分享

第2話

作者: ゴブリン
真司の表情が、たちまち険しくなった。

スマホを握りしめ、迷った末に電話に出た。「菖蒲、どうした?」

菖蒲。

その名前を聞いた菜々子の、パンをちぎる手が止まる。

電話の向こうの声を聞くうちに、真司の口調がとろけるように優しくなる。

「ああ……雨には濡れたけど、風邪はひいてないよ。安心して。

分かった。言う通りにする。すぐに着替えるから。

俺のことは心配しなくていい。俺がいない間も、自分のことを大切にするんだぞ?

あのパンが好きなら、これからは毎日買ってきてあげるよ」

菜々子には、手に持ったパンまで苦く感じられた。

通話が切れた瞬間、真司の表情からさっきの柔らかさは消え、不機嫌そうな顔に戻る。

彼は沈んだ声で言った。「昨夜も菖蒲の症状が出たんだ。雨が降ると発作が起きるって、知ってるだろ」

菜々子が問いかけた。「このパン、二つ買ってきたのね」

冷めていた理由が分かった。

先に彼女に届け、その後で持ち帰ったのだ。

真司は否定しなかった。

菜々子は淡々と言った。「彼女は大丈夫?」

真司はやっと口を開いた。「間に合ったから、大事には至ってない。ただ精神が不安定で、いつまた発作が起きてもおかしくないんだ」

「じゃあ、これからも、ずっと彼女のそばにいるつもり?」

「……ああ」

菜々子は続けて問いた。「真司、あなた医者なの?彼女のうつ病を治せるとでも言うの?」

真司の声が一気に荒くなった。「何度言わせれば分かる!彼女の病気はお前と結婚したせいなんだ!俺には責任がある!」

「じゃあ私は?私はあなたの妻なのよ。私に対する責任はどうなるの?」

真司は信じられないものを見るように菜々子を見た。「お前は健康だろ?彼女は病気なんだ。比べる話じゃない」

健康……

「健康であることが、私の罪なのね」

「菜々子、お前はどうしてそんなふうになった」

「どんなふうに?」

「冷たくて、自分勝手で、人の痛みも分からない女にだ!」

菜々子は冷めきった瞳で真司を見つめ、深く息を吸い込んだ。「もし、私が健康じゃなくなったら、どうする?」

真司は眉をひそめた。「何を言い出すんだ。さっきから口答えして、ずいぶん元気そうじゃないか」

菜々子はふっと笑い、うつむいて目を閉じた。

胸の奥で、何かがゆっくりと崩れていく感覚だった。

真司は言った。「菜々子、もうワガママはやめてくれ。昨夜はただ、彼女を救いに行っただけだ」

菜々子は微笑み、顔を上げて彼の目を見つめた。「命を救うのに、キスまで必要なの?」

図星を突かれた真司が、声を荒らげた。「彼女は発作だったんだ!屋上の縁に立ってた!もし拒絶して飛び降りたらどうする!」

菜々子も立ち上がり言い返す。「抱きとめていたはずでしょ!無理やり引きずればいいじゃない!なんでキスなんてしたのよ!」

真司は冷ややかに言い放つ。「菜々子、話にならないな!」

彼は部屋を出ていった。ドアが激しく叩き付けられ、家全体が揺れたように響く。

菜々子の胃に、鋭い痛みが走る。

菜々子はトイレに駆け込み、全てを吐き出した。

便器の中に混じった血を見て、菜々子は苦笑した。

胃癌、末期。

もう1ヶ月も持たない。

この間、何度も検査を受け、治療に耐え、抜け毛もひどかった。

それなのに、夫は——

ちっとも気づいていなかった。

在 APP 繼續免費閱讀本書
掃碼下載 APP

最新章節

  • 愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える   第21話

