全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

106 チャプター

第71話:昨日の温度

最初に意識に触れたのは、薄く差し込む光だった。カーテンの隙間からこぼれた白い朝日が、リビングの床に細く伸びている。 見慣れない天井。少し低い照明。昨日まで知らなかった部屋の匂い。洗剤と、コーヒーと、浅井さんの気配が混ざったような、静かな空気。「……」愛海は、しばらく目を開けたまま動けなかった。頭がまだ重い。喉が少し乾いている。身体の奥に、眠りきれなかった熱が残っている。ここはどこだろう。そう思ったのは、一瞬だけだった。次の瞬間。全部、戻ってきた。樹と飲んだこと。浅井さんの家に来たこと。水を飲まされて。問い詰められて。嫉妬されて。そして。自分が言ってしまった言葉。“帰りたくないです”“好きです”“もっと”「……っ」愛海は反射的に身体を起こした。ブランケットが膝から滑り落ちる。ソファ。浅井さんのリビング。昨日、浅井さんに抱きしめられていた場所。その事実が、寝起きの鈍い意識に容赦なく流れ込んでくる。「……無理」声にならない声が落ちた。何を言った。何をしている。好きです、まではまだいい。よくはないけれど、まだ説明できる。でも。“もっと”は何。あれは何をどう考えても、酔っていたとしても、許される範囲を超えている。「……最悪……」両手で顔を覆う。指の間から漏れる息まで熱い。昨日の自分を思い出すだけで、身体ごと小さく畳まれていくようだった。しかも。浅井さんは止めてくれた。あんなに近かったのに。あんなに声が低かったのに。“ちゃんと付き合う時、後悔させたくない”と。その優しさまで思い出してしまって、もう余計に逃げ場がない。その時。キッチンの方から、カップが置かれる小さな音がした。「起きた?」低い声。寝起きの頭に、やけに深く響く。愛海は弾かれたように顔を上げた。「……っ」浅井さんがいた。キッチンに立っている。白いシャツの袖を軽く捲って、コーヒーを淹れていた。髪も服も整っていて、昨日の夜の気配なんて少しも引きずっていないみたいに見える。あまりに普通だった。普通すぎて、逆に傷つくくらい。「水飲む?」浅井さんがこちらを見る。声も、表情も、落ち着いている。昨日、あんな顔をしていた人と同じ人とは思えない。「……飲みます」かろうじて答えると、浅井さんがグラスを持って近
続きを読む

第72話:普通のフリ

朝、目が覚めた瞬間から、身体のどこかが昨日に取り残されていた。自分の部屋の天井。いつものカーテン。枕元のスマホ。全部、見慣れたもののはずなのに、愛海はしばらく現実に戻れなかった。昨日の浅井さんの部屋の匂いが、まだ髪に残っている気がする。「……」布団の中で顔を覆う。思い出したくない。でも、思い出したい。その矛盾だけで、朝から消耗する。“好きです”“帰りたくないです”“もっと”「……っ」愛海は枕に顔を埋めた。恥ずかしい。消えたい。なのに、なかったことにされたら多分もっと傷つく。その時点で、もうどうしようもなかった。普通に戻す。今日は絶対に普通にする。そう決めるほど、昨日の浅井さんの声が身体の奥で蘇る。会社に着いて、席に座るまで、愛海は何度も深呼吸をした。PCを開き、メールを見る。資料を並べる。ペンを持つ。普段通りの動作をひとつずつ確認するみたいにこなしていく。大丈夫。仕事をすれば戻れる。そう思ったところで、背後から低い声が落ちた。「おはよう」指先が、分かりやすく止まった。振り向かなくても分かる。浅井さんだ。「……おはようございます」なんとか返す。浅井さんはいつも通りだった。整ったスーツ。落ち着いた声。余計な感情を見せない横顔。昨日、自分を抱きしめて「止まれない」と言った人とは思えないくらい、仕事の顔をしていた。「昨日の修正版、あとで見せて」「……はい」それだけ。何もなかったみたいに会話が終わる。ほっとしたはずなのに、胸の奥に小さな棘が残った。普通にしたいのは自分なのに。普通にされると、少し寂しい。矛盾している。分かっている。でも、止められなかった。午前中、愛海は何度も小さなミスをした。数字の桁、資料名、更新日時。普段なら絶対に見落とさない部分ばかりだった。「伊藤」呼ばれて顔を上げる。浅井さんが資料を持って立っていた。「ここの数字、ズレてる」「あ……すみません」「疲れてる?」「大丈夫です」即答した。大丈夫じゃないのに。浅井さんは少しだけ目を細めた。昨日のことに触れるのかと思った。でも、何も言わない。「直したら送って」それだけ。その距離感が、また苦しかった。踏み込まれたら困る。でも、踏み込まれないと不安になる。自分がどれだけ面倒な状態なのか、愛海自身が一
続きを読む

