全てを奪われた私が、復讐の共犯者と会社を壊すまで のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

106 チャプター

第81話:帰したくない

夕方の海沿いは、昼間とはまるで別の場所みたいだった。少し前まで白く光っていた海面は、ゆっくりと橙色を含み始めていて、遠くの水平線だけが薄い金色に滲んでいる。遊歩道の街灯はまだ完全には明るくならず、夕暮れと夜の境目に、淡い光だけを落としていた。風は少し冷たい。けれど、隣に浅井さんがいるせいで、その冷たさまで心地よく感じる。昼からずっと一緒にいた。車の中で、他愛ない話をして。海沿いのショッピングモールを歩いて。雑貨屋で意外な一面を知って。カフェで、仕事では見られない顔を見た。何か特別なことをしたわけじゃない。ただ、浅井さんと二人でいた。それだけなのに、今日一日が胸の中でずっと熱を持っている。隣を歩く浅井さんをそっと見た。黒のジャケットの裾が、風に少しだけ揺れている。昼間は何度も笑っていたのに、今は少しだけ静かだった。横顔は相変わらず整っていて、街灯の薄い光が頬の輪郭をなぞるたびに、仕事中とは違う大人の色気が滲む。ずるい、と思いかけて、その言葉を飲み込んだ。最近、その言葉だけでは足りなくなっている。浅井さんを見るたびに、胸が騒ぐ。何かを言われる前から、視線が合う前から、もう勝手に気持ちが動いてしまう。「疲れた?」浅井さんが、歩幅を少し緩めて聞いた。そのさりげなさに、また胸が小さく揺れる。こういうところに気づく人なのだ。仕事ではあれほど容赦なく判断するのに、愛海の歩く速度には、何も言わず合わせてくれる。「少しだけです。歩きすぎました」「俺のせい?」「浅井さんが、いろいろ連れていくからです」少しだけ責めるように言うと、浅井さんが横目で愛海を見て、静かに笑った。「嫌だった?」その聞き方は軽いのに、目だけが少し真面目だった。海へ視線を逃がした。波が堤防の下で白くほどけて、風に混じって小さな音を立てている。遠くで子どもが笑っていて、すぐそばを手を繋いだカップルが通り過ぎた。「嫌じゃなかったです」言ってから、少しだけ迷う。でも、今日は誤魔化したくなかった。「むしろ、終わるのが少し嫌です」声にした瞬間、自分の胸の内側がきゅっと狭くなる。こんなふうに素直なことを言うのは、まだ慣れない。自分が思っているよりもずっと、浅井さんには本音が出てしまう。浅井さんはすぐには返さなかった。ただ見ていた。その沈黙に責め
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第82話:恋人みたい

月曜日の朝。あひるの支社のオフィスは、いつも通り静かに一週間を始めようとしていた。コーヒーマシンの音。誰かがキーボードを叩く規則的なリズム。窓の向こうには、まだ少し白い冬の光。それなのに。まるで昨日から時間が進んでいない気がしていた。土曜日の海。沈んでいく夕日。指先に残る体温。——「俺と、そういう普通をやってみない?」思い出した瞬間、胸の奥がまた熱を持つ。日曜を一日挟んだはずなのに、身体だけがまだ土曜日のままだった。浅井さんの隣を歩いた距離感。繋いだ手。帰り際、車を降りる時に少しだけ触れた指先。そして、別れ際に言われた言葉。“急がない。でも、諦める気もない”あの声が、まだ耳に残っている。(落ち着いて)小さく息を吐いた。普通に。普通に仕事をするだけ。そう思いながら、自席へ向かう。「おはようございます」なるべくいつも通りの声。バッグを置いて、PCを立ち上げる。でも、指先が少し落ち着かない。その時。「おはよう」すぐ後ろから落ちた声に、肩が小さく揺れた。反射だった。振り向く。浅井さん。いつも通りのスーツ。いつも通り整った髪。表情だって変わらない。仕事モードの顔。落ち着いていて、隙がなくて、相変わらず少し近寄りがたい。それなのに。分かってしまう。ほんの少しだけ、機嫌がいい。他の人なら気づかない程度。でも、土曜日を一緒に過ごした今なら分かる。視線が少し柔らかい。声の温度が、ほんの少しだけ違う。「昨日の会議資料、あとで確認する」仕事の話。完全に仕事のトーン。「……はい」それだけの会話。でも、目が合った瞬間。心臓が嫌なくらい反応する。昨日、海辺で自分を見ていた目を思い出してしまう。“もっと欲しいって思った”“お前と、ちゃんとやりたい”——無理。普通になんて戻れない。朝から心拍数がおかしい。会議が始まってからも、落ち着かなかった。資料説明をしていても、どうしても視線を感じる。見なくても分かる。浅井さんが、ちゃんと聞いている。しかも。時々、こちらを見ている。仕事中なのに。ちゃんと仕事の顔をしているのに。土曜日の空気がまだ残っているみたいで、余計に苦しい。「この数値なんですけど」説明を続けながら、少し喉が乾く。朝から緊張しっぱなしだった。水、と思
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第83話:今だけじゃない保証

