「高田様、こちらが献体申込書になります。こちらにご署名をお願いします」高田菜々子(たかだ ななこ)は、差し出された薄い紙をじっと見つめ、ペンを握る手が、かすかに震えている。その様子に気づいた担当者が、気を利かせて言った。「献体は大きなご決断です。今ここで取りやめても構いませんし、一度帰ってご家族とご相談されてからでも……」相手が逃げ道を用意してくれていることくらい、菜々子にも分かっていた。それでも彼女は微笑み、書類の右下に名前を書き込んだ。「書けました」担当者は感謝の気持ちを込めて告げた。「高田様、医療へのご厚意に心より感謝申し上げます。こちらが献体登録証になります。どうぞお受け取りください」……菜々子が帰宅しても、そこには誰もいなかった。テーブルには今朝出かける前に準備した朝食が、手つかずのまま残されている。スマホには一通の未読メッセージがあった。【今夜は仕事が遅くなる。帰れない】菜々子は苦笑いを浮かべた。最近、夫·高田真司(たかだ しんじ)の「残業」はあまりに頻繁だ。本当は、また奥山菖蒲(おくやま あやめ)と一緒にいることくらい、彼女にはお見通しだった。菖蒲は真司の秘書で、心に病を抱えている。彼に想いを寄せながらも、不倫を受け入れられず、その間で苦しんだ結果、うつ病になってしまったのだ。真司は責任をすべて自分で背負い込むようになった。「菖蒲がこうなったのは、俺たちが結婚してるせいだ」菜々子がそう言われたのは、一度や二度ではない。菖蒲への罪悪感から、彼は以前にも増して彼女の世話を焼き、何でも彼女の言うことを聞くようになった。やがて積み重なった想いは形を変え、憐れみはいつしか愛へと変わっていった。二人の関係がいつ始まったのか、菜々子には分からない。ただ一つ確かなのは、かつて自分をあれほど愛してくれた男でさえ、いつか別の誰かへと心を移すということだった。菜々子は暇を持て余してソファに寝転がり、ぼんやりとスマホをいじる。検索などしなくても、昨夜の出来事が嫌でも流れてくる。動画を開くと、白いドレスをまとった菖蒲が、H市で一番高いビルの屋上に立っていた。夜空を背に、その白いドレスは異様なほど際立っている。周囲は騒然とし、人々の視線が彼女に集まっていた。「何があったんだ
Read more