    智也と菜々子は目配せをし、それぞれ分担して、子供を市内の大きな病院へ連れていく準備をした。菜々子は子供の母親を落ち着かせ、一緒に病院へ向かうよう説得した。智也は車を回し、大晦日の山道を猛スピードで走り抜け、深夜ギリギリにH市医科大学附属病院に到着した。二人とも、まさかこんな形でこの病院に戻ってくることになるとは思っていなかった。しかし、立ち止まって感傷に浸る余裕もなかった。子供はすぐに救急治療室へと運ばれた。智也はこの病院の医療関係者と顔馴染みのため、パニック状態の母親に付き添い、菜々子が事務的な手続きや支払いを済ませることにした。すべての手続きを終えて救急治療室へ戻ろうとしたとき、懐かしい人影が背後から声をかけてきた。葵は目を潤ませてじっと彼女を見つめた。「奥様……本当に、あなたなのですか?生きておられたのですね」菜々子は昔の温かさを思い出し、胸が痛んだ。「私よ。でも長い話になるわ。今はもう菜々子として生きてはいないの」「奥様。当時は本当におつらかったですね。あの時、誤解に乗じて逃げ出せたのは不幸中の幸いです」葵は涙を拭き、震える声でその後の出来事、特に真司の近況を話し始めた。「旦那様は療養所から戻られてからしばらくして、また病気が悪化しました。今夜は睡眠薬を大量に飲み、あなたのいた去年に戻りたいと遺書を残していました。幸い介護に慣れていたおかげで異変に気付き、すぐさま病院へ担ぎ込みました」葵は昔より良い給料をもらっているが、心労は倍増していた。このままでは自分が潰れてしまうのではと日々感じている。菜々子は俯いて尋ねた。「彼の状態は?」「命に別状はありません。奥様、どうか一度、会いに行ってあげられませんか?あなたのお顔を見れば、正気に戻るかもしれません」菜々子は迷わず首を振った。「今の彼に必要なのは私ではなく治療よ。私が死んだことにしておいてちょうだい。それと、もう私をそう呼ぶのはやめて。彼とは二度と縁はないの」時間がすべてを癒やす。いつか彼も、立ち直る日が来ると信じている。彼女は救急治療室の子供のことが心配でその場を去った。世の中に真司という人間がいることなど、忘れかけていた。病院の扉が開き、医師が出てきた。マスクを外すと医師は告げた。「命に別状はありません。しかし、今後も経過観察が必要なた

  • 愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える   第20話

    彼女は自分のことを、守られるべき病人とは考えていなかった。やる気満々で智也と共に長旅を経て山間の病院に赴任し、到着してわずか数日で、仕事に打ち込んでいた。こちらの医療事情は、彼らが想像していた以上に過酷だった。周辺の村に住む人々にとって、この小さな二階建ての古い病院だけが命の綱だった。それなのに、医師は絶望的なほど不足していた。現場を守っているのは二人のほか、数人のベテラン医師と、町から実習に来ている不慣れな看護師たちだけ。菜々子はすぐにその土地の暮らしに馴染んだ。智也との連携も予想以上にうまくいき、半年も経たないうちに、彼女の確かな医療技術と優しい人柄は村人からすっかり評判になっていた。村の若者のほとんどは職を求めて都会へ出てしまい、山に残っているのは高齢者か、小さな子供を育てる母親、あるいは身寄りのない子供たちだけだった。菜々子は彼らの苦境を自分のことのように感じ、いつも力になろうとしていた。いつしか子供たちは彼女を「菜々子おばさん」と慕うようになり、年上の女性たちは彼女を「菜々子さん」と呼んで親しく交流するようになっていた。智也はそのことを知り、冗談めかしてこう言った。「一気に『家族』が増えたね。先輩として鼻が高いよ」菜々子は微笑みながら答えた。「そんなこと言わないで。智也は男だし、少し配慮が必要でしょ。女性や子供たちの対応は私に任せて、お年寄りのケアをお願いね」気づけば、二人の距離はかつて学生時代に指導医の下で学んでいた頃よりも、ずっと親密になっていた。智也はその勢いで誘ってみた。「明日は大晦日だ。寮で過ごそうかと思ってたんだけど、院長先生が家に招待してくれたんだ。一緒にどう?」院長は彼らの上司ではあるが、実際はここを一番長く守り続けているベテランの医師だ。彼らが来るまでは一人で村人の健康を支え続けており、家族を町に出してなお一人でここで頑張っている。二人は院長のその献身と誠実さを心から尊敬しており、院長の正月を寂しいものにしたくないという思いから、顔を出すことにした。小さな村の、3人だけの年越し祝い。院長は目の前のお似合いな二人の姿を見て、てっきりカップルだと勘違いした。「若いうちは告白して、段階を踏まないとね。今夜は暇だから、二人の間を取り持ってあげようか?」智也は言葉を詰まらせ、照明の下で、耳

