LOGIN高校時代、毎日一緒に帰った幼馴染——有馬朔也。 卒業と同時に連絡を絶った彼と、十年ぶりに再会したのは終電間際の駅のベンチだった。 仕事を通じて再び日常へ入り込んでくる朔也。会話は昔のまま、なのに核心には触れられない。「壊れるくらいなら、距離を保ちたい」——嫌われるのがこわくて、白瀬紡は今夜も笑顔で逃げる。 近づくたびに、自分の手で距離を作ってしまう二人。 だが、その「偶然」は、どちらにとっても、偶然ではなかった——。 十年越しの両片想い、終電の駅から始まる、大人のラブストーリー。
View More水曜日の夜、二十三時四十分。
「……今日は終電じゃないだけ、ましか」
吐き出した息が、白く空気に溶けた。誰にともなく呟いた声を、自分の耳で確かめるように聞く。明日もどうせ残業の予定だ。この疲労がそのまま明日に持ち越されることは、もうわかっていた。新ブランドの立ち上げが秋から本格化する、という話が部内に下りてきてから、紡のデスクには毎日、判断待ちの書類が積み上がっていく。会社を出るころには、もう、二十三時を回っていた。
ポケットから指先をだして、目頭を軽く揉んだ。少しだけ、楽になった気がした。
乗り換え案内のアナウンスが、ホームに流れる。同じトーンで繰り返される録音音声のあいだに、駅員の生のアナウンスが混じる。終電が近い時間の駅は、いつも、こんな空気をしている。明るすぎる蛍光灯と、薄く酒の匂いが漂う構内と、誰もどこかへ帰りたがっている顔ばかりが並ぶホーム。
ふと、紡は自分の立っているこの駅が、自宅にも会社にも近くないことを、もう一度、意識した。乗り換えのために降りた駅だ、ということにしている。一年ほど前から、紡はときどき、わざわざこの界隈で電車を降りるようになった。理由は、自分でも、ちゃんと言葉にしていない。言葉にしたら、ばかみたいだから。
ただ、何度かこの駅を歩いてみても、なにかが起きるわけではなかった。当然のように、なにも起きないまま、紡は何度も、別の路線に乗り換えて家に帰った。それでも、月に一度か二度、紡はこの駅に降りた。降りたあと、改札を出るでもなく、ホームのベンチに座って、しばらく電車を見送ってから、また別の電車に乗り直すこともあった。自分が、なにを期待してここで降りているのか、確認しないようにしてきた。確認したら、そのときに、自分の行動の意味が、急に、こわい色に変わる気がした。
考えはじめたら止まらなくなる気がして、紡は浅く息を吸って、考えるのをやめた。
電車が滑り込んできた。
巻き上がった風が、前髪を乱す。冷たい空気がスーツの首元から入り込み、紡は反射的に肩をすぼめた。降りてくる乗客はまばらで、誰の顔にも、同じ色の疲れがにじんでいた。駅員が無機質な声で、乗り換えを案内している。
電車のドアが閉まりかける音がした。
乗ろうと、足を踏みだした、そのとき。
ホームのベンチに、ひとり、男が崩れるように眠っている。その姿が、目の端に入った。
酔いつぶれたサラリーマン。よくある光景だ。誰もが見て、見ないふりをして通り過ぎていく、夜の駅の風景のひとつ。
不用心だな、と思いながら、紡もまた、視線を戻しかけた。
戻しきれなかった。
目の端が、なにかを引っかけていた。
ベンチに崩れている男の、髪の分け目。喉のあたりに見える、小さなホクロ。耳のかたち。
紡の足が、自然に止まる。
――似ている。
いや、と紡は、すぐに自分の中の声を否定した。似ているだけだ、たぶん。十年も会っていない人間を、こんなところで見つけられるはずがない。世の中には、似た体格の、似た髪型の、似たホクロの位置の人間が、いくらでもいる。
いくらでもいる、と言い聞かせながらも、紡の体はもう動かなかった。
「電車が発車します。ご注意ください」
アナウンスが背中で鳴って、電車が走り去った。冷たい風が、もう一度、紡の体を通り抜けていく。乗るはずだった電車が、自分の視界の端で、加速していく音だけを残していった。
目を、離せなかった。
ホームをひとつ移動し、紡はゆっくり男に近づいた。一歩近づくごとに、記憶のなかの顔と、目の前の顔が、輪郭を合わせていく。少し大人びて、頬の影が深くなって、髪型は記憶より少し短くて、それでもなお、間違いようがなかった。見間違うわけがなかった。
――
高校の卒業式の日、駅前で「じゃあな」と片手をあげて別れたきり、それきり連絡の取れなくなった、紡の幼馴染。
