偽りの仮面を捨て、私らしく咲く のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

28 チャプター

第11話

光希の瞳が驚愕に見開かれた。信じられないといった様子で、指輪の内側を指で何度もなぞり、刻印を確かめる。なぜ、この指輪に美月のイニシャルが刻まれているんだ!これは間違いなく、俺が彩葉にプロポーズするために用意した婚約指輪だったはずだ。彼女の荷物がすべて消え失せているのに、なぜこの指輪だけがぽつんと残されていたのか。その理由を、彼は痛いほど理解した。光希は怒りに任せて指輪をデスクに叩きつける。その衝撃で机が震え、箱の下からキャッシュカードの端が覗いた。光希がそのカードを手に取ると、さらにその下には折り畳まれた一枚の紙が敷かれていた。広げてみると、そこには詳細なリストが記されていた。この数年間、彼が彩葉に贈ったすべてのプレゼント――マンションから、たった一輪のバラの花に至るまで。長く連なった数字の最後には、無機質な合計金額が弾き出されていた。二億円。光希の胸に瞬時に怒りの炎が燃え上がり、手の中のリストを力任せに引き裂いた。一体どういうつもりだ。これで俺と綺麗さっぱり縁を切ろうとでもいうのか?彼女と美月が共謀して仕組んだあの芝居の中で、俺が彼女を選ばなかったからだとでも?先に俺を騙していたのは、彼女の方ではないか。光希はスマートフォンを掴み、彩葉の番号を叩いた。だが、耳に届いたのは氷のように冷たい機械音声だった。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」その瞬間、怒りは霧散し、代わりに言いようのない焦燥と不安が再び光希の心を支配した。メッセージアプリを開く指先が、微かに震えている。【彩葉、どこにいるんだ?ケーキとお前の大好きなマカロンを買った。一緒に誕生日を祝おう、いいな?】だが、どれほど時間が経とうと、メッセージはずっと未読のまま。一向に既読に変わる気配はなかった。光希の思考は真っ白になった。すぐさま別の番号へ電話をかけ、焦燥と怒りの入り混じった声を荒らげる。「今すぐ彩葉の行方を洗え!それから、この一週間彼女が何をしていたか、洗いざらい報告しろ!」電話を切るなり、光希は信じられない思いで屋敷中の部屋を駆け回った。だが、どこを探しても彩葉の痕跡は微塵も見当たらず、彼女の髪の毛一本すら残されていなかった。光希は弾かれたように裏庭へと飛び出した。視界に飛び込んできたのは、火のよ
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第12話

スマートフォンの着信音が鳴り、電話の向こうから、秘書の恐縮しきった声が聞こえてきた。「社長、長谷川さんの行方が掴めません。彼女の搭乗記録には保護がかけられており、詳細を知ることができないのです」「無能か!何としてでも探し出せ!」スマートフォンが乱暴に投げ捨てられた。突然、怯えたようなか細い女性の悲鳴がすぐ近くで上がった。彩葉が戻ってきたのか?光希は這い上がるようにしてリビングへ飛び出し、そこにいた華奢な背中を後ろからきつく抱きしめて呟いた。「どこに行っていたんだ。やっと戻ってきてくれたんだな。お願いだ、もう二度と俺から離れないでくれ」「ええ、いいわよ光希。もう二度とあなたのそばを離れたりしない」光希の荒れ果てていた心に、再び色鮮やかな花が咲き乱れた。失いかけたものを取り戻した無上の喜びが、彼にすべての苦しみを忘れさせていた。よかった。彩葉を失わずに済んだのだ。「あら、光希、手が血だらけじゃない。救急箱はどこ?手当てしてあげるわ」「救急箱は……」言いかけて、言葉が喉に詰まった。光希は腕の中の女の肩を掴み、無理やりこちらへ振り向かせた。彼の瞳からみるみるうちに光が失われ、心は再び不毛な荒野へと戻っていった。「……どうして、お前なんだ!」美月は一瞬呆気に取られたが、我に返ると、その声にはありありと怒りの色が滲んでいた。「彩葉だと思った?光希、どういう意味よ。私に会いたくないっていうの?」光希は背を向けてソファに沈み込み、ひどく疲れた様子で眉間を揉んだ。「……美月、そういう意味じゃない。ただ、少し疲れているんだ。今日はもう帰ってくれないか」光希が美月を追い帰そうとしたのは、これが初めてのことだった。かつては、美月が彼を追い払おうとしても、決して離れようとはしなかったというのに。美月の心に、怒りと不安が入り混じった。「帰るわよ!後悔しても知らないから!」ヒールの音を響かせてドアへと向かったが、ふと足が止まった。振り返り、血で赤く染まったソファを目にした美月は、胸の奥がじりじりと疼くのを感じた。彼女の視線は書棚に置かれた救急箱に吸い寄せられた。光希はきっと、彩葉という存在に慣れすぎてしまっただけよ。なんといっても、七年という歳月はあまりにも長すぎる。七年も傍にいれば、どんな相手にだって情は湧
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第13話

