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43.戻れる場所

Penulis: 中岡 始
last update Tanggal publikasi: 2026-06-01 16:45:13

朝の光が、ほんの少しだけやわらかくなっていた。

それでも外へ出れば、頬に触れる空気はまだ冷たい。路肩には溶け残った雪が灰色の塊みたいに寄せられ、その脇を雪解けの水が細く流れていた。夜のあいだに凍っていたらしい水たまりが、踏むと薄い膜を割るように鈍く鳴る。空は白く、低い。春と呼ぶにはまだ遠い色だったが、真冬の硬さだけはもう少しほどけている。

支社へ向かう道を歩きながら、陸斗はコートのポケットの中で指先を丸めた。

年が明けてからこっち、仕事の流れは少しずつ落ち着きを取り戻していた。朝比奈フーズの案件はまだ完全に着地したわけではないが、少なくとも今は、崩れるかどうかだけを見張っていた頃とは違う。毎日どこかで細かい調整は続いている。それでも、前みたいに今日一日で全部が壊れるかもしれない、という張りつめ方ではない。

そのぶん、自分の中に残っているものの輪郭が、前より見えやすくなってしまった。

支社の自動ドアが開くと、暖房の少し乾いた空気と、コピー機の熱、それに誰かが淹れたばかりのコーヒーの匂いが混ざって流れてきた。電話の

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  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   51.名前のある夜

    笑いの余韻は、意外なくらい長く部屋に残った。さっきまでクッションを抱えてソファの端へ逃げていた陸斗は、ようやく少しだけ身体の力を抜いたものの、頬の熱だけはまだ引かないままだった。征司の前では隠しようがないと分かっていても、今さら平然とした顔に戻ることはできない。食後のテーブルの上には空いたグラスと、つまみの袋と、途中で食べるのをやめたナッツの小皿が置きっぱなしになっている。テレビの音はいつの間にか小さくなり、窓の隙間から入る四月の夜気が、火照った肌にだけやさしく触れていた。征司はソファにもたれたまま、まだ少し笑みの名残を口元に残している。その顔を見るだけで、陸斗はまた恨めしくなる。「……そんなに面白いですか」「面白いというより」「より、何ですか」「可愛い」あまりにも迷いなく言われて、陸斗は反射でクッションを抱き直した。「部長」「ん」「そういうの、急に言わないでください」「急じゃないだろ」「急です。十分急です」征司はそこでまた小さく笑ったが、さっきみたいにからかう色はもう薄い。その笑いが静かに落ちたあと、部屋の空気も少しずつ深くなっていくのが分かった。春の夜は、冬みたいに鋭くない。けれどやわらかいだけでもなくて、何かを隠すには少し冷たい。笑ったあとの沈黙は重くないのに、ふとした拍子に相手の視線だけがくっきり見える。陸斗はクッションを膝に置いたまま、テーブルの端に視線を落とした。気まずいわけではない。ただ、さっきの「忘れるわけないだろ」が、思った以上に深く残っている。あの夜は、忘れられるような夜ではなかった。その言葉の意味を、胸の奥がまだゆっくり受け取り続けていた。何か言ったほうがいいのかもしれない。そう思うのに、下手なことを言えば今のやわらかい静けさを壊しそうで、陸斗は口を開けずにいた。沈黙は続く。けれど以前の自分なら耐えられなかったはずのその時間が、今はただ少し熱を持って流れていくだけだった。征司がグラスをテーブルに置く。氷が小さく音

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   50.忘れてなかったんですか

    食べ終えたあとの部屋は、少しだけ油断した空気をしていた。ローテーブルの上には空になった惣菜の容器と、食べかけのナッツ、小皿に残った数枚のクラッカー。陸斗の前には半分ほど減った缶チューハイ、征司の手元には氷の溶けかけたグラスがある。暖房の熱はやわらかく、窓を少しだけ開けているせいで、春の夜気が薄く混じっていた。四月の風は冬みたいに刺さらない。けれど、完全にぬるんだわけでもなくて、火照った頬にちょうどいい冷たさだった。テレビはついているが、音は低い。画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を壊さない。会話は途切れ途切れで、それでも気まずさはない。食後の緩んだ沈黙が、もう二人のあいだでは沈黙として落ちないところまで来ていた。陸斗はソファの背にもたれ、足を少し崩した。征司の部屋着の袖が、グラスを持ち上げるたびに手首の骨を浮かせる。そういう何でもないものが視界に入るのも、今では珍しくない。珍しくないはずなのに、たまにふいに意識してしまうのは、まだ完全に慣れきってはいないからだろう。「部長」何となく呼ぶと、征司はテレビから目を離さずに「ん」と返した。「冷蔵庫にプリンありますよ」「さっき見た」「食べないんですか」「お前が買ってきたんだろ。お前が食え」「俺、もう一個食べたら太ります」「そんなこと気にするのか」「しますよ、一応」征司がそこで初めて視線を向けてきた。その目が、わずかに面白がっているように見えて、陸斗はマグカップの縁を指でなぞった。「部長こそ、そういうの気にしなさそうですよね」「必要なら気にする」「必要ないってことですか」「今はな」淡々と返される。そういうところがずるい。言葉は少ないのに、言われたほうだけが少し落ち着かなくなる。陸斗は小さく口を尖らせてから、わざとらしくではない程度に身体を寄せた。テーブルの上のプリンのスプーンを取るふりをして、征司の膝に触れそうなくらいの位置まで近づく。最近の自分は、ときどきこういうことをする。征司相手にだけ出る、少しだけ

