All Chapters of 後悔の果て、永遠の夢に抱かれて: Chapter 1 - Chapter 10

26 Chapters

第1話

「星野さん、本当に治療を放棄して、退院するつもりですか?」眼鏡のブリッジを指で押し上げ、医師は厳しい面持ちで星野遥香(ほしの はるか)を真っ直ぐに見つめた。「今の病状で退院して自宅に戻れば、長く見積もっても一ヶ月の命です。医師として、私はこのまま治療を継続されることをお勧めします。ところで、ご主人はまだ同意書のサインに来られないのですか?」遥香が答えようとした瞬間、喉の奥から血の匂いがせり上がり、彼女は思わず激しく咳き込んだ。慌ててバッグからティッシュを取り出して口元を覆い、顔を背けて咳を続ける。白いティッシュは、またたく間に目を刺すような鮮血に染まった。咳の刺激で涙が滲み、もともと霞んでいた視界がさらに歪み始める。よく見れば、彼女の片方の目は普通の人とは異なっていた。漆黒に沈み、焦点も光も一切ない。それどころか、眼球そのものが少し陥没し、変形している。そう、この目は何も見えない。失明していたのだ。本来の整った顔立ちがその異様な瞳をカバーしていなければ、誰の目にも不気味に映ったことだろう。「星野さん!」医師は慌てて遥香の前に駆け寄り、気遣うように声をかけた。「すぐに救急で処置をしましょうか?」「いいえ、大丈夫です」遥香は手を振り、無理に微笑みを作った。「木村先生、前にも言ったはずです。夫なら、もう死にましたから」医師はなおも心配を拭いきれない様子で言った。「分かりました。ですが、少しでも具合が悪くなったら、いつでも治療に来てください」「はい、ありがとうございます」そう言い残し、遥香は医師の哀れむような視線に耐えきれず、逃げるように病室へ戻って荷物をまとめ始めた。その頃、テレビではあるニュースが流れていた。「輝星テクノロジーグループが、海外の技術封鎖をついに突破しました。世界初のAIアンドロイド執事は、発売開始からわずか数分で完売となりました。関係者によりますと、このAIアンドロイド執事は、人間の執事としての基本機能を備えているだけでなく、独自のチップを搭載しているため、単身者のニーズに合わせたカスタマイズや情緒的なサポートの提供も可能とのことです」遥香は片目しか見えないため、画面に限界まで顔を近づけ、必死に目を凝らして見ようとした。続いて、アナウンサーが現場の記者に中継を繋ぐ。画面に
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第2話

蓮司は車のドアを閉め、遥香の姿を視界に捉えた瞬間、わずかに動きを止めた。だが、すぐにいつもの冷徹で余裕のある表情を取り繕う。まるで、今しがたの出来事など何もなかったかのように。唯一の動かぬ証拠は彼の首筋に残された、生々しく赤いキスマークだけだ。この三年で嫌というほど見慣れた光景のはずなのに、それでも遥香の胸には息が詰まるほどの痛みが走った。車の中にいる女の正体など、当然知っている。蓮司が三年前から外で囲っている愛人、佐伯詩織(さえき しおり)だ。蓮司と遥香が恋に落ちたのは大学四年の時だった。当時の彼は貧しい学生に過ぎず、一方の遥香はすでに数々のITコンテストで賞を総なめにし、才女として名を馳せていた。彼の起業当初、遥香は自身が設計したAIプロダクトの特許権を、無条件で彼に譲渡した。当時、複数の大手IT企業から破格の条件で提携を持ちかけられていたが、彼女はすべて断った。そして蓮司もまた、遥香の特許を元手に、人生で最初の大金を掴み取った。愛と忠誠の証として、輝星テクノロジーが飛躍し始めた頃、彼は自身の持ち株の大部分を遥香に贈与した。これにより、遥香は一躍会社の筆頭株主となり、絶対的な発言権を持つに至った。だが、遥香は彼を愛しすぎていた。ここ数年、彼の事業を支えるため、彼女は完全に裏方に回り、彼の身の回りの世話に専念してきた。会社の業務には一切口出しせず、共に苦難を乗り越える伴侶として寄り添い続けたのだ。しかし三年前のある日、遥香は蓮司の仇敵に拉致された。命からがら逃げ出し、這うようにして自宅に戻った彼女が目にしたのはかつて二人が何度も睦み合ったベッドで、裸のまま別の女を抱き寄せる蓮司の姿だった。それからも、不貞の現場を何度も押さえた。そのたびに彼は床に膝をつき、許しを乞うた。何を言われても決して離婚には応じず、「お前を失うくらいなら死んでやる」とさえ口にした。遥香の心は当初の失望や絶望から、やがて冷めた諦念へと変わり、痛みさえ麻痺していった。長年の情に加え、夫婦の利害関係はあまりに深く絡み合っている。遥香自身も、心血を注いだ会社をやすやすと他人に明け渡すことなど、到底受け入れられなかった。それが、今日まで離婚に踏み切れなかった理由だ。だが今、遥香はすべてを吹っ切った。彼女はもうすぐ死ぬ。
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第3話

