の匂いが染みついている。「……そうよね、編集長がお休みなんて……無理よね」 瑞希は爽子を膝の上であやしながら、深いため息をついた。爽子が小さな手で瑞希の髪を引っ張るが、その感触さえ今は重く感じる。「お義母さんにお願いしたら?」「……陽翔だけで精一杯みたい。あの子、元気だから……」 プロデューサーが相馬螢子との対談を指定してきた日、智久も休みを取れず、実家に頼ることもできず、瑞希は途方に暮れた。リビングのテーブルに置かれたスマホの画面が、冷たく光っている。会わなければならない。真希を演じたあの女優に。「なら、一緒に事務所に連れて行ったら? 爽子も陽翔も」 思いもよらない提案に、瑞希の背筋が凍った。「……それは……」 まだ幼い爽子を、そんな場所に連れて行くこと自体が気が引けた。それ以上に——この真希に瓜二つの娘を、相馬螢子に会わせる気には到底なれなかった。何かが起こる。そんな得体の知れない恐ろしさが、瑞希の胸に黒くまとわりついた。爽子の顎の下のホクロ、薄茶の瞳、大人びた微笑み。もし螢子がそれを見て、何かを感じ取ったら。あるいは、爽子が螢子に反応したら——。 想像しただけで、胃の奥が冷たく締めつけられる。 ピコン! その時、スマホが短い通知音を立てた。プロデューサーからの返信メールだった。『ご都合が悪ければお子さんも同伴でも大丈夫です。柔軟に対応いたしますので、ご安心ください。』 瑞希は画面を見つめたまま、唇を強く噛んだ。指先が震え、爽子が「まーま?」と不思議そうに顔を覗き込んでくる。その無垢な瞳が、今日もどこか真希の冷たい微笑みを映しているように見えた。「……行かないわけには、いかないのね」 瑞希は小さく呟き、爽子を抱き寄せた。娘の温もりが、愛おしいはずなのに、今はただ得体の知れない予感を呼び起こすだけだった。死んだ妹は、映像の中で蘇り、今度は現実の自分に近づこうとしている。 智久が心配そうに瑞希の肩に手を置いたが、彼女はただ無言でスマホの画面を凝視し続けた。対談の日が、刻一刻と迫っていた。
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対談へのカウントダウン②

相馬螢子のスマホに、一通のメールが届いたのは、夜も更けた午前零時を回った頃だった。送信者は「私のすべて」の映画監督だった。 本文を開くと、監督の熱い言葉が並んでいた。『オーディションでの君の演技に、心底打たれた。ぜひ相馬螢子でこの映画を撮りたい。あの鬼気迫る真希こそ、私が求めていたものだ。』 しかし、続く文章で温度が急に下がった。配給会社とプロデューサーが難色を示しているという。螢子の解釈が原作から「程遠すぎる」と。「……いいえ。あれが『真希』の本心よ」 スマホを握る螢子の手が、小刻みに震えた。画面の光が、暗い寝室に青白く浮かび上がる。彼女はゆっくりと立ち上がり、大きな鏡の前に移動した。 鏡の中の自分と、目が合う。 時折、自分の顔に、もう一人の自分が重なって見えることがある。今も、栗色の巻毛の奥に、漆黒のストレートヘアが透けて見える気がした。薄い唇が、血の色を帯びて歪む。「岡部……瑞希」 螢子はその名前を、まるで呪文のように低く呟いた。舌の上で転がすと、甘く苦い味がした。 メールの最後に、こう書かれていた。『原作者の岡部瑞希氏との対談をセッティングしたい。「真希」について、深く話し合っていただければ幸いです。』 螢子は鏡に手を伸ばし、冷たいガラスに指先を這わせた。自分の頰をなぞる。そこに、瑞希の顔が重なる瞬間があった。同じ血を引いた双子のような、しかし決定的に異なる運命を歩んだ女。どんな声で話し、どんな仕草で語りかけてくるのか。優しい微笑みの裏に、どれほどの憎悪を隠しているのか。「……お姉ちゃん」 唇が、勝ち誇ったように弧を描いた。右足が無意識に引き摺り、床を擦る音が静かな部屋に響く。 螢子はスマホを胸に押し当て、ゆっくりと目を閉じた。胸の奥で、真希が確かに息をしていた。死んだはずの女が、今、彼女の体を借りて、再び瑞希の前に立ち上がろうとしている。 対談の日が近づくにつれ、螢子の微笑みはますます深く、妖しくなっていった。