火曜日の昼休み。オフィスの空気から逃げるように、私は非常階段へ出た。重たい扉を閉めると、少しだけ冷たい風が頬を撫でる。ビルの隙間を抜ける風の音。遠くを走る車の音。誰もいない踊り場。静かな場所なのに、胸の中だけがずっと騒がしかった。自販機で買った缶コーヒーは、もうぬるくなりかけている。開けたまま膝の上に置いていたそれを見つめて、小さく息を吐いた。昨日から、ずっと苦しい。浅井さんは優しい。言葉を曖昧にしない。好きだとちゃんと伝えてくれる。待つと言いながら、諦める気はないとも言う。大事にされていることだって分かる。海辺を歩いていた時も。私が会社で距離を取ろうとした時も。あの人は、急がない。でも、立ち止まらない。少しずつ、確実に私の隣へ来る。それなのに。怖い。ふとした瞬間に胸の奥が冷える。——今だけだったらどうしよう。その考えが何度も頭をよぎる。婚約破棄。あの日の光景が、まだ消えない。会議室。樹の隣に立っていたみゆ。あの瞬間、自分の中で何かが音もなく崩れた。未来だと思っていたものが。ずっと続くと思っていたものが。思ったより簡単に壊れることを知ってしまった。あの時、本気で思った。もう誰かと未来なんて考えない方が楽だ、と。期待しなければ傷つかない。信じなければ失わない。そう思っていたはずなのに。浅井さんは平気な顔で未来を差し出してくる。朝迎えに行って。仕事終わりにご飯を食べて。休みの日に出かけて。疲れていたら甘やかして。そんな、ごく普通の未来。派手な言葉じゃない。でも私が一番欲しかったものを、当たり前みたいに話す。だから怖い。欲しくなってしまうから。欲しくなった時、人は弱くなる。缶コーヒーを一口飲む。ぬるい苦味が喉を通った。それでも少しも落ち着かない。その時だった。背後で扉が開く音がした。「……伊藤」振り向く。浅井さんだった。スーツ姿のまま。少しだけ眉を寄せている。その顔を見た瞬間、心臓が小さく跳ねた。浅井さんは階段を数段降りてくる。足音だけが静かな踊り場に響く。「探した」声はいつも通りだった。でも少しだけ息が混じっていた。「昼、戻ってこないから」怒っているわけじゃない。責めているわけでもない。ただ。少しだけ心配していたことが分かる声だった
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第84話:待ってた

