全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで のすべてのチャプター: チャプター 91 - チャプター 100

106 チャプター

第91話:まだ知らない

土曜日の昼だった。窓から差し込む陽射しがリビングの床を明るく照らしている。私はソファに座りながらスマホを眺めていた。画面に表示された名前を見た瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。Mom。しばらく会えていない母からの着信だった。その表情の変化に気づいたのか、キッチンでコーヒーを淹れていた拓真さんが顔を上げる。「どうした?」「……お母さんです」そう答えた瞬間、着信音が鳴った。拓真さんは何でもないように頷く。「出れば?」私は小さく頷いて、そのままバルコニーへ出た。外の空気は少し冷たい。手すりに寄りかかりながら通話ボタンを押す。「ママ」『愛海! 久しぶりじゃない』懐かしい声だった。それだけで少し肩の力が抜ける。他愛ない近況報告が続く。仕事はどうなのか。ちゃんと食べているのか。東京は寒いのか。そんな話をしていた時だった。『そういえば樹くん元気?』私の指先が止まった。『この前パパとも話してたのよ』母は何も知らない。だから当然のように続ける。『次に日本へ行ったらちゃんと顔合わせしないとねって』『婚約ってやっぱり特別だし』胸の奥が少しだけ痛んだ。でも、それはもう以前みたいな痛みじゃなかった。私はゆっくり息を吐く。「お母さん」『ん?』「私、樹と別れたの」風の音だけが耳に残る。数秒の沈黙。『……え?』声が揺れていた。『どういうこと?』「婚約もなくなった」静かに言葉を続ける。「色々あったけど、もう終わったの」不思議だった。以前なら口にするだけで苦しくなったはずなのに。今はちゃんと話せる。終わった過去として。それに気づいて、自分でも少し驚いた。母はしばらく黙っていた。やがて小さく息を吐く。『……そう』『お母さん、樹くん好きだったから』胸の奥が少しだけきゅっとする。『優しかったし』『愛海のこと本当に大事にしてると思ってたのよ』私は何も言えなかった。その時だった。何気なく部屋の中へ視線を向ける。キッチンに立つ拓真さんが見えた。コーヒーを淹れている。でも、さっきから手が止まっている。聞こえている。たぶん全部。胸が少しだけざわついた。母は優しい声で続ける。『でもね』『愛海が幸せなら、それが一番だから』私は小さく笑った。「うん」そして少しだけ照れながら言う。「
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第92話:写真

月曜日の夜だった。仕事を終えて隣の部屋へ行くことも、少しずつ当たり前になり始めていた。玄関を開けると、拓真さんが「おかえり」と言う。最初は照れていたその言葉も、不思議なくらい自然に胸へ落ちるようになっていた。それでも、まだ完全には慣れない。部屋に入るたび、ここが自分の居場所になり始めていることを実感してしまうからだ。リビングへ入ると、コーヒーの香りが漂っていた。間接照明だけが灯る静かな部屋。ソファへ腰を下ろすと、拓真さんも隣へ座る。近い。でも、今はもうその距離に心臓を跳ねさせるだけじゃなくて、安心してしまう自分がいた。週末のことを思い出す。お母さんとの電話。樹の話。婚約の話。そして、拓真さんが見せた少しだけ寂しそうな顔。「あのさ」ふいに声が落ちてきた。顔を上げる。拓真さんはスマホを置いて、私を見ていた。「ん?」「この前の写真」「LAのですか?」「うん」私はスマホを開いた。写真フォルダをスクロールする。海。高校時代の友達。庭を走り回るラテ。家族旅行。どれも懐かしい。拓真さんは何も急かさず、一枚ずつ見ていた。本当に一枚ずつ。流すのではなく、覚えるみたいに。「この犬かわいいな」「ラテです」「会いたい」思わず笑う。「ラテ、人見知りですよ」「じゃあ仲良くなる」真面目な顔で言うから余計に可笑しい。しばらく写真を眺めていた拓真さんの指が、一枚の写真で止まった。夕暮れのビーチだった。私と両親が並んで笑っている。昔から好きな写真だった。「……」拓真さんはしばらく何も言わなかった。ただ静かに見ている。その横顔を見ているうちに、私は少しだけ緊張してきた。「どうかしました?」そう聞くと、拓真さんは小さく息を吐いた。「いや」少しだけ笑う。でも、その笑い方はどこか照れくさそうだった。「いい家族だなと思って」胸が少し温かくなる。「うん」「だから余計かもしれない」私は首を傾げた。拓真さんは視線を写真へ戻す。「この中に高山がいた時間が長かったんだろうなって思った」静かな声だった。責めるような響きはない。ただ、本音だった。「お前の両親も高山のこと好きだったし」苦笑する。「普通に嫉妬する」思わず笑ってしまう。週末からずっと思っていたけれど、この人は案外隠さない。嫉妬
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第93話:流されっぱなし

