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第4話

Penulis: あほう
一睡もできない夜だった。

体を満たせない空虚さと、心に受けた衝撃のせいで、まともに眠れるはずもない。

それでも幸い、翌朝は会社に遅刻せずに済んだ。

ただ、欠伸を噛み殺しながら出社した詩葉は、社内の空気がどこか異様なことに気づく。

「今日、新しい社長が突然赴任してくるんだって!」親友の西野莉央(にしの りお)が、重大ニュースを教えてくれた。

なるほど、新社長の着任か。

どうりで今朝会社へ来た時、女性社員たちがみんな鏡を取り出して化粧直しをしていたわけだ。

「詩葉も早くちゃんとメイクしなよ!」この話を聞いても無反応な詩葉に、莉央は慌てて椅子に座らせる。「その薄化粧じゃダメ!もっと可愛くしてあげるから!」

詩葉は急いで身を避け、気にしていない様子で言った。「社長が来るからって、私に関係ないでしょ。仕事はまだたくさんあるの」

大学を卒業した直後、詩葉は涼子の手配でこの会社に入社させられた。

表向きの理由は「他社で経験を積ませるため」。だが実際は、詩葉を水谷グループに入れず、重要な役職に就かせないためだった。

水谷グループは兄の良介と姉の七海が継ぐもの。奈緒子の娘である詩葉には、最初から資格などない。

詩葉は幼い頃から成績優秀で、兄姉よりも努力家だった。

それでも彼女は、一族の期待を背負う息子でもなければ、愛嬌のある七海のように可愛がられてもいない。

だから卒業した瞬間、涼子によって水谷グループの外に追いやられた。

しかも実母ですら、詩葉のために口添えしてくれたことは一度もない。

そんな理不尽には、もう慣れていた。

涼子は詩葉が目立つのを嫌い、母も守ってくれない。

だからこの二年間、詩葉はずっとこの会社で地味な平社員として大人しく働いて、波風を立てないようにしてきた。

兄や姉の邪魔にならないよう、ずっと気を遣って生きてきた。

昇進したいわけでも、給料を上げたいわけでもない。

だから新社長の着任など、自分には関係ない。

莉央はそんな詩葉を無理やり椅子に押し戻し、呆れたように言う。

「社長来るって聞いて、その反応って人としてどうなの!?今、会社中の男女が必死で自分磨きしてるんだよ。一目で気に入られたいって!詩葉は元が美人なんだから、余計に気を抜いちゃダメ!

聞いた話だと、新社長って若くて超イケメンらしいよ」

詩葉は思わず頭を抱えたくなった。「だったら莉央が綺麗にしてればいいじゃない……私は本当にいいから。仕事あるし……」

莉央は逃がさない。「もし私が選ばれなくても、詩葉が社長に気に入られればそれでいいじゃん。もう分かったの、職場で生き残るには能力とか根性だけじゃ足りないの。一番大事なのは強い後ろ盾!新社長に目をかけてもらえれば、今後誰も私たちをいじめられなくなるんだから!」

……

午前十時、会社一階のロビーは、すでに人で埋め尽くされていた。

全員が緊張した面持ちで入口を見つめ、新社長の到着を待っている。

莉央は半ば強引に、詩葉を人混みの最前列まで連れていった。

「ちょ、前すぎない?」詩葉が後ろに下がろうとした、その時。

新社長が到着した。

十数台の護衛車両に囲まれた、超高級ロールスロイスが会社前に停車する。

ドアが開き、黒いサングラスにスーツ姿の男が降り立った。

鋭く引き締まった体躯。圧倒的な威圧感。まるで王者のようだった。

数十人のボディガードを従え、そのまま堂々と社内に歩いてくる。

その光景は圧巻で、威風堂々としていた。

居合わせた全員が呆然とする。

男の放つ圧倒的な存在感に、誰もが息を呑んでいた。

詩葉も思わず顔を上げ、男のほうを見た。

そして、思わず息を呑む。

――どうして、彼が……?

詩葉の瞳が大きく揺れた。

まさか、新しく赴任してきた社長が、あの日自分を診察したあの医師だったなんて。

そ、そんなはず……

彼は医者じゃなかったの?

詩葉は幻覚を見ているのかと思った。

慌てて目を閉じ、首を振る。そして再び目を開けた瞬間――

男が、彼女の前で足を止めた。

詩葉の呼吸が止まりそうになる。

蒼空はゆっくりと顔を向け、彼女を見た。

こんな至近距離で、見間違えるはずがない。

彫刻のように整ったその顔は、昨夜自分が頭の中で思い描いてしまった男そのものだった。

本当に彼だ。

どうして……

詩葉の頭が真っ白になった。

耳鳴りが止まらなかった。

だが蒼空の視線は、彼女の上に少しの間しか留まらず、すぐに逸らされる。まるで彼女のことなど最初から知らないかのように、冷淡だった。

その時ようやく、周囲の社員たちが我に返る。

「社長、お疲れ様です!」声が一斉に響いた。

専用エレベーターに向かう男の背中を見送りながら、詩葉の心はどこまでも沈んでいく。

彼女は慌てて自分の手を強くつねった。

痛い。夢じゃない。

――いや、まだ別の可能性がある。

この新社長は、あの医者とそっくりなだけで、本当は別人なのかもしれない。

詩葉は必死にそう思い込もうとした。

隣で莉央が不思議そうに詩葉の袖を引っ張る。「ねえ詩葉、社長と知り合いなの?」

詩葉はハッと我に返る。「え?」

莉央は目を輝かせた。「だって今、社長、詩葉の前でちょっと止まったじゃん!もしかして一目惚れされたとか?」

「な、なわけないでしょ!見間違いだって!」

そう言い残し、詩葉はそのまま洗面所に駆け込んだ。

冷水を掬い、顔に何度もかける。

どうにか冷静になるために。

莉央は首を傾げたまま、その場に立ち尽くしていた。

本当に自分の見間違いだったのだろうか。

……

詩葉が再びオフィスに戻ると、周囲の同僚たちは皆、新しい社長の話題で持ちきりだった。

「聞いた?社長のお母様って南洋私立病院の院長なんだって!お父様もかなりの大物らしくて、社長は小さい頃から恵まれた環境で育ったみたい。しかも海外留学して、医学と金融学のダブル修士まで取ったんだって!本当なら帰国後はお母様の病院を継ぐ予定だったのに、どういうわけかうちの会社に来たらしいよ?」

詩葉はその話を聞き、心臓が跳ねた。

南洋私立病院――それは自分が通っていた、あの病院だ。

つまり、新社長の母親が病院長で、本人も医学を学んでいた。

終わった。

全部繋がってしまった。

彼こそ、あの日自分を診察した男性医師だったのだ。

嫌な予感ほど当たる。

あの日の診察以来、詩葉は彼と二度と会わないよう避けたかった。

それなのに、まさか彼が自分の会社に来るなんて。

しかも社長として。

――でも、考えてみれば彼は社長で、自分はただの地味な平社員。

きっと接点なんてない。

詩葉がそう自分に言い聞かせた直後、マネージャーの桐生悠真(きりゅう ゆうま)が突然彼女の方にやって来た。「一ノ瀬さん、社長が名指しで呼んでる。社長室に行ってこい」

詩葉のまぶたがぴくりと引きつった。

気づけば、オフィス中の同僚たちが一斉に自分を見ている。その視線には驚きが滲んでいた。

詩葉は思わず息を呑む。

心が、一気に奈落まで沈んでいった。

――うそ。やっぱり、逃げられないの……?
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