Masuk
詩葉が顔を上げると、そこにいたのは蒼空の秘書・白石凛(しらいし りん)だった。詩葉は慌てて、その下着を背中に隠す。「一ノ瀬さん、どうして外に立ってるの?中に入らないの?」凛はそう言いながら、社長室のドアを開けようとした。「だ、大丈夫です!今ちょうど休憩室の掃除が終わって出てきたところなので!」詩葉は慌てて手を振る。凛の目に、一瞬驚きが浮かんだ。「社長が、一ノ瀬さんに休憩室を掃除させたの?」凛は長年蒼空の側に仕えてきた。だからこそ、彼の性格もよく知っている。休憩室は完全なプライベート空間。普通の人間を簡単に入れるような場所ではない。これまでは掃除ですら、彼が自分でやっていた。それなのに今日に限って、アシスタントの詩葉に任せるなんて。詩葉は不思議そうに頷く。「はい……どうかしました?」「いえ、別に……」凛は素早く首を振った。だが詩葉を見る目は、どこか意味深に変わっている。「昇進したばかりだから、まだ自分のオフィス見てないでしょう?案内するわ」凛は妙に親切に先導した。凛に連れられ、詩葉は社長室からほど近い部屋に案内される。ドアが開く。「今日からここが一ノ瀬さんのオフィスよ。必要な物があったら言って。手配するから」目の前の広い個室を見て、詩葉は思わず目を丸くした。まさか自分専用のオフィスまで与えられるなんて。しかも予想以上に広い。「ありがとうございます、白石秘書。今のところ特に必要な物はありません」詩葉は振り返って微笑んだ。凛は微笑みながら言った。「全部、社長の指示よ。お礼を言うなら、本人に言ってあげて。私はまだ仕事があるから失礼するね」そう言い残し、凛は部屋を後にした。一人になった詩葉は、改めて室内を見回す。この会社で二年間働き、ようやく昇進して、自分専用の個室まで与えられた。本来なら喜ぶべきことのはずだった。けれど詩葉は、どうしても素直に喜べない。蒼空を前にすると、すぐ発作を起こしてしまう。そもそも自分がこんな厄介な病気になったのは、長い間男に触れられず、欲求不満を抱え続けてきたせいだ。そんな自分の前に、あまりにも危険な男が現れた。しかも毎日、至近距離で接することになる。平常心でいられる気がしなかった。今日みたいな失態を、これからあと何度繰り返すのだろう。
詩葉は首を反らし、荒い呼吸を繰り返していた。満たされない欲望に追い詰められ、もう限界寸前だった。――道具を持ってくればよかった。朝に発作を起こしたばかりなのに、まさかこんな短時間でまた再発するなんて思わなかった。しかも場所が、社長の休憩室だなんて。だがさらに予想外だったのは、蒼空本人が、外から入ってきたことだった。ドアの開く音を聞いた瞬間、詩葉の心臓は喉元まで跳ね上がる。――終わった。こんな姿を見られたら、本当に終わりだ。焦り、不安、恐怖。様々な感情が一気に押し寄せる。詩葉は必死に立ち上がろうとした。だが駄目だった。脚に力が入らない。その時、浴室のドアが開いた。蒼空の高く引き締まった姿が、入口に現れる。詩葉の頭の中が真っ白になった。目が合う。その瞬間、羞恥で死にたくなった。「しゃ、社長……」蒼空は上から彼女を見下ろす。整った顔には何の感情も浮かんでいない。だが彼女はその鋭く深い視線に、全身を見透かされている気がした。まるで見えない手で、全身を撫で回されているみたいに。詩葉の頬は熱を帯びる。今すぐ地面に穴を掘って消えたかった。「また発作か?」しばらく見つめた後、蒼空が低く問う。詩葉は気まずそうに頷いた。後ろめたくて、彼をまともに見られない。「しゃ、社長……すみません、私……」慌てて謝る。彼女の手は、彼の下着をぎゅっと握り締めたままだった。こんなところで、こんな姿を見られるなんて思っていなかった。でも耐えられなかった。もし彼を不快にさせたなら、それも仕方ないと思った。だが彼女が言い終える前に、蒼空の視線が彼女の手元に落ちる。「それは何だ?」「えっ!?な、何でもありません!」詩葉は飛び上がるように驚き、慌てて下着を背中に隠した。もし蒼空に、自分が彼の下着を握り締めて、その匂いで妄想していたことまで知られたら――本当に終わりだ。蒼空の目がわずかに暗くなる。「見せろ」詩葉は顔を真っ赤にしたまま首を振った。「ほ、本当に何でも……!」だが実際には、さっきの時点ですでに彼は見ていた。「まさか一ノ瀬さんに、『男物の下着を収集する趣味』があるとはな」詩葉の体が強張る。心が一気に沈んだ。――見られてた。全部。「社長、違うんです、こ