第73話:慣れてる距離

午後。新規プロジェクトの打ち合わせが始まったのは、昼休憩の少し後だった。会議室には、外部取引先のメンバーが数人。ノートPCの起動音。資料をめくる音。名刺交換の声。いつも通りの空気。なのに。愛海だけが、まだ少し昨日を引きずっていた。――普通にする。そう決めたはずだった。でも。浅井さんが同じ会議室にいるだけで、どうしても意識が向く。向けたくないのに。向いてしまう。昨日。あんなふうに抱き締められた。“ちゃんと好きって言われた状態で我慢させて”そう言われた。なのに。今の浅井さんは、何事もなかったみたいな顔をしている。仕事の顔。落ち着いた声。余計な感情を見せない横顔。それが少しだけ。悔しい。私だけ、まだ昨日から抜け出せていないみたいで。「本日はよろしくお願いします」その時。会議室の空気が少し変わった。入ってきた女性が、自然に場の中心を取る。長い髪。柔らかい笑顔。派手すぎないのに、ちゃんと目を引く華やかさ。空気の読み方がうまい人。第一印象だけで分かった。「あ、初めまして。黒瀬です」取引先責任者。年齢は三十前後だろうか。でも。喋り方や目線の置き方に、場数を踏んでいる人の余裕があった。「浅井さんですよね?」黒瀬が、迷いなく浅井さんを見る。その笑顔が、少しだけ近い。「噂、聞いてます」「……悪い噂じゃなければいいけど」浅井さんが少し笑う。自然だった。仕事用の笑顔。でも。愛海がまだ数日前まで知らなかった顔。少し力が抜けていて。柔らかくて。相手を警戒させない笑い方。「前の案件の資料、拝見しました」黒瀬さんが言う。「すごく綺麗な設計で。ああいうロジカルな組み立てできる人、私かなり好きです」さらっと言う。空気が少し笑う。誰も嫌な気持ちにならない言い方。距離の詰め方が上手い。浅井さんは困ったみたいに少し笑った。「仕事褒められるのはありがたい」「え、仕事“だけ”ですか?」黒瀬さんが軽く返す。周囲がまた笑う。その流れに。浅井さんも自然に乗っている。「……」愛海の手が止まる。胸の奥が、ざわついた。(……何それ)別に。普通だ。ただの仕事。相手も大人。距離感が近いタイプ。それだけ。分かってる。なのに、嫌だった。昨日。あんな顔を見たばかりだから。
続きを読む

