全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 70

106 チャプター

第61話:公開崩壊

前の日の温度感を保ったまま。次の日も、本社の会議室にいた。監査チーム、本社法務、経理、外部関係者。全員が揃っている。空気が今までにないくらいに重い。「本日は最終報告を行います」資料が配られる。ページがめくられる。「本件において、中間業者を経由した資金の不正流用が確認されました」静かなざわめき。「資金は複数法人を経由し、最終的にTK Network関連口座へ流入」「さらに松村ホールディングス関連ファンドへの接続も確認されています」完全に。事実として、繋がった。「承認前の情報を基にした資金移動も確認されており、内部関係者の関与が認められます」沈黙が続く。逃げ場はない。この関係者が誰に示すのかまで、明確だった。「関係者への最終確認を行います」視線が向く。樹へ。「高山さん」「……はい」立ち上がる。迷いはない。「今回の資金移動について、あなたの関与はありますか」一瞬の間。「……あります」はっきりと。ざわめきが広がる。そのような状況でも、樹は冷静だ。そして、止まらない。彼は、淡々と話し始めた。「承認前情報にアクセスできる立場にありました」「その情報を外部と共有しました」「設計は誰ですか」「……松村ホールディングス側です」空気が壊れる。みゆの表情がわずかに歪む。「本件は社内処分および外部報告へ移行します」決定が出る。すべてが確定した。会議が終わる。人が散っていく。ざわめき。私は動けない。(終わった)やっと。全部。「愛海」振り向く。樹。さっきまでと違う。どこか、落ち着いている。「少し話せる?」「……少しだけなら」外へ出る。人気のない通路。静か。「……」樹が口を開く。「思ってたより、軽いな」「……何が」「処分」少しだけ笑う。「グループの案件だから」「御曹司だから」「そんなに大事にはならないのは知ってた」その言葉。一瞬で、冷める。自分がやってきたことあっさりと認めて。私の人生を、大きく変えておきながら。自分は軽い処分で済んだことだけを語りたかったのか。あまりにも、軽すぎて。思わず、想像以上の不快感が私に覆い被さる。「……それ言いに来たの?」「違う」一歩近づく。「終わったから」「やっと普通に話せると思って」「……」「全部整理できた
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第62話:今は選ばない

この案件の最終始末として、画面を見ていた。未だに終わったことが実感できない。それでも。作業は止まらない。だからこそ、終わったのだと実感ができないまま。やることだけが増えていく。そんな状況だった。「……まだやってるの」低い声。振り向く。樹。「……何しに来たんですか」冷たく返す。「本当に、最後だから。話したいことがある」「仕事の話ですか?」「……半分は」曖昧な答え。「もう何回目なの?いい加減にしてほしい」一瞬、沈黙。「……すぐ済むから」椅子を引く音。向かいに座る。「……」空気が重い。「伊藤」「今回の件」「お前が見てる通りだ」「……どの通りですか」樹は少しだけ目を閉じる。「補助金の案件」「KMの承認」「松村の会社」「外注先としてのTK Network」一つずつ並べる。「……」愛海は黙って聞く。「全部、繋がってる」「……」「意図的に?」「……ああ」はっきり言う。「……」胸が少しだけ軋む。「最初からじゃない」樹が続ける。「でも、途中からは分かってた」「……」「気づいたんですか」「仕事でな」苦く笑う。「お前と同じだよ」「数字が合わなかった」「……」「調べたら」「親父が出てきたんだ」空気が変わる。若干の、空笑い。「……」「KM側の承認ライン」「松村側の受注」「TKへの資金の流れ」「全部、出来上がってた」「……」「止めなかったんですか」一瞬。沈黙。「止めたら終わってたんだよ」「……何が」「全部」低い声。「会社も」「親父の立場も」「俺自身の今後の在り方も」「……」「で」樹が続ける。「“関係を固定しろ”って言われた」「……関係?」「松村と」一拍。「婚約」「……」「外から見たときに」「ただの取引じゃなくなる」「家族になる」「裏切れなくなる」「説明もつく」淡々と。「……」(そういうこと)愛海の中で、全部が繋がる。みゆ。あの余裕。あの態度。「……みゆは」「知ってたよ」即答。「むしろ」「中で動いてる側だったから」「……」「KMのTK担当として」「松村の窓口として」「数字も触ってる」「……」(最初から)「……」「じゃあ私は」「邪魔だったってことですか」樹が、止まる。「……ああ」
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第63話:近すぎる距離