「もちろん。俺たちの結婚十周年の記念日だろう」言い終わるや否や、蓮司は懐から精巧を極めたジュエリーボックスを取り出し、遥香の目の前で開いてみせた。中に入っていたのは、遥香が以前から目を付けていたサファイアのネックレスだった。オークションの開始価格だけでも、六千万円は下らない代物だ。今の遥香はもう彼の出費を惜しむことはなく、遠慮もせずにその箱を受け取った。彼女が受け取って当然の報酬だ。かつて彼を気遣って節約したところで、何の意味があっただろうか。この三年間、彼があの愛人に一体どれほどの金を注ぎ込んできたか知れたものではない。「お前のお気に入りだと知っていたからね。だから競り落としたんだ」そう甘く囁きながら、蓮司は身をかがめて遥香の唇を塞ごうとした。遥香が体を引いてかわそうとすると、蓮司は強引に彼女を抱き寄せた。無理やり唇を奪い、その手は執拗に彼女の体を撫で回し、情欲を煽り立てようとする。以前の遥香なら、この愛を失うことを恐れるあまり、込み上げる嫌悪感や惨めさを必死に堪え、自分を納得させて妥協していただろう。肌を重ねる際も、せいぜい彼に避妊具を着けさせるのが精一杯の妥協だった。しかし今日、遥香は彼が汚らわしいと感じた。自分の体に指一本触れさせたくない。遥香はすかさず彼の腕から抜け出し、冷たく拒絶した。「今日は具合が悪いの。またにして」その後、遥香はそそくさと寝室へ戻り、ベッドに横になった。蓮司もすぐに後を追い、彼女を背後から抱きしめるようにして目を閉じた。微睡みの中、ふと、微かな物音が遥香の耳に届いた。彼女はそっと目を開ける。ぼんやりとした視界の先で、蓮司がヘッドボードに背を預けていた。彼は片手でスマホを持ち、過去に撮った遥香との生々しい情事の動画を流しながら、独りで欲を処理している。彼は性欲が強い。遥香が身体を許さない夜は、決まってこうして自らを慰める。だが、外で別の女といる時は……遥香はこれ以上心を乱されたくなくて、思考を無理やり打ち切った。しばらくして、蓮司が低く短い吐息を漏らし、絶頂を迎えた。彼は身を起こして手早く後始末を済ませると、再び遥香を抱き寄せて深い眠りに落ちた。翌日、遥香が目を覚ますと、すでに昼を回っていた。転移した癌細胞が食道や胃を圧迫しており、食
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第4話

