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第二十一話 中間慰労会という関門

 十二月に入ると、忙しさはさらに増した。週に一度だった会議が、二回になった。それでも、確認すべきことは次から次へと湧いてくる。手帳のスケジュール欄は、空白を探すほうが難しくなっていた。 中旬に差し掛かると、街はクリスマスや正月に向けて、どこか浮き足立った空気をまといはじめる。けれど紡には、その浮かれた空気に乗る余裕など、どこにもなかった。 もともと、クリスマスを誰かと過ごすあてもない。正月も実家には帰らず、マンションで一日中、だらだらと過ごすのが、ここ数年の定番だ。相手がいなくても、十二月の街の灯りを見ていると、なんとなく胸の奥がそわそわした。毎年、そうだった。 今年は、そのそわそわすら、感じる暇がなかった。 プロジェクトは、クリエイティブ制作の佳境に差し掛かっていた。広告撮影やパッケージデザインの最終調整、店頭什器の仕様確定など、やるべきことが山積みだった。それだけでも目がまわりそうなのに、来年三月下旬のローンチイベントの企画まで、並行して進めなければならない。 専任の担当になると、これほど忙しいのか――と、紡は何度も思った。 これまではサポートで入ることが多く、ひとつの新製品の販売に、これほど深く関わったことはなかった。なにもかもが、初めてだった。それでも、紡は充実していた。きっと、この半年は、自分の糧になる。そう思える程度には、前を向けていた。 セントラル・アドとの正式な打ち合わせ日以外にも、有馬と顔を合わせる回数は増えていた。行き来の移動時間がもったいない。そう理由をつけて、紡はいくつかの打ち合わせをウェブ会議に切り替えてもらった。 もったいない、というのは、半分は嘘だった。 ほんとうは、できるだけ、有馬と同じ部屋にいたくなかった。画面越しなら、目を逸らしても気づかれない。声が掠れても、電波のせいにできる。あの男と同じ空気を吸うと、自分の輪郭が、少しずつ崩れていくような気がした。だから、ウェブにした。 有馬も、セントラル・アド側のメンバーを取りまとめる立場で、多忙なはずだ。だから、そのほうがいい。お互いのためだ。 そう、自分に言い聞かせた。 その日、会議室で有馬と
last updateLast Updated : 2026-05-25
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第二十二話 あの人、彼女なんでしょ?

 有馬に、本当のことを聞く。 水瀬に背中を押されて、紡は有馬に連絡を取った。「慰労会の前に話がしたい」と伝えた。 これまで紡は、有馬に嫌われたくない一心で、嫌われないように立ち回ってきた。だから今回、あの女性のことを口にすれば、もしかしたら、その均衡が、音を立てて崩れてしまうかもしれない。「は? なんでいちいち、そんなこと聞いてくんの」 有馬が眉間にしわを寄せ、あからさまに嫌な顔をする――そんな場面を想像しただけで、胸が締めつけられた。「俺が誰と付き合おうが、紡には関係ないだろ」 そう、突き放されたら、どうしよう。 プロジェクトは、まだ三か月も残っている。そのあいだじゅう、命をすり減らすような気持ちで、有馬の隣に立ち続けることになるかもしれない。 それは、つらい。 けれど、もう聞くと決めた。連絡をして返事ももらい、明日会うことにもなっている。それなのに、まだぐだぐだと考えあぐねている自分に、紡は嫌気がさした。 そんなことを繰り返しているうちに、いつのまにか、窓の外の空が、白みはじめていた。 紡は、重い身体をベッドから引き剥がして、出勤の支度を整えた。  仕事中は、ぼんやりする暇もないほど忙しかった。これだけ忙しいなかで気を抜けば、すぐにどこかでつまずいてしまう。だから午前のうちは、有馬のことを考える隙間すらなかった。 けれど、昼を過ぎ、夕方が近づくにつれて、紡の身体は、じわじわと強張りはじめた。指先が冷たくなり、息が、うまく入ってこない。 昨夜、ひとりで勝手に膨らませてしまった不安が生み出した有馬の姿が、瞼の裏に浮かぶ。冷たい目で、突き放してくる有馬。それを思い描くだけで、胸が苦しくなった。 ――失いたくない。 有馬のことを、もう二度と、失いたくない。 でも、たとえ、そうだったとしても。 今まで一度もやろうとしなかったことを、自分は今、やろうとしている。それだけでも、きっと、大きな一歩だ。 ただ、あの女性が彼女なのかどうかを聞くだけだ。
last updateLast Updated : 2026-05-26
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第二十三話 慰労会という嵐

