All Chapters of 愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える: Chapter 1 - Chapter 10

21 Chapters

第1話

「高田様、こちらが献体申込書になります。こちらにご署名をお願いします」高田菜々子(たかだ ななこ)は、差し出された薄い紙をじっと見つめ、ペンを握る手が、かすかに震えている。その様子に気づいた担当者が、気を利かせて言った。「献体は大きなご決断です。今ここで取りやめても構いませんし、一度帰ってご家族とご相談されてからでも……」相手が逃げ道を用意してくれていることくらい、菜々子にも分かっていた。それでも彼女は微笑み、書類の右下に名前を書き込んだ。「書けました」担当者は感謝の気持ちを込めて告げた。「高田様、医療へのご厚意に心より感謝申し上げます。こちらが献体登録証になります。どうぞお受け取りください」……菜々子が帰宅しても、そこには誰もいなかった。テーブルには今朝出かける前に準備した朝食が、手つかずのまま残されている。スマホには一通の未読メッセージがあった。【今夜は仕事が遅くなる。帰れない】菜々子は苦笑いを浮かべた。最近、夫·高田真司(たかだ しんじ)の「残業」はあまりに頻繁だ。本当は、また奥山菖蒲(おくやま あやめ)と一緒にいることくらい、彼女にはお見通しだった。菖蒲は真司の秘書で、心に病を抱えている。彼に想いを寄せながらも、不倫を受け入れられず、その間で苦しんだ結果、うつ病になってしまったのだ。真司は責任をすべて自分で背負い込むようになった。「菖蒲がこうなったのは、俺たちが結婚してるせいだ」菜々子がそう言われたのは、一度や二度ではない。菖蒲への罪悪感から、彼は以前にも増して彼女の世話を焼き、何でも彼女の言うことを聞くようになった。やがて積み重なった想いは形を変え、憐れみはいつしか愛へと変わっていった。二人の関係がいつ始まったのか、菜々子には分からない。ただ一つ確かなのは、かつて自分をあれほど愛してくれた男でさえ、いつか別の誰かへと心を移すということだった。菜々子は暇を持て余してソファに寝転がり、ぼんやりとスマホをいじる。検索などしなくても、昨夜の出来事が嫌でも流れてくる。動画を開くと、白いドレスをまとった菖蒲が、H市で一番高いビルの屋上に立っていた。夜空を背に、その白いドレスは異様なほど際立っている。周囲は騒然とし、人々の視線が彼女に集まっていた。「何があったんだ
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第2話

真司の表情が、たちまち険しくなった。スマホを握りしめ、迷った末に電話に出た。「菖蒲、どうした?」菖蒲。その名前を聞いた菜々子の、パンをちぎる手が止まる。電話の向こうの声を聞くうちに、真司の口調がとろけるように優しくなる。「ああ……雨には濡れたけど、風邪はひいてないよ。安心して。分かった。言う通りにする。すぐに着替えるから。俺のことは心配しなくていい。俺がいない間も、自分のことを大切にするんだぞ?あのパンが好きなら、これからは毎日買ってきてあげるよ」菜々子には、手に持ったパンまで苦く感じられた。通話が切れた瞬間、真司の表情からさっきの柔らかさは消え、不機嫌そうな顔に戻る。彼は沈んだ声で言った。「昨夜も菖蒲の症状が出たんだ。雨が降ると発作が起きるって、知ってるだろ」菜々子が問いかけた。「このパン、二つ買ってきたのね」冷めていた理由が分かった。先に彼女に届け、その後で持ち帰ったのだ。真司は否定しなかった。菜々子は淡々と言った。「彼女は大丈夫?」真司はやっと口を開いた。「間に合ったから、大事には至ってない。ただ精神が不安定で、いつまた発作が起きてもおかしくないんだ」「じゃあ、これからも、ずっと彼女のそばにいるつもり?」「……ああ」菜々子は続けて問いた。「真司、あなた医者なの?彼女のうつ病を治せるとでも言うの?」真司の声が一気に荒くなった。「何度言わせれば分かる!彼女の病気はお前と結婚したせいなんだ!俺には責任がある!」「じゃあ私は?私はあなたの妻なのよ。私に対する責任はどうなるの?」真司は信じられないものを見るように菜々子を見た。「お前は健康だろ?彼女は病気なんだ。比べる話じゃない」健康……「健康であることが、私の罪なのね」「菜々子、お前はどうしてそんなふうになった」「どんなふうに?」「冷たくて、自分勝手で、人の痛みも分からない女にだ!」菜々子は冷めきった瞳で真司を見つめ、深く息を吸い込んだ。「もし、私が健康じゃなくなったら、どうする?」真司は眉をひそめた。「何を言い出すんだ。さっきから口答えして、ずいぶん元気そうじゃないか」菜々子はふっと笑い、うつむいて目を閉じた。胸の奥で、何かがゆっくりと崩れていく感覚だった。真司は言った。「菜々子、もうワ
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第3話