金曜日の夜だった。仕事を終えて拓真さんの部屋へ来ることも、もう特別なことではなくなり始めていた。玄関を開けて部屋へ入る。洗面所で手を洗おうとして、ふと足が止まった。鏡の前に並ぶものが増えている。スキンケア。ヘアゴム。歯ブラシ。数日前に買ってくれた部屋着。どれも自然にそこに置かれていた。最初は少し照れたはずなのに。今ではそれが当たり前になり始めている。私はしばらく洗面台を見つめた。胸の奥が少しだけざわつく。嬉しくないわけじゃない。むしろ嬉しい。でも、その嬉しさに安心しきってしまうのが少し怖かった。後ろから腕が回る。背中に温かい体温が重なった。「お疲れ」耳元で落ちる低い声。仕事中とは全然違う。それだけで肩の力が抜けそうになる。「……ただいま」そう返した瞬間、自分で少し驚いた。いつの間にか自然に言えるようになっていた。拓真さんが小さく笑う。首筋に軽く唇が触れる。以前なら固まっていたはずなのに、最近はその距離にも少し慣れてしまった。だからこそ。今、言わなければいけない気がした。「拓真さん」「ん?」抱き締める腕はそのまま。私は少し息を吸う。「今日」言葉を探す。「今日は自分の部屋で寝ようと思います」腕が止まった。ほんの少しだけ。それが分かった。部屋が静かになる。やがて拓真さんがゆっくり身体を離した。振り向く。視線が重なる。「何かあった?」責める声ではなかった。ただ理由を知りたい声だった。私は首を振る。「嫌になったとかじゃないんです」「うん」「むしろ逆で」言葉を選ぶ。ちゃんと伝えたかった。「最近ここにいるのが当たり前になってきて」少し笑う。「それが嬉しいんです」拓真さんは黙って聞いている。「でも」視線を落とす。「流されるままじゃなくて」「自分で選びたいなって思って」静かな沈黙が落ちた。私は続ける。「拓真さんといたいからいる、にしたいんです」「寂しいからじゃなくて」「不安だからじゃなくて」「ちゃんと選んで隣にいたい」言い終わった後、少しだけ怖くなった。傷つけたかもしれないと思った。でも。拓真さんはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。「なるほど」その声は静かだった。それから少し笑う。「愛海らしいな」私は顔を上げる。拓真さんも笑っ
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第94話:我慢