 やっぱり、水瀬の言うとおりだった。有馬に確かめておいてよかった。 もしあのまま、なにも訊かずに今日の慰労会へ来ていたら、紡は楽しいはずの席で、ひとりだけどんよりとした空気をまとって座っていたことだろう。美月が有馬に寄り添う姿を、ただ黙って見ているしかなかったはずだ。そう思うと、踏み出してよかったと、心から思えた。 慰労会へ行く支度をしていると、水瀬が紡のデスクにやってきた。「スッキリした顔、してるな」「そう?」「ああ。見違えるほどだ。ちゃんと、話せたのか」 紡は、答える代わりに、こくりと頷いた。「そうか。よかったな。今日の慰労会、楽しんでこいよ」「ありがとう」 水瀬はいつも、紡がいちばん欲しい言葉を的確に手渡してくれる。今回も、この男が背中を押してくれたから、紡は、ようやく一歩を踏み出せたのだ。 踏み出す前は、こわくてこわくてたまらなかった。それなのに、いざやってみれば、案外そうでもなかったのかもしれない。そんなふうに思える程度には、紡の足取りは、軽くなっていた。 紡は、慰労会の会場へ向かった。  相沢本部長が音頭をとった慰労会は、落ち着いた和食の店で開かれた。金曜の夜七時とあって、店内はどこも賑わっている。紡たちは、店の奥にある座敷へ案内された。 靴を脱いで座敷に上がると、長いテーブルが横向きに据えられていた。畳と、出汁の香り。障子で仕切られた個室は、表の喧騒から、ほどよく隔てられている。トキワ文具側とセントラル・アド側が、向かい合って座る形になるのだろう。紡は、入り口に近い、端の席に腰を下ろした。「お疲れさまです」 聞き慣れた声が、座敷の入り口から聞こえた。振り返ると、有馬を先頭に、セントラル・アドのメンバーが立っていた。「お疲れさまです。どうぞ、奥の席へ」 紡は立ち上がり、奥の席を手で示した。有馬は、紡と目を合わせると、やわらかく微笑んだ。「ありがとうございます」 目が合って、微笑まれた。たったそれだけのことだった。それなのに、
last updateLast Updated : 2026-05-27
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第二十四話 忘れてくれ、という拒絶

 なぜ、そんな苦しそうな顔をするのだろう。 有馬の心のなかを、覗けたらいいのに。 紡はじっと有馬の顔を見つめ返した。ほんの数秒のはずだった。けれど、その数秒が、何分も何十分も引き伸ばされたように長く感じられた。 ふいに、有馬は、その張りつめた表情を、すっと営業用の笑みへと塗り替えた。そして、こちらへ歩み寄ると、紡の腕を、掴んだ。 妙に、力がこもっている。それでいて、痛むほどではない。掴むというより、放すまいとする掴み方だった。「すみません。白瀬さん、ちょっとお借りします」 有馬は、隣に座る黒木へ、にこやかに笑いかけた。黒木は「えっ」と、不意を突かれた顔をしたが、すぐに、なんでもないという表情を取り繕った。「ええ、どうぞ。俺のほうは、白瀬さんが戻ってきたら、また続きを話しますので」 そう言って、黒木は、目を細めて有馬を見た。その目の奥に、ほんの一瞬、仄暗いなにかが、揺れた気がした。 奥の席では、美月と篠原が、こちらを見ていた。 美月は、片眉を跳ね上げ、一瞬、目を見開いた。それから、すっと目を細めて、紡を見た。まるで、どうしてあなたが有馬さんと連れ立って出ていくの、と咎めるような、冷ややかな視線だった。 一方の篠原は、ごくかすかに、頷いたように見えた。こっちは引き受けた、心配するな――そう告げているような、落ち着いた目だった。「ちょ……有馬……」 有馬は、紡の手を引いて、座敷を出た。紡は思わず後ろを振り返ったが、黒木と美月、篠原以外は誰も気に留めず、それぞれの話に夢中だった。 手首を掴む有馬の手は、熱かった。その熱が、紡の混乱を、よけいに深める。 いったい、なにが、起きているのだろう。有馬は、なにを、しようとしているのだろう。「例の件」などというのは、口実だ。それくらいは、紡にもわかった。けれど、その口実の下に、有馬がなにを隠しているのかは、まるで、読めなかった。心臓が、引かれていく手の動きに合わせて、どくどくと忙しなく鳴っていた。 有馬は紡の戸惑いに構うこ
last updateLast Updated : 2026-05-28
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第二十五話 止めたのは自分だ