第74話:知っている距離

朝から、少しだけ空気が重かった。理由は分かっている。昨日。ガラス越しに向けられた、あの視線だ。怒っている。というより。機嫌が悪かった。でも、それだけじゃない。あれはたぶん。我慢している人の顔だった。昨日、あんなふうに抱き締めたくせに。――好きって言わせたくせに。なのに、今日は元婚約者と楽しそうなの?言葉にしたら、きっとそんな感情。思い出すだけで。愛海の胸の奥が、落ち着かなくなる。「……」オフィスに着いてからも、なんとなく浅井さんの方を見られなかった。昨日の余韻が消えない。それなのに。今日、顔を合わせたら何を言えばいいのか分からない。普通にしたい。でも。普通にされると、少し寂しい。そんな自分が、また面倒だった。「おはようございます」会議前。資料を整えていると、浅井さんが入ってくる。いつも通り。ジャケットを片手で椅子に掛け、コーヒーを置いて、何事もなかったようにPCを開く。でも。空気が少し違った。静か。というより。少しだけ温度が低い。誰に対しても普通。でも。昨日までの“少しだけ柔らかい”感じがない。愛海が挨拶をすると、視線だけが一瞬上がる。「おはよう」それだけ。短い。でも。その一瞬の目が、昨日を忘れていないことだけは分かった。少しだけ。責めるみたいな目。愛海の胸が、またざわつく。(……怒ってる)たぶん。昨日、樹と近かったから。なのに。少し安心してしまう自分が嫌だった。会議室。新規プロジェクト二日目。外部メンバーも揃い、昨日と同じ顔ぶれが並ぶ。その中で。やっぱり、一番空気を動かすのは黒瀬さんだった。「おはようございます」ぱっと場が明るくなる。距離の詰め方が自然で。気遣いもできる。仕事も早い。嫌な人じゃない。むしろ、かなり感じがいい。だから余計に。少しだけ苦しい。「浅井さん、今日ちょっと話しやすくないですか?」黒瀬さんが笑いながら言う。「昨日より柔らかい気がします」浅井さんが書類から顔を上げる。少しだけ考えて。「そう?」短く返す。でも。口元が少しだけ緩む。「慣れただけかも」自然だった。仕事モードの笑い方。でも。愛海は知ってしまった。あんなふうに余裕が崩れる顔を。困ったみたいに笑う顔を。我慢してる顔を。だからこそ
続きを読む

第75話:好きなくせに

夜になって。長かった打ち合わせが終わる頃には、オフィスの窓の外はもう暗くなっていた。張り詰めていた空気が少しずつほどける。椅子が引かれる音。PCを閉じる音。誰かの小さなため息。その中で、黒瀬だけは最後まで空気が明るかった。「お疲れさまでしたー!」ぱっと笑う。疲れているはずなのに、それを感じさせない。「浅井さん」帰り支度をしながら、黒瀬が少し身を乗り出す。「今度ほんとにご飯連れてってくださいね」軽い口調。でも、少しだけ本気が混ざっている。浅井さんは資料をまとめながら、ちらりと視線を上げた。「気が向いたら」いつもの短い返事。でも、完全に拒絶するわけでもない。その温度が。妙に気になった。「えー、絶対忘れるやつ」黒瀬が笑う。周囲も少し笑った。自然なやり取り。大人同士の距離感。別に。何もおかしくない。なのに。胸の奥だけが、少し落ち着かなかった。(……嫌だ)思った瞬間、自分で驚く。嫌?何が?返事もしていないのは自分だ。逃げているのも自分だ。それなのに。他の人が、浅井さんの隣に自然に立つだけで、少しだけ苦しくなる。「愛海」横から声。樹だった。「今日さ、軽く飯行く?」自然だった。昔から何度も繰り返してきたみたいな言い方。無理に誘わない。でも、断られると思っていない距離。「……」少し迷う。この空気から逃げたい気もした。浅井さんのことを考えたくない。少し整理したい。樹といると、昔の自分に戻れる。安心する。だから。「……うん」答えかけた、その時。「伊藤」声が落ちた。振り向く。浅井さんだった。デスクに寄りかかるように立っている。でも。目だけが、全然余裕じゃなかった。「資料、残ってる」短い言葉。「今日中」それだけ。でも。有無を言わせない空気だった。「……え」愛海が少し戸惑う。そんな話、あったっけ。樹も一瞬だけ空気を読む。浅井さんは、樹を見ない。視線は愛海だけ。逃がさないみたいに。「高山」ようやく名前を呼ぶ。静かな口調。でも、どこか硬い。「悪い。少し借りる」借りる。そう言ったのに。もう決まっている顔だった。樹が数秒黙る。それから、小さく笑った。「……了解」少しだけ。何か察した顔。「愛海、また今度な」「……うん」小
続きを読む

