All Chapters of 咲く前に、愛は枯れた: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話

私、東雲千夏(しののめちなつ)の彼氏である一条湊(いちじょうみなと)は社長で、昔から優秀な人間にしか興味を示さない男だった。それなのに、使えないインターンの月島心春(つきしまこはる)を、なぜか大事に手元に置いていた。理由は、彼が私を失うことを何より恐れていたからだ。健康診断で心春と私が同じ希少な血液型だと知った彼は、いつか私に何かあったときのために、彼女を血液の保険として手元に置いた。湊は心春のために料理を作り、旅行にも連れて行った。手作りの贈り物まで用意して、何かにつけて彼女を気にかけていた。それでも彼は、全部私のためだと言った。けれど私が交通事故に遭ったとき、湊は遠方の病院から血液を取り寄せ、心春には輸血させなかった。心春は風邪をひいていた。万が一、血を通して私に何か移ったら困るから、と彼は言った。その翌日、心春に腎不全が見つかると、湊は私に薬を飲ませて意識を奪い、無理やり手術室へ運び込んだ。私の腎臓を、心春に移植するために。彼はいつものように優しい声で言った。「心春は、最後の保険なんだ。健康でいてもらわなきゃ困る。いざというとき、君の命を救えるのは彼女だけなんだから、ちょっとした病気や怪我で頼るわけにはいかないだろう。君に腎臓を出してもらったのも、全部、君の将来のためだよ。変に考え込ませたくなかったんだ。手術が終わったら、俺は君と結婚する」けれど彼は知らなかった。私はもともと白血病の中期だった。腎臓を提供したことで、病状は一気に進んでしまった。もう長くは生きられない。彼と結婚することは、もう叶わなかった。……「東雲さん、白血病は中期の段階でしたが、腎臓提供の手術が負担になって、病状が急激に進んでいます。楽観的に見積もっても、余命は10日ほどです。どうか、できるだけ穏やかにお過ごしください」その後の言葉は、もう耳に入らなかった。私は無意識に爪の脇のささくれをむしっていた。血で指先が濡れているのに、それにも気づかなかった。交通事故のあと、私は白血病だと診断された。湊に打ち明ける間もなく、彼はインターンの心春が腎不全だという検査結果を持ってきて、私に腎臓を提供してほしいと言った。私は拒んだ。彼は無理強いせず、「会社の近くに君のためのマンションを買っておいたから、通勤中にまた事故に遭わずに済む」と
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第2話

けれど、そのマフラーを湊が自分の手で心春の首に巻いているのを見て、すべて私の勘違いだったのだと知った。もうすぐ死ぬからだろうか。未練が残っていたからなのか、今になってそのマフラーを目にした瞬間、どうしても手に入れたいという強い衝動が胸の奥から噴き上がった。湊は私の指先を見た瞬間、露骨に顔を曇らせた。「それはだめだ。心春は体が弱い。寒がらせるわけにはいかないだろ。それに、俺が手作りしたものだ。彼女にとっても大事なはずだから、別のものを選べ」「私はこれがいい」湊の心にまだ私がいるのか確かめたかったのかもしれない。私は譲らず、強い口調で言い張った。けれど湊は、思いがけず逆上した。「千夏、心春は将来、君を救ってくれるかもしれない存在なんだ。君が腎臓を一つ差し出したのも、彼女への借りを返したようなものだろう。前の君なら、こんな物にこだわったりしなかった。なのに今さら、彼女の大切なものを奪ってまで意地を張るのか?」私は力なく笑った。湊はもう、自分がどちらを大事にしているのか隠そうともしない。一年前、心春が入社時の健康診断を受けたとき、彼女と私が同じ血液型だと知ってから、湊は心春を特別に気にかけるようになった。仕事では、湊は心春を昇進させ、給料まで上げた。おまけに、私が進めてきたプロジェクトの成果を彼女の手柄にして、社内で一目置かれる存在にまで押し上げた。