詩織は蓮司の胸に顔を埋め、勝ち誇ったような笑みを浮かべて遥香を横目で見やった。遥香は怒りを滲ませた蓮司の端正な顔をじっと見据えた。「何?彼女が妊娠したから、今度は妻の座にでも据えるつもり?」蓮司は遥香を睨みつけたまま、唇を引き結んで黙り込んだ。その時、遥香の胸の奥で一瞬何かが詰まったかと思うと、血の味が再びせり上がってきた。自分の身体が限界であることを悟った遥香は、背を向けて洗面所へと駆け込み、口を開けるなり鮮血を吐き出した。続いて、激しい咳の発作が容赦なく襲いかかる。ドアの外で騒がしい物音がした。口元を拭い、半開きのドアの隙間から覗き見ると、蓮司が焦った様子で詩織を抱きかかえ、大股で家を出て行くところだった。病院へ向かう道中、蓮司から電話がかかってきて、詩織に謝れと要求してきた。遥香は冷笑した。「謝る?どうして私が愛人なんかに頭を下げなきゃいけないの?」「いい度胸だな!」蓮司は荒々しく電話を切った。彼が怒りにまかせて歯を食いしばっている顔が目に浮かび、遥香の心は少しだけ晴れやかになった。しばらくして、病院にて。「各種の検査数値が思わしくありません。それと、もう一つ……妊娠されています」医師は眼鏡を外し、レンズを拭いてから再び掛け直した。遥香は言葉を失った。医師は深く溜息をついた。「星野さん、ご自身でもお分かりでしょうが、今のあなたのお身体では出産は不可能です。無痛中絶手術もリスクが大きすぎます。八週間を過ぎるのを待ってから、薬で流す処置をするしかありません」医師が「八週間」と言った際、明らかに一瞬の間があった。おそらく、彼女が八週間後まで生きていない可能性を危惧したのだろう。「……分かりました」返事をすると同時に、遥香の目尻から涙がこぼれ落ちた。三年になる。彼女と蓮司は寝室を別にするか、必ず避妊具を使用していた。今回の予期せぬ妊娠は、おそらく先月、蓮司が泥酔した夜に誤って避妊具を破ってしまった時のものだろう。遥香はまだ平らな下腹部をそっと撫で、身を切られるような痛みに顔を歪めた。この子は、来るタイミングを間違えてしまった。どう足掻いても、この世に産み落としてやることはできない。遥香は医師からの入院治療の勧めを断り、簡単な点滴だけを受けることにした。点
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第5話

「私がこの会社を立ち上げた創設メンバーであり、筆頭株主だからよ!蓮司と共にカビ臭い地下室で寝泊まりし、安いパンだけで飢えを凌ぎながら、この会社を上場まで漕ぎ着けた実績があるからよ!」遥香の声が、室内に響き渡った。会議室は水を打ったように静まり返った。昭夫もまた、彼女の気迫に圧倒されていた。長い沈黙の後、彼はなおも恨みがましい表情を浮かべて言った。「納得できるか!社長に直訴してやる!」遥香は鼻で笑い、冷ややかに告げた。「今すぐ出て行くなら、体面くらいは保たせてあげるわ。もしここにしがみつくつもりなら、あなたに関してあの卑劣な性接待の証拠を、業界中の人間に一斉送信してもいいのよ」「お前!わかった、辞めればいいんだろ!」昭夫は屈辱に震えながら吐き捨てると、会議室を飛び出していった。遥香の予想通り。彼はすぐさまこの一件を蓮司に報告した。「どういうつもりだ。昭夫を勝手にクビにするなんて」遥香が帰宅するなり、蓮司が問い詰めてきた。「私の家庭を壊した張本人で、今やあなたの『義兄』になりそうな男でしょう?何、私が自分の権限で決断を下しちゃいけないわけ?」遥香は冷ややかに言い放った。蓮司は一瞬黙り込み、やがて口を開いた。「……まあいい、お前の気が済むなら」気が済む?遥香は心底滑稽に感じた。彼女はもうすぐ死ぬ。今はただ、死ぬ前に、かつてなら絶対にやらなかったことをやりたいだけだ。何しろ、彼らの身勝手さを長く我慢しすぎた。死んでから後悔も未練も残したくない。そして、大学の先輩たちと共に心血を注いで築き上げたこの会社を、昭夫に壊されるのだけは絶対に許せなかった。遥香は蓮司を見据えて言った。「それから、今後は私も会社の経営に介入するわ。これ以上放っておいたら、詩織に関係があるというだけで、どこの馬の骨ともしれない連中を片っ端から役員に据えかねないもの」蓮司はひどく不自然な笑みを浮かべた。「……好きにするといい」翌日。遥香は再び会社へ出向いた。足取りはふらつき、体が宙に浮いているような感覚があったが、それでも気力を振り絞って仕事に向き合った。人事部の担当者を呼び出し、協議の末、二千通近い履歴書の中から、学歴や能力などあらゆる面で昭夫を凌駕する優秀な人材を選び出した。即座に彼を抜擢し、昭夫
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第6話