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   49.部長と呼ぶ夜

    食べ終えたあとの部屋は、さっきまでより少しだけ静かだった。テーブルの上には、使い終えた小皿と、半分ほど残った缶ビール、デザートのプリンの空き容器。温め直した総菜の匂いはもう薄れて、代わりに洗剤と、少しぬるくなった室内の空気が混ざっている。テレビはついていたが音量は低く、画面の中で誰かが笑っていても、その笑い声は部屋の空気を乱すほどではなかった。陸斗は皿を重ね、キッチンへ持って行く。征司はグラスを一つ持って後ろに続き、流しの脇へ置いた。「部長、これ洗います」「いい。あとでまとめる」「今やったほうが楽じゃないですか」「お前、毎回それ言うな」「毎回、結局あとで面倒くさそうにしてるからです」征司は短く息だけで笑って、「うるさい」と言った。その言い方が少しだけ柔らかかったから、陸斗もつられて笑う。こういう何でもないやり取りが、もう珍しいものではなくなっている。初めてこの部屋で夜を過ごした頃なら、洗い物をするかどうかでこんなふうに口を交わす余裕はなかった。今は違う。どちらがどこまで手を出すかも、どこで引くかも、わざわざ相談しなくても何となく分かる。結局、皿は流しに浸けるだけにして、二人はリビングへ戻った。征司が冷蔵庫から新しいビールを出し、陸斗は自分用のマグカップに湯を注ぐ。夜も更けてきたので、陸斗は途中から温かいものが飲みたくなることが多い。征司はそれを知っていて、何も言わず棚の上の青いマグカップを取った。最初の頃は、その自然さだけでいちいち胸がざわついていたのに、今ではそのざわつきの上に、少しだけ落ち着きが乗っている。ソファの片側へ陸斗が座る。征司は肘掛けに片肘を預けるようにして、少し距離を空けて座った。その距離も、最近はもう説明がいらなかった。近すぎればそれで落ち着かないし、離れすぎれば何となく物足りない。その真ん中が、二人の中にできている。「部長、今日、朝比奈さんからまた追加のメール来てました」陸斗がマグカップを両手で持ちながら言うと、征司はビールをひと口飲んでから視線だけを向けた。「見た。来週の試食会、向こうの製造主任も入るらしいな」

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   48.春の週末、部長の部屋

    四月の夜は、冬の名残をまだ少しだけ持っていた。駅前の灯りはやわらかく、人の流れにももう年末や異動前の尖った気配はない。けれど風が吹くと、ジャケットの裾から入る空気がひやりとして、完全に春へ切り替わったわけではないと分かる。その中途半端さが、どこか今の自分たちに似ているようで、陸斗は歩きながらひとりで少しだけ苦笑した。手にはコンビニと駅前のスーパーで買った袋が下がっている。缶ビールが二本、惣菜がいくつかと、征司が好きだと言っていた少し固めのプリン。高級な手土産でも何でもない。ただ、仕事帰りではない週末の夜に、部屋で食べるものを買っていく。それだけのことなのに、こうして目的地があることが、まだ少しだけくすぐったい。一度きりなら、こんなふうにはならなかっただろう。何を持って行くかなんて考えもしない。行った先に何があるかも、朝になったらどうなるかも、気にしないで済む夜だった。けれど今は違う。今夜の先に明日があることを知っている。次の週末も、その次も、会おうと思えば会えることを、もう知っている。だから足取りは以前より落ち着いているのに、部屋へ向かう最後の曲がり角に差しかかるたび、胸の奥だけが少しだけ落ち着かなくなる。自分でも呆れる。もう何度も来ているはずなのに。オートロックを抜け、エレベーターを降りる。廊下は静かで、どの部屋の前も変わりない夜の気配しかないのに、この先だけが自分に関わる場所なのだと思うと、無意味に背筋が伸びた。インターホンを押して、ほどなくして開いたドアの向こうに征司がいる。部屋着の上に薄いカーディガンを羽織っただけの姿だった。ネクタイも革靴もないぶん、会社で見るよりいくらか柔らかく見えるのに、本人はその自覚がまるでなさそうな顔をしている。「遅かったな」第一声はそれだった。特別に甘くもなく、咎めるほどでもない、いつもの低い声。「スーパー寄ったので」陸斗が袋を少し持ち上げて見せると、征司はそれを一瞥してからドアを大きく開けた。「寒かったか」「外、まだちょっと冷えます」「入れ」その自然さに、陸斗はまた少しだ