私生活では、彼女の洗濯をし、食事を作り、三度の食事まできっちり世話した。呼ばれれば、いつでもすぐに駆けつけた。私が少しでも不満を漏らすと、湊は決まって私を心が狭いと責めた。心春はいつか私の命を救ってくれるかもしれない人間なのだから、私は彼女に借りがあるのだと。そうやって私は、いつの間にか身に覚えのない重い負い目を背負わされていた。これほどあからさまに心春ばかり大事にされているのに、それでも私は、湊の中にまだ少しは私への気持ちが残っているのではないかと期待していた。本当に、笑ってしまう。死を目前にして、ようやく湊の本心が見えた。今思えば、かつて真夜中に何度も寝返りを打ちながら、どうしても納得できずに思い悩んでいたことなど、大したことではなかった。「冗談よ。心春の大事なものを、私が奪うわけないでしょう」私は小さく笑って、それ以上言い張るのをやめた。同時に
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第3話

「だめだ——」湊は眉をひそめ、私を説得しようとした。電話の向こうで、心春の声が聞こえた。とても近い。彼のすぐそばにいるようだった。「湊さん、このペアリング、すごくきれい……」「いいよ。どれだけ値が上がっても、必ず競り落としてあげる!千夏、君はもう大人なんだから、自分のことは自分でちゃんと面倒を見て」湊の声から優しさが消えた。彼は二言三言だけ適当に告げると、あっさり電話を切った。けれど心春が現れる前は違った。接待の席で無理をして胃から出血し、病院で「珍しい血液型だから気をつけてください」と言われたとき、湊はひどく怯えていた。夜も眠れず、泣きながら「俺を置いていかないでくれ」と私にすがり、それ以来、片時も私のそばを離れようとしなかった。たとえ私の指に小さな切り傷ができただけでも、過剰に反応していた。なのに今では、私が腎臓を一つ失っても、彼はただ軽く受け流し、適当に済ませるだけだった。この恋を手放したとはいえ、胸の奥にはやはり、勝手ににじみ出る苦しさが少しだけ残っていた。私は自嘲気味に笑い、湊の番号を着信拒否にした。一日目にまずしたことは、ハウスクリーニングの業者を呼び、家の中にある私のものをすべてきれいさっぱり片づけることだった。手作りのペアの陶器人形、七年間で撮った二万枚の写真、屋敷の鍵まで、すべて処分した。二日目、私は葬儀社に連絡し、自分の死後の手配を決めた。三日目、私は友人たちとパーティーをはしごした。ゲームに負けた罰として、かっこいい男の子と腕を絡めて酒を飲む私を見た友人は、顔色を変えた。「彼に見られたら、私、殺されるって!」ネオンの光と酒の匂いの中で、私は平然と笑った。「どうでもいい。もう気にしてないから」その夜、我慢できなくなったのか、湊から一枚の写真が送られてきた。薄暗い照明の下で、私が若い男の子と腕を絡めて酒を飲んでいる写真だった。「千夏、家に帰ってこい。正座して説明しろ!」四日目、私はようやく家に戻った。湊に怯えたからではない。注文していた荷物が届いたからだ。玄関を開けた家政婦の山村は、私を見るなり声を潜めた。「千夏様、あとで湊様に逆らってはいけませんよ。素直に謝ればそれで済みますから」中に入ると、湊がソファに座り、泣いている心春をなだめていた。心春
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第4話