喉に込み上げた血が、遥香の口元を赤く染めた。しかし蓮司の瞳には嘲弄の色が浮かぶばかりで、彼はそのまま大股で立ち去ろうとした。バランスを崩した遥香は、床に激しく叩きつけられる。彼女が吐き出した血が、淡い色の絨毯をまたたく間に無惨な赤に染め上げていく。「遥香、芝居もいい加減にしろ。そんな見え透いた真似で俺の気を引けると思うな!」そう吐き捨てると、蓮司は一度も振り返ることなく立ち去っていった。遥香はそのまま意識を失った。彼女のスマートフォンだけが、絶え間なく着信音を響かせていた。……「遥香さん!遥香さん、しっかりしてください!」遥香は重い瞼をこじ開けた。視界はまだひどく霞んでいる。だが、覗き込んでいる顔が新しく抜擢した部下、瀬戸勇人(せと ゆうと)であることは分かった。勇人は彼女より数歳年下で、彫りの深い端正な顔立ちをしていた。彼の温かい手に包み込まれていることに気づき、遥香は気後れして、慌てて自分の痩せ細った手を引き抜いた。勇人は彼女が目を覚ましたのを見て、ようやく安堵の息を吐いた。その時、遥香は自分の頬に何か熱いものが落ちてきたのを感じた。彼が私のために泣いているのだろうか。「勇人さん……」遥香は口を開いたが、その先をどう言えばいいのか分からなかった。「気がついて本当によかったです。いくら電話しても出ないから、スマホの位置情報で家まで押しかけたんです。遥香さん……」勇人が言葉を詰まらせ、むせび泣いていた。「勇人さん、ありがとう」遥香は泣いているのか笑っているのか分からないような表情で、掠れた声で尋ねた。「私の子は駄目だったの?」「……はい」彼女は静かに目を閉じ、あふれ落ちる涙が頬を濡らすのに任せた。この子は生まれてくるべきではなかった。これでよかった。勇人は彼女の涙を拭いながら、低い声で慰めた。「遥香さん、僕が最高の専門医を探し出します。国内が駄目なら海外へ行きましょう。がん治療なら、海外の方が進んでいますから」遥香は自分と勇人がそこまで親密な間柄ではないと思っていた。おそらく、自分の過酷な病状に同情してそう言ってくれているのかもしれない。「ううん、いいの!」遥香は首を振った。「明日、退院の手続きをしてくれるかしら」勇人は焦ったように声を荒らげた。「駄目です
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第7話

「他意はないわ。海外派遣プロジェクトの書類よ。あなたのサインが必要なの」遥香は落ち着き払って答えた。蓮司はそれでようやくペンを取り、さらさらとサインをした。彼が出て行くと、遥香はようやく安堵の息をつき、荷造りを始めた。A国へ旅立つ日が、刻一刻と近づいていたからだ。遥香はふと気がついた。蓮司に嫁いでからのこの十年間、彼女はまともなジュエリー一つ、高級な服一着すら持っていなかった。数少ないウェディングドレスの写真でさえ、街角の小さな写真館で撮ったものだ。とても安上がりで、粗末なものだった。けれど、あの頃の二人は眩いばかりの笑顔を輝かせ、互いの瞳には溢れんばかりの愛が宿っていた。遥香はがん検査の結果報告書と、彼がサインした離婚協議書を木製の裁縫箱に収めた。裁縫箱には小さな南京錠がついており、すでに赤錆が浮いている。相当に古びているのが一目で見て取れた。この裁縫箱は、かつて二人が貧しいながらも寄り添い、慈しみ合って生きた日々……そして、いつしか傷だらけになってしまった歳月の証だった。その夜。蓮司が帰宅したとき、遥香はすでに眠りについていた。彼は彼女の頬を優しく撫でながら、何度も何度も「遥香、すまない……」と囁いていた。その声に、遥香はふと目を覚ました。彼女はあの裁縫箱を探し出し、彼に手渡した。「あなたへのサプライズよ。でも、今はまだ開けちゃ駄目。来週の週末になったら開けて」遥香は内心で自嘲した。私は来週末まで生きていられるかしら。蓮司は微塵も疑うことなく裁縫箱を受け取った。「分かった」その夜、蓮司は彼女をきつく抱きしめて眠った。彼は深い眠りに落ちていたが、遥香は一睡もできなかった。翌日。遥香はいつものように、蓮司の好物の朝食を用意した。彼が出かける間際、彼女は甲斐甲斐しくネクタイを結んでやった。蓮司は昔から、ネクタイの結び目を綺麗に整えるのが苦手だったからだ。彼が出かけて間もなく、驚いたことに、詩織が家の中に入ってきた。「蓮司が、私の指紋を登録してくれたの」詩織は得意げに笑った。「遥香、ここにあるすべては、もうすぐあなたのものじゃなくなるわ」遥香は足早に歩み寄るなり、振りかぶって詩織の頬を平手打ちした。ところが、詩織はわざとらしく後ろに仰け反り、床に倒れ込んだ。そして
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第8話