――え?初日から掃除?それってアシスタントというより、ほとんど家政婦では?詩葉は思わず抗議しかけた。だが蒼空の圧のある視線に射抜かれ、結局逆らえずに頷く。「……承知しました」彼女が休憩室に向かおうとした時、背後から再び男の声が飛んだ。「靴は脱いで入れ」――うわ、ルール細かっ。詩葉はハイヒールを脱ぎ、休憩室のドアを開けた瞬間、思わず目を見張った。広い。自宅よりも広いかもしれない。高級な輸入家具や家電が一通り揃っている。しかも何より驚いたのは、塵ひとつ落ちていないことだった。こんな完璧に綺麗な部屋、いったい何を掃除しろというの?もしかして蒼空も、哲也みたいな潔癖症なのだろうか。考えてみれば、それくらいしか理由が思いつかない。詩葉は観念したように掃除機を手に取り、掃除を始めた。床も家具も、全部もう一度丁寧に拭き直す。気づけば、もう昼になっていた。朝食も食べる暇なく呼び出され、そのまま午前中ずっと休憩室の掃除。さすがに疲れたし、お腹も空いている。詩葉は床に座り込み、少し休憩しようとした。その時、ふとベッドの下に何か衣類のようなものが見える。たぶん、さっきベッドを整えた時に落ちたのだろう。詩葉は近づいて拾い上げ――固まった。男物の下着だった。しかも使用済みらしく、男の匂いが残っている。ここは蒼空のオフィスだ。つまり、この下着の持ち主が誰かなんて考えるまでもない。詩葉の頬が一気に熱くなった。反射的に、火傷しそうな勢いで放り投げた。けれどすぐに思い直す。自分は掃除を任されているのだ。社長の下着を床に放置するわけにもいかない。仕方なく、もう一度拾い上げる。本当はそのままランドリーボックスに入れるつもりだった。だが、そこに残る男の匂いを感じた瞬間、胸が妙にざわついた。呼吸が自然と浅くなる。詩葉は手の中の下着を見つめ、それから休憩室のドアに視線を向けた。たぶん今、蒼空は外で仕事中。掃除が終わるまでは、ここに入ってこないはず。彼女は意を決し、その下着をそっと鼻先に近づけた。蒼空の気配が濃すぎて、頭がくらくらした。全身がじわりと熱を帯びる。――っ。男っぽい匂い……強すぎる。なのに、どうしようもなく好きだった。こんなの、意識しない方が無理だった。
蒼空も、まさかこんな状況だとは思っていなかった。だが互いに大人だ。ある種の欲求については、言葉にしなくても察せられる。しかも彼は、詩葉がそういう病を抱えていることを知っている。「しゃ、社長……」詩葉は一瞬で石化した。頭の中が完全にフリーズする。電話越しの声は、どう聞いても、会社に突然赴任してきた社長本人だった。一瞬だけ我に返ったものの、すぐに体の感覚に呑み込まれてしまう。蒼空の端正で高貴な顔が、一気に険しく沈んだ。「出社もせず、家でそんなことをしているのか?」詩葉の顔は一気に熱くなる。穴があったら入りたい。まさか一人でしている最中に、偶然社長の電話を取ってしまうなんて。しかもタイミング悪く聞かれるなんて――でも本当に、もう限界だったのだ。発作が出ると、自分では抑えられない。「わ、私……もう辞表を出しましたから……」詩葉は途切れ途切れに答えた。蒼空は眉を強く寄せた。「辞表?そんな話は聞いていない。社員の退職には一ヶ月前に申請が必要だ。法務部との引き継ぎもある。無断退職なら契約違反として、二年分の給与を違約金として支払ってもらう」詩葉は思わず頭を抱えたくなった。そんなの、二年間ただ働きしたようなものじゃない。稼いだ給料全部、違約金行き!?「社長……少し融通していただけませんか?私、本当に病気で……もう普通に働けなくて……」彼女は必死に頼み込む。蒼空の声が低く沈む。「どんな病気だ?」詩葉は詰まった。――いや、そっちが一番よく知ってるでしょう!?あの日、あなたが私を診察したくせに。「……欲求不満による発作です」彼女はもうヤケになって言った。「発作が出ると欲求が抑えられなくて……全然仕事に集中できないんです……!」電話の向こうは、一分近く沈黙したままだった。自分の言葉が大胆すぎて、社長を怒らせてしまったのだろうか。だが詩葉には、受話口の向こうにいる男の呼吸が、明らかに重くなっているのが分かった。彼女は思わず唾を飲み込む。不安で心臓が激しく脈打った。でも社長が電話を切らない以上、自分から切る勇気もなかった。そして次の瞬間。「三十分以内に出社しろ。俺が治してやる」詩葉は呆然とした。聞き間違いかと思った。――社長自ら、私の病気を治す?どうやって