矢継ぎ早に浴びせられる美月の言葉に、光希の心は完全に千々に乱れていた。美月の言う通りだ。この何年もの間、俺が愛してきたのはずっと美月だったはずだ。それなのに、なぜ俺の脳裏には絶え間なく彩葉の面影ばかりが浮かんでくるのか。美月は俯いて黙り込む光希にきつく抱きつき、むせび泣くように声を震わせた。その響きは、男の庇護欲をそそるほど甘くか弱かった。「光希、どうして何も言ってくれない?私のこと、もう愛していない?今ここで『愛している』と一言言ってくれたら、すぐに結婚しましょう。そして、もう二度と離れずに、ずっと一緒にいましょう」かつて、これらは光希が夢にまで見るほど、ずっと聞き焦がれていた言葉だった。それが今、現実となって耳に届いているというのに、彼の心には一欠片の喜びも湧いてこなかった。俺は一体どうしてしまったのか。二十年もの間、愛し続けてきた女だというのに、なぜ、長年の願いが叶った歓喜がないのか。「あなたが何も言わないなら、肯定してくれたってことだと受け取っちゃうわよ?」甘い声が再び響いたが、光希はすがりつく美月を静かに押し返した。その声には、隠しきれない深い疲労が滲んでいた。「美月、その話はまた今度にしてくれ。会社で急用があるから、俺は行く」言い残すと、光希はソファに置いていたジャケットを掴み、逃げるように部屋を出て行った。彼の背中がドアの向こうへ消えるのを見届けるなり、美月は怒りに任せてテーブルの上の薬瓶をすべて床に払い落とした。ガシャッと音を立てて転がる瓶と共に、憤りに満ちた叫びが上がる。「……どうしてよ!」美月には、一体何が間違っていたのか全く理解できなかった。光希はこれほど長い間自分を愛し、ずっと追いかけてきてくれたはずだ。海外にいた数年間だって、彼からの贈り物や、こちらの様子を気遣うメッセージが途絶えたことなんて一度もなかった。何度も彼を試し、そのたびに彼の愛を確認してきたが、光希はいつだって揺るぐことなく自分を選んでくれた。それなのに、自分がようやく受け入れてあげた途端、どうして彼はたじろいでいるのか。彼のことが、まるで赤の他人のように見えた。――まさか、あの身代わりの女のせい?そんなはずない。光希があんな身代わりごときに本気になるわけがない!あの女は声が私に似ているだけで、
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第14話