月曜日だった。朝から、何となく落ち着かなかった。理由は分かっている。自分で言ったからだ。少し距離を置きたい。流されるままじゃなく、自分で選びたい。あの日、そう伝えた。拓真さんはちゃんと受け止めてくれた。だから今の状況は、私が望んだ結果だ。それなのに。どうしてこんなに落ち着かないんだろう。会議室では、いつも通り仕事の話が続いていた。資料の修正点。来週の案件。本社との調整。拓真さんは相変わらず完璧だった。無駄がない。感情を見せない。支社代表としての顔。「この資料、午後までに修正お願いします」低い声が響く。「……分かりました」返事をする。それだけ。それだけなのに。胸の奥が少しだけ寂しい。前なら、もう少し近かった。資料を渡す時に肩が触れたり。耳元で小さく指摘されたり。目が合った時にだけ表情が緩んだり。そんな小さなことが当たり前になっていた。でも今は違う。拓真さんは徹底していた。近づきすぎない。触れない。必要以上に視線を向けない。私が望んだ距離を守っている。ちゃんと。完璧なくらいに。そのことが少し苦しかった。***昼休み。給湯室でコーヒーを淹れる。機械の音だけが響く。無意識に入口へ視線が向いた。前なら。たぶん来ていた。「甘いやつ飲みすぎ」そんなことを言いながら。当然みたいに隣へ立っていた。でも今日は来ない。当然だ。私がそうしてほしいと言ったんだから。それなのに。胸の奥が少し痛む。「伊藤さん?」声がして振り返る。田中さんだった。「はい?」「浅井くんと何かあった?」心臓が跳ねる。「え?」「いや」田中さんが苦笑する。「最近また距離戻ったなと思って」私は言葉に詰まった。田中さんは続ける。「前、すごく空気柔らかかったじゃないですか」「最近また仕事モードというか」「……」私は曖昧に笑うことしかできなかった。だって原因は私だ。拓真さんは何も悪くない。ちゃんと私の気持ちを尊重してくれているだけだ。***火曜日。拓真さんは本社出張だった。朝から会えない。昼も会えない。夜も会えない。スマホに届くメッセージは短かった。【会議入る】【移動中】【戻り遅くなる】業務連絡みたいだった。それでも返信が来るだけ嬉しいと思うべきなのに。私は
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第95話:会いたい

木曜日の夜だった。オフィスの窓の外には、すっかり暗くなった街の灯りが広がっている。昼間は人の出入りが絶えなかったフロアも、今は静かだった。誰かが席を立つ音。コピー機の作動音。遠くで聞こえる電話の着信音。それらも少しずつ消えていき、気づけば残っているのは数人だけになっている。私は画面に向かったまま、小さく息を吐いた。目の前には資料。今日中にまとめたいタスクも残っている。本来なら集中しなければいけない時間だった。なのに。気づけば視線がスマホへ向かう。通知はない。当然だ。拓真さんは本社出張中なのだから。分かっている。たった数日だ。前の私なら何とも思わなかった。一人で残業して、一人で帰って、一人で眠る。それが普通だった。なのに今は違う。拓真さんがいないだけで、オフィスの空気そのものが少し変わってしまった気がする。会議室から出てくる時に目が合うこともない。給湯室へ行けば、いつの間にか隣に立たれていることもない。「甘いやつ飲みすぎ」そんな声が聞こえてくることもない。私は思わず苦笑した。ほんの少し前までは、あの距離感に振り回されていたのに。近い。心臓に悪い。会社でやめてほしい。そんなことばかり考えていた。それなのに。なくなったらなくなったで、こんなにも寂しい。自分でも面倒くさいと思う。結局、資料をまとめ終えた頃には、時計は二十一時を過ぎていた。パソコンを閉じる。静かなフロアを見渡してから立ち上がる。誰もいないエレベーターに乗り込む瞬間、ふと思った。今までは、この時間になると自然に拓真さんの顔を探していたな、と。仕事が終わったあと、一緒に帰るのが当たり前になり始めていた。そのことに今さら気づいて、少しだけ胸が痛くなる。帰宅した部屋は静かだった。玄関の灯りをつける。誰もいない。当たり前なのに、少しだけ広く感じる。バッグを置いて、ソファへ腰を下ろした。部屋を見回す。何も変わっていない。自分の部屋だ。ずっと住んできた場所だ。それなのに。どこか落ち着かない。私は無意識にスマホを手に取る。そして、また置く。数日前までなら、この時間には隣の部屋にいた。仕事終わりに一緒に帰って。コーヒーを飲んで。くだらない話をして。気づけば夜になっていた。特別なことをしていたわけじゃない。
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第96話:おかえり