詩葉のまぶたがぴくりと跳ねた。彼はいきなり、私を社長アシスタントに昇格させるつもり?これ、絶対ろくなことにならない気がする……「社長、私はこれまでアシスタントの仕事なんてしたことがありません。たぶん務まらないと思います……」詩葉は反射的に断ろうとした。だって今の自分の頭の中は、彼に抱かれたいという思いでいっぱいだったのだ。もし社長アシスタントになれば、毎日彼の顔を見ることになる。そんなの、耐えられるわけがない。蒼空は深い眼差しで彼女を見つめた。「昇進が不満か?」詩葉は赤い唇を舐める。「その……私は……」だが蒼空は途中で遮った。「お前は社長か?」詩葉の笑顔が一瞬固まる。「す、すみません……」蒼空は有無を言わせぬ口調で命じた。「引き継ぎを済ませろ。明日から社長室勤務だ」「でも……」詩葉は言葉を濁す。彼、本当にこれでいいの?もし私が理性を保てなくなって、勢いで彼を押し倒したらどうするの?蒼空はわずかに苛立ったように眉を寄せた。「やりたくないなら辞めろ」詩葉は一瞬呆れた。小さく頭を下げる。「……分かりました」蒼空は彼女が了承したと思ったのか、それ以上何も言わずデスクに戻り、再び仕事を始めた。詩葉は自分の部署に戻った。悠真の嫌味混じりの詮索も、周囲の同僚たちの好奇の視線も無視する。席につくなりパソコンを開き、退職願を書き始めた。不思議なことに、辞めると決めた途端、体の熱も少し落ち着いた。「ねえ詩葉、社長はなんであなただけ社長室に呼んだの?もしかして気に入られた?」莉央が身を乗り出し、目を輝かせて聞いてくる。「まさか。相手は社長だよ?私みたいな平凡な女に興味持つわけないでしょ」詩葉はキーボードを打ちながら答えた。莉央は呆れた顔をする。「どこが平凡なのよ?今月だけであなた宛てのバラ、二十束以上処理してるんだけど?その顔とスタイルなら、社長が一目惚れしても全然おかしくないって!」――一目惚れ。詩葉の指が一瞬止まる。もし本当に社長が自分を好きなら、彼とそういうことをするチャンスもあるのでは?あの高身長に細い腰、長い脚。あんな人に抱かれたら、どうなっちゃうんだろう……――って何考えてるの!?また症状が出てる!?詩葉は顔を真っ赤にし、慌てて首を振った。「あり
悠真は厳しい目で詩葉を睨みつけた。「お前、何かやらかしたのか?」社長が突然名指しで詩葉を呼び出した。詩葉本人はもちろん、直属の上司である悠真ですら予想外だった。詩葉は戸惑ったように瞬きをした。「わ、私にも分かりません……」掌にはじっとりと冷や汗が滲んでいた。不安で胸が締めつけられる。逃げたい時ほど、逃げられない。悠真は低い声で警告した。「お前がやらかしたことは、お前一人で責任取れ。絶対に俺を巻き込むな」彼は涼子――水谷家の奥様側の人間だった。詩葉がこの二年間、彼の下で働く間、悠真は何度も涼子の指示で詩葉に嫌がらせをしてきた。だから今回も、社長が初日にわざわざ詩葉を呼び出したとなれば、悠真の中では「詩葉が何か失礼を働いた」に決まっている。むしろ詩葉が処罰されれば、奥様への報告もしやすい。彼が受けている命令はただ一つ。それは「詩葉に失敗させること」。だが詩葉はこの二年間、細心の注意を払って働いてきた。一度も大きなミスをしていない。悠真は、どうやって彼女に「罪」を被せようか悩んでいたところだった。それがまさか、自ら社長相手に問題を起こしてくれるとは。これは好都合だった。問題が大きければ大きいほど、奥様は満足する。ただしその前に、自分だけは無関係だと切り離しておかなければならない。「分かりました、桐生マネージャー」詩葉は俯いたまま答えた。立ち去ろうとした瞬間、悠真に腕を掴まれる。そして耳元で凶悪な声を落とした。「いいか?社長の前で余計なことを喋ったら、今後お前を絶対に楽には働かせないからな」詩葉は皮肉げに彼を見た。まるで、この二年間ずっと快適に働かせてもらっていたみたいな言い方だ。悠真が涼子の指示で自分を抑え込み、嫌がらせや職場いじめをしてきた回数など、数えきれない。今さら脅してくるなんて、完全に後ろめたい証拠だった。自分が社長に告げ口するのを恐れて、社長室に行く前にわざわざ釘を刺してきたのだ。だが悠真は心配しすぎだった。今回、詩葉にはもっと重要な確認事項がある。彼みたいな小物を話題にしている余裕などない。詩葉は内心うんざりした。悠真の手を振り払ってエレベーターに向かった。そのまま最上階へ。そこは社長専用フロア。入社して二年、詩葉は十二階より上