遥香は力なくソファに横たわっていた。ゴミ箱の中は、赤く染まったティッシュで溢れている。彼女自身、自分が一体あとどれくらい、この命を長らえることができるのか分からなかった。再び重い瞼を開けた時、視界に入ってきたのは、少し焦ったような蓮司の顔だった。「鼻血でも出したのか?随分な出血じゃないか」遥香は淡々と答えた。「ええ」少し間を置いてから、彼女は問い返す。「落とし前をつけに来るんじゃなかったの?」蓮司は唇を真一文字に結んだまま、黙り込んだ。遥香の顔に自嘲の笑みが浮かぶ。蓮司が何か言いたげにためらっているのを見て、遥香はさらに尋ねた。「何が言いたいの?」蓮司は彼女を見つめ、どこか機嫌を伺うような口調で切り出した。「詩織の体調が今あまり良くないんだ。彼女をこの家に迎え入れて、家政婦を雇って面倒を見させようと思う」「蓮司、愛人を家に引き入れて子供を産ませるなんて。あなたの心の中で、私は一体何なの?」遥香は無理に身体を起こし、冷ややかな声で問い詰めた。実のところ、もうどうでもよかったのだ。ただ、ほんの少し未練と悔しさが残っているだけ。何しろ、十年間も連れ添った情があるのだから。蓮司は言った。「遥香、俺はお前を捨てる気なんて一度もない。だが今回は、彼女が妊娠してしまったんだ。無事に子供を産んだら、まとまった金を渡して追い出す。そうしたら、また俺たち二人で元通りに暮らそう。な?」「随分と白々しい綺麗事ね」遥香は冷たく皮肉った。「今回だけだ!」蓮司はしゃあしゃあと言ってのけた。「俺の妻は、永遠にお前一人だけだ」最後に、遥香は彼に尋ねた。「蓮司、十年前、私に何て言ったか覚えてる?」「……ん?」「『もしお前を裏切るようなことがあれば、俺は死んで地獄に落ちるだろう』……そう言ったわよね」二人の間に、長い沈黙が落ちた。蓮司は目尻を微かに赤くして、彼女の隣に腰を下ろすと、その腕に遥香を抱き寄せた。「もういい、その話はやめよう」翌朝、蓮司は待ちきれない様子で、詩織を家へと迎え入れた。詩織は手に持っていた海老のパックを掲げ、遥香に向かって言った。「遥香、お料理がお上手なんですってね。私、結構好き嫌いが多くて、エビなら食べられるの。エビフライを作ってくれない?」遥香が拒絶しようとしたその時、傍
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第9話

