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All Chapters of 偶然を装って: Chapter 11 - Chapter 20

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第十一話 変わったって意味だよ

 水曜日の昼休み。 社員食堂の隅のテーブルで、紡はカレーの皿の前にトレイを置いたまま、しばらく動けずにいた。 疲れが溜まっている、と自分でわかっていた。 blancの専任担当にアサインされてから、案件のスピードはまるで違っていた。これまでやってきた仕事を振り返ると、ずいぶん牧歌的に思えてくる。判断の量もスピードも、責任の重さも、すべてがひとつ上のレイヤーにある。そこを毎日、全力疾走しているような感覚だった。「はあ……」 右手にスプーンを握ったまま、ため息が漏れた。皿の上のカレーは、まだひと口も減っていない。食欲がないわけではなかった。腹は空いている。空いているのに、スプーンを動かす手のほうが動かない。「はあ……」 もう一度、同じため息をついてしまった。スプーンの背に映っている自分の顔が、歪んでいた。「紡、食わねえのかよ」 向かいの席にトレイが置かれた音で、紡は気づいた。顔を上げると、水瀬が腰を下ろすところだった。「いや、食べる」「顔色悪いな、お前」「そう?」「ま、案件動いてるのは聞いてる。とりあえず食えよ」「うん」 水瀬のトレイには、野菜中心のヘルシー定食が乗っていた。冷奴と、根菜の煮物と、玄米のご飯と、わかめの味噌汁。それで足りるのかよ、と紡は思った。けれど、その軽口を口にする元気は、もう、ほとんど残っていなかった。 水瀬は両手を合わせて「いただきます」と短く言うと、淡々と料理を口に運びはじめた。動きに無駄がない。食べ方ひとつにも、性格は出るのだな、と紡はぼんやり眺めた。 紡もスプーンを動かして、ようやくカレーをひと口、口に運んだ。スパイスの香りが鼻に抜ける。空腹の胃にしみていく感覚で、ようやく自分が腹を空かせていたことを、思い出した。 しばらく黙って食べていた水瀬が、ふと箸を止めた。 紡の顔を、まっすぐに見ている。 なにかついているのか、と思って、紡は口元を指でぬぐった。なにもついていな
last updateLast Updated : 2026-05-11
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第十二話 まだ引きずってんのか

 金曜の夜、ようやく週末が来た。 blancのプロジェクトは佳境に差しかかっていて、ここ数週間、忙しさはずっと右肩上がりだった。疲れが、抜けない。 プロジェクトが本格始動したころは、なにかと理由をつけてトキワ文具へ足を運んでいた。週に一度の定例会議を設けたあとも、それだけでは足りず、「こちらの確認のため」と称して何度か訪問した。 言い訳の体裁は仕事だった。中身は仕事ではなかった。週に一度、あるいはそれ以上の頻度で、業務の中で紡の顔を見られる。それだけで朔也は、十年間ずっと飢えていたなにかを、一さじずつ口に運んでいるような気がしていた。 紡は、相変わらずだった。 いや、相変わらずではない。 高校のころより髪は短く、流し方は大人びている。それでも、おでこの形、感情がそのまま動く眉、薄い唇のかたち。十年経ってもそこだけは、朔也の記憶のなかと寸分違わなかった。 手を伸ばせば届く距離にいる。 会議室の長机を挟んで、その正面に座っている。資料を差しだすふりをして、ペンを取るふりをして、何度も手が伸びかけた。そのたびに、いまは仕事中だ、と朔也は自分に言い聞かせて、手を引いた。 好きだ。 吐露したい。けれど、口にした瞬間、いまの関係は壊れる。十年前、口に出さなかったから、ぎりぎりのところで「同級生」という関係が残った。今度はその「仕事の取引先」が、口に出した瞬間、消える。 壊れるくらいなら、なにも言わないほうがいい。 十年前と、ひとつも変わらない結論を、朔也は今夜も、自分のなかで確かめ直していた。 二時間ほど残業をして、デスクを片付けていると、ちょうど篠原もコートを羽織っていた。「有馬、いま帰り?」「ああ」「ちょうどいい。飯食って帰らねえ?」「悪くないな。最近、まともに飯を食ってない」「そんなに忙しいのかよ」「まあな」 会社近くの定食屋へ向かった。カウンターだけのこぢんまりした店で、料理は店主がひとりで作っている。朔也も篠原も、別案件の打ち上げで何度か来た店だっ
last updateLast Updated : 2026-05-12
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第十三話 黒木の距離