光希は社長室の椅子に深く沈み込み、ふと、机に置かれた写真立てに視線を落とした。それは十年前、彼と美月が共に大学に合格した際に撮ったツーショット写真だ。写真の中の彼女は、嬉しそうにカメラへ向かって手を振っている。だが、彼の視線はカメラではなく、満面の笑みを浮かべる彼女の顔にだけ注がれていた。あの頃、彼の目には美月しか映っていなかった。光希の指先が写真立てに触れようとした瞬間、彼の脳裏に、またしても別のまったく違う顔がフラッシュバックした。なぜだ。なぜ今、俺の頭の中を占めているのは彩葉のことばかりなのか。きっと、今まで傍にいた彩葉が突然消えてしまったから、その喪失感に慣れていないだけだ。――本当に、そうなのか?なら、なぜ俺は、戻ってきた美月を受け入れられないのだ?周囲の誰もが、彼は「万年一途な男」だと言う。学生時代から社長の座に就いた今に至るまで、心にあるのはただ一人。美月が海外にいた七年間、浮いた話の一つもなかったのは、彼が彼女を想い続けていたからだと。だが、誰も知らない。この七年間、彼の背後には彩葉という存在があったことを。スマートフォンの通知音が沈黙を破った。光希が何気なく画面に目を落とした瞬間、その瞳が極限まで見開かれた。彼は震える手でスマートフォンを掴み取る。目に飛び込んできたメッセージの末尾に記された「彩葉」という二文字が、彼の胸を鋭い刃のように抉った。彼はすぐさまその番号へ発信し、祈るように呟き続けた。「彩葉、どこにいる。頼むから電話に出てくれ……行かないでくれ……」だが、耳に届いたのは、相も変わらず無機質で感情の欠落した機械音声だった。「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」光希の瞳から再び光が失われた。届いたメッセージを何度も何度も読み返し、やがて自嘲するような歪んだ笑みが口元に浮かぶ。七年だ。七年間も朝から晩まで共に過ごしてきたというのに、別れの挨拶すらこんなに素っ気ないものなのか?彩葉が金目当てだったなどと、光希は微塵も信じていなかった。この数年間、彼女は彼から渡されたカードを一度も受け取ったことがなく、彼のお金など一円たりとも使わなかった。彼女の方から何かをねだったことすら、一度としてなかった。贈り物でさえ、彼が無理に押し付けて、ようやく申し訳なさ
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第15話

美月は酔いつぶれた光希の前にしゃがみ込み、両手でそっと彼の頬を包み込むと、この上なく優しい声で語りかけた。「光希、よく見て。私よ。誰だか分かる?」光希はゆっくりと重い瞼を押し上げた。目の前で揺れていた影がようやく一つに焦点を結んだ。その瞬間、彼は目の前にいた美月を力任せに床へと突き飛ばした。「お前は彩葉じゃない!彩葉はどこだ!俺は彩葉が欲しいんだ!」美月の心臓が激しく波打った。光希が他の女のために自分を突き飛ばすなど、思いもしなかった。胸の内にあったプライドと自信が、音を立てて崩れ去っていく。底知れぬ不安と恐怖、そしてどうしようもない悔しさが押し寄せ、彼女を飲み込んでいった。美月はもはや自分を抑えきれず、テーブルの上のグラスを掴むと、その冷水を彼の顔面へと浴びせかけた。「光希!いい加減に目を覚ましなさいよ!あなたが本当に欲しいのは誰なのか、はっきり言って!」冷たい水が酔いを幾分か冷まし、光希の瞳に少しずつ理性の光が戻ってきた。彼はズキズキと痛むこめかみを指で押さえ、無言を貫いた。美月は空になったグラスを無造作に放り投げた。ガシャンという音が静まり返った個室に響き渡る。彼女は立ち上がり、見下ろすようにして、焦燥と怒りの入り混じった声で叫んだ。「光希!何か言いなさい!あなたが愛しているのは一体誰なの!どうしてこんな風になっちゃった。彩葉なんてただの身代わりよ!がさつで卑劣で、嘘にまみれた、何の取り柄もない身代わりに過ぎない!まさか、あの女を愛しているとでも言うの?あなたが愛しているのは私だけでしょ!私こそが、あなたが二十年間ずっと心から大切に想い続けてきた人間よ!私たち、やっと結ばれるところまで来たのに、他の女を好きになったっていうの?光希、あなたの本心はどこにある?一生私だけを愛するって、そう言ったじゃない!」光希は顔を上げ、怒りに満ちた美月の瞳を見つめ返した。美月がこれほど激昂する姿を見たのは、これが初めてだった。この何年もの間、彼の前で見せる彼女の顔は常に一定だった。優しく、美しく、物分かりが良く、それでいて常に掴みどころがなく、つかず離れずの距離を保った。手の届かない高嶺の花だと諦めかけると、彼女はふいに関心を示して歩み寄ってくる。すぐ手の届く場所にいると思った矢先、一言の別れもなく
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第16話