それこそが、彼の本当の目的だったのだ。私から心春へ、副社長の座を譲らせること。私は自嘲するように笑った。「いいわ。異論はない」どうせ死ぬ身だ。肩書きや財産のようなものは、もうどうでもよかった。私はそのまま腰を下ろし、彼が差し出したペンを受け取った。どの書類も、署名欄のページまでめくられていた。私は昔から慎重な性格で、必ず表紙と中身が合っているか確認するようにしていた。一枚目は、副社長職の解任同意書だった。私は迷わず署名した。湊と心春は顔を見合わせ、どちらも少し驚いているようだった。二枚目は、不動産の名義変更書類。この家は、私と湊が初めて稼いだまとまったお金で買ったものだった。そして唯一、私の名義になっている家でもあった。私が拒むのを恐れたのか、湊は後ろめたそうに言い訳した。「心春の家族が、街に出てきて治療を受けたいそうなんだ。滞在する家が必要でね。どうせ君は住んでいないだろう」ただ滞在するだけなら、名義まで変える必要があるのだろうか。私はわざわざ暴くのも面倒で、そのまま署名した。三枚目をめくろうとしたとき、湊が手を伸ばして私を止めた。「千夏、俺が君に悪いようにするわけないだろ。そのままサインしてくれればいい」私は顔を上げた。湊も心春も、ひどく緊張した顔で私を見ていた。開いてみて初めて、それが株式譲渡契約書だとわかった。それは、湊が私との関係を公表したときに贈ってくれた、20%の株式だった。当時、社内では誰もが、私がいずれ社長夫人になる人間だと知っていて、羨望のまなざしを向けていた。湊の呼吸が一瞬止まった。「説明を聞いてくれ……」けれど私は、そのまま署名した。最後の一筆を書き終え、私は湊に尋ねた。「ほかにもある?」湊は信じられないという目で私を見た。けれど、これこそ彼が望んでいたことではないのか。私がすべてを心春に差し出すことを、彼は喜ぶべきだった。心春は有頂天になっていた。けれど口では、しおらしく取り繕った。「千夏さん、安心してください。私が少し預かっておくだけです。体がよくなったら、ちゃんと全部お返ししますから」私は冷めた気持ちで立ち上がった。今回戻ってきたのは、届いたエンディングドレスを受け取るためだけだった。手に入れた以上
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第5話

どうして、私は何度も譲ってきたのに。どうして彼女は、それでもなお踏み込んでくるのだろう。私は何も言わず、心春の前へ踏み出し、その頬を打った。心春は避けなかった。まるで最初からそうするつもりだったように、まともに平手を受け、そのまま床に倒れ込んだ。同時に、男の怒鳴り声が響いた。「やめろ!」キッチンから飛び出してきた湊が、私を突き飛ばした。勢いよく倒れた拍子に、ポケットに入れていた鎮痛薬が床に転がった。そのうえ、湊の靴の踵が腰の傷口を踏みつけた。あまりの痛みに、私は起き上がることもできなかった。医師は言っていた。白血病の患者は、傷が治りにくいのだと。腰のあたりは、みるみる血で濡れていった。湊は私を見下ろし、嫌悪を隠そうともしない目で言った。「千夏、少しは変わったのかと思っていたのに、結局そうやって俺の気を引きたいだけだったんだな。契約書にサインさせたのは俺だ。文句があるなら俺に言えばいい。心春に手を上げる必要なんてないだろう!」私は痛みに耐えながら叫んだ。「心春が、母の懐中時計を壊したのよ!」湊は一瞬だけ動きを止めた。けれどすぐに、ばかにしたように笑った。「ただの古い時計だろう。そんなことで人を殴るなんて、どうかしてる」視界が赤く染まった。喉の奥から、絞り出すような声がこぼれる。「これは、母の形見なのよ!」湊はその場で固まり、心春を見た。心春は何も言わず、ただ傷ついたような顔で彼を見上げた。それだけで、湊は彼女に何一つ問いたださなかった。代わりに、私を責めた。「形見だから何だ。あとで修理に出してやる。いい大人が、物一つで恩人に手を上げるなんて」また、恩人。私はいったい、彼女からどんな恩を受けたというのだろう。抑えていたものが、そこでぷつりと切れた。「心春のどこが恩人なの?」湊は不機嫌そうに眉をひそめた。「君が事故に遭ったとき、心春は真っ先に輸血すると言ってくれただろう。それが恩じゃなくて何なんだ」私の胸には、冷えきった虚しさだけが残っていた。「心春が分けた血なんて、たった10ミリリットルじゃない。すぐにあなたが止めたんでしょう。彼女が風邪をひいていたから、私に何か移るのが怖かったの?それとも、ただ心春が可哀想だっただけ——」ぱん、と乾いた音が響