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対談という名の再会

通された応接室は全面ガラス張りで、東京のビル群を眼下に一望できる最上階にあった。降り注ぐ午後の光が、部屋全体を白く輝かせている。その光の中に、相馬螢子の姿があった。 牛革のソファに姿勢正しく腰掛け、唇をきゅっと結んだ緊張の表情。栗色の巻毛が肩に落ち、琥珀色の瞳が静かにこちらを捉えている。「岡部瑞希さんです」 瑞希は爽子を抱いたまま、ゆっくりと足を踏み入れた。瞬間、螢子から漂う「真希」の気配に、足が止まる。死んだはずの妹の冷たい微笑み、嫉妬の視線、呪いの残滓——それが、螢子の全身から濃密に溢れ出していた。 螢子もまた、「姉の瑞希」との対面——いや、再会に、体をこわばらせた。見えない緊張感が、ガラスの部屋に重く落ちる。「はじめまして」 螢子が華奢な手を差し出した。瑞希は恐る恐る指先を伸ばし、「よろしくお願いします」と軽く触れた。 その瞬間——。 電流が走るように、「真希」の意識が、「瑞希」の感情が、互いに流れ込んだ。 瑞希の脳裏に、桜の樹の下から見上げる冷たい視線が蘇る。車椅子に縛られた苛立ち、陸斗を独占しようとする執念、死の間際の勝利の微笑み。体が熱くなり、息が苦しくなる。 螢子の瞳もわずかに揺らいだ。瑞希の記憶——強さを強いられ、妹の影に耐え続けた日々、陸斗への複雑な愛憎、爽子を抱くときの罪悪感と恐怖——が、洪水のように流れ込んでくる。右足が疼き、指先が震える。 二人は手を繋いだまま、互いの瞳をじっと見つめ合った。ガラスの壁の向こうに広がる東京の景色が、遠く霞んで見える。 爽子が瑞希の胸で小さく身じろぎした。その瞬間、螢子の視線が娘の顎の下のホクロに止まる。唇の端が、わずかに——妖しく——弧を描いた。「……爽子ちゃん、ですね」 螢子の声は低く、甘く響いた。瑞希の背筋に冷たい戦慄が走る。この女優は、ただ真希を演じているのではない。真希そのものが、ここにいる。 二人の手は、まだ離れなかった。ガラス張りの部屋に、目に見えない渦が静かに、しかし確実に生まれ始めていた。
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這い上がる恐怖

瑞希がそっと手を離そうとすると、螢子の指は逆に強く絡みついた。まるで獲物を捕らえた女郎蜘蛛のように、しなやかで執拗な力だった。妖しげな微笑みが、螢子の唇に浮かぶ。 監督が「どうぞ、着席を」と促すと、ようやくその手は離れた。瑞希の手の甲には、うっすらと赤い指の跡が残っていた。血が一瞬、引いたような感覚。 牛革のソファに腰を下ろすと、冷たい感触が背中から足元へ這い上がってきた。ガラス張りの部屋の向こうに広がる東京のビル群が、まるで遠い異世界のように見える。「……真希」 思わず口から零れた名前に、螢子はゆっくりと首を傾げた。「なに? お姉ちゃん」 その呼びかけは甘く、親しげで、しかし底知れぬ冷たさを孕んでいた。瑞希の背筋が凍りつく。これは真希だ。相馬螢子という美しい入れ物を借りた、真希本人であると、直感が告げていた。