卒業して半年も経たないうちに、紡が知っていた携帯番号は、使われていない番号のアナウンスに変わった。共通の友人に何度も訊いたが、誰も新しい連絡先を知らないと言った。紡は半年で探すのをやめた。やめた、というより、やめさせられた、というほうが、近かったかもしれない。
探されたくないのだ、と気づいてしまった日のことを、紡はよく覚えていた。気づいたら、それ以上、探しようがなかった。理由を考えようとすると、いちばん考えたくない可能性が、まっ先に頭の中で形をとった。だから、考えることも、やめた。
それから十年。たぶん、もう、二度と会わない。会わないままで、自分は、たぶん、生きていく。そう、何度も、自分に言い聞かせてきた。十年というのは、人を忘れるには十分な年月のはずだった。少なくとも、ほかの誰かのことならば、それで足りた。なのに、有馬のことだけは、忘れる、ということに、いつまで経っても、慣れなかった。
言い聞かせてきた相手が、いま、目の前で、酔って眠っている。
胸の奥を、内側から叩かれているような感覚があった。十年ぶりに見るその顔を前にして、紡は息をすることを、いつのまにか忘れていた。指先は冷たくなっているのに、握った手のひらには、じわりと汗がにじんでいる。心臓だけが、なぜか首のあたりまでせり上がってきているように感じた。
ベンチの上で、有馬は呼吸に合わせて、肩がかすかに上下していた。生きている。あたりまえのことが、なぜか急に、たしかなことのように、紡には思えた。
――どうしよう。
声をかけるべきか。それとも、このまま通り過ぎるべきか。
通り過ぎたら、たぶん、もう、二度と会えない。終電に乗って、家に帰って、明日になれば、これは、夢みたいな話になる。十年もかけて積み上がった「会えない」のなかに、今夜の偶然も、すぐに紛れていく。明日の朝、紡はきっと、いつも通りスーツを着て会社に行き、いつも通り笑う。今夜のことは、なかったことになる。
声をかけて、もしも、覚えていなかったら。「お前、誰?」と、知らない他人の顔で言われたら。――想像しただけで、紡は喉の奥が締まるのを感じた。それこそ、二度と、立ち直れない気がした。
覚えてくれていたとしても、それでも邪険にされたら。「もう、関わらないでくれ」と、ひとことで切られたら。十年前、自分の知らないところで、自分から距離を取った人なのだ。今夜、声をかけたところで、その判断が変わる保証は、どこにもない。
心が、やじろべえみたいに揺れる。声をかける、かけない、かける、かけない。揺れているうちにも、終電までの時間は、削られていく。
なのに、と紡は思う。なのに、自分の足は、もう、ベンチから離れる方向には、動いてくれない。
頭ではなにひとつまとまらないのに、紡の体は、勝手に、ベンチの前にしゃがみ込んでいた。
近くで見ると、思っていたより、疲れた顔をしていた。頬の輪郭が、高校のころより、少しだけ痩せている気もした。それでも、眉の形も、通った鼻筋も、薄く開いた唇のかたちも、全部、紡の知っている、十年前の有馬のままだった。眠っているせいで、表情がほどけていて、それが、いっそう、昔の顔に近かった。
目尻にだけ、見覚えのない疲れの線が、薄く刻まれている。十年というのは、こういう線のかたちで、人の顔に積もるのか、と紡は思った。自分の顔にも、たぶん、同じように積もっている。気づかないだけで。
かすかに、酒の匂いがした。それから、整髪料のような、柑橘の匂いが、少し。知らない匂いだった。十年のあいだに、有馬がどんな日々を積み重ねてきたのかを、その匂いだけが、紡に、教えていた。
ほっとしたような、こわいような、よくわからない感情が、胸のなかでゆっくりと混ざる。
膝に置いた手を、紡はぎゅっと握った。
通り過ぎたくない、と思った。
もう、思ってしまっていた。
喉に詰まりかけていた声を、紡は、押しだした。
「……有馬、だよね?」
自分の声が、自分の耳に、思っていたよりも小さく届いた。語尾が、わずかに、震えていた。震えていたことに、自分でも、少し、驚いた。
重たげな瞼が、ゆっくりと持ち上げられる。ぼんやりとしていた瞳が、少しずつ、焦点を結んでいく。
その目が、紡の顔を捉えた瞬間。
ほんのわずかに、見開かれた。
――ほんとうに、ほんの一瞬だけだった。次の瞬間にはもう、なにもなかったかのように、その表情は静かに元へ戻ってしまった。