翌日。あひるの支社に戻った。朝の空気は、いつもと変わらない。エントランスの自動ドア。コーヒーの匂い。少し乾いたオフィスの空調。社員たちの「おはようございます」が交差する声。全部。昨日までと同じ。なのに。愛海の中だけが、どこか違った。案件は終わった。正確には。“終わらせた”。隠蔽も。責任の所在も。あの歪んだ構造も。ようやく片付いた。肩に乗っていた重いものが、少しだけ下りた気がする。本当なら。もっと安心していいはずだった。でも。(……まだ、終わってない)浅井さん。...あの人との関係だけは。まだ何一つ、整理なんてできていない。昨日。ちゃんと言った。“今のままじゃ、できない”逃げじゃない。誤魔化しでもない。ちゃんと考えた上での答え。そう。あれで良かった。そう思ってる。思ってる、はずなのに。「……」デスクに鞄を置きながら、 何度も思い出してしまう。昨日の近すぎた距離。真っ直ぐな目。触れた熱。低い声。“距離は変えないよ”あんな言い方。ずるい。反芻するたびに、 心臓がうるさくなる。その時。後ろから、低い声。「伊藤」びくりと肩が揺れた。振り返る。そして。一瞬、呼吸が止まる。浅井。近い。思っていたより、ずっと。いつも通りのスーツ。少し眠そうな目。何もなかったみたいな顔。なのに。視線だけが、静かに熱い。「……おはようございます」声が少し硬くなる。すると。浅井が小さく頷いた。「おはよう」たったそれだけ。なのに。距離が変わらない。近い。近すぎる。昨日のことが、 まだ身体のどこかに残っているのに。愛海は、少しだけ後ろへ下がった。ほんの数センチ。無意識だった。でも。浅井は気づいている。絶対。なのに。動かない。引かない。ただ。静かに見ている。「会議入ってる」唐突だった。「……何のですか」「新規案件」短く。相変わらず説明が少ない。「急ぎのやつ」「昨日の件の後処理」「代替プロジェクト回す」そこで。少しだけ間が空く。そして。当然みたいに言った。「お前とやる」「……え?」言葉が止まる。「私と?」「他にいない」即答。迷いゼロ。「伊藤が一番早い」「現場理解してる」「意思決定もできる」淡々と
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第64話:戻れないと分かっている場所

午後。会議室の窓から差し込む光が、少しだけ傾き始めていた。プロジェクト資料。修正版の数字。ホワイトボードに走り書きされた施策案。案件が終わったはずなのに、現実は止まってくれない。愛海は画面を見ながら、小さく息を吐いた。隣では、浅井がいつもの無表情で資料に目を通している。近い。昨日からずっと。物理的にも。精神的にも。逃げ道を塞ぐみたいに。そして、それに慣れ始めている自分が少し怖かった。その時。会議室のドアが開いた。「……失礼します」聞き慣れた声。でも。もう、懐かしさの方が先に来る。愛海は反射的に顔を上げた。そこにいたのは、樹だった。スーツ姿。少し痩せた気がする。前よりも、疲れて見えた。そして何より。纏う空気が違う。以前みたいな、どこか自信に満ちた軽さがない。「……久しぶり」静かな声。愛海は一瞬だけ目を伏せる。そして。感情を落として返した。「……お久しぶりです」それだけ。たったそれだけなのに。心が思ったより揺れていないことに、自分で少し驚く。あれほど好きだった人。元々は、婚約していた人。人生を一緒に歩くと思っていた人。なのに今は。少し遠い。まるで、昔よく知っていた誰かみたいに。その横。浅井は何も言わなかった。ただ。資料から視線を上げる。一瞬だけ。静かに。値踏みするみたいな目。何も言わないくせに。空気だけが少し張る。「今回の件」樹が先に口を開く。「処理は終わった」淡々と。仕事の声。「KM側のラインも整理された」「……そうですか」愛海も仕事モードで返す。すると。樹が少しだけ間を置いた。「ぼくの父は海外支社に回された」空気が少し静かになる。「完全に外れたわけじゃない」苦笑みたいなものが、少しだけ混じる。「創業家だから」愛海は何も言わない。樹が続ける。「ただ」「今回で、取締役としての影響力はかなり落ちた」静かな声。でも。その言葉には。諦めと、悔しさと、疲れが滲んでいた。そして。少しだけ視線が下がる。「婚約も」短く息を吐く。「解消になる」愛海の指先が、少しだけ止まった。けれど。心は、思ったより静かだった。以前なら。もっと痛かったと思う。でも今は。「……そうですか」それだけだった。必要なくなった。婚約。
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第65話:抑えきれない視線

