All Chapters of 捨てられ妻の私、禁欲御曹司に溺愛されています: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

「脱いで、横になってください」低く冷えた男の声が響いた。一ノ瀬詩葉(いちのせ うたは)の胸がどくんと跳ねる。いつからこんな、言葉にできないほど恥ずかしい病気にかかってしまったのだろう。発作が起きるたび、どうしようもなく欲しくなってしまう。いつ襲ってくるかも分からず、仕事にも日常生活にも深刻な支障が出ていた。耐えきれなくなった詩葉は、勇気を振り絞ってこの私立病院の婦人科を予約した。ここは秘匿性が高いことで有名だった。その代わり、診察料は普通の病院の何倍もする。だが、予約したのは、確か四十代くらいの女性医師だったはずだ。なのに、なぜ診察室にいるのは、こんな若くて背の高い男性医師なのだろう。「ほ、本当に……脱がないとダメですか?」詩葉は極度に緊張しながら、おずおずと尋ねた。見知らぬ男の前でズボンを脱ぐなんて、相手が医者だと分かっていても、どうしようもなく気まずい。神代蒼空(かみしろ そら)は真面目な口調で言った。「脱がなければ、どうやって診察するんです?」「でも、わ、私は……」詩葉は顔を真っ赤にして、もじもじと視線を泳がせる。目の前の男はマスクをしているが、その鋭い眼差しには、どこか底知れないものがあった。突然、彼に押し倒され、そのまま抱かれてしまうような気がした。詩葉は慌てて頭を振った。――何を考えてるの、私!彼はただの医者だ。一日に何十人もの患者を診ている。これは彼にとって日常業務にすぎない。そう何度も自分に言い聞かせながら、詩葉は羞恥を堪え、ゆっくりとズボンを下ろして診察台に横になった。「どこが不調ですか?」蒼空は消毒器具を準備しながら尋ねる。詩葉は再び顔を赤くした。「わ、私……あの辺が少し……」どうしても続きが言えない彼女を見て、蒼空は淡々と聞き返した。「性行為をしすぎて、傷つけましたか?」彼女くらいの若い女性が婦人科を受診する場合、大抵はそういう理由だった。だが詩葉は真っ赤になりながら首を振る。「ち、違います……私、性経験がなくて……」蒼空の手が止まった。彼は振り返り、驚いたように彼女を見た。目の前の女性は、整った顔立ちをしていた。肌は透けるように白く、きめ細かかった。愛らしさの中に艶っぽさもあり、華やかなのにどこか無垢さも感じさせる、不思議な色気のあ
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第2話

詩葉は診察室を出て薬を受け取ると、足早に病院を後にした。さっき診察室で、男性医師にズボンを脱ぐよう命じられ、診察された光景を思い出すたびに、顔が熱くなってしまう。もしこのことが誰かに知られたら、恥ずかしくて生きていけない。今後は絶対に女医を探そう。もう二度と、知らない男にあんなところを見られたくない。その時、一台の黒いベントレーがゆっくりと彼女の前に停まった。詩葉は、自分が呼んだ配車サービスの車だと思い、窓越しに中を覗く。そこにいたのは、彫刻のように端正な顔立ちの男だった。まるで神が丹念に造り上げたかのような、完璧な美貌。一瞬だけ目が合った途端、詩葉は既視感を覚える。――この目……さっき診察していた、あの男性医師?詩葉は思わず息を呑んだ。途端に顔が真っ赤になる。どうしてこんな偶然に、また病院の前で会ってしまうの?蒼空が低い声で言った。「乗ってください。送ります」詩葉は慌てて首を振る。「だ、大丈夫です。ありがとうございます」彼とは親しくもない。どうして彼の車に乗らなければならないのだろう。それに、さっき診察台であんな場所を診られたばかりなのに。むしろ今いちばん顔を合わせたくない相手だった。この場から逃げたい。できれば今後会っても、知らないふりをしたかった。蒼空の目がわずかに暗く沈み、眉が上がる。有無を言わせない圧があった。女に断られること自体、珍しかった。