声の響き、視線の深さ、指の力強さ——すべてが、死んだはずの妹のものだった。 瑞希は無意識に爽子を抱き寄せた。娘の小さな体温が、唯一の救いのように感じられる。確かに爽子は真希に瓜二つだった。漆黒の髪、薄茶の瞳、顎の下のホクロ。けれど螢子のような、おどろおどろしい、得体の知れない恐怖は感じなかった。爽子はただ、無垢に瑞希の胸に顔を埋めている。 螢子はソファに深く腰を下ろし、巻毛を指でくるくると巻き始めた。その仕草さえ、真希の癖そのものだった。「瑞希さん……いえ、お姉ちゃん。久しぶりね」 螢子の声は低く、甘く響く。監督とプロデューサーが気まずそうに視線を交わすが、二人の間にはすでに、誰も入り込めない濃密な空気が流れていた。 瑞希は震える唇を噛みしめた。死んだ妹は、映像の中で蘇り、今、目の前に座っている。しかも、完璧な美しさと、底知れぬ憎悪をまとって。 ガラスの壁の向こうで、夕陽がゆっくりと傾き始めていた。部屋の中の温度が、確実に下がっていくような気がした。
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相馬螢子からの覚醒

相馬螢子のベージュピンクのネイルの先から、瑞希の脈拍が、激しく伝わってくる。その熱い鼓動に、螢子は全身でゾクゾクとした快感を覚えた。生きている。血が流れ、肉体が熱を持っている。この体は、確かに自分のものだ。「お姉ちゃん……」 そう呟いた瞬間の、瑞希の恐怖に満ちた表情に、螢子は心の底から「勝った」と思った。唇の端が、自然と勝ち誇った弧を描く。 これまで台本という紙媒体を介しての再会だった。文字を通じて、瑞希の記憶を味わい、彼女の苦しみを想像していた。しかし今、こうして目の前に座り、手を握った瞬間、螢子は完全に覚醒した。 転移するまでの自身は、惨めな最後を遂げた。脳死宣告の病床で、瑞希に勝ったという最後の勝利を胸に、呪いの言葉を吐きながら意識を失った。あの質素な病室の白い天井、モニターの長く伸びるビープ音、陸斗の温かい手の感触——すべてが、遠い記憶となった。 その時、魂は、あの病院の特別病室に救急搬送された相馬螢子の身体に、静かに乗り移った。 何のために? 憎い瑞希に、地獄を味わせるために。 そして、健康で美しいこの身体を手に入れ、第二の人生を踏み出すために。 螢子——いや、真希は、瑞希の手をもう片方の手で包み込んだ。指先が、優しく、しかし確実に締め上げる。「瑞希さん……いえ、お姉ちゃん。久しぶり。本当に、久しぶりね」 声は甘く、穏やかだったが、瞳の奥には冷たい勝利の光が宿っていた。監督とプロデューサーが気まずそうに視線を交わすが、二人の間にはすでに、誰も入り込めない濃密な闇が満ちていた。 瑞希の手に残った赤い指の跡が、螢子の胸に甘い充足感を与える。爽子を抱く瑞希の腕が、小さく震えているのが、たまらなく心地よかった。 私は死んだはずだった。なのに、今、ここにいる。 真希は、心の中で静かに微笑んだ。この美しい体と、完璧な演技の才能を手に入れた今、瑞希の人生を、ゆっくりと、味わいながら壊してやる。 ガラス張りの部屋に、夕陽が赤く差し込んでいた。二人の影が、長く床に伸び、絡み合うように揺れていた。
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螢子の演技