翌朝、菜々子はトイレの床で目を覚ました。最近、病状は日に日に悪化していて、意識が遠のくこともあれば、激痛で気を失うこともあった。ただ、大量に血を吐き、便器が赤く染まっていた光景だけがぼんやりと残っている。菜々子はレバーを引き、濁った赤い水がゆっくりと流れていくのを見つめた。その時、インターホンが鳴った。真司か?菜々子は慌てて片付け、口をゆすぎ、床に残った血の跡を拭き取ると、玄関へ向かった。「真司……」だが、立っていたのは真司ではなく、菖蒲だった。菖蒲は高級なブランド服に身を包み、メイクも髪型も完璧で、顔色も良く、つい最近までうつ病で自殺騒ぎを起こしていたようには見えなかった。彼女は唇に笑みを浮かべて挨拶をした。「菜々子さん、初めまして。奥山です」菜々子はなぜ菖蒲が突然来たのか分からなかったが、淡々と言った。「奥山さん、私を呼ぶ時は、奥様と呼んで」菖蒲は鼻で笑った。「どうせあなたはもう長くないんでしょう?奥様なんて肩書きも、じきに私のものになるのに、そんな呼び方にこだわる意味あるの?」「あるわ」菜々子ははっきりと頷いた。「少なくとも、あなたの前ではね」菖蒲はあざ笑った。「今のうちに私に取り入ったらどう?ここが私の家になったら、物置にでもあなたの位牌を置いて、腐った果物くらいはお供えしてあげるわ」菜々子の視線が、ふと菖蒲の手首に落ちた。そこには女性用の腕時計とブレスレットがあるだけで、傷跡など、どこにも見当たらなかった。菜々子は、先週、彼女が自殺未遂を装ったことを覚えていた。飛び降りではなく、リスカだった。あの時、生々しい写真も見た。それなのに、たった数日で傷一つなく綺麗になっているなんて。「手首の傷はどうしたの?」「あんなこと、本気でするわけないでしょ。傷なんて残したくないもの。最初からやってないわ」菜々子は息をのんだ。「うつ病も……芝居なのね?真司を騙したの?」菖蒲はますます勝ち誇ったように笑った。「彼が信じてくれさえすればいいのよ。男っていうのはね、女が自分のために病んだと思えば、心が満たされて罪悪感を抱くものよ。私が具合が悪いフリをすれば、彼は私を心配して、何よりも優先して駆けつけてくれる……」「奥山菖蒲!」菜々子は憎しみを露わにした。「そんな嘘で彼の愛を奪って、家庭まで
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第4話