第76話:これからの時間

朝の東京駅は、人の流れだけで少し息が詰まる。スーツケースを引く音。ホームへ向かう足音。コーヒーの匂い。朝の冷たい空気の中で、愛海は改札前に立ちながら、小さく息を吐いた。今日は本社でのプロジェクト報告だった。あひるの支社で進めてきた新規案件は、正式フェーズに入る。樹はこの報告を区切りに本社へ戻り、愛海と浅井さんも同行することになっていた。「久しぶりだな、この感じ」隣で樹が笑った。「新卒の研修帰り思い出す」「……あったね、そういうの」愛海も少し笑う。終電近くまで資料を直して、翌朝ふらふらのまま移動して、樹がなぜか元気で、愛海だけ半分寝ながらコーヒーを抱えていた頃。あの時は、それが当たり前だった。隣に樹がいることも、弱いところを見られることも。疲れた時に何も言わず甘いカフェラテを渡されることも。「コーヒーいる?」樹が自然に聞く。「うん。甘いやつ」「変わんないな。追い込まれると甘いやつ」「樹もうるさいの変わんないね」そう返すと、樹が楽しそうに笑った。その空気は、懐かしいほど自然だった。説明しなくても通じる。気を張らなくていい。長い時間を一緒に過ごした人にしか作れない、やわらかな隙間。でも。愛海は、少し離れた場所にいる浅井さんを見てしまう。浅井さんはスマホを耳に当てていた。片手でPCを開き、もう片方で資料を確認している。朝の混雑の中でも、彼の周りだけ空気が少し冷静だった。「その数字、今日中に出して」短い指示。表情は変わらない。けれど、愛海には分かった。浅井さんは見ていた。樹と自然に笑う自分を。「浅井さん、コーヒーいりますか?」愛海が声をかけると、浅井さんが一瞬だけ顔を上げた。仕事の顔。でも、目だけが少し違う。「ブラック」「はい」返事をすると、浅井さんはすぐに電話へ戻った。たったそれだけなのに。ちゃんと自分を見た。それだけで、愛海の胸の奥が少し落ち着かなくなる。ホームへ上がると、新幹線はもう入線していた。席は三人並び。窓側に愛海、真ん中に樹、通路側に浅井さん。座った瞬間、少しだけ不思議な気分になった。過去と未来に挟まれているみたいだった。「これ覚えてる?」樹がスマホを見せる。新卒研修時代の写真だった。徹夜明けで、目の下に薄く影を作りながら、それでも無理やり笑っている愛海が
続きを読む

第77話:おやすみの、その先

ホテルの廊下は、静かだった。高層階特有の、音が吸い込まれていくような静けさ。足音さえ柔らかく沈む。本社報告は、思った以上に長引いた。役員説明。追加資料。急な差し戻し。気を張り続けた一日だったはずなのに。愛海の心臓だけは、まだ別の理由で落ち着かない。さっき。ホテル前で。——これからの時間なら。——浅井さんと作りたいです。言ってしまった。勢いだったのかもしれない。でも。嘘じゃなかった。未来を想像した時。安心する相手じゃなく。苦しいほど気になる人の隣を思い浮かべてしまった。そのことが、自分でもまだ少し怖い。「……」隣を歩く浅井さんも、珍しく静かだった。いつもなら、少し意地悪なことを言うのに。何も言わない。でも。何も言わないのに、空気だけが近い。歩幅が自然と揃う。並んでいるだけなのに。距離の熱が、昨日までと違う。廊下の窓の向こうに、東京の夜景が滲んでいた。その時。「……伊藤」名前を呼ばれる。たったそれだけで、胸の奥が少し熱くなる。振り向く。浅井さんが、少しだけ困ったような顔をしていた。「さっきの」短く息を吐く。「かなり効いた」「……」心臓が、跳ねる。「……何がですか」聞き返す声が、少しだけ弱い。浅井さんはすぐに答えなかった。ただ、愛海を見る。真っ直ぐ。でも。今日は少し違う。余裕がある人の目じゃない。何かを堪えている人の目。「……未来作りたいって」少し笑う。けれど、その笑みはいつもの余裕じゃなかった。どこか、困っていて。少しだけ、崩れている。「正直」ネクタイを少し緩める。喉元がわずかに覗く。それだけなのに、妙に目が離せない。「かなり嬉しかった」静かな声だった。でも。誤魔化していない声だった。愛海の胸の奥が、じんわり熱くなる。そんなふうに喜ばれると思っていなかった。「……私も」気づけば、口が動いていた。「言ってから、すごく恥ずかしくなりました」浅井さんが少し笑う。「遅い」「……」「俺、あれ聞いてから」少し黙る。それから。視線がゆっくり落ちる。愛海の目。唇。また、目へ戻る。それだけなのに。空気が少し変わる。「ずっと落ち着かない」その言葉が、妙に近かった。愛海の指先が、無意識にきゅっと縮こまる。「……」少しだけ、距離
続きを読む