カーテンが引かれ、室内の灯りをすべて消すと、プロジェクターの青白い光が部屋を満たした。その冷たい光の中に、阪崎絢音と相馬螢子が並んで立っている。二人の演者がト書きを読み始めると、静かに、それぞれの「真希」が動き出した。 まず阪崎絢音。彼女の演技は、瑞希の台本に忠実だった。車椅子に腰掛け、儚げに微笑みながら「危ないわよ、降りてきて」と優しく声を掛ける。動きも視線も、瑞希が長年思い描いていた「真希」そのものだった。弱さを武器にしながら、姉を慈しむような穏やかな表情。完璧だった。 瑞希は息を詰めて見つめていた。自分の書いた言葉が、こうして形になることに、複雑な感慨が胸をよぎる。 次に、相馬螢子。 彼女が車椅子に座った瞬間、空気が変わった。ゆっくりと顔を上げ、瑞希を——いや、舞台上の「瑞希」を見上げる瞳に、底知れぬ闇が宿る。唇が、ゆっくりと歪む。 そして、彼女は立ち上がった。右足を引き摺りながら。「瑞希……私を見下ろして満足!? 脚が動かない分、みんなから愛されているのよ! 陸斗の視線も、両親の愛も、全部私のもの! あなたは何も持っていけない……!」 鬼気迫る表情、声の震え、指先まで白くなるほど車椅子の腕を握りしめる姿——それは瑞希の台本を遥かに超えた、もう一人の「真希」だった。嫉妬、憎悪、勝利の喜びが、生き生きと、しかし恐ろしいほどに溢れ出している。 瑞希の息が止まった。過去が、目の前で蘇る。桜の樹の下から見上げる真希の冷たい視線、病床での最後の微笑み、呪いの言葉。体が熱くなり、冷や汗が背中を伝う。爽子を抱く腕に、思わず力が入った。 螢子の演技は、止まらない。足を引き摺りながら一歩ずつ近づき、瑞希の幻影に向かって手を伸ばす。その瞳は、画面越しに瑞希を直接見つめているようだった。 プロデューサーと監督が息を呑む中、瑞希だけが理解していた。これは演技ではない。相馬螢子は、真希そのものだ。死んだ妹の魂が、この美しい体を借りて、再び自分に近づいてきている。 光の届かない部屋の隅で、瑞希は小さく震えていた。螢子の唇が、勝利の微笑みを浮かべる瞬間、部屋の空気が凍りついたように感じた。
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選択

スクリーンの映像が消え、部屋の明かりが点いた。一瞬の眩しさに瑞希は目を閉じた。まぶたの裏に、真希の冷たい微笑みがまだ焼き付いている。ゆっくりと視界が戻ると、そこには「真希」が微笑んでいた。 美しく、冷ややかな笑みを浮かべる相馬螢子。指先でくるくると髪を巻く仕草が、あまりにも自然だった。雰囲気だけでなく、指の動き、首の傾け方、瞳の奥の翳り——すべてが「真希」そのものだった。瑞希は思わず息を呑み、背中が冷たくなるのを感じたが、これは役作りなのだと思い込むことにした。女優が役に没入するのは当然のことだ。「岡部さん、いかがでしょうか? この二人の女優が『真希』の最終候補です」 プロデューサーの声が響く。瑞希は乾いた唇を湿らせた。「……最終候補」「はい。現在、監督とプロデューサーの間では、こちらの螢子さんを強く推しているのですが……」「ですが?」 瑞希が訝しげに監督の顔を見つめると、監督はテーブルの上に一冊の台本を置いた。表紙は擦り切れ、色とりどりの付箋が何枚も貼られている。「これは、螢子さんの台本です。ご確認ください」 瑞希は震える指で台本を手に取り、ゆっくりとページをめくった。そこにあったのは、赤ペンで激しく書き直されたセリフの群れだった。原作の穏やかな「真希」の言葉は、ほとんどが塗りつぶされ、代わりに怨嗟と憎悪に満ちた新たな台詞がびっしりと並んでいる。「……これは」 瑞希の声が掠れた。螢子はソファに座ったまま、静かに微笑んだ。その微笑みは、病床で最後に見せた真希のものと、完全に同じだった。 部屋の空気が、重く淀む。監督とプロデューサーが気まずそうに視線を交わすが、瑞希と螢子の間には、誰も入り込めない濃密な沈黙が落ちていた。 爽子が瑞希の胸で小さく身じろぎした。娘の温もりが、今はただ重く感じられる。螢子は優しく微笑んだまま、指先で髪をくるくると巻き続けていた。その仕草が、死んだ妹の癖そのものだった。 瑞希は台本を握る手に力を込めた。赤い文字が、血のように目に染みる。この女優は、真希を演じているのではない。真希そのものが、ここに蘇ろうとしている。瑞希は息を呑んだ。「真希」を演じるのならばこの相馬螢子は完璧な存在だった。映画の質を取るのか、この悪い予感を払拭するために目の前の逸材を切り捨てるのか......。