金曜日の夜だった。時計を見る。二十二時を少し過ぎている。ソファに座る。立ち上がる。キッチンへ行って水を飲む。またスマホを見る。そんなことを、この一時間で何回繰り返しただろう。画面には、さっき届いたメッセージ。【今新幹線乗った】たった一行。それなのに、その画面を何度も開いてしまう。昨日の夜の電話を思い出す。『ちゃんと愛海のペース覚える』あの声。少し疲れていて。でも優しくて。私を安心させようとしてくれていた声。会いたい。思った以上に。声が聞けたら落ち着くと思っていた。少しだけ我慢できると思っていた。でも違った。声を聞いたからこそ。余計に顔が見たくなった。今、どんな顔で笑うんだろう。ちゃんと寝ているんだろうか。出張続きで疲れていないだろうか。そんなことばかり考えてしまう。私は小さく息を吐いた。自分でも笑ってしまう。少し前まで。恋愛なんて面倒だと思っていたのに。誰かを待つ時間なんて嫌いだったのに。今は、新幹線が東京に着く時間を計算している。気づいた時には立ち上がっていた。コートを羽織る。バッグを掴む。玄関を出る。その行動に、ほとんど迷いはなかった。***駅に着く頃には、夜風が少し冷たくなっていた。金曜日の遅い時間。昼間ほどの人混みはない。改札前の広場には、仕事帰りの人たちがぽつぽつと立っているだけだった。私は少し離れた場所で足を止める。手のひらが落ち着かない。スマホを握ったり離したりする。来る。あと少しで。そう思うだけで心臓がうるさい。改札の向こうに人の流れができる。スーツ姿の人たち。キャリーケースを引く人たち。その中に。見慣れた姿を見つけた。拓真さんだった。黒いスーツ。片手にはキャリーケース。少し疲れた顔。出張帰りらしい表情。いつも会社で見る拓真さんだ。でも。私を見つけた瞬間、その表情が止まった。数秒。本当に数秒だったと思う。でも私には、ずいぶん長く感じた。視線が重なる。それだけで胸が熱くなる。やがて拓真さんが小さく笑った。張り詰めていた仕事の顔がほどける。安心したみたいに。嬉しそうに。「……何してんの」低い声。少し掠れている。私は思わず笑ってしまった。「迎えに来ました」その言葉に、拓真さんが目を閉じる。まるで何か
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第97話:ただ近くに

金曜日の夜だった。新幹線が東京駅へ着く頃には、街の灯りがすっかり夜の色に変わっていた。私は改札の少し手前で立ち止まり、人の流れを眺めていた。胸の奥が落ち着かない。さっきから何度もスマホを確認している。【今新幹線乗った】数時間前に届いたそのメッセージを、たぶんもう何度も読み返していた。昨日の電話を思い出す。『ちゃんと愛海のペース覚える』あの声。少し疲れていて。でも優しくて。私を安心させようとしてくれていた声。それを聞いて、少し落ち着いたはずだった。なのに。会いたい気持ちは消えなかった。むしろ、顔が見たくなった。今どんな顔をしているのか。ちゃんとご飯を食べているのか。眠れているのか。そんなことばかり考えてしまう。人の流れの向こうに、見慣れた姿を見つけたのはその時だった。黒いスーツ。キャリーケース。少し疲れた横顔。拓真だった。視線が合う。その瞬間、胸の奥が熱くなる。拓真も足を止めた。数日ぶりなのに、不思議な感覚だった。長かったような気もするし。昨日まで一緒にいたような気もする。やがて拓真が小さく笑う。仕事の顔がほどける。それだけで、少し安心した。「……何してんの」低い声。でも、どこか嬉しそうだった。私は少し照れながら答える。「迎えに来ました」その瞬間、拓真が目を閉じた。長く息を吐く。まるで何かを堪えるみたいに。「それ反則」思わず笑ってしまう。すると拓真も苦笑した。「普通に会いたくなるだろ」その言葉が妙に嬉しかった。お互い少しだけ黙る。でも気まずくない。以前なら何か話さなきゃと思ったかもしれない。今は違う。ただ同じ場所にいるだけで安心する。その感覚があった。駅前の駐車場へ向かう道すがら、拓真が小さく息を吐いた。「やっと帰ってきた感じする」私は思わず隣を見る。拓真は前を向いたまま笑っていた。「本社どうでした?」「疲れた」即答だった。その返事がおかしくて笑う。すると拓真も少し笑った。「でも電話できて助かった」足が止まりそうになる。昨日の夜。私が送った一言。【声聞きたいです】あのメッセージを思い出す。「……私もです」小さく返すと、拓真は何も言わなかった。ただ、少しだけ目を細めた。その表情が柔らかくて、胸が温かくなる。車へ着く。キャリ
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第98話:帰したくない