「本当に大丈夫です。もうすぐ夫が迎えに来るので」詩葉は男の不機嫌さに気づきながらも、気まずそうにもう一度手を振った。わざと「夫」という言葉を強く口にした。「……」蒼空の口元に、冷たい笑みがかすかに浮かぶ。彼はそのまま運転手に命じ、車を走らせた。ベントレーが遠ざかっていくのを見送り、詩葉はようやく少し安堵する。だが、先ほど診察室で蒼空に言われた言葉が脳裏をよぎった。この病気は、長い間夫婦関係がうまくいっていないことが原因。薬はあくまで補助的なもの。根本的に治したいなら、男性と関係を持つしかない。今夜ちょうど、夫の哲也が出張から帰ってくる。――今夜しかない。詩葉は急いでショッピングモールに向かい、哲也好みのセクシーな服と、いい感じの香水を買った。帰宅後は、大切に取っておいた赤ワインまで取り出す。
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第3話

詩葉の美しい顔が強張った。哲也は、彼女の瞳をよぎった失望を見逃さなかった。だが薄い唇はなおも冷たく動く。「悪い。何度も言ってるだろ、僕は潔癖なんだ」「でも……私……」詩葉は焦ったように口を開く。彼女は今、欲求不満による症状に苦しんでいて、どうしても男のぬくもりを必要としていた。もう耐えられない。「お願い……一度だけでいい、私のことを助けると思って……私……苦しいの……」下唇を噛み、潤んだ瞳で縋るように彼を見つめる。呼吸は次第に乱れていった。本当に欲しかった。頭の中は、そんなことばかりでいっぱいだった。止めようとしても止まらない。哲也は眉を強くひそめた。彼女がいつも自分の前で欲情したような顔をするのが嫌だった。冷たい声で鋭く叱りつけた。「そんなに欲しくてたまらないなら、自分でどうにかしろ」軽蔑を滲ませた冷たい言葉が、詩葉の心のいちばん脆い部分を真っ直ぐ叩いた。だが哲也は、彼女の顔に浮かんだ傷ついた表情をまるで見ていないかのように、冷ややかに言い放った。「今後、そんな格好で僕の前に来るな」その言葉に、詩葉の潤んだ瞳は一瞬で暗く沈んだ。胸の奥に広がる苦しさが、じわじわと大きくなっていく。夫は、やはり自分に触れようとしない。「……分かった」俯いたまま、小さく答えた。その声はかすかに震えていた。「それと今日から、君は僕と同じ部屋で寝るな」哲也は嫌悪を隠さず、彼女を一瞥する。詩葉は顔を上げ、呆然と彼を見た。「あなた……?」別室にするつもりなの?「僕は隣の部屋で寝る。今後、僕の許可なく勝手に部屋へ入るな」冷たく言い捨てると、哲也はベッドから降り、そのまま未練もなく寝室を出ていった。残された詩葉だけが、その場に立ち尽くす。瞳には次第に涙の膜が広がっていく。彼女が哲也と結婚して、もう一年。長い間夫婦関係を持てず、しかも哲也はいつも氷のように冷たかった。そのせいで、詩葉は心の病まで患ってしまった。それなのに夫である哲也には、彼女を助けようという気持ちがまるでない。こんな時に、さらに別室まで言い渡すなんて。詩葉にとって、それはまさに追い打ちだった。哲也が出て行くと、部屋は再び冷え切った空気に包まれた。だが、詩葉の体に燻る熱だけは少しも収まらず、むしろ激しく燃え上がってい
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第4話

一睡もできない夜だった。体を満たせない空虚さと、心に受けた衝撃のせいで、まともに眠れるはずもない。それでも幸い、翌朝は会社に遅刻せずに済んだ。ただ、欠伸を噛み殺しながら出社した詩葉は、社内の空気がどこか異様なことに気づく。「今日、新しい社長が突然赴任してくるんだって!」親友の西野莉央(にしの りお)が、重大ニュースを教えてくれた。なるほど、新社長の着任か。どうりで今朝会社へ来た時、女性社員たちがみんな鏡を取り出して化粧直しをしていたわけだ。「詩葉も早くちゃんとメイクしなよ!」この話を聞いても無反応な詩葉に、莉央は慌てて椅子に座らせる。