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第2話

Auteur: 温井虚秋
蓮司は車のドアを閉め、遥香の姿を視界に捉えた瞬間、わずかに動きを止めた。だが、すぐにいつもの冷徹で余裕のある表情を取り繕う。まるで、今しがたの出来事など何もなかったかのように。

唯一の動かぬ証拠は彼の首筋に残された、生々しく赤いキスマークだけだ。

この三年で嫌というほど見慣れた光景のはずなのに、それでも遥香の胸には息が詰まるほどの痛みが走った。

車の中にいる女の正体など、当然知っている。

蓮司が三年前から外で囲っている愛人、佐伯詩織(さえき しおり)だ。

蓮司と遥香が恋に落ちたのは大学四年の時だった。

当時の彼は貧しい学生に過ぎず、一方の遥香はすでに数々のITコンテストで賞を総なめにし、才女として名を馳せていた。

彼の起業当初、遥香は自身が設計したAIプロダクトの特許権を、無条件で彼に譲渡した。

当時、複数の大手IT企業から破格の条件で提携を持ちかけられていたが、彼女はすべて断った。

そして蓮司もまた、遥香の特許を元手に、人生で最初の大金を掴み取った。

愛と忠誠の証として、輝星テクノロジーが飛躍し始めた頃、彼は自身の持ち株の大部分を遥香に贈与した。これにより、遥香は一躍会社の筆頭株主となり、絶対的な発言権を持つに至った。

だが、遥香は彼を愛しすぎていた。

ここ数年、彼の事業を支えるため、彼女は完全に裏方に回り、彼の身の回りの世話に専念してきた。会社の業務には一切口出しせず、共に苦難を乗り越える伴侶として寄り添い続けたのだ。

しかし三年前のある日、遥香は蓮司の仇敵に拉致された。

命からがら逃げ出し、這うようにして自宅に戻った彼女が目にしたのはかつて二人が何度も睦み合ったベッドで、裸のまま別の女を抱き寄せる蓮司の姿だった。

それからも、不貞の現場を何度も押さえた。

そのたびに彼は床に膝をつき、許しを乞うた。何を言われても決して離婚には応じず、「お前を失うくらいなら死んでやる」とさえ口にした。

遥香の心は当初の失望や絶望から、やがて冷めた諦念へと変わり、痛みさえ麻痺していった。

長年の情に加え、夫婦の利害関係はあまりに深く絡み合っている。遥香自身も、心血を注いだ会社をやすやすと他人に明け渡すことなど、到底受け入れられなかった。

それが、今日まで離婚に踏み切れなかった理由だ。

だが今、遥香はすべてを吹っ切った。

彼女はもうすぐ死ぬ。死んでしまえば、財産も地位もあの世へは持っていけない。

私を失えば死ぬと言っていた?

馬鹿馬鹿しい。

つい昨日、遥香は弁護士を通じて二通の離婚協議書を作成し、迷いもなく署名を済ませた。

遺言書も書き上げた。死後、名義上の全財産は慈善団体や児童養護施設へ寄付する。輝星テクノロジーの持ち株はすべて無条件で国へ譲渡すると明記した。

一ヶ月後に発つ、A国のリゾート地への航空券も手配済みだ。

最悪の事態も覚悟している。

もし一ヶ月生きられなかったら、葬儀社に金を払い、遺影だけでもあのリゾート地へ連れて行ってもらえばいい。

蓮司は遥香から視線を外すと、再び車窓に身をかがめ、中の女と何か言葉を交わした。

しばらくして、身なりを整えた詩織が車から降りてきた。その整った顔に不満げな色を浮かべ、遥香を忌々しそうにひと睨みしてから、足早に立ち去っていく。

蓮司は遥香の前に歩み寄り、自分の上着を脱いで彼女の肩にかけた。その声は低く、ひどく優しかった。「中に入ろう。外は冷える」

「あなたが不倫を始めて、もう三年になるわね、蓮司」遥香は冷たい笑みを漏らした。

蓮司は一瞬身体を強張らせた。すぐにその瞳から光が失われると、遥香の手を引いて家の中へと促した。

「彼女とは遊びだ。本気じゃない」彼女と共にソファに腰を下ろし、彼は静かに言った。

遥香は眉を上げ、皮肉たっぷりに言い放つ。「じゃあ、私たちの結婚も、あなたにとってはそんなものなのね」

蓮司の端正な顔に笑みが浮かんだ。彼は子供をあやすような低い声で囁く。

「よしなよ。他の女がどうあろうと、俺が本当に愛しているのはお前だけだ」

遥香は彼をまっすぐに見据えて問い詰めた。「今日が何の日か、覚えている?」

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