金曜日の夜、時計の針が二十一時を少し回った頃。あひるの支社のフロアには、もうほとんど人が残っていなかった。昼間は絶えず誰かの声がしていたオフィスも、今は空調の低い音だけが静かに響いている。遠くの席で誰かが椅子を引く音がして、それもすぐに消えた。私は、ぼんやりとPC画面を見つめたまま、小さく息を吐いた。画面に映る数字。何度見ても、胸の奥が少し重くなる。ミスをした。致命的ではない。提出前だったし、浅井さんが最終確認で止めてくれたから。先方に影響も出ていない。誰にも責められていない。むしろ浅井さんは、驚くほどあっさりしていた。「次、気をつければいい」それだけだった。声も変わらなかった。責める空気なんて、ひとつもなかった。なのに、私の中だけが、うまく切り替えられない。まただ、と思った。昔からそうだった。頑張るほど、失敗が怖くなる。期待されるほど、崩れた時の音が大きくなる。婚約だって、そうだった。ちゃんとやってきたつもりだった。尽くして、支えて、未来のために頑張ってきたつもりだった。それなのに、最後には全部なくなった。“ちゃんとしていれば大丈夫”そう信じていたものほど、簡単に壊れる。額を押さえると、少しだけ頭が重かった。帰りたい。でも、今一人で帰ったら、たぶん余計なことばかり考える。浅井さんに会いたい。でも、こんな気持ちのまま甘えたくない。その矛盾に、小さく息が漏れた。PCを閉じて、バッグを持つ。スマホを見る。通知。浅井さん。それだけで、心臓が少し動いた。【終わった?】短い一文。でも、仕事の確認だけじゃないことが分かる。数秒迷った。“少し落ち込んでます”そう送ろうとして、消す。結局、送ったのはそれだけだった。【今帰ります】すぐに既読がついた。数秒後。【下いる】「……え?」思わず声が漏れた。反射的に窓の外を見る。会社の前。街灯の下に、スーツ姿の浅井さんが立っていた。スマホを片手に持ちながら、少しだけ首を落としている。いつもの、少し近寄りがたい横顔。でも、その姿を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。待ってくれていたのだろうか。わざわざ。何も言わずに。急いでエレベーターへ向かった。夜のロビーは静かだった。自動ドアが開くと、少しだけ冷たい夜風が入ってくる。浅井さ
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第85話:限界

月曜日の朝。あひるの支社は、いつも通り静かに週の始まりを迎えていた。コーヒーマシンの蒸気音。朝礼前の低い話し声。誰かが資料をめくる音。窓の外には、少しだけ白んだ冬の空が広がっている。何も変わらない月曜日。それなのに、私だけが平常心をどこかへ置いてきてしまったみたいだった。理由は分かっている。金曜日の夜。会社の前で待っていてくれたこと。何も聞かずに隣を歩いてくれたこと。「俺、かなりしつこいから」あの声が、まだ耳の奥に残っている。それに。帰り際。コートの袖を掴んだ私の手を、何も言わず包み込んだ指先。思い出すだけで胸の奥が静かに熱くなる。私は小さく息を吐いた。落ち着いて。普通に仕事をするだけ。それだけなのに難しい。「おはようございます」なるべく平静を装いながら席に着き、パソコンを立ち上げる。その瞬間だった。「おはよう」すぐ後ろから声が落ちてきて、肩がぴくりと揺れた。振り向く。浅井さんだった。今日も何事もないみたいな顔をしている。きっちり整えられたスーツ。少し眠そうなのに妙に色気のある目元。相変わらず隙がない。でも。今は分かる。ほんの少しだけ機嫌がいい。視線の温度が違う。「伊藤」自然に隣へ立つ。近い。本当に近い。「これ、後で一緒に見る」差し出された資料を受け取る。でも気になるのは資料じゃない。肩が触れそうな距離。ふわりと香る、洗いたてのシャツみたいな匂い。「……はい」なんとか返事をする。けれど心臓は全然落ち着いてくれない。最近ずっとそうだ。浅井さんは前より近い。しかも本人はたぶん無意識だ。無意識でこれだから困る。昼休み。少しでも落ち着こうと思って給湯室へ逃げ込んだ。カップにラテを注ぐ。疲れると甘いものが増える。昔から変わらない癖だった。その時。背後から声が降ってくる。「甘いやつ飲みすぎ」心臓が跳ねた。振り向く。浅井さんだった。壁にもたれながらこちらを見ている。「……びっくりした」「顔疲れてる」そう言いながら、私のカップを取る。砂糖の量を確認する。あまりにも自然な動作だった。恋人みたいな距離感。いや。恋人でもないのに、こんなの反則だ。「……浅井さん」「ん?」「距離近いです」言った瞬間、浅井さんが少し止まる。それから小さく笑
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第86話:ずるい