 店の引き戸を、後ろ手に閉めた。そのまま、扉に背をもたせかけた。 ――ああ。やっちまった、かな。 あれは、どう見ても「キスをしようとした」と取られても仕方ない。いや、実際にしようとしたのだ。あまりに紡が無防備で、こらえがきかなかった。自分以外の男に、あんなに近い距離で囁かれているのを、見ていられなかった。 つまり、嫉妬だ。 みっともないほどの、ただの、嫉妬だった。 朔也は、大きく、ため息をついた。入り口近くの席の客が、その大きなため息にちらと振り返ったが、すぐに自分たちの話の輪へ戻っていった。 あんなことをすれば、紡はこの十年ひっそりと胸の底に沈めてきたこの気持ちに、勘づいたかもしれない。 黒木なんかに、取られるくらいなら。本当は、今すぐにでも、紡に告白して、自分のものにしてしまいたい。 けれど、紡は、朔也が近づいた分だけ、きっちり、後ずさる。そんなことは、十年も前から、嫌というほど、わかっている。 なのに、さっきの紡は、身を引こうとしなかった。逃げようともせず、ただ、じっと。まるで、朔也を、受け入れようとしているように、見えた。 ――もしかして、紡も、俺と、同じ気持ちなのか。 そこまで考えて、朔也は、かぶりを振った。 いや。思い違いを、するな。 あれは、こわくて、逃げられなかっただけ、かもしれない。十年前の、あの夕焼けの日と、同じように。 そう打ち消した、その先から、また、別の考えが、頭をもたげる。 慰労会の前、紡はわざわざ朔也を呼び出し、美月のことを訊いてきた。「彼女なんでしょ」と。からかうのでも、面白がるのでもなく。どこか、傷ついたような、顔で。 あれは、美月が彼女だったら、嫌だから、ではなかったのか。 訊かれたとき、正直ほっとした。どう自分から切り出して言い訳しようかとずっと迷っていたことを、紡のほうから訊いてくれたからだ。だから、あんなにも舌が滑らかに動いて、必死に「違う」と、弁解できたのだ。 考えれば考えるほど、わからなくなる。「…&h
last updateLast Updated : 2026-05-29
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第二十六話 凍結という名の礼儀

 月曜日の合同会議が始まる前、紡は落ち着かなかった。 どんな顔をして有馬と向き合えばいいのか、わからなかった。 金曜日の慰労会で、有馬は紡にキスをしようとした。確かな事実だった。紡は受け入れるつもりだった。なのに、有馬は自分から身を引いて「忘れてくれ」と言ったのだ。忘れたくても忘れられるはずがない。 ようやく自分が一歩を踏み出せたと思ったのに、今度は有馬のほうが引いた。 紡と有馬のあいだには、いつも一定の距離が決まっていて、どちらかが近づけば、もう一方がきっちりその分だけ引いてしまう。そんな仕組みになっているのだろうか。 それは、紡が十年かけて作り上げてきた、自分のための仕組みでもあった。近づきすぎないこと。踏み込みすぎないこと。壊れる前に手を引くこと。今までは、いつも紡のほうが先に引いていた。今度は、有馬のほうが先に引いただけだ。役割が入れ替わったのではない。距離そのものは、なにひとつ変わっていないのかもしれない。 もうどうすればいいのかわからず、紡はため息をついて会議室へ向かった。 準備をしているあいだも、意識はずっと有馬のほうに引っ張られていた。まわりの音が遠い。自分だけが外の世界から切り離されているような感覚があった。 会議開始の十分前に、セントラル・アドのメンバーがやってきた。そのなかに、金曜の慰労会で見かけた篠原の姿もあった。今日からローンチについても打ち合わせをはじめる。きっと、篠原はローンチの担当として入るのだろう。「いつもありがとうございます」 紡はセントラル・アドのメンバーに頭を下げた。「白瀬さん、こんにちはー」 顔見知りのメンバーたちは気軽に挨拶を返してきた。 有馬は最後に会議室へ入ってきた。いつもの営業スマイルをきっちりと顔に貼り付けている。ほんの一瞬だけ視線が交わった。 席に荷物を置くと、有馬は紡のもとへやってきた。ほかの人には聞こえないほどの小声で、有馬は言った。「週末は失礼しました。酒の席で……お見苦しいところを、お見せしました」 先週よりさらに改まっ
last updateLast Updated : 2026-05-30
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第二十七話 深夜の会議室