拓真の部屋へ入ると、ほっとしたような空気が胸の奥に広がった。玄関の灯り。見慣れた廊下。何度も来ているはずなのに、数日ぶりだと少しだけ懐かしく感じる。「適当に座って」背中越しに聞こえた声は、いつもより少し掠れていた。私は靴を脱ぎながら振り返る。拓真はネクタイを緩め、そのままキッチンへ向かっていた。出張帰り。本社との打ち合わせ。支社代表としての調整。この数日、ずっと気を張っていたのだろう。疲れているのが分かる。それでも私の前では無理に取り繕わない。そのことが少し嬉しかった。「何飲む?」「コーヒーで大丈夫です」「了解」短いやり取り。それだけなのに落ち着く。拓真は袖をまくりながらコーヒーを淹れ始めた。静かな横顔。少し乱れた髪。会社では絶対に見せない気の抜けた姿。その背中を見ながら、私はふと思う。この数日、寂しかったのは私だけじゃなかったのかもしれない。数分後。二人でソファに座る。以前なら、拓真は迷わず距離を詰めてきただろう。でも今は違う。近くにはいる。けれど近づきすぎない。私の言葉を覚えていてくれているのが分かった。その気遣いが愛しい。同時に、少しだけ切ない。拓真は背もたれに身体を預けた。長く息を吐く。珍しく、かなり力が抜けている。「疲れてます?」そう聞くと、拓真は薄く笑った。「まあな」少し考えてから続ける。「でも帰ってきた感じする」私は思わず顔を上げた。拓真は天井を見たまま言う。「ホテルって休めるけど落ち着かないし」「本社いる間ずっと気張ってたし」静かな声だった。でも本音だった。私は胸の奥が温かくなるのを感じる。拓真はゆっくり目を閉じた。緩めたシャツ。少し疲れた表情。会社では絶対に見せない顔。それを見ていると、不意に愛おしさが込み上げる。「何」目を閉じたまま聞かれて、私は慌てて視線を逸らした。「見てただけです」「嘘っぽい」小さく笑う声。疲れているせいか、いつもより少し低い。私はつられて笑った。すると拓真がゆっくり目を開ける。その視線が私に向く。柔らかい。仕事中の鋭さはどこにもなかった。「愛海」「はい」「ちょっと来て」私は少し迷ったあと、身体を寄せた。その瞬間。拓真が自然に腕を伸ばす。引き寄せるというほど強くはない。ただ、隣に来
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第99話:知らない顔