  • 愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える   第19話

    「気にしないで。これも私の務めだから。それに――」智也は少し間を置いて続けた。「私たちは医科大学で同期だから、助け合うのは当然だし、今回、完璧に成功させられる自信があまりなかったから、君の信頼に、感謝している」彼の物言いは丁寧で穏やかだった。だが、その視線には、隠しきれない想いが滲んでいた。菜々子はそれに気づかず、生死の境を越えたばかりの彼女には、そこまで気を配る余裕がなかった。「挑戦してくれただけで十分よ、でないと、今頃私は研究用の献体になってたんだから」彼女は小さく微笑んで言った。彼女は本気で同意書にサインしていたし、命を捨てる覚悟も決めていた。だが皮肉にも、智也に命を救われ、胃の大部分に広がっていた病巣を切除してもらうことになったのだ。健康への影響は免れない。それでも、生きているだけで御の字だ。今、彼女がこうして生身の姿でここに立っていることは奇跡だった。智也は静かに言った。「恩人なんて思わないでくれ。大学時代のことを覚えているか?君は誰からも一目置かれる将来有望な天才だった。もし君が家庭に専念なんてしなかったら、今頃私よりずっと素晴らしい医者になっていたはずだ」「でも、現実は違うから。私自身が選んだ過ちの結末だし、報いを受けるのは当然よ」菜々子の顔色はまだ優れないが、その瞳には、確かな光が戻りつつあった。二人は言葉を交わしながら歩き、真司と関わりが深かったこの地から、静かに離れていった。智也は、彼女に無駄な負担をかけさせまいと病院のすぐそばに車を止めた。彼女が助手席に落ち着くのを見届けてから、優しい声で告げた。「まずは休むことに専念して。献体登録室や医科大学関連のことも、全部こっちで片づけてあるから」「ありがとう」自分自身も医者である菜々子は、この厄介な事態を丸く収めるために、彼がどれほどの苦労をしたのか理解できた。ましてや主治医として診る傍らなのだから。「感謝してもしきれないけれど、今はこれといって返せるものもなくて。早く前の仕事に戻って手伝いたいけど、腕が落ちててしばらくは無理そう。でも、これから、退屈しなくてすみそうね」未来への前向きな展望を聞いた智也の表情が明るくなった。彼自身も嬉しそうに言った。「よかった!君がやる気になってくれるなら、すぐに現場に復帰できるはずだ。将来、君の指示で私が下働

  • 愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える   第18話

    あたりは一瞬にして、時が止まったかのように静まり返った。真司は自ら沈黙を破り、葵に眉をひそめながら言った。「葵さん、顔色がひどいぞ?」葵は驚いたように首を横に振った。「いいえ、旦那様……それより、なんのことですか?」真司は訝しげに問い返す。「菜々子のことだよ。もう何日も顔を見ていないが、友人と出かけると言っていただろ?なぜまだ戻らない?」彼はどうやら、菜々子がすでにこの世を去ったことを忘れているようだった。葵の背筋に冷たいものが走った。とっさに言葉を繕い、その場をやり過ごし、すぐに、知り合いの医師へ連絡を入れた。医師は、真司と菜々子に起きた事情を以前から知っており、ある程度の覚悟を持って屋敷に到着した。しかし実際に診察してみると、医師の表情はさらに険しくなる。ひと通り会話を終えたあと、彼はさりげなく葵に合図した。葵はすぐに医師と共に廊下へ出た。そこで医師は言った。「専門医ではないので断定はできませんが、高田様はうつ状態に加えて、幻覚や幻聴の症状が出ている可能性があります」「確かに最近、記憶が曖昧で……奥様が出かけているだけだと思い込んだり、名前を呼ぶ声が聞こえると言い出したり……正直、怖くて……どうしたらいいでしょうか?」真司はかつて、菖蒲を回復させるためにうつ状態の治療について詳しく調べていたが、今、その自分が同じ状態に陥ったことで、なす術もなかった。医師に有効な打開策はなく、せめてもの情けとして葵に助言を残した。「現実逃避している今、本人にとってそれがある種、生存の支えになっているのでしょう。ただ、いざ正気を取り戻した時の反動が心配です。可能な限りご親族に連絡を取り、指示を仰いでください。専門病院へ入院させるか、しっかりとしたセラピーを受けることが何よりです」こうなっては、もうできる限りのことをして、あとは運命に委ねるしかなかった。葵は何度も頷いた。しかし彼女ができることは限られている。もし真司に彼に代わって判断を下せる親族が一人でもいたのなら、わざわざ雇われの身の自分が出る幕などないのだから。真司は何も知らないままで、医師をただの来客のように見送った。「残念だ、菜々子は出かけていてね。いれば、もっと話も弾んだのに」菜々子は医科大学に通っていた。もし結婚して家庭に入るという道を選ばなければ、