菜々子は顔を上げ、「何て言ったの?」「さっきまで必死に菖蒲の首を絞めておいて、今は弱ったふりか?」「絞めてない!」菜々子は反論した。「じゃあどうしてお前の手が菖蒲の首にあったんだ?まさか彼女がお前の手を首に持っていったとでも言うのか?!」真司の声は鋭く、その目つきはまるで彼女を刺し殺さんばかりに鋭く、冷ややかだった。菜々子は信じられないものを見るように、彼を見つめた。「そうなのよ。彼女が私の手を掴んで、自分の首に当てたの」真司の目は失望と驚きに満ちていた。「菜々子、もうお前が分からない」菜々子はふっと笑った。「その言葉、そのまま返すわ」菜々子はようやく力を振り絞ってソファに倒れ込み、しばらくの間、息を整えた。「真司、信じるか信じないかはあなた次第だけど、さっき奥山さんは私に、自分は病気じゃないし、リスカもしてないって言ったのよ。信じないなら自分で見に行って」真司は眉をひそめた。「彼女が手首を切った日、俺は現場にいた。血が床一面に広がってたんだ」「だったら今、もう一度彼女の手首を見てみて。私の言ったことが本当かどうかわかるわ」真司は歯を噛みしめ、彼女の言葉にどれほどの真実があるのか見極めようとしていた。菜々子は鼻で笑った。「行かないの?彼女に騙されていたって事実と向き合うのが怖い?」「俺は菖蒲を信じてる」と言い捨て、真司は寝室へ向かった。「きゃっ——」寝室から突然、悲鳴が聞こえた。真司はまるで稲妻のように駆け込んだ。「菖蒲!」「真司……ううっ……」菜々子はふらつく体を壁に支えながら寝室へ向かった。そして目にしたのは——菖蒲の手首から大量の血が流れ、腕が赤く染まっていた。滑らかだった手首には切り傷が入り、血がとめどなく流れ出していた。「どうしてまたこんな真似を!」真司の声が震えていた。菖蒲は彼の腕の中に泣きついた。「全部私のせい……私のせいで真司が菜々子さんと喧嘩してしまったのね。お願い、私のことは放っておいて。いっそ死んでしまえば、菜々子さんも安心するはずだから……」「馬鹿なことを言うな!死なせたりしない!」菖蒲の泣き声が激しくなる。「何度も命を絶とうと思ったわ。でも、真司の顔を見ると、どうしても離れたくなくなるの……」「離したりしない。これからは一生、そばで君を見
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第5話

菜々子は淡々とスマホをしまい、「なんでもないわ」と穏やかに答え、踵を返して去ろうとした。だが、真司が追いかけてきて、彼女の行く手を遮った。「はっきり言え。どういうことだ?献体なんて、健康な体でなぜそんなことをする?」菜々子は視線を上げ、彼を見つめた。「もうすぐ死ぬから。それでいいでしょう?」真司の目が一気に冷たく怒りを帯びる。「お前、うつ病じゃないんだ。死ぬはずないだろ」「死に至る病は、うつ病だけじゃないわ!」「たかが風邪だろ、まるで不治の病みたいに振る舞うな」菜々子の心に鋭い痛みが走った。彼女は感情を押し殺し、涙がこぼれないように必死でこらえた。「そうね、ただの風邪よ」彼女は言った。「友達が最近、献体登録室で働き始めたの。だから、ちょっと届け物をしただけ」「友達?誰だ?」真司が尋ねた。「あなたが知らない人よ」「真司――」菖蒲が彼を呼んでいる。真司は慌てて戻った。「どうした、菖蒲?」「痛いの、うう……」「なぜこんなことを。すぐに救急箱を持ってくる、傷の手当をしよう」「うん……すぐに戻ってきて。あなたがいないと不安なの」「分かった。すぐに戻るから」再び寝室から出てきた真司は、眉をひそめて菜々子を見た。「なぜまだいる?菖蒲がお前の声を聞いて、また発作を起こしたらどうする?」神様がわざと意地悪をしているのか、外では激しい雨が降り出した。菜々子が屋敷から出ると、真司は傘すら渡さず、何のためらいもなくドアを閉めた。薄手の服しか着ていなかった菜々子は、瞬く間に全身ずぶ濡れになった。やがて、家政婦の井上葵(いのうえ あおい)が買い物袋を提げて帰ってきた。「奥様!なぜ雨の中濡れているのですか!旦那様は?」葵は荷物をおろし、菜々子の腕を引いて家の中へ入ろうとした。「大丈夫ですよ、葵さん」「体が冷えますよ!風邪をひいてしまいます!」風邪をひく?あと3日で献体するのに、風邪を心配する必要があるのだろうか。「奥様、またあの秘書の奥山さんのことで旦那様と喧嘩をなさったのですか?」菜々子は笑って、葵を安心させようとした。「いいえ。あの人とは……仲良くやってるわ」「でもお顔の色が良くありません。それにいつもは真司とお呼びだったのに……旦那様のご両親に報告して、旦那様にお話してい
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第6話