プロジェクトルームに集まる。 ホワイトボードと一緒に。 紙の資料を広げながら。 パソコンでデータを精査する。 浅井さんと樹と。 3人で精査する。 「この数字だと」 樹が言う。 「自治体側の承認ラインが通らない」 「……」 愛海は画面を見る。 「ここを動かすなら」 「別ルートで調整する必要がある」 「……それ、可能ですか」 「今ならできる」 淡々と。 仕事としては。 完璧なフォローアップで。 提案の全てに筋が通っている。 「……」 ただあまりにも、やり取りが。 自然すぎて。 (……普通だ) 愛海は思う。 まるで、以前と変わらない。 同僚としては、戻れる。 そう思った、そのとき。 「……そこ」 横から声がする。 浅井さんの指摘が入った。 「元データの詰めが甘い」 資料を指す。 距離が、近い。 (……まただ) 肩が触れる。 「……どこがですか」 「ここの部分」 指が伸びる。 愛海の手に、触れる。 一瞬、そのまま。 離さない。 「……」 (離してほしい、今は) でも、言えない。 「ここの数値も」 「ズレてるし」 顔が近い。 息がかかる距離で。少し、近すぎる。 「……はい」 声が、少しだけ硬い。 「……」 樹が、一瞬だけ視線を向ける。 何も言わない。 でも、分かる。気づいてる。 「……」 会議室の空気が。 少しだけ、重くなる。 「……続けるぞ」 浅井さんが何もなかったかのように。 言葉を続ける。 手は、まだ近い。 午後になって。 また資料整理。樹と横並びで行う。 資料を整理し始めたとき。 「……ここ」 樹が画面を指す。 「このフロー」 「昨日の話の通りなら」 「通せるはず」 「……」 距離が近い、自然に。前と同じ距離感で。 「……」 (近い) まるで、以前と同じ。 そんな距離で。 違和感がありつつと。 避けるには不自然だ。 「……」 何を言おうか迷う。 そのときだった。 「伊藤」 声に鋭さがあって。思わず、振り向く。 浅井さんが、部屋に立ち寄る。 「こっち」 短く言う。 「……今ですか」 「今」 即答。 「……」 (なんで) 間があまりにも不自然だ。 それでも、立ち上がる。 「すみません
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第66話:崩れる境界

相変わらず案件が終了したものの。作業は山のようにあって。止めるときがわからないまま、夜に。会議室にひとり。人は、もういない。 「……」 愛海は、パソコンの前に残っていた。 カーソルが点滅している。 でも。さっきから、何も打てない。動揺のあまり、その場で立ち止まる時間が続く。 (さっきの) 浅井の視線。 樹との距離。 全部、残っていて。頭の処理が追いつかない。 「……」 小さく息を吐く。 そのとき、ドアが開く。 「まだいたの」 既に馴染みのある聞き覚えのある声がして。 振り向くと、浅井さんが立っている。 「……はい」 「……」 ドアが閉まる。 静かになる。 空気が、少し変わる。少しの緊張感が、否めない。密室に2人ということ自体に対して。意識せざるを得ない。 「……何ですか」 先に言う。 「……」浅井はすぐに答えない。ただ、見ている。まっすぐに、目線が向けられる。 「……」言葉が返ってこない気まずさに。そのまま、続ける。 「……なんで」 やっと言う。 「なんで、ああいうことするんですか」 「……」 「距離取るって言いましたよね」 「今は無理だって」 「……」 声が少し強くなる。 「なのに」 「なんで、あんな距離を詰めるんですか」 「……」 「仕事中も」 「さっきも」 「……」 「普通に戻ろうとしてるのに」 言い切る。 「私が努力してるのに。邪魔しないでください」 沈黙がまだ続く。 浅井は、目を逸らさない。 そのまま。 一歩、近づく。それでも、触れない。意識的にその距離で。 「……」 「……なんでだと思う」 低く聞く。 「……知りません」 「……」 「好きだからだよ」 はっきり言う。 「……」 空気が止まる。 一瞬だけ、何も聞こえくなった。 「……」沈黙だけが続く。返す言葉がすぐに見つからない。 「……」 「……それ、今言いますか」 やっと言葉を紡ぐ。短く答えるだけで。本当に精一杯だった。 少しだけ、震える声。 「……今しか言えない」 即答で、返事が返される。 「……」 「逃げられる前に」 「……」 心臓が、うるさい。 「……」 「……ずるいです」 小さく、また呟くように。気持ちを伝えるので精一
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第67話:戻された距離