第78話:帰り道

翌朝になる。ホテルのロビーには、出張客らしいスーツ姿が静かに行き交っていた。コーヒーの香り。ガラス越しの朝の光。昨夜より少しだけ現実に戻った空気。それなのに。愛海の心臓だけが、まだ昨夜から戻れていなかった。——言ってる意味、分かってる?——期待するだろ。——明日まで我慢する。思い出した瞬間。胸の奥が熱くなる。無理。朝から思い出していい空気じゃない。「……」愛海は小さく息を吐く。昨夜、自分は何を言ったのか。未来を作りたい。浅井さんと。そんなこと。もう、ほとんど告白みたいだった。しかも。部屋に来ますか、なんて。(……ほんと何してるんだろ)顔が少し熱くなる。「愛海」振り向く。樹がキャリーケースを引いていた。いつも通りの顔。少し寝不足そうな笑い方。「じゃ、俺このまま本社戻るわ」「……うん」「案件、引き続き見るし。また連絡する」「分かった」自然だった。昔と同じ。気を遣わなくていい距離。言葉を選ばなくていい空気。長い時間を共有した人だけが持つ安心感。「無理すんなよ」樹が言う。「愛海、抱え込む時すぐ顔に出るから」「……樹もね」「俺は慣れてる」「それ、昔からずっと言ってる」思わず笑う。樹も笑った。懐かしい。でも。胸は、もう動かなかった。少しだけ寂しい。終わったことを、ちゃんと終わったと理解する寂しさ。でも。もう戻りたいとは思わない。未来を考えた時。隣に浮かぶ人は、もう別にいる。「じゃ、お疲れ」樹が軽く手を上げる。「またな」「うん」その背中が、本社側のエレベーターへ消えていく。愛海は少しだけ見送った。長かった恋が、静かに遠ざかる。不思議と涙は出ない。ただ。ちゃんと終われたことに、小さく息をつけた。「……行く?」声が落ちる。振り向く。浅井さんだった。黒のコート。少し疲れた目元。朝の光の中でも崩れない整った顔。なのに。愛海を見る時だけ。少しだけ空気が柔らかい。「……はい」頷く。その瞬間。浅井さんの目が、ほんの少しだけ緩んだ。それだけで。昨夜が戻ってくる。髪を耳にかけた指先。近すぎた距離。“期待するだろ”「……顔赤い」「……朝なので」「理由になってない」少し笑われる。それだけで、また心臓がうるさい。新幹線は、思
続きを読む