光希の手から酒瓶が滑り落ち、床に転がった。彼は目を固く閉ざし、まるで完全に酔いつぶれたかのように動かなくなった。美月は信じられない思いで彼を見つめ、爪が手のひらに深く食い込むほど拳を握りしめた。彼女はすでに、愛していた別の男を失っているのだ。骨の髄まで自分を愛してくれている光希は、絶対に失うわけにはいかなかった。ウェーターの助けを借りて泥酔した光希をホテルの部屋へ運び込むと、美月は着ていた上着を脱ぎ捨て、熱を帯びた彼の体にゆっくりと身を寄せた。しなやかな指先で彼の唇をそっと撫で、そのまま口付けようとした、まさにその時だった。光希が突然腕を伸ばし、彼女の腰をきつく抱き寄せた。その手は彼女の細い腰をまさぐり、執拗に愛撫を繰り返す。美月は頬を微かに染め、「光希……私、いいわよ」と囁いた。甘くしなだれかかるような声が落ちるや否や、彼の腕の力はさらに強まり、美月の体は彼の体にぴったりと押し付けられた。「……お前は彼女じゃない!お前の腰には赤いホクロがない、お前は彼女じゃない!」朦朧としていた光希が、突然乱暴に美月を突き飛ばした。うわごとのような呟きが、部屋の中に響き渡る。美月は愕然とし、優しい声をかけながら再び近づこうとしたが、何度やっても力任せに突き放された。怒りで頭に血が上った美月は、部屋を飛び出すとスマートフォンを取り出し、彩葉の番号を呼び出した。電話が繋がるなり、怒鳴り散らすように問い詰める。「彩葉!あなた、光希と寝たのね!契約書にはっきりと書いてあったはずよ……!」だが、電話の向こうから聞こえる冷淡な声がそれを遮った。「神崎さん、何か勘違いをされているようです。私は光希と肉体関係を持ったことなど、ただの一度もありません。疑われるのでしたら、どうぞお調べになってください」「じゃあ、どうして彼があなたの腰にある赤いホクロのことを知ってるのよ!どうして彼は私を突き飛ばした!」電話越しに響く声は、相変わらず冷ややかだった。「お忘れですか?あのホクロは、あなたがわざわざ私をクリニックへ連れて行って作らせたものです。『これは私のトレードマークだから、身代わりであるあなたにも絶対に必要だよ』と。それに『光希が私を思い出せるように、わざと見えるように仕向けなさい』と指示を出されたのも、あなたですよ」美月は途
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第17話

「美月、これは一体どういうことだ!お前と彩葉の間に、何があったんだ!」美月の心臓がビクリと跳ね上がった。光希が自分に向かって怒鳴り声を上げたのは、これが初めてだった。正体をなくすほど泥酔していた彼が起き上がり、身代わりの事実に気付くなど、微塵も予想していなかった。彼女の瞳はじわじわと涙で潤み、見る者の庇護欲をそそるような、いじらしい表情を浮かべた。「光希、聞き間違いよ。あれは彩葉の声じゃないわ。さっき私がルームサービスでケーキを頼んだから、その……」充血して真っ赤に染まった光希の瞳が彼女を射抜く。彼は手を伸ばすと、美月の顎をギリギリと力任せに掴み上げた。指の関節が白く変色するほどのその力は、まるで彼女の骨を砕いてしまおうかというほどの凄まじさだった。「最後にもう一度だけ聞く。お前と彩葉の間に、一体どんな裏取引があった。彼女とお前はどういう関係だ。正直に答えることだな。さもなければ、神崎家の連中が土下座してでも俺に洗いざらい吐きたくなるよう、いくらでも手は打てるんだぞ」顎を砕かれそうな激痛に、美月は顔を歪めた。その瞳は驚愕で見開かれている。光希が、あろうことか神崎家を引き合いに出して自分を脅すなど、信じられなかった。自分が少しでも傷つくことすら決して許さなかった、あの優しかった男が、本当に目の前の彼なのだろうか?美月の胸の内で、やるせない悔しさと激しい怒りがない交ぜになり、彼女の心に残っていた後ろめたさや罪悪感さえも、跡形なく消し飛ばしてしまった。彼女は全身の力を振り絞って光希を突き放すと、泣き叫ぶような金切り声を上げた。「教えてどうなるって言うのよ!いいわ、今ここで全部ぶちまけてあげる。彩葉は私が雇ったただの身代わりよ!彼女があなたに近づいたのはお金のため!あなたのお金を受け取らなかったのは、私がとっくに報酬を払っていたからよ!彼女はあなたのことなんて、これっぽっちも愛してない!この何年間、あなたが見てきた彼女のすべて――メイクの仕方も、服の趣味も、食事の好みすらも、全部が偽物なのよ!全部、私の真似をさせていただけ!彩葉はただの大嘘つきよ、これで分かったでしょ?光希!そもそもあなたが彼女をあんなに長く引き留めていたのは、彼女の声や仕草……そのすべてが私にそっくりだったからじゃない!あなただって、彼女を私の身代わりと
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第18話