「その薄化粧じゃダメ!もっと可愛くしてあげるから!」詩葉は急いで身を避け、気にしていない様子で言った。「社長が来るからって、私に関係ないでしょ。仕事はまだたくさんあるの」大学を卒業した直後、詩葉は涼子の手配でこの会社に入社させられた。表向きの理由は「他社で経験を積ませるため」。だが実際は、詩葉を水谷グループに入れず、重要な役職に就かせないためだった。水谷グループは兄の良介と姉の七海が継ぐもの。奈緒子の娘である詩葉には、最初から資格などない。詩葉は幼い頃から成績優秀で、兄姉よりも努力家だった。それでも彼女は、一族の期待を背負う息子でもなければ、愛嬌のある七海のように可愛がられてもいない。だから卒業した瞬間、涼子によって水谷グループの外に追いやられた。しかも実母ですら、詩葉のために口添えしてくれたことは一度もない。そんな理不尽には、もう慣れていた。涼子は詩葉が目立つのを嫌い、母も守ってくれない。だからこの二年間、詩葉はずっとこの会社で地味な平社員として大人しく働いて、波風を立てないようにしてきた。兄や姉の邪魔にならないよう、ずっと気を遣って生きてきた。昇進したいわけでも、給料を上げたいわけでもない。だから新社長の着任など、自分には関係ない。莉央はそんな詩葉を無理やり椅子に押し戻し、呆れたように言う。「社長来るって聞いて、その反応って人としてどうなの!?今、会社中の男女が必死で自分磨きしてるんだよ。一目で気に入られたいって!詩葉は元が美人なんだから、余計に気を抜いちゃダメ!聞いた話だと、新社長って若くて超イケメンらしいよ」詩葉は思わず頭を抱えた
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第5話

悠真は厳しい目で詩葉を睨みつけた。「お前、何かやらかしたのか?」社長が突然名指しで詩葉を呼び出した。詩葉本人はもちろん、直属の上司である悠真ですら予想外だった。詩葉は戸惑ったように瞬きをした。「わ、私にも分かりません……」掌にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。不安で胸が締めつけられる。逃げたい時ほど、逃げられない。悠真は低い声で警告した。「お前がやらかしたことは、お前一人で責任取れ。絶対に俺を巻き込むな」彼は涼子――水谷家の奥様側の人間だった。詩葉がこの二年間、彼の下で働く間、悠真は何度も涼子の指示で詩葉に嫌がらせをしてきた。だから今回も、社長が初日にわざわざ詩葉を呼び出したとなれば、悠真の中では「詩葉が何か失礼を働いた」に決まっている。むしろ詩葉が処罰されれば、奥様への報告もしやすい。彼が受けている命令はただ一つ。それは「詩葉に失敗させること」。だが詩葉はこの二年間、細心の注意を払って働いてきた。一度も大きなミスをしていない。悠真は、どうやって彼女に「罪」を被せようか悩んでいたところだった。それがまさか、自ら社長相手に問題を起こしてくれるとは。これは好都合だった。問題が大きければ大きいほど、奥様は満足する。ただしその前に、自分だけは無関係だと切り離しておかなければならない。「分かりました、桐生マネージャー」詩葉は俯いたまま答えた。立ち去ろうとした瞬間、悠真に腕を掴まれる。そして耳元で凶悪な声を落とした。「いいか?社長の前で余計なことを喋ったら、今後お前を絶対に楽には働かせないからな」詩葉は皮肉げに彼を見た。まるで、この二年間ずっと快適に働かせてもらっていたみたいな言い方だ。悠真が涼子の指示で自分を抑え込み、嫌がらせや職場いじめをしてきた回数など、数えきれない。今さら脅してくるなんて、完全に後ろめたい証拠だった。自分が社長に告げ口するのを恐れて、社長室に行く前にわざわざ釘を刺してきたのだ。だが悠真は心配しすぎだった。今回、詩葉にはもっと重要な確認事項がある。彼みたいな小物を話題にしている余裕などない。詩葉は内心うんざりした。悠真の手を振り払ってエレベーターに向かった。そのまま最上階へ。そこは社長専用フロア。入社して二年、詩葉は十二階より上