夜。自宅の玄関を開けたはずなのに、しばらくその場から動けなかった。部屋の灯りもつけないまま、扉にもたれかかる。静かだった。冷蔵庫の小さな駆動音だけが聞こえる。なのに、胸の中だけが落ち着かない。スマホを取り出す。画面には、数分前に届いたメッセージ。【おやすみ】たったそれだけ。本当に、それだけだった。それなのに、何度もその文字を見てしまう。今日のことを思い出す。給湯室での会話。近すぎる距離。困ったように笑いながら、「最近、お前見ると近づきたくなる」そう言った顔。そして。「待つって言ったけど、正直きつい」そう打ち明けた時の表情。冗談みたいな口調だったのに。あの人の目だけは全然笑っていなかった。きっと、あれが本音だった。私はゆっくり息を吐く。怖い気持ちがなくなったわけじゃない。未来は今でも怖い。信じた先で壊れることも。失うことも。期待した分だけ傷つくことも。全部知っている。でも、それ以上に嫌なことがあった。このまま。浅井さんにだけ言葉を使わせること。好きだと言わせること。待たせ続けること。私は何も返さないまま。安心だけ受け取ること。それが急に苦しくなった。気づけば部屋を出ていた。考えるより先に身体が動いていた。隣の部屋。見慣れたドア。何度も立ったことがある場所なのに、今日は全然違う。鼓動が速い。指先が冷たい。今さら帰ろうかと思う。でも、もう遅かった。指はインターホンを押していた。数秒。部屋の中から足音が聞こえる。鍵が開く音。扉が開いた。浅井さんだった。部屋着姿。少しだけ乱れた髪。仕事中の隙のない姿とは違う。家でしか見られない顔。その姿を見た瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。会いたかった。数時間前まで一緒にいたのに。どうしようもなく。「……どうしたの」少し驚いた声。でも優しい。言いたいことはあるのに、全部喉の奥で絡まってしまう。そんな私を見て、浅井さんが少しだけ目を細めた。「入る?」私は小さく頷いた。部屋に入る。柔らかな照明。静かな空間。コーヒーの残り香。何度か来たことがある場所なのに、今日は妙に落ち着かない。ソファに腰を下ろす。浅井さんは向かいではなく、少し離れた隣に座った。近すぎない。でも遠くない。その距離が、妙に浅
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第87話:静かな部屋

静かな部屋だった。窓の外では、夜の街の灯りがぼんやりと滲んでいる。ソファに並んで座る私たちの間には、さっきまであったはずの距離がもうなくなっていて。繋いだ手の温度だけが、ずっと現実みたいに残っていた。心臓は、まだ落ち着いてくれない。浅井さんはその手を離さないまま、私の顔を見て小さく笑った。「顔、真っ赤だな」低くて穏やかな声だった。思わず視線を逸らす。「……浅井さんのせいです」すると浅井さんは、少しだけ肩を揺らした。「それは否定できない」あまりにも素直に返されて、余計に困る。この人の前では、どうしてこんなに調子が狂うんだろう。仕事ならもっと冷静でいられる。言葉を選ぶことも、感情を隠すことも、ちゃんとできるはずなのに。今はそれが全然できない。浅井さんは握った手を離さないまま、私を見つめていた。その視線に熱があることを、もう知っている。だけど、不思議と怖くなかった。以前なら逃げたくなったはずなのに、今はただ、その目を見ていたいと思ってしまう。「伊藤」名前を呼ばれるだけで、胸が鳴る。「……はい」返事をすると、浅井さんは少しだけ笑った。どこか困ったような顔だった。「まだ信じられない」「……何がですか」浅井さんは視線を落とした。「お前が俺のところに来たこと」静かな声で続ける。「逃げるかと思ってた」思わず笑ってしまった。「そんなに信用ないですか」「ない」即答だった。そのあと、少しだけ間を置いて、浅井さんが続ける。「でも、お前は考えすぎるから」否定できなくて、苦笑するしかなかった。未来のこと。失うこと。傷つくこと。気づけばいつも先回りして考えてしまう。そんな私を、この人はちゃんと知っている。知った上で、待ってくれていた。その事実が、胸をじんわり温かくする。「……浅井さん」小さく呼ぶと、浅井さんが視線を上げた。「何」「待たせて、ごめんなさい」言った瞬間、浅井さんの表情が少し変わった。それから、小さく首を振る。「謝ることじゃない」静かな声だった。「俺が待ちたかっただけだから」胸が熱くなる。浅井さんは、少しだけ目を細めた。「ただ」その続きを待つように、思わず身構える。浅井さんは困ったように笑った。「正直、結構しんどかった」その言い方があまりにも正直で、少し笑ってしまい
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第88話:名前を呼ぶ朝