 あれから、黒木はあまり馴れ馴れしくしてこなくなった。他人から見ればわからない程度の、ほんのわずかな変化だ。けれど紡にはわかった。ほんの少しだけ、距離が遠くなった。きっと黒木は、紡に好きな相手がいることを察したうえで、自分なりに線を引いたのだろう。そんなにすぐ気持ちが整理できるはずもないのに、すごいな、と紡は素直に感心した。 だから紡のほうも、黒木にはこれまで通り接した。今さら急によそよそしくなる必要もない。それで十分だったらしく、まわりの同僚たちには、ふたりのあいだにあった出来事は、たぶん誰にも気づかれていない。 有馬じゃない相手なら、こんなにも普通に振る舞えるのに。 どうして相手が有馬になると、こんなにもうまくいかなくなるのだろう。 答えは、わかっている。好きだからだ。十年も、ずっと好きだったからだ。けれど、その「好き」をどう扱えばいいのか、紡はいまだに知らなかった。何度も練習する機会はあったはずなのに、その練習の代わりに、ただ十年間、距離を測ることだけを覚えてしまった。 紡は天井を仰いだ。オフィスの蛍光灯が、いつもと変わらず規則正しく並んでいる。その規則正しさが、なぜか今日は、忌々しく感じられた。  金曜日は、一週間のなかで紡がいちばんほっとする曜日だ。今日さえ乗り越えれば、週末になる。 終業時刻が近づくにつれて、一週間の疲れが少しずつほどけて、気分も軽くなっていく。 今日は残業せずに帰ろう。プロジェクトも今のところ順調だ。デスクに残してまでやる仕事は、なかった。 そう思った矢先、紡のデスクの電話が、鳴った。 もう退勤時刻だというのに、誰だろう。「はい、白瀬です」『相沢だ』「お疲れさまです」 紡は反射的に、電話機に向かって頭を下げた。相手が目の前にいなくても、そうすることで敬意が声にも表れる。新人研修でそう教わってから、ずっと続けている習慣だった。『白瀬。blancのパッケージの方向性を、見直したい。今日の役員会議で、指摘が入った』「……え? 今から
last updateLast Updated : 2026-05-31
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第二十八話 朝になったら、忘れたふりするの?

 会議室を出るとき、有馬は資料の入った鞄を肩にかけ、当然のように紡の分まで持った。エレベーターを降りて、誰もいないエントランスを抜ける。自動ドアが開いた瞬間、十二月の夜気が、洗ったばかりの首筋に、ひやりと刺さった。 有馬の家に行く。 まさか、そんなことになるなんて、思ってもみなかった。 駅まで並んで歩き、終電前の改札を抜けて、空いた車内にふたりで乗り込んだ。隣に有馬が立っているという、ただそれだけのことが、今でも信じられなかった。 ちらりと横目で窺うと、有馬の口は、横一文字に引き結ばれていた。なにかを決め、その決意がこぼれないように必死で抑えている顔にも見えた。 一駅先で、有馬は電車を降りた。改札を出ると、有馬は半歩前を歩いたまま、前を向いて口を開いた。「会社の最寄りから一駅だから、本当は、歩こうと思えば歩けるんだよ」 ぼそりと言ったその言葉には、どこか硬さがあった。間を持たせるための言葉だと、紡にもすぐわかった。「終電逃しても安心だな」「まあな。だから、つい、時間を気にしなくなる」「だめじゃん」 もう夜の十二時を過ぎている。近所迷惑にならないように、ふたりとも声を落として、控えめに笑った。白い息が、街灯の下で、ふわりとほどけて消えた。 そのとき、有馬が立ち止まった。「ここ」 八階建ての、グレーの外壁のマンションだった。装飾の少ない、シックな佇まい。なんとなく、有馬らしいな、と思った。 エントランスを抜けて、エレベーターに乗り込む。モーターの音だけが、やけに大きく響いた。箱が上っていくにつれて、紡の体は、少しずつ強張っていった。 エレベーターを降りて、廊下を進む。ふたり分の足音が、深夜の静けさに、ぽつぽつと落ちる。紡は緊張をほぐそうとして、コートのポケットの中で、手を握ったり、開いたりした。 有馬が、一室の扉の前で立ち止まった。鍵を差し込む音。紡の胸は、痛いくらいに打っていた。 扉が開いた瞬間、有馬の匂いが、やわらかく紡を包んだ。香水と、有馬そのものの匂いが混ざった、嗅いだ覚え
last updateLast Updated : 2026-06-01
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第二十九話 唇に残る熱