  • 愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える   第17話

    葵は現実を受け入れられず、その場に崩れ落ちて声を上げて泣いた。「奥様があまりに可哀想です!」真司は心を引き裂かれるような思いで、その横を通り過ぎ、リビングへと向かった。日中の光は夜より明るく、見慣れたはずの室内に、菜々子の痕跡をくっきりと浮かび上がらせる。ソファカバーとカーテンは菜々子と二人で選んだもの。廊下の風鈴、小さな木彫りの置物。並べられた、いくつもの写真……どれも、ささやかな記憶の欠片だった。いつから、こうなってしまったのか。ただ、過ぎ去った時間の重さだけが胸に残る。風鈴が今にも落ちそうになっているのを見て、手を伸ばした。しかし丸一日以上寝ていない疲労が重なり、糸を結び直す前に、激しいめまいが彼を襲った。カラン――真司は風鈴が落ちる音と共に倒れた。風鈴をキャッチしようと手を出したが、身体は思うように動かない。意識が遠のく中、床に散らばった鈴と玉の合間から、小さな写真が目に入った。菜々子と一緒にこの家に越してきたとき、初めて撮った記念写真だった。真司は葵の手によって病院に運ばれた。命に別条はなかったが、医師の診断は深刻なものだった。「極度の疲労と強い精神的ショックによる気絶です。しばらく自宅で静養するように」口で言うのは簡単だが、今の彼にとっては困難だった。家に帰ってから症状は改善せず、むしろ、ゆっくりと壊れていくようだった。かつて仕事が何よりも優先だった真司は、自ら辞職を選び、手元に残したのは、株と配当だけだった。突然のことで社内はパニック状態に陥った。何かあったのではないかと、経営陣が見舞いに訪れたが、帰る頃には皆、言葉を失っていた。会社や市場の問題ではなく、真司が、もう戻れない状態になっていたのだ。社員の間でこっそりとこんな話が囁かれた。「高田社長はもう終わりね。見に行って驚いたわ。別人のように痩せ細って、無精髭だらけで……あんな姿、想像もしてなかった」「それよりさ、手首に何本も傷があったらしいよ。明らかに自傷だって。今回の件で、経営陣も大きく入れ替わるだろうね」噂はすぐに広がった。社長の座を狙う人間たちは、互いに敵を潰そうと動き出した。やがて、真司という存在は少しずつ薄れていった。取締役会の名前は残っても、二度と会議に姿を見せることはないと誰もが分かっていた。こうして彼は、かつて生涯を

  • 愛人は偽うつ病。末期ガンの私は献体して消える   第16話

    菖蒲はなおも食い下がった。「証拠はあるの?大勢で私一人を陥れようなんて、口裏を合わせているだけでしょう!」彼女は緊張で体が勝手に震えていた。せめて主犯の罪だけは免れようと、必死に言い訳を考えていた。だが、容疑者たちは皆、別々に尋問されている。一人の証言ならまだしも、これだけ一致していれば覆しようがない。「俺、こっそり別のスマホで録音してた。こいつが全部指示したんだ。最初は芝居だって話だった。本当の拉致なんて聞いてない。いきなり人質を押し付けられて、怖くないわけないだろ。俺たち、ハメられたんだ……」口々に並べられる言い分。白を黒にするその厚かましさは、菖蒲と大差なかった。真司は冷めた目でそれを眺め、もう菖蒲を自分の世界から完全に排除しようと心に決め、付き添っていた警察官に淡々と尋ねる。「帰ってもいいか?」「ええ、構いませんよ」警察官は彼に供述書へのサインだけを求めた。真司が立ち去ろうとすると、菖蒲が叫びながら必死に追いすがろうとする。「真司!私を見捨てるつもりなの!」だが、すぐに警察官に取り押さえられた。真司は足取りを乱すこともなく、二度と振り返らずに去った。捜査は今後も続く。菖蒲は共犯者たちから主犯格として指名されている以上、釈放の望みはない。裁判も、収監も、まだ先の話だ。ただひとつ確かなのは、しばらく自由の身にはなれない、ということだけだった。肩の荷は降りたはずだが、真司の胸はかつてないほど沈んでいた。彼は何かを根こそぎ奪われたような感覚で帰宅した。気づけば、どうやって帰ってきたのかすら覚えていない。屋敷は暗く、静まり返っていた。葵もすでに部屋に引き上げている。彼は力なくソファに腰を下ろした。広すぎる空間に、自分ひとりだけが取り残されている。すべてに見放されたような、耐え難い孤独感が襲ってきた。「菜々子……」低く呟いた名前を呼ぶ相手は、もういない。菜々子がいなくなったのはあまりに唐突だった。だからどこかで、まだ帰ってくるのではないかと、錯覚してしまう。だが、ポケットに入れていた証明書が、それは叶わぬ夢だと容赦なく突きつけてきた。真司は照明を点け、菜々子が最後に残したものを手に取った。何度も見返すうちに、彼女の名前の上に、ぽたりと涙が落ちる。慌てて拭おうとする、インクはにじみ、名

更多章節
探索並免費閱讀 優質小說
GoodNovel APP 免費暢讀海量優秀小說,下載喜歡的書籍,隨時隨地閱讀。
在 APP 免費閱讀書籍
掃碼在 APP 閱讀
DMCA.com Protection Status