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第6話

湊の表情は和らいでいた。まるで、これまでのすべてがもう水に流されたかのように。けれど私は、もう二度と元には戻れないのだと知っていた。「湊、結婚しなくていい。私たち、別れましょう」湊は呆気にとられたように私を見たあと、言い聞かせるように言った。「また怒りに任せてそんなことを言う。俺と心春は何もない。彼女は自分からブライズメイドを務めたいと言ってくれたんだよ。それでもまだ安心できないのか?」私は皮肉っぽく口元を上げたが、言い返す気にもならなかった。どうせ、あと三日しかないのだから。ところが翌朝、秘書の小谷が大勢のボディーガードを連れてきて、私を無理やり採血室へ連れていった。彼女の話では、心春が湊の結婚式のリハーサルに付き添っているとき、ステージから転げ落ち、輸血が必要になったらしい。採血室の中で、湊は焦った様子で行ったり来たりしていた。心春は車椅子に座り、彼の気遣いを満喫しながら、挑発するように私を見ていた。いわゆる傷口とは、彼女の足首にできた五センチほどの切り傷だった。出血量は10ミリリットルにも満たなかった。湊は看護師を待ちきれず、低い声で命じた。「早く採血しろ」看護師は逆らえず、私の腕に採血用の針を刺した。「ごめん、千夏。心春は君のために式場を確認していて転んだんだ。だから君にも、彼女を助ける責任がある。君は恵まれた暮らしをしてきたし、体だって丈夫だろう。少し血を抜くくらい平気だ。心春が落ち着いたら、すぐに式を挙げよう」けれど血管から抜かれた血は、淡いピンク色をしていた。湊は息をのんだ。それが白血病の末期症状だとは知らなくても、明らかに異常だということだけはわかった。心春は目を泳がせると、わざと車椅子から降りようともがいてみせた。「湊さん、千夏さんはそんなに私に血を分けたくないんだね……わざと血の色がおかしく見えるようにするなんて。もういい、無理にお願いしないで。少し出血しただけだし、私は平気だから」笑えてきた。湊の目の前で私の血管に針を刺したのに、私にいったいどんな細工ができるというのだろう。それなのに湊は立ち上がり、冷たい声で命じた。「千夏、危うく君の芝居に騙されるところだった。小谷、千夏から目を離すな。ちゃんと赤い血が抜けるまで、採血を続けろ」そう言うと、湊は
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第7話

湊はそこで足を止めた。表情が険しくなり、声を荒らげた。「何を言ってる。たかが2000ミリリットル抜いただけで、千夏に何かあるわけないだろ。それに、この血だって彼女のものとは限らない」秘書の小谷は、震える声で言った。「ですが、東雲さんは手術が続いて、体力もかなり落ちていました。800ミリリットル抜いた時点で、もうほとんど血が出なくなっていて……それをさらに2000ミリリットルまで無理に——」「黙れ」湊は苛立ったように、彼女の言葉を遮った。「小谷、言えば言うほど馬鹿げているぞ。五年も俺についてきたお前まで、千夏の芝居に付き合うつもりか。死んだなんて縁起でもないことを言うな」そう言って、湊は採血室の扉を押し開けた。けれど中は、がらんとしていた。そこに私はいなかった。ちょうどそのとき、私の意識が戻った。目を開けると、湊がこちらへ歩いてくるのが見えた。彼は私に向かって手を伸ばした。私は思わず身を引こうとした。けれど、その手は私の肩をすり抜け、床に落ちていた血の付いた採血針を拾い上げた。湊が低くつぶやいた。「千夏?」そのとき初めて、私は自分が宙に浮いていることに気づいた。そうか。私は、死んだのだ。では、私の体はどこへ行ったのだろう。頼んでおいた葬儀社の人は、ちゃんと私を引き取ってくれただろうか。湊は小谷を振り返った。「千夏はどこだ。どこに隠した?」小谷は泣き出しそうな顔をして、首を振った。「社長、本当に隠していません。東雲さんは、さっき医師が運んでいきました。