会議室であった出来事を。一晩考えていたら、翌朝になってしまい。 寝不足で少し頭痛がする。それを意識しないように。会社に向かう。 「……」 席に座って、パソコンを開く。コーヒーを飲みながら。目を覚ます。そのまま。今日も変わらない1日を過ごすはずだった。それなのに。 (……) 昨日のことが、ずっと頭に残っていて。 “好きだからだよ” 「……」頭から離れない。 思い返しては、ひとり。何度も、軽く首を振る。 (仕事なんだから) そう決めた。だからこそ。去り際の、浅井さんの少し寂しそうな顔は。なるべく意識しないで。なるべく普通の日を過ごす。心に決めた。...その、タイミングで。 「伊藤」 声が聞こえて、振り向く。 浅井さんがそこには立っていて。 「これ」資料を差し出す。 「今日のレビュー用」 「……ありがとうございます」言葉を出すのに、少しつっかえる。それでも。話しかけられたのは、それだけで。 自然とデスクに戻る浅井さんは。完全に、普段通りに戻っている。まるで。昨日のことなんて、何もなかったかのように。 (……普通すぎる) 昨日の空気なんて、本当になかったかのように。いつも通り、簡潔に。短く。必要なことしか言わない。言葉に感情を乗せず。淡々と話す。何か言おうかと思っている間に。 「……」 「10時から会議」 「それまでに数字詰めとけ」 「はい」 目も合わない。全く。 それだけ言って。 浅井さんは、離れた。 「……」 (距離、戻したんだ) 自分で作った距離で。敢えて作ったその距離なのに。 (普通すぎると、逆に...) 少しだけ、胸がざわつく。 (なんで少し寂しいと思ってしまうのか) 心が騒ぐ。それでも、仕事は山ほどあるわけで。 無心にして、仕事をこなす。あっという間に、午後の会議の時間に。 「このラインで。行きます」 浅井さんが言う。 完全に、仕事モードで。通常通りの様子に見える。まるで、出会った当初に少し感じた冷たさが。戻ってきたかのように感じる。 「……」 愛海は資料を見た。 隣に座っているのに。 距離はある。 昨日みたいに、触れない。 目も合わない。全く合わない。 (……こんなだったっけ) 最初の距離はこれくらいだった。
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第68話:戻りたかった場所

夜に、タクシーで駅前まで向かう。駅の近くにある、小さな居酒屋に着く。「……なんか。こういうの懐かしいな」樹が笑う。「残業終わり、よくこういう店来てたよな」「……」愛海も少しだけ周りを見る。….確かに。こういう店に、よく来ていた。終電近くまで。二人で愚痴を言って。コンビニでアイスを買って。酔った樹を笑いながら駅まで引っ張って。一緒に家に帰ってからは。部屋に着替えて。夜更かしして、一緒に寝て。あの頃は。….本当に。結婚するんだと思っていた。「愛海、仕事で病むとすぐ焼き鳥食べたがった」樹が笑う。「……そんなことあったっけ」「毎回だよ」「“塩で”って言うところまで固定」「……」思わず、小さく笑ってしまう。(……ずるい)こういう。“普通”を戻すのがうまい。「……」気づいたら。グラスが空いている。「飲みすぎじゃないか」「……今日はいいの」「珍しいな」「……」本当は。気が緩んでいた。案件も。婚約も。全部。終わった今。もう、私には。これ以上悩むことはない。「そういえば」樹が何気なく言う。「次のプロジェクト」「俺がメインで担当することになった」「……そうなんですか」「支社と連携増えるから」「愛海とも、また仕事増えるな」「……」以前なら。嬉しかった言葉だ。でも、今は違う。少しだけ。全部、自分の中で精算できた後でも。関わりを持つとなると。気まずさは、残る。「……」「あと」「浅井さんは」愛海の手が止まる。樹と視線が合う。「……?」「愛海と。距離が近すぎるよな」「まあ、気をつけろよな」「……」「周りじゃ結構有名だったし」「……何が」「真剣交際してたって」さらっと言う。「かなり綺麗な人と交際してて」「別れた後も、浅井さんが引きずってたって噂」「……そうなんだ」できるだけ普通に返す。でも。胸の奥がざわつく。(……何で)知らなかった、そんな話。浅井さんの前の彼女の話なんて。...ちょっと聞きたくなかった、とさえ思ってしまう。あれだけ、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれてたのに。私が受け入れられないまま。今日なんて、何事もなかったかのように。距離を戻してきて。そんななかで。過去のことを聞かされたら。もしかしたら、遊びなんじゃないかって
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第69話:会いに来た理由