朝、目を覚ますと、カーテンの隙間から柔らかな光が差し込んでいた。まだ少し眠いまま瞬きをする。静かな部屋。聞こえるのはエアコンの小さな音だけだった。ゆっくり視線を動かす。すぐ隣に拓真がいた。思わず呼吸が止まる。何度か一緒に朝を迎えたことはある。それでも、こうして目を開けた瞬間に彼の姿があることには、まだ慣れなかった。眠っている拓真は会社にいる時と全然違う。いつも綺麗に整えられている髪は少しだけ乱れていて、閉じられた目元からは仕事中の鋭さも消えている。支社代表の顔でもない。頼れる上司の顔でもない。ただ静かに眠る一人の男だった。そして、その腕は私の腰を抱いたまま離れていなかった。無意識なのだろう。それでも胸の奥が熱くなる。そっと身体を動かそうとした瞬間だった。「……愛海」低い声が落ちる。まだ眠ったままみたいな声。私は思わず動きを止めた。「起きてます?」小さく聞くと、「んー……」曖昧な返事が返ってくる。そのまま拓真は私の肩へ顔を寄せた。「まだ寝る」掠れた声。完全に寝起きだった。思わず笑ってしまう。すると拓真が薄く目を開けた。「……何」「いえ」「笑った」少しだけ不満そうな声。でも全然迫力がない。その顔がおかしくて、私はもう一度笑った。会社でこんな姿を見たら誰も信じないと思う。あんなに隙がなくて。近寄りがたくて。何を考えているか分からない人なのに。本当はこんなふうに不機嫌そうに寝ぼけたりする。「拓真って」「ん?」「思ったより笑うんですね」拓真が少しだけ目を細めた。それから小さく息を吐く。「それ田中にも言われた」「やっぱり」「失礼だな」そう言いながら口元は笑っている。そして少しだけ間を置いてから、「愛海の前だからじゃない」静かな声で言った。「多分」その言葉に胸が鳴る。きっと本人も完全には自覚していない。でも私は分かってしまう。拓真は私の前だと少しだけ力を抜く。弱いところも見せる。甘えることもある。それが嬉しかった。好きだと思う。改めて、そう思った。***シャワーを浴びてリビングへ行くと、コーヒーの香りが部屋に広がっていた。拓真はキッチンに立っている。袖をまくったシャツ姿。マグカップを並べながら何かを作っていた。「おはよう」「おはようござい
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第100話:紹介

大型インテリアショールームは、週末らしい賑わいに包まれていた。高い天井。大きな窓から差し込む午後の光。モデルルームのように整えられた空間がいくつも並び、その間を家族連れやカップルが行き交っている。私は隣を歩く拓真を見上げた。少し前を歩きながらソファを見比べている横顔は、どこか楽しそうだった。「思ったより広いですね」思わず声が漏れる。すると拓真が振り返った。「初めて来た?」「はい」「結構好きなんだよな、こういう場所」その言葉に少し驚く。すると拓真が苦笑した。「また意外って思っただろ」「少しだけ」「最近そればっかり言われる」そう言って笑う。私はその顔を見て胸の奥が温かくなった。少し前まで、拓真はもっと遠い人だった。近寄りがたくて。完璧で。何を考えているか分からなくて。でも今は違う。笑うことも。拗ねることも。照れることも。疲れることも知っている。知れば知るほど、人間らしい人だった。「ソファどうするんですか?」私が尋ねると、拓真は展示品の背もたれを軽く押した。「今のやつ柔らかすぎる」「ああ」思わず納得する。「愛海すぐ沈むし」さらっと言われて、私は一瞬言葉を失った。まるでこれからも当然のように私があの部屋へ来る前提みたいで。そういうところがずるい。拓真自身は特別なことを言っているつもりがない。だから余計に心臓に悪かった。そんな時だった。拓真がスマホを見て、小さく眉を上げた。「そういえば今日日本いるらしい」「誰がですか?」「この家の持ち主」私は目を瞬く。建築家の友人。最初に拓真の部屋へ行った時に聞いた名前だった。家具の配置も。部屋の空気も。どこか拓真らしいのに少し違う理由。それを説明してくれた人。「圭吾?」「うん」拓真はため息をついた。「多分会いたがる」「え?」「面倒だから会いたくないんだけど」「ひどいな」後ろから声がした。振り返る。長身の男性が片手を上げて笑っていた。ラフなジャケット。無造作な髪。人懐っこい笑顔。拓真とは真逆の空気を纏っている。「いた」男はそのまま近づいてくる。「浅井が女と家具見てるとか都市伝説かと思った」「うるさい」拓真が即答する。そのやり取りだけで二人の関係性が分かった。長い付き合いなのだろう。遠慮がない。「
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