今は地下の霊安室にいるはずです」湊は眉をひそめ、疑うような目で小谷を見た。それからスマホを取り出し、私に電話をかけた。つながらなかった。彼の顔色はひどく悪かった。それを見て、私は皮肉っぽく口元を上げた。死人が、どうやって電話に出るというのだろう。それでも湊は、何度もかけ続けた。三回目で、なぜか電話がつながった。「千夏、どこにいるんだ。少し血を分けてもらおうとしただけだろう。それくらいで隠れるなんて大げさだ。もういい、献血はさせない。心春に必要な血は、医師に手配させた。だから出てこい。怒らないから」湊は一気にまくし立てた。電話の向こうからは、浅い呼吸音だけが聞こえた。そして、そのまま
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第8話

湊は足早に歩いていたせいで、医師の言葉の最後だけしか聞こえなかったらしい。振り返りもせず、面倒くさそうに言った。「お前たちが千夏の芝居に付き合っているのはわかってる。もういいから、隠れてないで自分から出てこいって伝えろ」私は皮肉に笑うしかなかった。湊の中の私は、本当にどこまでも計算高い女らしい。湊について上の階へ戻ると、心春が彼の胸に飛び込んだ。彼女は湊を強く抱きしめ、離れようとしない。湊の体は一瞬こわばった。けれど、彼女を押しのけることはなかった。むしろ、その背中を軽く叩いてなだめた。「もう大丈夫だ。怖がらなくていい。先生も言っていただろう。君は貧血だから悪夢を見やすいんだ。血が届けば、すぐによくなる」心春はうなずき、何気ないふりをして尋ねた。「千夏さん、私に血を分けるのが嫌で逃げたって聞いたけど、本当?湊さん、千夏さんを怒らないであげて。嫌なら無理に頼まなくていいよ。私は所詮、千夏さんのための保険なんだから。本当なら、私が千夏さんに血をあげる立場なのに」彼女は物分かりのいいふりをしながら、私が心の狭い人間だと匂わせていた。誰が聞いてもわかりそうなやり口なのに、湊は何度でも進んで引っかかっていた。案の定、彼はかすかに眉を寄せ、吐き捨てるように言った。「千夏は俺のそばで何不自由なく暮らしただけなのに、すっかり自分が偉くなったつもりでいるらしい。心春、安心しろ。必ず君にちゃんと謝らせる」心春の目に、ずる賢い光が浮かんだ。「もういいよ、湊さん。あと二日で湊さんたちの結婚式でしょう?式の前に新郎新婦が喧嘩するなんてよくないよ。私のせいでそんなことになったら、申し訳ないよ」湊は彼女の言葉に乗るように、どうでもよさそうに言った。「結婚?態度が悪いなら、結婚なんてしない。いくらでも先延ばしにすればいい。どうせずっと俺と結婚したがっていたのは、あいつのほうなんだから」その無関心な態度を見て、私は自嘲気味に笑った。そうだ。私はかつて、彼に九十九回も結婚したいと言った。けれど湊はいつも、まだその時ではないと言った。最初のころは、事業がまだ軌道に乗っていないから、私に肩身の狭い思いをさせたくないのだと言っていた。その後、入籍しようとするたび、心春が邪魔をした。あるときは病気になったと言い、あ
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第9話

駆け寄って奪い返そうとしても、見えない力に引き戻されてしまう。その日、湊が壊れた懐中時計をチャリティーオークションに出すという話は、あっという間に財界の知り合いたちの間に広まった。湊がわざわざ出す品なら、何か特別な由来があるのではないか。そう思った人たちは、骨董に詳しい人物に写真を見せた。もしかして、かなり価値のある名品なのではないか、と。写真を見た専門家は、なんとも言えない顔をした。その夜、湊は心春を連れてチャリティーパーティーに出席した。湊の視線は何度も会場を巡った。けれど、最後まで私の姿は見つからず、彼の表情は次第に険しくなっていった。周囲の人たちが、何気なく湊に尋ねた。「一条社長、今日はまた月島さんとご一緒なんですね。東雲さんは?」湊は淡々と答えた。