葵が菜々子を支えて部屋に入り、ソファに横たえた。「奥様、少しお休みください。スープを作ったので、少しでも口になさってください」葵が作ったスープはとても優しい味だったが、今の菜々子には、もう何も食べられなくなっていた。胃の中は、すでに癌に侵され尽くしていたからだ。スープを一口飲んだだけで、菜々子は口を押さえ、ふらつきながらトイレに駆け込み、そのまま吐き出した。中には、スープと一緒に、真っ赤な血が混じっていた。最後には吐くものもなくなり、ただ、空しくえずくだけになった。「菜々子」いつの間にか、真司がトイレの前に立って、険しい表情で、彼女を見下ろしている。「お前、妊娠しているのか?」吐いている姿を見て、妊娠しているとでも思ったのだろうか。残念ながら、嘔吐の原因は妊娠だけではない。胃癌でも、同じ症状が出るのだ。それに、たとえ真司が妊娠していると勘違いしたとしても、その顔に喜びは微塵もなかった。「堕ろせ」と真司は言った。「もし菖蒲に、お前が妊娠していると知られたら、彼女のうつ病がまたぶり返してしまう」そうだった。菖蒲は、菜々子と真司が結婚したせいで、うつ病になったのだから。今、もし菜々子が妊娠したと知ったら、また症状が悪化してしまうだろう。菜々子のスマホが、再び鳴った。献体登録室からだ。彼女は電話に出た。「もしもし、高田様。確認したところ、ご結婚されているようですね。それでしたら、死後のご家族とのトラブルを避けるためにも、ご主人の同意書が必要になります。ご主人のサインがなければ、お引き受けすることは難しいのです」「夫の署名が必ず必要なんですか?」「はい。メールで書類をお送りしましたので、お早めにお願いいたします」「分かりました」菜々子は電話を切った。真司は苛立った様子で言った。「俺の話、聞いていたのか?さっさと堕ろしてこい」「聞いてたわ」「なら今日中に済ませろ」「うん」真司はそう言って去っていった。菜々子は書斎に行き、メールで届いた遺体提供の同意書を印刷し、真司のもとへ向かった。「中絶には父親の署名が必要なの。書いてくれる?」真司は中身も見ず、ペンを取り、サインをした。「ほら、さっさと行ってこい」菜々子は苦笑いした。「内容、見なくていいの?」
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第7話

真司は彼女を連れ、人里離れた廃ビルへと向かった。周囲には雑草が生い茂り、人の気配はない。真司に手首を掴まれた菜々子は、廃ビルの奥へと急かされた。今の彼女の体力ではもう、ついていくのがやっとだった。菜々子は足をもつれさせ、荒い息を吐きながら歩いた。真司はまるでそれが見えていないかのように、ただ、ひたすらに先へと急いだ。ついに、彼は足を止めた。菜々子が顔を上げると、天井から手首を縛られ、中に吊るされた菖蒲がいた。「真司、助けて……」彼女は声を上げて泣き出した。「菖蒲!」真司は彼女をなだめた。「大丈夫だ。俺がいるから。何も心配しなくていい」「ハハハハ、噂通りの溺愛っぷりだな」数人の拉致犯が姿を現し、ニヤニヤと笑いながら言った。「金は持ってきたか?」真司は冷たい声で言った。「こんな短時間で、1億も用意できわけないだろ」「じゃあ、話にならないな。縄を切って、奥さんが地面に落ちるところを見てるんだな……」「待て!」真司は菜々子の腕を乱暴に引っ張り、地面へ突き飛ばした。「代わりにこいつをやる」犯人は顔をしかめた。「何を言ってるんだ?俺たちをバカにしてるのか?」真司は言った。「こいつの臓器を全部売れば、1億なんて簡単に超えるはずだ」菜々子は地面にへたり込み、信じられないものを見る目で、真司を見上げた。だが真司の瞳には、菖蒲の姿しかなかった。さらに真司は言葉を重ねる。「金をもらっても、国内じゃ使うにも困る。警察も嗅ぎ回るだろう。それより海外ルートに流せば、若い女の臓器は高値で売れる。お前たちにとっても安全な商売になるはずだ」犯人たちは顔を見合わせ、真司の提案に心を動かされたようだった。拉致は重罪だ。警察も血眼になって追っている。このまま国内を逃げ回る生活など、もうこりごりだった。それなら、生かしたまま海外に連れて行って、臓器を売った金で、一生遊んで暮らせる!菖蒲がなおも泣き叫ぶ。「真司、手が痛いよ……」真司は急かした。「早く彼女を放せ!」犯人たちは二手に分かれた。二人が菜々子を押さえ、もう二人が菖蒲を縛る縄を切り落とした。落ちた菖蒲を、真司が駆け寄り、しっかりとその胸で受け止めた。「大丈夫、俺がいるよ」「真司……うぅっ、きっと助けに来てくれると信じてたわ」もう片方で
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第8話