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屈辱からの戦い

瑞希は脚本家であり原作者として、相馬螢子に完膚なきまでに負けたような屈辱感を味わっていた。 螢子が知り得るはずのない「真希」の本音——瑞希自身でさえ、妹の心の奥底までは知り得なかった感情。それを、螢子は完璧に演じきっていた。「私のすべて」は、瑞希視点で描かれた物語だ。そこに「真希」の本音はほとんどなかった。瑞希は長年、真希を「守られるべき存在」としてしか見ていなかった。車椅子に縛られた儚い妹。守ってあげなければいけない妹。けれど本当の真希は、瑞希が想像もしなかったほどの嫉妬と憎悪と、歪んだ愛情を抱えていた。 螢子はそれを、まるであの病床で吐かれた呪いの言葉そのもので、演じていた。 プロデューサーが瑞希に歩み寄り、低い声で言った。「もし、この螢子さんの台本で演技を進めることになれば、原作本と乖離が生じます。その点はどうなさいますか?」 瑞希は息を詰めた。視界の端で、螢子が優雅に髪を巻いているのが見えた。その仕草が、死んだ真希のものと完全に重なる。「……書かせてください」「え?」「もう一度、相馬さんのセリフを取り入れながら、台本を描き直させてください」 プロデューサーは眉をひそめた。「それでは時間がありませんが……」「頑張ります! 書かせてください!」 瑞希の声は、必死で震えていた。原作者としてのプライドが、粉々に砕かれる感覚。自分の書いた物語が、別の誰かによって書き換えられようとしている。それでも、螢子が演じた「真希」を無視することは、もうできなかった。あの鬼気迫るセリフを、瑞希は自分の手で、もう一度、物語の中に刻み込まなければならない。 その必死な姿を横目に、螢子は静かに、勝ち誇ったような不敵な笑みを漏らした。琥珀色の瞳が細められ、唇の端がわずかに上がる。 瑞希は気づかなかったが、螢子の笑みは、病床で最後に見せた真希の微笑みと、完全に同じだった。 ガラスの壁の向こうに、夜の東京の灯りが瞬いている。瑞希の指が、螢子の書き直した台本のページを強く握りしめていた。赤い文字が、血のように目に染みる。 真希の声が、瑞希の耳元で囁いている気がした。 ——ようやく、気づいたのね、お姉ちゃん。 瑞希は台本を抱え、震える肩で深く息を吐いた。これからが、本当の戦いになる。
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終わりのない物語

瑞希にとって、真希は壊れやすいガラス細工のように守るべき存在だった。幼馴染の陸斗も、真希を庇護することで「愛情」を感じていた。幼い頃、両親は瑞希に何度も言いつけた。「真希を守りなさい」健康で活発な瑞希は、車椅子に縛られた妹の影に耐えながら、時折、心の奥で疎ましさを感じることもあった。 そして、陸斗との結婚式の夜。彼は新婚のベッドではなく、真希のベッドにいた。あの夜の記憶は、今も瑞希の胸を鋭く抉る。瑞希の中で「真希」は、憐れみの存在から、静かな憎しみの存在へと姿を変えていった。 しかし「私のすべて」には、その負の感情はほとんど描かれていなかった。