「ねえ。なんで会いにきたの?」冷たい声だった。責めているようで。でも、本当は違う。浅井さんは、怒っている。けれど、その奥にあるものは、もっと別の感情だった。焦り。嫉妬。そして、たぶん。私がここに来た理由を、どうしても知りたいという切実さ。「……」答えようとして、喉が詰まった。水を飲んだはずなのに、口の中が乾いている。酔っているせいで、頭の奥がぼんやりしていた。でも、目の前の浅井さんだけは、やけにはっきり見える。膝をついて、私と同じ目線になっている。その姿勢が、ずるかった。見下ろさない。逃げ道を塞ぐように近いのに、無理に触れてこない。その距離が、一番苦しい。「……わかりません」やっと出た声は、情けないくらい小さかった。浅井さんの眉が、少し動く。「わからないのに、来たの?」「……はい」「高山に送ってもらって」「……はい」「その足で、俺の家に?」その言い方が、少し冷たくなる。胸が痛い。でも、痛いのに。その痛みが、嫌じゃない自分がいる。浅井さんが怒っている。嫉妬している。それが分かるだけで、安心してしまう。最低だと思う。でも、そうだった。「……樹とは」私はグラスを握りしめる。「家の前までです」「さっき聞いた」「家には、入れてません」「……」「そこは、ちゃんとしました」浅井さんの目が、わずかに揺れた。怒っていた空気が、一瞬だけほどける。でも、すぐにまた固くなる。「酔っ払って、服も髪もそんな状態で?」「……」「高山にそこまで送らせて?」「……すみません」「謝ってほしいわけじゃない」低い声。静かだけど、痛い。「俺が聞いてるのは」浅井さんの指が、グラスを持つ私の手に触れたまま、少しだけ力を込める。「なんで最後に、俺のところに来たのかってこと」「……」その瞬間。胸の奥に溜めていたものが、少しずつ崩れ始めた。樹と飲んでいた時。昔の話をして。笑って。懐かしくて。もう平気だと思った。過去は過去にできたと思った。でも。浅井さんの元彼女の話を聞いた瞬間、胸がざわついた。綺麗な人。真剣交際。引きずっていた。その言葉が、頭から離れなかった。自分は返事もできていないくせに。受け入れる覚悟もないくせに。それなのに。浅井さんの過去に、勝手に傷ついた。勝
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第70話:帰りたくない夜

「……帰りたくないです」言葉にした瞬間。愛海自身が、先に息を止めた。部屋が急に静かになる。テーブルの上のグラス。揺れる水面。ソファに沈んだ身体。近すぎる距離。薄暗い照明の下で、浅井さんの横顔だけが少し影を帯びて見える。酔っている。それは分かっていた。でも。今、自分が何を言ったかも、ちゃんと分かっている。「……酔ってます」慌てて言い直す。逃げるみたいに。言い訳するみたいに。「だから、その……」でも。言葉が続かない。浅井さんは何も言わなかった。ただ。じっと私を見ている。さっきまで少し機嫌が悪かった目。樹に送られてきたことを、まだ許していない目。でも今は。それだけじゃない。抑えていた何かが、少しずつ滲んでいる。そんな顔だった。「……伊藤」低い声。少し掠れている。「それ」困ったみたいに、小さく息を吐く。「今言われるの、結構きつい」その言い方が。思ったより本音で。胸の奥が静かに揺れる。浅井さんは、余裕のある人だと思っていた。いつも冷静で。どこか大人で。何を考えているか分からないくらい落ち着いていて。少なくとも。恋愛で振り回される人じゃないと思っていた。でも今。目の前にいる人は、ちゃんと乱れていた。私の言葉で。私の態度で。それが。苦しいくらい、嬉しかった。でも。同時に。胸の奥に刺さったままの言葉が、消えない。“真剣交際で有名だった”綺麗な人。仕事もできて。浅井さんが、唯一ちゃんと好きだった人。そんな恋があったこと。知らなかった。知りたくなかった。なのに。こんなに気にしている自分が、一番嫌だった。「……どうしたいのか」愛海は、視線を落としたまま呟く。「自分でも、分かんないんです」膝の上の指先が、少しだけ頼りなく動く。「距離置いた方がいいって思ってるのに」「置かなきゃって思ってるのに」言葉にするたび。隠していた感情が、少しずつほどけていく。「その話聞いたら」喉が熱くなる。「嫌だったんです」素直な声だった。たぶん。酔ってるから。でも。それだけじゃない。「樹といても」少し笑う。情けないのに。「もう戻れないって分かったのに」「……」「浅井さんが嫉妬してるって分かったら」息が少し乱れる。「嬉しかったです」静かになる。
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