 ようやく金曜日になった。 なんで、こんなに忙しいんだろう。 紡は資料の最後のページに承認のサインを書き終えて、大きなため息をついた。 プロジェクトが佳境に入っているのだから、忙しいのは当たり前だ。初めての専任アサインで気が張っているのもある。とはいえ、今週は特に疲れが溜まりすぎた気がした。明日は土曜日だ。一日中家から出ないで休もう。そう考えながら、紡はノートパソコンの電源を落とした。 帰り支度をしていると、デスクの脇に、ふと人が立った。 顔を上げると、コートを羽織った黒木が満面の笑みでこちらを見下ろしていた。「白瀬さん」 黒木の表情には、まったく疲れが見えなかった。同じ会社で同じ忙しさを共有しているはずなのに、なぜこの男はいつも、午後一番の人間みたいな顔をしていられるのだろう。「ああ、黒木。お疲れ」 自分の声に、疲れがそのまま乗ってしまった。今日は早く帰って、シャワーを浴びて、寝る。それしか考えていなかった。「今から一杯だけ、いいっすよね」「あー……」 断る理由をいくつか頭のなかで並べた。明日が休みだから、「明日の朝が早くて」は使えない。「家でやることがある」も、断る理由としては弱い。紡が言い訳を組み立てているうちに、黒木はすでに、ロッカーから取ってきたらしい、紡のコートを手にぶら下げていた。「白瀬さんのコート、持ってきました。この前ストレス発散しないと、って話したじゃないですか」 水曜の昼に社食でそんなことを言われた気がする。たった二日前のはずなのに、もう遠い昔の話のように感じた。「えーっと……」「すぐそこですから。行きましょ」 黒木はコートを紡の腕に押しつけた。紡は、結局、「一杯だけな」と返すしかなかった。 断れなかった、ではない。断らなかった、のほうが正確だ。断ってしまうと黒木が傷ついた顔をするかもしれない、と紡の頭はもう先回りしていた。そういう先回りを毎回してしまう自分の癖を、紡は十年以上、変えられずにいる。
last updateLast Updated : 2026-05-13
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第十四話 素通りという会話

 十一月の夜風は、思っていたより冷たかった。 紡はコートの襟を立て、ポケットに手を突っ込んで、肩をすぼめた。 店の前で別れた黒木は、軽い足取りで駅のほうへ歩いていった。紡はその場でしばらく立ち尽くし、ようやく歩きはじめる。歩きだせば考えなくてすむだろう、と頭のどこかで期待した。けれど期待に反して、考えは頭から離れなかった。 有馬に、誤解されたかもしれない。 黒木がべったり身を寄せていたところを、はっきり見られてしまった。あれを見て、なんでもないと思える人間は、たぶん、世の中に多くない。 ただの同期だ。少しだけ距離の近い同期。それ以上でも、それ以下でもない。 わかっている。けれど、あの密着を一枚絵のように切り取られ、有馬の頭の中で繰り返し再生される。そう思うと、紡は想像してしまう。想像して、勝手に焦る。 言い訳をしたい。 でも、と紡は心の中で打ち消す。 有馬とは高校の同級生で、いまはプロジェクトを一緒に進めているメンバーだ。それ以上でも、それ以下でもない。それ以上の関係でもないのに、こちらから「黒木とはなにもない」と言い訳めいたメッセージを送るのは、明らかにおかしい。説明する立場が、そもそも自分にはないのだ。 紡はため息をついた。 白い息が、後ろへ流れていく。冷えた空気が、頬を撫でた。 紡は鞄からスマホを取り出した。コートのポケットから手を出さないまま、片手で画面を確認する。指先が、外気にさらされて一気に冷たくなった。 画面には、新しい通知はなかった。 有馬とのトーク画面を開く。最後の発言は、紡からの『起きてる』だった。あの朝五時半の返信のまま、画面は止まっていた。 なにを期待していたんだろう。 紡は、ふ、と自嘲気味に笑った。「あいつとは、どういう関係なんだ」 有馬から、そんな質問が飛んでくる、と期待していたのか。 飛んでくるはずがなかった。有馬は、紡のことを、そんなふうには見ていないのだから。十年前に距離を取ったのは、向こうだ。再会し、仕事相手として並んでいる。
last updateLast Updated : 2026-05-14
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第十五話 篠原の策略