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第6話

詩葉のまぶたがぴくりと跳ねた。彼はいきなり、私を社長アシスタントに昇格させるつもり?これ、絶対ろくなことにならない気がする……「社長、私はこれまでアシスタントの仕事なんてしたことがありません。たぶん務まらないと思います……」詩葉は反射的に断ろうとした。だって今の自分の頭の中は、彼に抱かれたいという思いでいっぱいだったのだ。もし社長アシスタントになれば、毎日彼の顔を見ることになる。そんなの、耐えられるわけがない。蒼空は深い眼差しで彼女を見つめた。「昇進が不満か?」詩葉は赤い唇を舐める。「その……私は……」だが蒼空は途中で遮った。「お前は社長か?」詩葉の笑顔が一瞬固まる。「す、すみません……」蒼空は有無を言わせぬ口調で命じた。「引き継ぎを済ませろ。明日から社長室勤務だ」「でも……」詩葉は言葉を濁す。彼、本当にこれでいいの?もし私が理性を保てなくなって、勢いで彼を押し倒したらどうするの?蒼空はわずかに苛立ったように眉を寄せた。「やりたくないなら辞めろ」詩葉は一瞬呆れた。小さく頭を下げる。「……分かりました」蒼空は彼女が了承したと思ったのか、それ以上何も言わずデスクに戻り、再び仕事を始めた。詩葉は自分の部署に戻った。悠真の嫌味混じりの詮索も、周囲の同僚たちの好奇の視線も無視する。席につくなりパソコンを開き、退職願を書き始めた。不思議なことに、辞めると決めた途端、体の熱も少し落ち着いた。「ねえ詩葉、社長はなんであなただけ社長室に呼んだの?もしかして気に入られた?」莉央が身を乗り出し、目を輝かせて聞いてくる。「まさか。相手は社長だよ?私みたいな平凡な女に興味持つわけないでしょ」詩葉はキーボードを打ちながら答えた。莉央は呆れた顔をする。「どこが平凡なのよ?今月だけであなた宛てのバラ、二十束以上処理してるんだけど?その顔とスタイルなら、社長が一目惚れしても全然おかしくないって!」――一目惚れ。詩葉の指が一瞬止まる。もし本当に社長が自分を好きなら、彼とそういうことをするチャンスもあるのでは?あの高身長に細い腰、長い脚。あんな人に抱かれたら、どうなっちゃうんだろう……――って何考えてるの!?また症状が出てる!?詩葉は顔を真っ赤にし、慌てて首を振った。「あり
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第7話

蒼空も、まさかこんな状況だとは思っていなかった。だが互いに大人だ。ある種の欲求については、言葉にしなくても察せられる。しかも彼は、詩葉がそういう病を抱えていることを知っている。「しゃ、社長……」詩葉は一瞬で石化した。頭の中が完全にフリーズする。電話越しの声は、どう聞いても、会社に突然赴任してきた社長本人だった。一瞬だけ我に返ったものの、すぐに体の感覚に呑み込まれてしまう。蒼空の端正で高貴な顔が、一気に険しく沈んだ。「出社もせず、家でそんなことをしているのか?」詩葉の顔は一気に熱くなる。穴があったら入りたい。まさか一人でしている最中に、偶然社長の電話を取ってしまうなんて。しかもタイミング悪く聞かれるなんて――でも本当に、もう限界だったのだ。発作が出ると、自分では抑えられない。「わ、私……もう辞表を出しましたから……」詩葉は途切れ途切れに答えた。蒼空は眉を強く寄せた。「辞表?そんな話は聞いていない。社員の退職には一ヶ月前に申請が必要だ。法務部との引き継ぎもある。無断退職なら契約違反として、二年分の給与を違約金として支払ってもらう」詩葉は思わず頭を抱えたくなった。そんなの、二年間ただ働きしたようなものじゃない。稼いだ給料全部、違約金行き!?「社長……少し融通していただけませんか?私、本当に病気で……もう普通に働けなくて……」彼女は必死に頼み込む。蒼空の声が低く沈む。