見間違いだったかもしれない、と思うほどの、短い時間。けれど、見間違いではなかったことを、紡は、なぜか、わかっていた。十年経っても、紡は、有馬の表情の動きだけは、自分の手のひらの皺と同じくらい、よく知っていた。
有馬は、なにも言わなかった。
ただ、紡の顔を、じっと見ている。眠りから覚めきっていないのか、覚めていながら言葉を選んでいるのか、どちらとも判別がつかない、静かな目だった。
なにか言ってほしい、と紡は思った。なんでもいい、ひとことでいい。「久しぶり」でも、「誰だっけ」でも、いい。沈黙だけは、こわかった。沈黙のあいだに、十年分の距離が、もう一度、目の前で、ゆっくりと再生されていくような気がした。
紡もまた、息をすることを、忘れていた。
遠くで、終電の発車ベルが、鳴りはじめていた。
まったく計画のないデートだった。最初は不安でいっぱいだったのに、終わってみればおかしいくらいに楽しかった。予定をぜんぶ捨てて、行き当たりばったりに歩いた一日。あんなに身軽な気持ちは、ひさしぶりだった。 夕飯は、デートとも呼べないような居酒屋に入った。会社帰りにふらりと寄れる、どうということのない店だ。それでも特別に思えるのだから、恋人というのは不思議だと思う。瓶ビールを一本ずつ空けて、串をつまんで、どうでもいい話で笑った。なんでもない時間が、こんなにあたたかいなんて。 店を出て、朔也と並んで歩く。夜風はもう、刺すような冷たさを失っていた。街灯の灯りが、アスファルトにやわらかくにじんでいる。 そのはずだったのに、気づくとまた朔也の半歩後ろを歩いていた。 高校のころからの癖だ。半歩うしろから、朔也の左肩越しにその横顔をながめて歩く。朔也がいちばんかっこよく見える角度。ずっと見つづけても飽きない、好きな顔だ。うしろを歩いていれば、いくら見つめても気づかれない。高校時代は、紡はずっとその特等席から朔也を見ていた。 手が触れそうで、触れない距離。もう触れてもいい相手なのに、染みついた間合いはそう簡単に抜けてくれない。並んで手が当たったら、隠してきた想いまで知られてしまう気がして。いまはもう知られてかまわない相手なのに、足はやっぱり勝手に半歩うしろへ下がる。 癖というのは、しぶといものだな。ひとりでおかしくなって、肩を揺らして笑った。 そのとき、朔也が紡へ顔を向けた。むっとした顔をしたかと思うと、歩幅をゆるめて紡の横に並んだ。「なんだよ」 むくれた顔で、紡を睨んでくる。ふだんより気の抜けた私服姿の朔也の横顔が、すぐ目の前にある。「いや、なんでもない……」「ちゃんと話そうって、言ったばっかじゃねえか」 唇を尖らせて拗ねた顔に、ふいに高校の朔也が重なった。昔も、よくこんな顔をしていた。久しぶりに見られて、胸の奥があたたかくなる。怒った顔も拗ねた顔も、ぜんぶ好きだ。十年前は、そう思っていることすら必死に隠していたのに。「ん…&he
四月最初の土曜日。 朔也と、「偶然」ではなく「約束」をして出かけた。 丸一日、朝から晩までのデートだ。高校のころは休みのたびに連れ立って遊んでいたけれど、社会人になってからは初めてだ。十年ぶりのはずなのに、なぜか初めて遠出するような心地がした。 思えば、この十年のあいだ。朔也と過ごす時間はいつも、「たまたま」の顔をしていた。下校がいっしょになったのも、駅で再会したのも、ぜんぶ偶然のふりをして手に入れた時間だった。 それが、今日はちがう。約束して、待ち合わせて、会う。たったそれだけのことが、こわいくらいに新しい。 偶然なら、もし断られても「たまたま」で済む。約束は、そうはいかない。会いたいと、はっきり口にしなければ始まらない。十年ものあいだその一言が言えなかったのに、いまは平気で『土曜あけといて』と打てる。それが、自分でも信じられなかった。 前夜、電話で行き先を相談した。「朔也は、行きたいところある?」「紡は?」「俺は……ちょっと、服を買いたいかな」「じゃあ、ショッピングに行こうか」「そうだね」 行き先は、大型ショッピングモールに決まった。あそこなら店も多い。朔也の気に入る店も、きっとあるはずだ。 電話を切ってから、紡はスマホを開いた。せっかくの初デートだ。朔也を退屈させたくない。気づけば、時刻まで書き込んだ行程表をひとりで仕上げていた。 われながら気合いが入りすぎだと思う。でも、初めての約束をどうしても特別にしたかった。 翌朝。待ち合わせの駅に着くと、朔也はもうきていた。 四月は日中こそあたたかいが、朝晩はまだ冷える。紡は薄手のジャケットを羽織ってきた。朔也はパーカーにジーンズという、ずいぶん若々しい出で立ちだった。仕事中のスーツ姿しか見ていなかったから、その私服がやけに新鮮に映る。知らない朔也をひとり占めしているみたいで、ひそかにどきどきした。「ごめん。待った?」 小走りで近づくと、朔也がふいに頬を赤らめた。