 疲れた。 朔也はオフィスのデスクに積み上がった書類の角を、ペーパーウェイトで揃え直した。 紡と一緒にいられるかどうかもわからないまま、自分から手を挙げたプロジェクトだった。結果として、紡と仕事をする日々を、朔也は手に入れている。手に入れたつもりで、いまは、その重さに毎日押されている。 始まったころは、舞い上がっていた。用事もないのにトキワ文具へ足を運び、確認のための打ち合わせを設定し直した。週一の定例とは別に、自分の足で会いにも行った。十一月も半ばを過ぎた今、その余裕は跡形もない。パッケージデザイン、販路、店頭什器、PRプラン。どれも最終決定の段階に来ている。これまでサポートで入った経験から、「進め方は知っている」つもりでいた。つもりは、つもりでしかなかった。メインで動く案件は、責任の重みも判断の量も、サポート時代の比ではなかった。 あれだけ毎日紡に会いに行っていたのが、もう、遠い昔のように感じた。 ここ二週間、紡との接点は週に一度の定例だけで、それもほとんどがオンラインだった。会議は画面越し。窓のなかの紡は、相変わらず整った顔で、相変わらず業務の温度で、こちらに頷いてくれる。 「オンラインを主に」と提案したのは、ほかでもない朔也自身だった。プロジェクトに乗じて毎週顔を合わせたい本音を、業務効率という名目で隠した提案だった。隠した瞬間、隠したぶんだけ会える機会が自分の手元から減った。笑い話にもならない。やっぱり対面、と今さら言い直すこともできなかった。今さら言い直したら、なにかを疑われる気がした。 朔也は書類の最後のページを片付けながら、ため息をついた。 通りすがりの同僚が「ずいぶん疲れてんな」と茶化してきた。朔也は短く「ほっとけ」とだけ返した。 ようやく金曜が来た。 今夜こそは、まっすぐ家に帰って、シャワーを浴びて、寝る。それだけのつもりだった。 「有馬、飯行こうぜ」 顔を上げると、篠原が立っていた。「あ?」 声に、ほんの少し棘が混じった。早く帰りたいタイミングを、見計らったように声をかけてくる。
last updateLast Updated : 2026-05-15
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第十六話 送る、という短い二文字

 月曜日、トキワ文具とセントラル・アドの合同定例会議が、オンラインで開催された。 トキワ文具のメンバーは大会議室に集まり、画面にはセントラル・アドのチームが映っていた。進行は予定どおりで、メンバーの表情も明るかった。 紡ひとりを除いて。 紡は、オンラインでよかった、と内心で胸を撫で下ろしていた。 もし全員がトキワ文具の会議室に集まる回だったら、有馬と顔を合わせることが、今日いちばんの難題になっていただろう。先週の金曜の夜、黒木が紡にべったり身を寄せていた光景を、有馬には確かに見られている。 黒木との関係に、やましいものはない。だからこそ、誤解されたまま有馬と顔を合わせるのが、いちばん気まずかった。今日の画面には黒木の顔も並んでいる。有馬がその顔と、金曜の夜の男の顔を結びつけるのに、たぶん、数秒もかからなかったはずだった。 画面の小さなウィンドウのなかで、有馬は今日もいつもと同じ顔で進捗を説明していた。完璧な営業スマイル。淀みのない言葉運び。他のメンバーも複数映っているはずなのに、紡の視線は、有馬のウィンドウだけを追いかけていた。 プロジェクトは、パッケージデザインも含めて、決定の段階に入っている。日ごとに忙しさは増していくが、ひとつずつものごとが決まっていく感覚は、確かに高揚を伴った。販売日が近い。手応えはある。 その反面、寂しさも、ふと顔をのぞかせる。 リリースが終われば、プロジェクトは解散になる。それは、有馬と業務で並ぶ口実が、ひとつ、消えるということだった。 紡はノートパソコンのモニターに、そっと指先を伸ばした。 画面のつるりとした感触が指に届く。温度のない、無機質な冷たさ。 画面越しに、誰にも知られずに触れられたらいいのに――。 考えがそこまで進んだ瞬間に、紡は自分で打ち消した。 会議中だぞ。 自分に叱咤を入れても、有馬から目は離せなかった。 ロゴとパッケージの最終案は、どれもブランドコンセプトをきれいに体現していた。来週までに一案に絞ること、それを確認して会議は閉じた。 紡がノートパ
last updateLast Updated : 2026-05-16
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第十七話 掴んでしまった手首