同じ頃、蓮司は詩織を支えるようにして、ゆっくりと病院から出てきたところだった。彼の心は、どこか上の空だった。朝から遥香に立て続けにメッセージを送ったのだが、どれも一向に既読がつかない。以前の彼女なら、こんな風に未読のまま放置することなど決してなかったはずだ。考えれば考えるほど、言い知れぬ不安が募っていく。蓮司はスマートフォンを取り出し、遥香の番号に電話をかけた。だが返ってくるのは、「おかけになった電話は……」という冷たい機械の音声だけだった。「蓮司……」詩織が猫撫で声を出しながら、懸命に蓮司の胸元へすり寄ってくる。その拍子に、わざと用意してきた下着のストラップを肩から滑らせた。だが、今の蓮司にそんな誘いに乗る余裕など微塵もなかった。彼女をなだめるように言った。「いい子だから、わがままはよせ。今はとにかく帰るぞ」遥香が本気で怒っているのかどうか、確かめずにはいられなかったのだ。彼が詩織と関係を持ったのは、当初、詩織が自分の言うことをよく聞き、空気を読むのが上手かったからだ。仕事の重圧や疲労の中で、手軽に癒やしを与えてくれる都合のいい存在だった。だが、それは所詮遊びだ。遊びでしかない以上、いつかは飽きがくる時がくる。なんだかんだ言っても、遥香は苦労を共にした妻なのだ。彼の心の中に遥香への情愛が消えたわけではなかった。不満げな顔をして動こうとしない詩織を見て、蓮司はスマートフォンを取り出し、その場で百万円ほどを彼女の口座に振り込んだ。「ほら、小遣いを送っておいた。好きなものでも買いなさい。いいから、大人しくついてこい」詩織はそこでようやく機嫌を直し、満足げな笑みを浮かべた。「はい」家に戻るなり、蓮司は矢も盾もたまらず、大声で遥香の名前を呼んだ。だが、何の返事もない。家中すべての部屋を走り回って探したが、遥香の姿はどこにもなかった。「遥香!今度は一体何のつもりだ!言っておくがな、そんな小細工は俺には通用しないぞ!わざと隠れてるんだろう?」怒鳴り散らしながらも、蓮司の心の中はパニック状態だった。再びスマートフォンを取り出し、しつこく彼女の番号を鳴らす。だが、やはり応答はない。蓮司は力なくソファに崩れ落ちた。連絡先リストを見つめ、彼は意を決して、遥香との共通の友人たちに次々と電話をかけ始
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第10話

蓮司は、半ば狂乱したように遥香を探し回った。手の届く限りの人脈をすべて動員し、二日二晩にわたって探し続けたが、何の手がかりも得られなかった。焦りのあまり、彼女の郷里にまで足を運んだ。だが、遥香の両親は数年前にすでに他界しており、唯一残されていた実家の家屋も親戚に売却されていた。追い詰められた蓮司は、ついに警察へ捜索願を出すという手段に打って出た。折からの土砂降りの雨が、街全体を分厚い灰色のベールで包み込んでいた。警察署を出た蓮司は、瞬く間に全身を雨に打たれ、見る影もないほどずぶ濡れの無残な姿になっていた。ふと、頭上から容赦なく打ちつけていた雨を、何かが遮ったことに気づいた。振り返ると、そこには秘書の姿があった。「社長……」目を赤く腫らした秘書が口を開いた。「複数の取引先が相次いで出資を引き揚げており、現在、社内は大混乱に陥っています」「分かっている」その時、蓮司の脳裏に不意にある男の顔が閃いた。彼は秘書を問いただした。「あの瀬戸勇人ってやつはどこだ?」秘書は明らかに一瞬戸惑いを見せた後、答えた。「瀬戸さんなら、少し前に退職しました」蓮司は糸が切れたように泥だらけの地面へへたり込み、雨水を跳ね上げた。虚ろな瞳で宙を見つめ、うわごとのように呟く。「まさか……あいつが、俺の遥香を連れ去ったっていうのか?」見かねた秘書が慌てて身をかがめ、彼を抱き起こそうとしたが、蓮司はそれを力任せに突き飛ばした。「……失せろ!」蓮司の怒号が響く。秘書はその異様な剣幕に怯み、言葉を失った。「社長?」おののくような声で彼を呼ぶ。だが蓮司は、遠くを呆然と見つめたまま何も答えなかった。どれほどの時間が過ぎたろうか、雨がついに上がった。だが、空は依然として重苦しい鉛色のままだった。「社長……」秘書が再び呼びかける。蓮司はそこでようやく我に返ったように秘書に視線を向け、しゃがれた声で命じた。「ここ数日は、お前が会社の方を処理しておけ。彼女がいなくなったんだ……俺は、探さなきゃならない」「はい」蓮司は魂が抜け落ちたような足取りで、家へと戻った。ずぶ濡れの彼を見るなり、詩織が駆け寄ってきた。「蓮司!着替えを用意しましょうか?」蓮司は無言で頷き、そのままバスルームへと向かった。彼が上着を脱ぎ捨てた
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