朝の光が、薄いカーテン越しに静かに部屋へ差し込んでいた。ゆっくりと目を開ける。最初に見えたのは見慣れない天井だった。けれど、不思議と驚きはない。ぼんやりした意識のまま瞬きを繰り返しているうちに、昨夜の記憶が少しずつ輪郭を取り戻していく。ソファ。繋いだ手。涙でぐしゃぐしゃになった顔。「ようやく向き合えそうだな」あの声。そして、自分が返した言葉。思い出した瞬間、頬の奥がじわりと熱くなった。ブランケットを胸元まで引き上げ、小さく息を吐く。昨日までと何かが劇的に変わったわけじゃない。それなのに、世界の色が少しだけ違って見える。ずっと怖かった未来が、ほんの少しだけ近くなった気がした。身体を起こそうとした時だった。「起きた?」すぐ隣から声が落ちてくる。少し掠れた朝の声。反射的に振り向く。浅井さんがいた。ソファの反対側に身体を預けながら、こちらを見ている。シャツの袖は無造作にまくられたまま。少しだけ乱れた髪。寝起きで力の抜けた表情。会社では絶対に見られない姿だった。胸が不意に跳ねる。「……おはようございます」反射みたいに返すと、浅井さんが小さく笑った。「恋人になった翌朝まで敬語?」「……急には無理です」「そういうもの?」「そういうものです」言い返すと、浅井さんは楽しそうに肩を揺らした。その表情が柔らかすぎて、まともに見られない。会社で見る姿とはまるで違う。冷静で、隙がなくて、どこか近寄りがたい人だったはずなのに。今は違う。声も。視線も。空気も。全部が優しい。その事実に、まだ全然慣れない。浅井さんは身体を起こすと、前髪をかき上げながらこちらを見る。それから少しだけ目を細めた。「よかった」「……何がですか?」「起きたらいなくなってるかと思った」思わず目を瞬かせる。浅井さんは苦笑した。「前科あるだろ」その言葉に吹き出してしまう。確かにそうだ。これまでの私なら、怖くなって距離を取っていたかもしれない。考えすぎて。不安になって。勝手に答えを出して。きっと逃げていた。でも、今は違う。「帰りませんよ」小さく言うと、浅井さんの表情が少しだけ緩んだ。その変化が嬉しくて、胸がじんわり温かくなる。この人も不安だったんだ。待っている間。ずっと。「……浅井さん」「ん?」
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第89話:隠せない