 電車はまだ動いている時間だった。 それなのに有馬は、大通りまで歩くと迷わずタクシーに手を上げた。紡が「電車で帰る」と言っても、有馬は「タクシーで送る」の一点で譲らなかった。 昔から、こうと決めたときの有馬は、頑として動かない。十年前から知っていることだった。 タクシーの後部座席に、ふたりは並んで腰を下ろした。「住所」 短く促されて、紡は運転手に行き先を告げた。背もたれに体を預ける。すぐ隣に、有馬の肩がある。手のひらひとつぶんも離れていない距離だった。 さっきまで焼き鳥屋のカウンターで穏やかに笑っていたのが、嘘のように、車内には沈黙が落ちた。 仕事の話は、もう、とっくに終わっていた。 訊きたいことが、紡の喉のあたりまで上がってきた。十年、どうしていたのか。アメリカで、なにを学んできたのか。どんな夜を、何度過ごしてきたのか。あちらで誰かと付き合ったことはあるのか。 訊けるはずがなかった。有馬は紡から距離を置きたくて離れていった人だ。十年経ったいま、こちらから踏み込んでいい場所は、たぶん、もう、ひとつも残っていない。 いまは、ただ、肩の隣に有馬の温度がある。それだけで、紡には、過分なくらいだった。 窓の外を流れる赤信号の光が、有馬の頬を一瞬だけ赤く染めた。次の瞬間には、もう青信号の青に塗り替わっていた。色がころころ変わる横顔を、紡はじっと盗み見ていた。気づかれないように、視界の端でだけ。気づかれて目が合ったら、たぶん、いま組み立てているなにかが崩れる気がした。 窓の外を、街灯が、流れ星のように後ろへ消えていく。 紡はそのひとつ、ひとつに、密かに祈った。 マンションに着くまでの時間が、一分でも一秒でも、遅くなりますように。 祈ったところで、時計の針は、いつもどおりのリズムを刻むだけだ。それくらいのことは、紡もとっくに知っていた。 時間は、紡の祈りを当然のように無視して、まっすぐ前へ進んだ。 気づくと、タクシーはもう、紡のマンションの前に停まっていた。「ありがとう。じゃあ、また」
last updateLast Updated : 2026-05-17
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第十八話 事務所の女

 あれから、紡は何事もなかったように業務をこなした。 セントラル・アドとの仕事も、有馬との連絡も、なにもかも、表面上はいつも通りだった。 先週の水曜の夜、なぜ有馬の袖を掴んでしまったのか。紡はいまも、自分の行動をうまく説明できずにいる。 いや、本当は、わかっている。 離れたくなかった。それだけのことだ。 ただ、それを有馬には知られたくなかった。だから、有馬が一歩踏みだした瞬間、紡の体は勝手に後ずさった。掴んだのも自分で、突き放したのも自分だった。矛盾したふたつを、同じ夜に、同じ手でやってしまった。 あれ以来、有馬からの業務連絡は、いつも通りだった。紡の挙動を気にした様子は、文面のどこにもない。もちろん、業務連絡に私的な機微が出るはずはない。それでも紡は、行間に有馬の気配を探してしまう。探して、なにも見つからないことに、ひそかに傷ついている。 もしかすると、あの夜のことは、有馬にとってはなんでもない出来事だったのかもしれない。もう忘れているのかもしれない。だったら、紡だけが引きずっているのは、ばかみたいな話だ。気にしないほうがいい。 気にしないほうがいい、と何度も自分に言い聞かせたのに、結局、紡はあの夜から毎晩、右手のことを考えていた。掴んだときの、スーツの布の感触。引き抜かれたときの、有馬の指先の冷たさ。忘れたほうがいいものほど、体のほうが、勝手に覚えている。 紡はそう自分に言い聞かせて、追加資料を手に、セントラル・アドへ向かった。  火曜日の午前。 セントラル・アドのビルに入り、紡は一度、深呼吸をした。受付で用向きを伝える。「トキワ文具の白瀬と申します。有馬さんとお約束していまして」 受付の女性は端末を確認して、にこやかに頷いた。「お伺いしております。十階の会議室をご用意しております。有馬は後ほど参りますので、先にお入りくださいとのことです」 紡は頭を下げ、エレベーターホールへ向かった。 十階で降り、会議室へ向かう廊下の途中だった。 男女の声が、耳に入った。
last updateLast Updated : 2026-05-22
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第十九話 言い訳の多い夜