離れゆく光希の孤独な背中を見つめながら、美月は得体の知れない焦燥感に駆られた。何か決定的なものを、永遠に失ってしまったような気がしてならない。彼女は駆け寄り、彼の背中にすがりついた。「行かないで、光希。行かないで……!」しかし、光希の氷のように冷たい指先が、彼女の手を無情にも振り払った。「美月。もう二度と会うのはやめよう。七年前、お前がこの国を離れたあの瞬間から、俺たちの関係は終わっていたんだ」美月は力なくその場にへたり込み、必死に首を横に振りながらうわ言のように繰り返した。「嘘よ……たかが七年じゃない。一生待つって、約束したのに……」だが、もう彼女の言葉に応える者は誰もいなかった。光希は魂を抜かれたように夜の街を彷徨った。どれくらい歩いたのかも分からない。やがて、重い疲労と泥酔が彼を呑み込み、そのまま意識を失って路上に倒れ込んだ。再び目を開けると、鼻を突く消毒液の匂いがした。病室の外から、看護師たちの立ち話が耳に入ってくる。「ねえ、あそこで倒れて運ばれてきた人って、この前熱傷センターで噂になってた『愛妻家の結城社長』じゃない?」「そうそう!彼女の爪の先ほどの火傷に大騒ぎして、専門医を呼べだの精密検査だのって。でも、その後ろにいた女の人が悲惨だったよね。あんな広範囲の火傷なのに、一人で来てて。おまけにあの二人が時間を食ったせいで手当てが遅れて、跡が残っちゃったんだって」「あんな大きな傷跡、絶対トラウマになるよ。火傷した時、どれだけ痛かっただろう。私、あの人知ってるの。長谷川彩葉さんっていうんだけど、すごくいい人で、普段から……」ベッドに横たわっていた光希が、突如として彼女たちの目の前に飛び出してきた。血走った目で、掠れた声を絞り出す。「……彩葉が、どうかしたのか?」看護師たちは呆然とした。彼の彼女は神崎さんではなかったのか?だが、彼のただならぬ気迫に押され、事実を話し、当時のカルテを見せた。カルテに記された「重度熱傷」の文字が、再び彼の心を容赦なくえぐった。光希の顔から、さっと血の気が引く。あんなにも酷い怪我を負っていたのに、俺はまったく気づかなかったというのか。以前なら、ほんの些細な切り傷でさえ、誰よりも早く気づいてやれたというのに。彼は力なく身を屈めると、両手に顔を埋めた。全身の
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第19話