「どんな病気だ?」詩葉は詰まった。――いや、そっちが一番よく知ってるでしょう!?あの日、あなたが私を診察したくせに。「……欲求不満による発作です」彼女はもうヤケになって言った。「発作が出ると欲求が抑えられなくて……全然仕事に集中できないんです……!」電話の向こうは、一分近く沈黙したままだった。自分の言葉が大胆すぎて、社長を怒らせてしまったのだろうか。だが詩葉には、受話口の向こうにいる男の呼吸が、明らかに重くなっているのが分かった。彼女は思わず唾を飲み込む。不安で心臓が激しく脈打った。でも社長が電話を切らない以上、自分から切る勇気もなかった。そして次の瞬間。「三十分以内に出社しろ。俺が治してやる」詩葉は呆然とした。聞き間違いかと思った。――社長自ら、私の病気を治す?どうやって
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第8話

――え?初日から掃除?それってアシスタントというより、ほとんど家政婦では?詩葉は思わず抗議しかけた。だが蒼空の圧のある視線に射抜かれ、結局逆らえずに頷く。「……承知しました」彼女が休憩室に向かおうとした時、背後から再び男の声が飛んだ。「靴は脱いで入れ」――うわ、ルール細かっ。詩葉はハイヒールを脱ぎ、休憩室のドアを開けた瞬間、思わず目を見張った。広い。自宅よりも広いかもしれない。高級な輸入家具や家電が一通り揃っている。しかも何より驚いたのは、塵ひとつ落ちていないことだった。こんな完璧に綺麗な部屋、いったい何を掃除しろというの?もしかして蒼空も、哲也みたいな潔癖症なのだろうか。考えてみれば、それくらいしか理由が思いつかない。詩葉は観念したように掃除機を手に取り、掃除を始めた。床も家具も、全部もう一度丁寧に拭き直す。気づけば、もう昼になっていた。朝食も食べる暇なく呼び出され、そのまま午前中ずっと休憩室の掃除。さすがに疲れたし、お腹も空いている。詩葉は床に座り込み、少し休憩しようとした。その時、ふとベッドの下に何か衣類のようなものが見える。たぶん、さっきベッドを整えた時に落ちたのだろう。詩葉は近づいて拾い上げ――固まった。男物の下着だった。しかも使用済みらしく、男の匂いが残っている。ここは蒼空のオフィスだ。つまり、この下着の持ち主が誰かなんて考えるまでもない。詩葉の頬が一気に熱くなった。反射的に、火傷しそうな勢いで放り投げた。けれどすぐに思い直す。自分は掃除を任されているのだ。社長の下着を床に放置するわけにもいかない。仕方なく、もう一度拾い上げる。本当はそのままランドリーボックスに入れるつもりだった。だが、そこに残る男の匂いを感じた瞬間、胸が妙にざわついた。呼吸が自然と浅くなる。詩葉は手の中の下着を見つめ、それから休憩室のドアに視線を向けた。たぶん今、蒼空は外で仕事中。掃除が終わるまでは、ここに入ってこないはず。彼女は意を決し、その下着をそっと鼻先に近づけた。蒼空の気配が濃すぎて、頭がくらくらした。全身がじわりと熱を帯びる。――っ。男っぽい匂い……強すぎる。なのに、どうしようもなく好きだった。こんなの、意識しない方が無理だった。
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第9話

詩葉は首を反らし、荒い呼吸を繰り返していた。満たされない欲望に追い詰められ、もう限界寸前だった。――道具を持ってくればよかった。朝に発作を起こしたばかりなのに、まさかこんな短時間でまた再発するなんて思わなかった。しかも場所が、社長の休憩室だなんて。だがさらに予想外だったのは、蒼空本人が、外から入ってきたことだった。ドアの開く音を聞いた瞬間、詩葉の心臓は喉元まで跳ね上がる。――終わった。こんな姿を見られたら、本当に終わりだ。焦り、不安、恐怖。様々な感情が一気に押し寄せる。詩葉は必死に立ち上がろうとした。だが駄目だった。脚に力が入らない。その時、浴室のドアが開いた。蒼空の高く引き締まった姿が、入口に現れる。