薄いオブラートに包み、美しい言葉で双子の姉妹の確執を表現しただけだった。それが、相馬螢子によって残酷に暴かれた。憎しみ合う双子の姉妹の物語——それは原作本とも台本とも大きく異なり、瑞希は頭を抱えた。自分の書いた物語が、別の誰かによって、より真実味を帯びて塗り替えられていく。「まーま、だっこ」 そして、「真希」に瓜二つの娘、爽子の存在。その小さな手が触れるたびに、かつての真希を連想し、瑞希は思わず「触らないで!」と振り払ってしまう。爽子が泣き出す声が、胸に突き刺さる。罪悪感と恐怖が交錯し、瑞希の精神のバランスは綱渡りのように、弥次郎兵衛のようにゆらゆらと危うく揺れていた。 夜になると、爽子の寝顔を見つめながら、瑞希は震える指で母子手帳をめくる。娘の成長記録の横に、螢子の演技を思い浮かべるたび、冷たい汗が背中を伝う。死んだはずの真希は、爽子という新しい命を通じて、そして相馬螢子という女優を通じて、瑞希の人生に再び深く入り込もうとしている。 智久が優しく肩を抱いてくれても、瑞希の心は静まらない。カウンセリングで吐き出したはずの感情が、再び渦を巻き始めていた。 この物語は、まだ終わっていない。瑞希は、爽子の温もりを抱きながら、静かに震え続けた。
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映画化が頓挫する

瑞希は「真希」の存在に押しつぶされそうになりながらも、台本の案を一から練り直した。自分からの視点と、「真希」からの視点。原作本にはなかった場面が大幅に追加され、姉妹の確執、陸斗を巡る歪んだ三角関係、真希の内なる憎悪と孤独が、赤裸々に描き出されていった。映画のスケジュールにも無理が生じ、撮影日程が次々とずれ始めた。 プロデューサーから連絡があったのは、そんな矢先だった。「出資していた銀行から、ドラマへの変更が打診されました」 これまでは映画化で進んでいたプロジェクト自体が縮小され、深夜帯のドラマ枠への変更を余儀なくされた。予算も規模も大幅に削られ、瑞希の書いた新たなシーンもいくつかカットされることになった。 相馬螢子との出会いは、瑞希の人生の歯車を大きく変えていった。それは小説家としての瑞希のプライドも、「私のすべて」の受賞作としての評価も、地に叩き落とされたも同然だった。自分が守ろうとしてきた美しい物語は、螢子という女優によって暴かれ、塗り替えられ、別の形へと変貌を遂げていた。 そして——。「まーま、だっこ」 爽子の存在。日に日に彼女は「真希」に似てくる。漆黒の髪の艶、薄茶の瞳の深み、顎の下のホクロ、そして時折見せる大人びた微笑み。幼い頃のアルバムをめくりながら、母親は涙を拭いながら言った。「真希とそっくり。真希が帰ってきてくれたみたいで嬉しいわ」 瑞希は心の均衡を失いつつあった。爽子を抱きしめようとすると、手が震え、思わず押し返してしまう。夜中、娘の寝息を聞きながら、瑞希は天井を見つめ続けた。死んだはずの真希は、爽子という新しい命を通じて、そして相馬螢子という女優を通じて、瑞希の人生に深く、深く入り込んできていた。 カウンセリングで吐き出したはずの感情は、再び渦を巻き、瑞希の精神をゆっくりと蝕んでいく。智久の優しい言葉も、陽翔の笑顔も、今はただ遠い。 瑞希は母子手帳を閉じ、静かに震えた。この物語は、まだ終わっていない。真希の影は、瑞希の人生から決して離れない。 ガラス細工のように脆く、美しかった「真希」は、今や瑞希の心の中で、黒く、濃密に、生き続けていた。
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