「体調を崩していて、病院で休んでいます」周囲の人たちは顔を見合わせ、それから湊を持ち上げるように言った。「そういえば、数日前に東雲さんが事故に遭われたと聞きましたよ。わざわざ二日も付き添われたそうですね。あれほど大事にされているなんて、本当に羨ましいです。結婚式はいつですか?ぜひ呼んでくださいよ」その言葉に、湊の目にようやくわずかな感情が浮かんだ。口元がかすかに上がった。「もうすぐです」隣にいた心春は、誰からも相手にされず、悔しそうに唇を噛んでいた。やがて、見せつけるように湊の手を取って指を絡めた。「湊さん、少しめまいがするの。休憩に付き合ってくれる?」湊はうなずいた。二人の背後で、周囲の人たちが小声で囁き合った。「月島心春って子、何なんだ?まさか本気で奥さまの座を狙ってるのか?」「さすがにそれはないだろう。一条社長が東雲さんをどれだけ大事にしていたか、みんな知ってるじゃないか。前に東雲さんに酒を一杯飲ませただけで、相手の会社に相当な痛手を負わせたって話だぞ」以前なら、湊はとっくに皆の前で私との関係をはっきり示し、余計なことを言うなと釘を刺していたはずだった。けれど今は、私について何を言われても、湊は聞こえないふりをした。30分後、チャリティーオークションが始まった。心春が少しでも気に入ったものは、湊がすべて高値で落札した。そのたびに、心春はわざと周囲に聞こえる声で言った。「湊さん、私に優しすぎるよ
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第10話

スタッフは引きつった笑みを浮かべた。「一条社長、せっかく落札いただいたお品ですので……お支払いはカードでよろしいでしょうか」湊は唇の端を上げ、適当に一枚のカードを差し出した。すると、決済端末に表示が出た。「残高不足です」湊は肩をすくめた。「すみません、残高が足りないようです。今回はキャンセルということで」そばにいた心春は、笑いをこらえるのに必死だった。それでもわざと心配そうな顔を作り、湊の袖を軽く引いた。「そんなことをしたら、千夏さんが怒るよ」湊は冷たく鼻を鳴らした。「千夏に、俺との別れを決める資格なんてない。俺から離れたら、彼女には何も残らない」私は怒りに満ちた彼の横顔を呆然と見つめ、やがてうつむいて苦笑した。なるほど。湊がわざわざこんな茶番を仕組んだのは、私を辱めるためだったのだ。自分がどれほど惨めな立場なのか、私に思い知らせるために。湊があんな態度を取ったせいで、会場の誰もそれ以上値をつけようとはしなかった。彼の機嫌を損ねることを恐れたのだ。ただ一人、空気を読めなかった小さな会社の社長だけが、200万円で落札した。その社長は、懐中時計を手に取ると、大事そうに胸ポケットへしまった。私はその場で固まった。その社長は、幼なじみの鳴海悠斗(なるみゆうと)だった。中学のころ、彼は引っ越していき、それきり音信不通になった。まさかこんな形で再会することになるとは、思いもしなかった。やがて、宴はお開きになった。湊の視線は、何度も悠斗へ向かっていた。駐車場へ向かう途中、とうとう我慢できなくなったのか、彼は悠斗の前に立ちはだかった。「壊れた時計に200万円も出す価値があるのか?」悠斗は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。「ありますよ。この時計、大切な人が持っていたものによく似ているんです。彼女に渡したら、喜んでくれるかもしれないので」悠斗の目に宿った光に、湊はひどく苛立ったようだった。彼は冷たい声で尋ねた。「東雲千夏を知っているのか?」「ええ。子どものころ、俺たちは近所に住んでいて……」「2000万円だ。返せ」湊は乱暴に彼の言葉を遮り、その場で小切手を切ると、悠斗の胸ポケットから懐中時計を奪おうとした。二人の言い争いに、人々が集まり始めた。
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