詩葉の頭の中が真っ白になった。目が合う。その瞬間、羞恥で死にたくなった。「しゃ、社長……」蒼空は上から彼女を見下ろす。整った顔には何の感情も浮かんでいない。だが彼女はその鋭く深い視線に、全身を見透かされている気がした。まるで見えない手で、全身を撫で回されているみたいに。詩葉の頬は熱を帯びる。今すぐ地面に穴を掘って消えたかった。「また発作か?」しばらく見つめた後、蒼空が低く問う。詩葉は気まずそうに頷いた。後ろめたくて、彼をまともに見られない。「しゃ、社長……すみません、私……」慌てて謝る。彼女の手は、彼の下着をぎゅっと握り締めたままだった。こんなところで、こんな姿を見られるなんて思っていなかった。でも耐えられなかった。もし彼を不快にさせたなら、それも仕方ないと思った。だが彼女が言い終える前に、蒼空の視線が彼女の手元に落ちる。「それは何だ?」「えっ!?な、何でもありません!」詩葉は飛び上がるように驚き、慌てて下着を背中に隠した。もし蒼空に、自分が彼の下着を握り締めて、その匂いで妄想していたことまで知られたら――本当に終わりだ。蒼空の目がわずかに暗くなる。「見せろ」詩葉は顔を真っ赤にしたまま首を振った。「ほ、本当に何でも……!」だが実際には、さっきの時点ですでに彼は見ていた。「まさか一ノ瀬さんに、『男物の下着を収集する趣味』があるとはな」詩葉の体が強張る。心が一気に沈んだ。――見られてた。全部。「社長、違うんです、こ
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第10話

詩葉が顔を上げると、そこにいたのは蒼空の秘書・白石凛(しらいし りん)だった。詩葉は慌てて、その下着を背中に隠す。「一ノ瀬さん、どうして外に立ってるの?中に入らないの?」凛はそう言いながら、社長室のドアを開けようとした。「だ、大丈夫です!今ちょうど休憩室の掃除が終わって出てきたところなので!」詩葉は慌てて手を振る。凛の目に、一瞬驚きが浮かんだ。「社長が、一ノ瀬さんに休憩室を掃除させたの?」凛は長年蒼空の側に仕えてきた。だからこそ、彼の性格もよく知っている。休憩室は完全なプライベート空間。普通の人間を簡単に入れるような場所ではない。これまでは掃除ですら、彼が自分でやっていた。それなのに今日に限って、アシスタントの詩葉に任せるなんて。詩葉は不思議そうに頷く。「はい……どうかしました?」「いえ、別に……」凛は素早く首を振った。だが詩葉を見る目は、どこか意味深に変わっている。「昇進したばかりだから、まだ自分のオフィス見てないでしょう?案内するわ」凛は妙に親切に先導した。凛に連れられ、詩葉は社長室からほど近い部屋に案内される。ドアが開く。「今日からここが一ノ瀬さんのオフィスよ。必要な物があったら言って。手配するから」目の前の広い個室を見て、詩葉は思わず目を丸くした。まさか自分専用のオフィスまで与えられるなんて。しかも予想以上に広い。「ありがとうございます、白石秘書。今のところ特に必要な物はありません」詩葉は振り返って微笑んだ。凛は微笑みながら言った。「全部、社長の指示よ。お礼を言うなら、本人に言ってあげて。私はまだ仕事があるから失礼するね」そう言い残し、凛は部屋を後にした。一人になった詩葉は、改めて室内を見回す。この会社で二年間働き、ようやく昇進して、自分専用の個室まで与えられた。本来なら喜ぶべきことのはずだった。けれど詩葉は、どうしても素直に喜べない。蒼空を前にすると、すぐ発作を起こしてしまう。そもそも自分がこんな厄介な病気になったのは、長い間男に触れられず、欲求不満を抱え続けてきたせいだ。そんな自分の前に、あまりにも危険な男が現れた。しかも毎日、至近距離で接することになる。平常心でいられる気がしなかった。今日みたいな失態を、これからあと何度繰り返すのだろう。
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