高田家。真司はずっと菖蒲を抱いたまま帰宅した。彼はこれまで常に菖蒲に対して優しく言葉を選び、細心の注意を払っていた。これ以上、彼女の心を刺激し、病状を悪化させるのを恐れていたからだ。「今はどうだ?お風呂にでも入ってから、ゆっくり休むか?起きたら、すべてが良くなってるさ」彼は菖蒲の真っ青な顔色を見て、ひどい恐怖を感じたに違いないと思った。菜々子の顔が一瞬頭をよぎったが、彼はすぐにそれを振り払った。彼女は健康な人間なのだ。菖蒲よりも苦しいはずがない。それに、すでに警察官が付き添って病院に行っているのだから、何も起きるはずがない。真司はすべての注意を菖蒲に注いでいた。ショックから立ち直れない様子の菖蒲は、彼の袖をぎゅっとつかんで言った。「真司、どこにも行かないで。怖い、もう少し一緒にいてくれる?菜々子さんがあなたを必要としているのはわかってる。でも……少しの時間でいいの。お願い、今だけは傍にいて」彼女は短い言葉を震える声で口にし、今にも泣き出しそうだった。真司はすぐに立ち去ることができなくなった。菖蒲の言う通りだ。彼女が良くなってから菜々子に会いにいけばいい、急ぐ必要はない。彼は菖蒲を支え、ベッドの端に座らせた。菖蒲はまだ彼の袖をつかんで離さず、「眠ったら行っちゃうの?」と問いかけてくる。真司は仕方なく再び約束した。「大丈夫だ、離れない。俺がここにいる以上、もう二度と誰にも君を傷つけさせない」今回はようやく納得したようで、菖蒲は服を着たままベッドに横たわり、ゆっくりと目を閉じた。真司は菖蒲が突然泣き叫ぶことなく落ち着いて眠ったのを確認するまでしばらく待ち、その後そっとバルコニーに出て、警察から教えられた番号に電話をかけた。菜々子はどうして帰ってこないのだ。まさか迎えに来てほしいとでも言ったのか。電話はすぐに繋がった。真司は自分でも気づかぬほどの焦りを見せながら尋ねた。「妻の様子はどうだ?まだ帰ってきてないんだ。今の俺には彼女の我が儘に付き合う時間なんてないと伝えておいてくれ」こっちは忙しいというのに、どうして思いやりを見せられないのだろう。警察官はあきれたように思っていた。本人と話がしたいのなら、直接彼女に電話をすればいいではないか。だが、本人の都合もあるため、警察官は穏やかに答え
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第9話