第79話:初デート前夜

金曜日の夜。愛海の部屋は、珍しく散らかっていた。ベッドの上には、さっきまでクローゼットに綺麗に掛かっていたはずの服が広がっている。白のニット、ネイビーのスカート。少し綺麗めなワンピース、柔らかい素材のブラウス。部屋着のまま、愛海はクローゼットの前にしゃがみ込んだ。鏡に映る自分と、何度目かの睨めっこをしている。「……これ、気合い入ってるって思われるかな」白のニットを胸元に当ててみる。でも、少し可愛すぎる気がする。かといって黒のワンピースは、いかにも“デート”を意識している感じがして落ち着かない。パンツスタイルは楽だけれど、それもなんだか違う。結局、どれも決めきれないまま、愛海はベッドへ倒れ込んだ。天井を見る。間接照明の柔らかい光がぼんやり滲んで見えた。明日。浅井さんと、デート。——仕事じゃない時間、俺にくれない?あの言葉が、思い出すたびに静かに胸の奥へ落ちてくる。“デートしよう”ではなくて、“時間をくれない?”だった。急かしてこないのに、ちゃんと欲しがっている感じ。待つと言ったくせに、少しだけ余裕を崩して見せるところ。あの距離感が、どうしようもなく浅井さんらしかった。「……」愛海は小さく息を吐いた。樹と付き合っていた頃、こんなふうに服を悩んだ記憶はあまりない。新卒の頃からずっと一緒で、終電を逃してご飯を食べて、休日も自然に会って、気づけば隣にいた。始まりも終わりも、生活の延長みたいだった。でも。浅井さんは違う。“会いたい”と思っている。自分から。それが、少し怖くて、少し嬉しい。こんなふうに誰かを意識して、前日から落ち着かなくなるなんて、いつぶりだろう。その時。スマホが震えた。画面を見る。浅井。それだけで、心臓が変な音を立てる。>短い。いつも通り。でも、その一文だけで、急に現実味が増した。迎えに来る。車で?いや、歩き?何着ればいいの。近くで見られる。昨日あんな空気だったのに。愛海は少し迷ってから返信した。>送信して、三秒。固まる。(ありがとうございますって何……)会社のチャットか。全然デート感がない。愛海が頭を抱えた瞬間、また通知が入る。>続けて表示された文字に、呼吸が止まる。頑張りすぎなく
続きを読む

第80話:初デート

あっという間に次の日が来た。昼前で、ソワソワしている。インターホンが鳴った瞬間、愛海の心臓が跳ねた。その音を合図みたいに、さっき整えたはずの呼吸まで浅くなる。「……っ」鏡を見る。髪。前髪。メイク。ニットの裾。スカートのシルエット。今日だけで、何回確認したか分からない。結局選んだのは、白の柔らかいニットに、淡い色のロングスカートだった。頑張りすぎているとは思われたくない。でも。ちゃんと、可愛いと思われたい。その矛盾の真ん中を、何度も行き来して決めた服。(落ち着いて)深呼吸をひとつ。なのに、手は少しだけ冷たい。玄関のドアノブを握る指先に、変な力が入る。そして。扉を開けた瞬間。時間が、少し止まった気がした。「……」浅井さんがいた。黒のジャケットに、シンプルなシャツ。肩の力は抜けているのに、妙に目を引く。仕事の時より少しだけ柔らかい空気。でも、整いすぎているくらい整っていて。ずるいと思う。「……」浅井さんが止まる。何も言わない。でも目だけが、離れない。一瞬、視線が上から下へ落ちて、また戻る。その間が、妙に長かった。愛海の喉が乾く。(……何)恥ずかしい。そうなんだけれども。目を逸らされたら、それはそれで嫌だった。沈黙に耐えられなくなって、愛海が小さく口を開く。「……何ですか」その瞬間。浅井さんが、少しだけ笑った。昨日のLINEの延長みたいな顔。「いや」少しだけ近い声。「思ってたより、だいぶ駄目」「……え?」心臓が止まる。駄目?似合ってない?慌てて顔を上げた瞬間。浅井さんが小さく息を吐いた。「ちゃんと可愛い」視線が、また止まる。「迎え来たの、失敗だったかもしれない」「……」愛海の呼吸が止まる。「このまま出かけたくなくなる」低く落ちる声。冗談っぽいのに。目だけ、少し本気だった。「……っ」顔が一気に熱くなる。昨日。“ちゃんと言う”って言っていた。でも。本当に、こういう人なんだ。逃げ場をなくすみたいに、ちゃんと言葉にする。「……見ないでください」「無理」間髪入れない返事。しかも。少し笑ってる。「今のお前、結構反則」愛海はそのまま顔を覆った。玄関先で、何を言ってるんだこの人。でも、嬉しい。情けないくらいに。「行く?」浅井さん
続きを読む
前へ
1
...
67891011
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status