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   47.残る、選ぶ

    朝の空気はまだ冷たかった。三月の終わりだというのに、吐く息は薄く白く、路肩に寄せられた雪はまだ完全には消えていない。けれど真冬の白さとは違っていた。雪解けの水が縁石に沿って細く流れ、夜のあいだに凍りかけたそれが、朝の弱い光の中で少しずつほどけていく。空も、冬の底で見上げていた重い灰色ではなく、どこか奥のほうで色を戻しかけている。春はまだ遠い。けれど、冬だけに閉じていた時間は終わりに向かっている。陸斗はコートの襟を指で整え、しばらく立ち止まって空を見た。胸の奥にあった迷いは、ここ数日で何度も形を変えた。欲しかったはずのものを前にして足が止まったことも、自分でも信じがたかった。以前の自分なら、考えるまでもなかったはずだ。本社へ戻る。東京へ戻る。名誉を取り返す。失敗を上書きする。そういう言葉だけで、十分に救われたと思えただろう。それでも今の自分は、そこへ手を伸ばせない。伸ばせない理由を、最初は征司ひとりに押しつけかけた。あの人がいるから迷うのだと、そう言ってしまえれば楽だった。けれど違うと、ここまでの時間が何度も思い知らせてきた。支社の机。冬の朝のコピー機の音。水沢の足音。斎賀の短い確認。久住の大きな声。朝比奈フーズの工場の匂い。冷凍倉庫の白い息。雪の中を走る便の遅れ。電話越しの、現場が静かに嫌がる温度。そういうものをひとつひとつ知ってしまったあとでは、戻ることはもう、ただ「上」へ戻ることではなくなっていた。今の自分が、どこで立ちたいのか。問うべきはそれだけだと、ようやく腹の底で分かり始めている。陸斗は歩き出した。靴底が薄く濡れた舗道を踏む。まだ刺すような冷たさの残る朝だったが、今日はそれが不思議と嫌ではなかった。決めなければならないことがある朝の空気は、妙に澄んでいる。支社へ入ると、いつもの音が迎えた。コピー機が一度低く唸り、誰かの引いた椅子の脚が床を擦る。水沢がファイルを抱えてカウンターの向こうを横切り、久住の「その便、先に押さえといてくれ」という少し大きめの声が奥から飛ぶ。斎賀が電話口で短く要件だけを切っている。暖房の名残の乾いた空気の中で、もう四月を前にした慌ただしさが

  • 地方支社で、元セフレの部下になりました   46.いてほしい

    夜の支社は、昼間よりずっと広く見えた。日中は誰かの声や電話やコピー機の音で埋まっていた空間が、定時を過ぎると急に余白ばかりになる。暖房の残り香と、長く使われた紙の乾いた匂いだけが、机と机のあいだに薄く残っていた。窓の外はもう暗い。駐車場の端に寄せられた雪の山は黒く沈み、その足元で雪解けの水だけが街灯を拾って鈍く光っている。春は近いはずだった。天気予報はそう言い、日中の光も少し前よりやわらかくなっていた。けれど夜になると、空気はまだ容赦なく冷たい。吐く息が白く見えるほどではないが、指先に触れる風は、冬の終わりを簡単には信じさせてくれなかった。陸斗は自席の画面を落として、ゆっくりと息を吐いた。この数日、頭の中のどこかにずっと、あの夜の会話が引っかかっている。選ぶのはお前だ。そう言われた瞬間の痛みは、まだきれいに抜けていない。少しでも引き止めてくれたら楽だった。残れと言ってくれたら、その言葉を言い訳にできた。けれど征司はそうしなかった。今の自分なら、自分で選べるはずだと、逃げ道ごと差し出さずに返してきた。それが信頼だと、頭では分かっている。分かっているからこそ、痛い。誰かのせいにできなくなった選択は、思っていたより重かった。仕事中はそれを忘れていられる。資料を見ていればいい。電話を取ればいい。朝比奈フーズの確認事項を詰めていれば、余計なことを考えずに済む。だが、人が減り、音が減り、夜が深くなると、どうしてもそこへ戻される。自分は、どこで立ちたいのか。戻れる場所がある。それは本気で魅力的だ。昔の自分なら、考えるまでもなかった。なのに今は、その魅力と同じだけ、この支社の机や、現場の声や、雪の中で組み直してきた仕事の手触りが胸に残っている。そして、その中心に征司がいることも、もう見ないふりができない。鞄へ手を伸ばしかけたとき、部長席のほうで椅子が動く音がした。顔を上げると、征司が立っていた。ジャケットを椅子の背へ掛け、袖口を一度だけ直す。その何でもない所作に、陸斗の胸がまた少しだけ狭くなる。最近はこういう些細な動きほど、目に入ってしまう

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