トキワ文具のプロジェクトが、終わった。仕事を口実にして、紡に会いに行く理由がなくなる。そう思うと、少しだけ惜しい。 とはいえ、もう姑息な手を使う必要もない。ようやく紡が自分のものになったのだから。手に入れたとたんに失うことばかり考えるのは、われながら難儀な性分だ。 仕事中も、つい口元がゆるむ。十年想い続けた相手と、付き合えている。それだけで、世界がやけに明るく見えた。我ながら、単純だと思う。だがさんざんこじらせた身からすれば、これくらいは許されていいはずだ。 デスクでにやけていると、篠原が寄ってきた。「おい。今日、飯行くぞ」「あ……おう」 そういえば、さんざん相談に乗ってもらっておきながら紡と付き合いはじめたことをまだ報告していない。今夜、飯を食いながら言うか。 気にしていないそぶりだが、篠原のことだ。たぶん、とっくに気になっている。「いつもの店でいいか」「ああ」 篠原といつも行く定食屋は、魚がうまい。酒がすすむ味付けなのに、飲まなくてもうまい。会社の近くにこういう店があるのは、自炊をしない朔也には助かる。 仕事を終えて、ふたりで暖簾をくぐる。朔也は焼き魚定食と生ビール、篠原は魚フライ定食と生ビールを頼んだ。「はい、お待ち」 運ばれてきたジョッキを、軽く合わせる。「プロジェクト、お疲れ」「サンキュ」 ビールを流し込むと、炭酸が胃のあたりまで心地よく落ちていった。 店内は仕事帰りの客でほどよく埋まり、油と出汁の匂いが入りまじっている。いつもの席、いつもの音。それだけで、肩の力が少し抜けた。 さて、どう切り出すか。いざ口にしようとすると、妙に気恥ずかしい。 ちびちび飲んでいるうちに、定食がきた。ふっくら焼けた魚は、焼きたてが一番だ。朔也はとりあえず箸をつけ、話はあと回しにした。 篠原は、なにも訊いてこない。飯に誘ったのは、その話を聞くためではなかったのか。横顔をうかがっても、表情からはなにも読めなかった。
プロジェクトの打ち上げが、終わった。 しばらく胸のなかでゆらめいていた残り火が、打ち上げが終わったとたんに吹き消された気がした。 打ち上げをするということは、プロジェクトが無事に幕を下ろしたということだ。これでもう、朔也と仕事を通じて関わることはない。 そう思うと、達成感のすぐ裏で小さなさびしさが顔をのぞかせた。 けれど、トキワ文具はこれだけの実績を上げたセントラル・アドを、そう簡単には手放さないだろう。また別のプロジェクトで、一緒になる日がくるかもしれない。 そのとき、また朔也と組めたらいいな。そう考えるだけで、紡は頬がゆるんだ。 もう恋人なのだから、仕事で組む必要はないのかもしれない。それでも、仕事中の朔也は普段の何倍も輝いて見える。恋人フィルターのせいだろうか。いや、たぶん本当にかっこいいのだ。 朔也も、同じことを思ってくれていたらいい。 もっとも、また隣で仕事をすることになったら困る。朔也の横顔ばかり目で追って、肝心の仕事が手につかなくなりそうだ。 帰宅して、ひとりでにやにやしてしまった。 まだ決まってもいないことを想像してうれしくなるなんて、これも恋人がいるせいだろうか。馬鹿になってしまうのではないか。そんな不安を抱えたまま、紡はベッドに潜り込んだ。 土曜は、なにもやる気が起きなかった。 これまではプロジェクトに追われ、土日も仕事が頭の片隅から離れなかった。その芯が、ふいに抜けてしまったのだ。紡は廃人のように、ベッドの上で一点を見つめてぼうっとしていた。 そのとき、スマホが震えた。水瀬からだった。『明日、うちで飲まないか』 そういえば、朔也と付き合いはじめてから水瀬とは一度も顔を合わせていない。あれこれと忙しくて、それどころではなかったのだ。 あの夜、背中を押してくれたのは水瀬だった。きちんと礼を言いたい。『了解。つまみ持ってく』『じゃあ、五時な』 紡はスタンプをひとつ送って、了承を示した。 窓の外では、空