月曜日の朝だった。週明けのオフィスは、いつもと変わらない慌ただしさに包まれている。誰かが会議室の予約を確認する声。コーヒーマシンの蒸気音。キーボードを叩く音。窓の外には薄い冬の陽射しが広がっていて、何も特別なことなんて起きていないように見える。なのに、私だけがまるで平常心をどこかに置いてきてしまったみたいだった。原因は分かっている。昨日の朝。ソファの上で。照れながら呼んだ名前。――拓真さん。思い出した瞬間、また顔が熱くなる。あの時の嬉しそうな顔まで鮮明に浮かんできて、思わずデスクに額をぶつけそうになった。「……無理」小さく呟いたところで、後ろから声が落ちてくる。「何が?」肩が跳ねた。振り向く。拓真さんだった。今日も完璧に整えられたスーツ姿で、何事もなかったみたいな顔をしている。会社の浅井拓真。いつも通りの上司。いつも通りの仕事モード。なのに。目が合った瞬間だけ、口元が少し緩んだ。それだけで心臓がうるさくなる。「伊藤」「っ、はい」「顔赤い」「……朝からうるさいです」私が睨むと、拓真さんは面白そうに笑った。完全に楽しんでいる。しかも最近、距離感がおかしい。資料を渡す時も。隣を通る時も。打ち合わせで耳打ちする時も。ほんの少し近い。本人は無意識なのかもしれない。でも、こっちは全然平静じゃない。恋人になった途端、世界の難易度が上がっている。昼休み。逃げるように給湯室へ向かった。少し甘めのラテを作りながら、ようやく呼吸が整ってきたところで、背後から声がする。「甘いやつ飲みすぎ」反射的に振り返る。そこで思考が止まった。今日は珍しく眼鏡だった。細いフレーム越しの視線がこちらを見ている。会社で出していい破壊力じゃない。本気でそう思う。「……何」「いや……」慌てて視線を逸らす。「眼鏡、珍しいなと思って」「ああ」拓真さんは肩を回した。「昨日コンタクトしたまま寝た」昨日。その一言だけで、また熱が上がる。どうしてこの人は無自覚なんだろう。すると拓真さんが自然な仕草で私の髪に触れた。「跳ねてる」「……っ!」慌てて一歩下がる。「会社です!」小声で抗議した瞬間だった。「え?」後ろから聞こえた声に、私も拓真さんも同時に振り向く。田中さんと山川さんが立っていた。
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第90話:帰る場所

木曜日の夜だった。気づけば時計は二十一時を回っていて、フロアに残る人影もだいぶ少なくなっている。昼間は絶えず誰かの声が飛び交っていたオフィスも。今はキーボードを叩く音と空調の低い唸りだけが静かに響いていた。私は最後のメールを送り終え、ようやくPCを閉じる。肩を回しながら息を吐いた瞬間だった。「伊藤さん」顔を上げると、山川さんがこちらを見ていた。「最近ちゃんと帰るようになりましたよね」「え?」思わず聞き返す。すると田中さんも頷いた。「分かる。前まで残業ゾンビだったのに」「顔も柔らかくなったし」その言葉に思わず固まる。そんなに分かりやすいんだろうか。反論しようとした、その時だった。「終わった?」背後から聞き慣れた声が落ちてくる。肩がぴくりと揺れた。振り向く。拓真さんだった。相変わらず隙のないスーツ姿。何事もないような顔。けれど私には分かる。少しだけ機嫌がいい。そして何より、タイミングが良すぎる。まるで迎えに来たみたいだった。田中さんと山川さんが無言で顔を見合わせる。その空気だけで全部伝わる。絶対気づいている。私は急に居心地が悪くなった。「帰るぞ」拓真さんは平然としている。恥ずかしいのは私だけだった。***マンションへ戻るエレベーターの中。二人きり。鏡張りの壁に並んだ姿が映っている。静かな空間だった。でも、その沈黙は少しも苦しくない。むしろ安心する。隣にいることが当たり前になり始めている自分に気づいて、少しだけ照れた。その時だった。「今日泊まる?」あまりにも自然に言われて、一瞬意味を理解できなかった。顔を上げる。拓真さんは前を向いたまま。特別な誘い方じゃない。イベントみたいな空気もない。ただ明日の予定を確認するみたいな口調だった。その自然さに胸が熱くなる。私を自分の生活の中に入れることを、もう当たり前だと思っているみたいで。「……嫌?」視線がこちらへ向く。少しだけ不安そうな目。その表情を見るたび思う。この人もちゃんと不安になるんだ。「ち、違います」慌てて首を振る。すると拓真さんが少し笑った。「じゃあ来る?」優しい声だった。私は小さく頷く。「……はい」その返事に、拓真さんがほんの少しだけ目を細めた。その顔が嬉しそうで、胸の奥がじんわり温かくな
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