 セントラル・アドの廊下で、有馬の隣に立つあの女性を見てから、紡はずっと、落ち着かなかった。 有馬に親しい相手がいる。それ自体は、おかしなことではない。わかっている。わかっているのに、胸の奥には、なにかで抉られたような穴が、ぽっかりと空いたままだった。なにをしていても、その穴のふちが、ひりひりと痛んだ。 有馬との業務連絡は、相変わらず続いていた。 以前は、業務の文面の末尾に、ほんの一言、私的な温度を添えることもあった。あれ以来、紡は意識して、文章をできるだけ短く、用件だけにした。長く書けば、その行間に、自分の気持ちがにじみ出てしまいそうで、こわかった。 すると、有馬も同じ温度で、短く返してくるようになった。 もしかすると、紡が距離を取っていることに、有馬も気づいているのかもしれない。気づいて、合わせてくれているのかもしれない。そう思うと、自分から作った距離なのに、その距離のぶんだけ、また、胸の穴が広がった。 ひと月ほど前。業務連絡の末尾に、どちらからともなく『お疲れさま』や『寒くなってきたな』といった一言が混じっていた時期があった。あれは、もう、ずいぶん前のことのように思えた。あのころの紡は、その一言を返すかどうかで、毎晩、迷っていた。いまは、迷う以前に、その一言そのものを、自分から消してしまった。前に進んでいるのか、後ろに戻っているのか、紡には、もう、わからなかった。 週に一度の会議では、ふたりとも、徹底して敬語だった。 いや、以前よりも、一段、距離のある敬語かもしれなかった。「白瀬さん、こちらの件ですが」 有馬に声をかけられても、紡は目を合わせず、すぐに手元の資料に視線を落とした。「はい。なにか、問題でも」 ふたりのあいだには、重い空気が漂っていた。高校時代、めったにない喧嘩をしたときの、あの気まずさに、どこか似ていた。たぶん、ほかのメンバーには気づかれない程度の、微妙な温度差だ。 喧嘩をしているわけではない。ただ、紡が、勝手に距離を取っているだけだった。 資料にだけ目を落とし、有馬を見ない。座る位置も、わずかに遠い。 
last updateLast Updated : 2026-05-23
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第二十話 また、同じ顔

 今週の定例会議で、朔也は、紡の異変を一目で感じ取った。 先週、ふたりで飲んで、紡のマンションまで送った。あの夜、ふたりのあいだに漂う空気が、ほんの一瞬、あたたかく緩んだのを、朔也はたしかに感じた。玄関先で、紡が反射的に袖を掴んできたあの瞬間。朔也はそこに、ほんの少しだけ、期待をしてしまった。 ――もしかしたら、紡も、俺と同じ気持ちなのかもしれない。 ほんの少しだけ、そう思った。思ってしまった。 その期待が、嘘のように、今日の紡を包む空気は、冷えきっていた。 会議の間、紡は終始、手元の資料に目を落として、顔を上げなかった。 朔也が説明しているとき、以前なら、紡はまっすぐな眼差しをこちらに向けていた。いまは、その視線が、ずっと資料の上にある。たまに顔を上げる瞬間を狙って目を合わせようとしても、紡は、するりと視線をかわす。 話を振っても、返ってくるのは、最低限の意見だけ。分厚い敬語にくるまれた、温度のない言葉だけだった。 ――ああ、また、だ。 紡の横顔を見ながら、朔也の胸の奥が、きりきりと痛んだ。 十年前と、まったく同じ顔だった。「そんなんじゃないよ」と言ったあの日の、感情をぜんぶ奥に隠した顔だ。いまも紡はその顔で、朔也から距離を取ろうとしている。また拒絶されるのかと思うと、背中に冷たいものが、すうっと這い上がってきた。 先週の夜、玄関先で見たあの紡と、いまの紡は、まるで別人だった。袖を掴んできた手の温度も、見つめ合った数秒のあいだに揺れていた瞳も、今日の冷えた敬語のなかには、もうなかった。たった数日で、紡は、また、十年前の殻のなかへ戻ってしまった。戻らせたのが自分の不注意なのだと思うと、朔也は、自分の迂闊さを、殴りつけたくなった。 けれど、今回こそは、間違えない。 朔也は、自分のなかで、そう誓おうとした。 せっかく再会できたのだ。せめてプロジェクトのあいだだけでも、紡の隣に立っていたい。できることなら、その後もずっと、そばにいたい。 そこまで考えて、朔也は、自分の身勝手な望みを、頭から追い出した。 願ってはいけ
last updateLast Updated : 2026-05-24
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