 どうして、あんなことを言ってしまったのだろう。 一度、口から出てしまった言葉は、取り返しがつかない。 紡は、ゆっくりとソファから起き上がり、乱れたスウェットの裾を引っ張った。 有馬に目を向けると、有馬はソファの端に座り、うつむいていた。前髪が目元にかかって、表情はよく見えない。けれど、その背中の丸め方だけで、ひどく落ち込んでいるのが、わかった。手を伸ばせば届くほど近いのに、ふたりのあいだには、飛び越えられない深い溝が刻まれているようだった。その溝を、どちらも、埋められない。埋め方を、どちらも、知らなかった。 紡は、ソファから立ち上がった。身体にはまだ熱がこもって火照っていた。けれど今は、その火照りが、ただやりきれなかった。 なにか言わなければと思った。けれど、なにを言っても、この空気をもっとこじらせてしまう気がした。立ち尽くしているあいだに、有馬は、一度も、顔を上げなかった。その沈黙が、答えのように、紡には、感じられた。「……帰る」 スウェットの上に、コートを羽織った。 すると、有馬が、はじかれたように頭を上げて、立ち上がった。「送るよ。タクシー、呼ぶ」「いい。自分で、帰れるから」 紡は、有馬の顔を見ずに言った。顔を見てしまったら、自分の言ったことが間違いだったと、思ってしまいそうだった。 ――いや。 もう、間違いだったと、思ってしまっている。なぜ、あんなことを口にしたのかも、後悔している。身体は、応えていたのに。先に進みたいと、訴えていたのに。それなのに、口だけが勝手にブレーキをかけた。身体と言葉が、ばらばらだった。そのちぐはぐさを、今さら、有馬に説明することなど、できるはずもなかった。 紡は、鞄に脱いだスーツを押し込んで、玄関に向かった。有馬は、黙って、その後ろをついてきた。 紡が靴を履いていると、有馬が、ぼそりとつぶやいた。「やっぱり、送る」 その声を聞いて、紡はぐっと腹に力を入れた。力を入れていないと、立っていられなかった。そして、笑顔を貼
last updateLast Updated : 2026-06-02
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第三十話 同窓会の通知

 年末年始が過ぎると、忙しさはさらに増した。日々の業務に忙殺されて、気づけば、一月も下旬に差しかかっていた。 朔也はカレンダーを見ながら、ため息をついた。「本当に、間に合うのかよ……」 ローンチは三月末。今のところ大きな遅れは出ていないが、あと二か月しかないと思うと、焦りが募る。 プロジェクトは佳境に入っていた。広告の撮影、WEBサイトの制作、店頭用の什器の納品。やるべきことは、まだ山のように積み上がっている。朔也は連日、深夜まで残業を続けていた。 こういうとき、会社から家が近いと、つい無理をしてしまう。たったひと駅の距離で、歩いても三十分ほどだ。疲れているときくらいは電車に乗りたいが、このところ、終電が出たあとにしか帰れない。だから、歩くしかなかった。 その日も終電を逃して、歩いて帰っていた。足を進めているのに、鉛のように重くて、思うように前に出ない。 一月の夜気は、乾いて、冷たかった。吐く息が白く散って、街灯の光の中で、すぐに消える。コートの襟を立てても、首筋から忍び込んでくる寒さは、防ぎようがなかった。 マンションへ向かう夜道を歩きながら、ふと、思い出した。 ――紡と一緒に歩いたよな。 もう、ずいぶん前のことのように感じる。慰労会から、まだ一か月しか経っていないのに、何年も前のことのようだ。 あの日から、紡とは、業務以外で連絡を取りにくくなった。いや、取れなくなった、と言ったほうが正しい。 年末、急なパッケージ案の変更があり、セントラル・アドで作業をした。夜の十二時近くまでかかったが、それでも紡の終電にはぎりぎり間に合うはずだった。それなのに、朔也は、紡を家に誘った。 下心がなかったとは言わない。実際にあった。紡が朔也の貸したスウェットを着て、シャワールームから出てきた姿を見たとき、もう、我慢が、きかなかった。酒を飲んで意識を逸らそうとしたが、それでも、だめだった。 キスをすると、紡は受け入れてくれた。このまま先に進んでも構わない、と、紡の身体が言っているようにも感じた。それなのに、紡の口から「朝になったら
last updateLast Updated : 2026-06-03
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