彼は、そんな出まかせを自分に言い聞かせていた。菜々子のスマホには繋がらず、呼び出し音のあとに続くのは、感情のない無機質なアナウンスだけ。それがかえって彼の神経を逆なでし、かろうじて保っていた理性は、やがて完全に不安に飲み込まれていった。ただの風邪だと言っていたじゃないか。なぜ戻ってこないんだ?この検査結果は一体どういうことだ?真司は彼女が胃癌という重い病気であることなど到底信じられず、無機質なアナウンスを繰り返し聞かされながら、何度も電話をかけ続けた。突然、部屋の奥から悲鳴が響いた。菖蒲が目を覚ましたのだ。真司は電話を切ると慌てて部屋に駆けつけた。しかし、つい先ほどまで開いていたはずのドアが内側から鍵をかけられ、びくともしない。「菖蒲!どうした?開けてくれ、俺だ」声を枯らしながら呼びかけるが、中からは激しい泣き声と、物がぶつかり合う音しか聞こえてこない。部屋の中で菖蒲は、「もう私に関わらないで、全部私が悪いのよ……」とわめき散らしていた。それを扉越しに聞いていた葵は、あなたのせいよ、あなたが割り込まなければ、奥様があんなに苦しむこともなかったのに、と心の中で冷たくて笑った。かつての二人は、あんなに仲が良かったのに。「落ち着いて話してくれ。自分のことを責めないでいい。怖かっただろうけど、俺がちゃんと救い出したじゃないか」真司は必死になって宥めるが、言葉は空しく響くだけだった。菖蒲は暴れ続けていたが、やがて疲れたのか、物を投げ尽くしたのか、次第に物音は小さくなっていった。真司は扉に力なく寄りかかり、憔悴しきっていた。そこへ庭にいた使用人が血相を変えて走ってきた。「旦那様!大変です。奥山さんが窓から飛び降りようとしています!」それほど高い階ではないが、下はコンクリートだ。飛び降りればただでは済まず、一生の障がいを負うことになる。もはや優しくしている場合ではない。真司は強引に扉を蹴り開けると、「菖蒲!部屋に戻れ!バカな真似をするな!」と叫んだ。室内は家具が転がり、デスクが倒れ、まるで嵐が過ぎ去ったかのように散らかっていた。菖蒲はそんな現状を無視し、薄い服のままバルコニーの柵に座り、風に煽られるカーテン越しに真司を見つめている。その瞳には涙が浮かび、サンダルを履いた両足が宙に浮いていた。
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第10話

そんな真司の思いを遮るように、菖蒲が急に叫び声を上げた。「あなたもやっぱりそう思ってるんでしょう?菜々子さんがこうなったのは私のせいよ。もう死んだ方がマシだわ。安心して、もう二度とあなたたちの邪魔はしないから!」彼女は今にも倒れそうなくらい激しく泣き叫んでいる。だが、柵を掴んでいる手はしっかりと掴んだままだった。真司は家の中で大騒ぎになるのを恐れ、菖蒲が涙をこぼして上を向いた隙に、猛ダッシュでバルコニーに駆け込み、彼女の手首を強く掴んだ。これで菖蒲はさらに荒れ狂った。真司が彼女を部屋の中に引き戻そうとすると、菖蒲は足元をバルコニーの外へと移し、しがみつくように泣きながら抵抗した。「行かせてよ!死ぬことでしか菜々子さんに償えないの。そうすれば、あの人も私を責めないはず……」あたかも菜々子から何かを強要されたかのような言い方だった。真司の中で心が再び傾く。彼は菖蒲をなだめた。「これは君のせいじゃない、悪いのは拉致犯だ。君が自分を責める必要はない。それに、菜々子だって……責めるなら俺を責めるよ!」その言葉を聞いて、菖蒲の胸に喜びが広がった。作戦が上手くいったことを確信して、そろそろ引き際だと考えた、そのとき。ドアの外に立っていた葵が皮肉を込めて言い放った。「奥山さん、もういい加減にしてください」葵の言葉に菖蒲は動きを止め、危うく悲痛な表情を保つのを忘れるところだった。「葵さん、そんなことは言うな!」真司は何も考えずに葵の言葉を遮った。「こんな状態で、煽るような真似はするな!救出が先だろう!」その言葉に葵の怒りは頂点に達した。もうこれ以上は見ていられない彼女は、菖蒲の芝居を見破って言い放った。「旦那様、あの方は本気じゃありません。本気で死ぬ気なら、わざわざこんな大げさな真似はしません。奥山さんは、今回が初めてじゃないんです。いつでも、人前では大げさに泣きわめくのに、二人きりになれば何食わぬ顔です。本当に死ぬ気の人なら、止める隙もないほど静かにいなくなるものです。あの方はむしろ、誰にも止めてもらえないのが怖いんでしょうよ」菖蒲はそれを聞いてゾッとしたが、覚悟を決めたように真司の注意が逸れた隙を見て、もう片方の足も柵の外へと出した。彼女は声を殺して泣いた。「葵さん、安心してください。もうあなたと菜々子さんの目障りにはなりま
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