F国の病室から泣き声が漏れ聞こえてくる中、医師は微笑みを浮かべて部屋を後にした。「お母さん、やっと……やっと目を覚ましてくれたのね……」彩葉はしわの刻まれた母の長谷川志保(はせがわ しほ)の手をきつく握りしめ、声にならないほど泣きじゃくった。この日を、彩葉は七年間待ち続けていた。七年前に志保が突然倒れ、昏睡状態に陥って以来、彩葉は毎日深い恐怖の中で生きてきた。志保が逝ってしまうのが怖かった。彼女にとって、この世でたった一人の肉親なのだ。「彩葉、もう泣かないで。お母さんまで辛くなるわ」病床に横たわる志保の目尻からも、一滴の涙がこぼれ落ちた。志保もまた、この七年間ずっと娘を想い続けていた。昏睡していたとはいえ、意識はずっと鮮明だった。彩葉が語りかける言葉は、すべてはっきりと耳に届いていたのだ。彩葉が痛切に泣き崩れるたび、志保も身を割られるような思いを味わった。何度も目を開けようと、愛する娘を抱きしめようと必死にもがいたが、体はピクリとも動かず、ただ無力にすべてを聞いていることしかできなかった。そして今、志保はようやく娘を力強く抱きしめ、震える手でその頭を撫でることができた。「彩葉、泣かないで。これからはお母さんがあなたを守るから」その時、スマートフォンの着信音が鳴った。彩葉が通話ボタンを押すと、電話の向こうから興奮した声が飛び込んできた。「彩葉さん、おめでとうございます!オーディション受かりましたよ!監督がヒロインの声優は彩葉さんにお願いするって!」だが、歓喜の声はすぐに気遣わしげなトーンに変わる。「でも、志保さんのことが……よければ、私が病院でお世話を手伝いましょうか?彩葉さんは仕事に専念してください」その言葉を聞き、志保は温厚な声に笑みを滲ませて口を開いた。「その声……よくお見舞いに来てくれていたお嬢さんね?いつも彩葉を支えてくれてありがとうね」電話越しのアシスタントは一瞬沈黙し、次の瞬間、耳をつんざくような狂喜の声を上げた。「志保さん、目を覚まされたんですか!本当によかったです!志保さん、絶対にお体大切にしてくださいね。ずっと元気でいてください!あ、積もる話もあると思うので、私はこれで失礼します!」彩葉は志保の体を起こし、この七年間に起きた出来事を語り始めた。お気に入りのお店で新しいメニューが
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第20話

宗一郎の顔に安堵の笑みが浮かび、目の前の光希を労わるようにそっと抱きしめた。「光希。お前、以前は神崎家のあの娘が好きだっただろう?わしも彼女の祖父と相談してな、両家の縁談は悪くないという話になった。明日から彼女を結城グループに出社させる。帰国したばかりだから、色々と面倒を見てやってくれ。ついでに仲を深めて、早いうちに夫婦になるんだ」光希は無意識に、自分の腰のベルトへと手を伸ばした。それは、彩葉が贈ってくれたものだった。彼が口を開いて拒絶しようとした矢先、宗一郎はすでに疲労困憊した様子で目を閉じており、これ以上何も聞く耳を持たないことは明白だった。「分かった」彼は短く応じた。だが、疲労の滲むその瞳の奥には、どす黒いほどの無念が渦巻いていた。光希が社長室へ戻ると、デスクの上には未決裁のファイルがすでに山のように積まれていた。コツコツとヒールの音を響かせ、甘ったるい女の声が室内に響いた。「光希、これからよろしくね。これ、私が早起きして作った朝ごはんなの。光希、昔から私の作るだし巻き卵が大好きだったでしょ?」美月が差し出した弁当箱を開けると、出汁の香りが社長室に広がった。光希は弁当箱を冷たく押し除け、顔を上げることもなく書類の決裁を続けながら、冷徹に言い放った。「就業時間中に、業務と無関係なことをするのはやめろ。それと、今度から社長室に入る時は必ずノックをしろ」美月は両手で光希の手をきつく握りしめ、すがるような口調で囁いた。「光希、私たちもうすぐ結婚するのよ?過去のことはもう水に流して、また前みたいに一緒にいましょうよ」「この前もはっきり言ったはずだ。俺たちの関係は、七年前にとっくに終わっている。過去も、そして未来も、お前と俺の間には何の関わりもない。ここで働くこと自体は黙認するが、結婚など絶対にあり得ない」突き放すような言葉に、美月の肩が微かに震えた。彼女は背を向けてドアへと歩き出し、立ち止まって振り返る。「光希、私、絶対に諦めないから。私たちがこれで終わるはずないわ。私のこと、もう愛してないなんて……絶対に信じない」それからの日々、結城グループの社員たちは、光希の後ろを美月が影のように付き纏う姿をほぼ毎日目にすることになった。「神崎さんは未来の社長夫人だ」という噂が、社内チャットで瞬く間に広まっ
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