Semua Bab 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Bab 341 - Bab 350

359 Bab

第341話 お前も今は独身だ

「今後の、白松家と綾瀬家の関係についてだ」父の言葉が落ちた後。個室の空気が、少しだけ変わった。さっきまで聞こえていた資料をめくる音も。料理を下げる店員の気配もない。障子の向こうで、庭の水音だけが続いていた。私は鞄へ伸ばしかけた手を、膝の上へ戻す。「事業の話は、終わったんじゃないの?」父は、すぐには答えなかった。向かいに座る綾瀬家の父親へ、一度だけ視線を向ける。それだけで。この後に話されることが、父一人の思いつきではないのだと分かった。「事業だけの話ではない」父が言う。「両家が今後も関係を続けていくなら、整理しておくべきことがある」言葉は穏やかだった。だからこそ、拒みづらい。「整理って、何を?」問い返すと、真哉兄さんがわずかにこちらを見る。何か言いたそうに見えたものの、口は開かなかった。父に近い兄は、少なくとも話の方向を知っている。けれど、ここで私を助けるつもりはないらしい。まず聞け。その上で、自分の意見を言え。電話で言われた言葉を思い出す。「綾香」父は、いつもと変わらない口調で続けた。「お前も今は独身だ」一瞬。意味を理解するまでに時間がかかった。視線が、無意識に郁人先生へ向かう。郁人先生は、姿勢を崩さず座っていた。驚いた様子はない。だからといって、話を待ち望んでいるようにも見えない。いつも通り。何を考えているのか、簡単には読めない顔だった。「郁人さんも、現在は一人だ」父の声が続く。「医師としての立場もある」「両家の事業にも関わっている」「条件として、悪い話ではない」条件。その言葉に、胸の奥が冷えた。「何の話をしてるの?」分かっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。父は、ためらわなかった。「お前と郁人さんの結婚についてだ」はっきり言われると。かえって、現実味がなくなった。この席へ来る前。真哉兄さんから聞いた、昔の話を一度だけ思い出した。優との縁談が先に進んでいなければ。綾瀬家も候補だった。相手は郁人先生。もうない話でしょう。そう思っていた。何も始まっていない。本人同士には、何の約束もない。だから、過去の可能性として片づけていた。それが今。父親たちの前で。改めて現実の話として置かれている。「私は」すぐに断ろうとした。けれど、父が言葉を
Baca selengkapnya

第342話 白松先生であれば

「今なら、改めて考える余地がある」私の中では。考える余地など、最初からなかった。それでも。父親たちは、私の返事を急いでいるようには見えない。むしろ、すでに条件を並べ終えた上で。あとは本人同士が承諾するだけだと考えているようだった。「郁人さんは」綾瀬家の父親が、息子へ視線を向ける。「どう考えている」部屋の空気が。さらに静かになる。私は、思わず郁人先生を見た。郁人先生は、すぐには答えなかった。急に話を振られたからではない。言葉を選んでいるというより。自分の考えを、どこまで話すべきか判断しているように見えた。「白松先生であれば」やがて。低く、落ち着いた声が響く。「私から断る理由はありません」胸の奥が、わずかに詰まった。驚いた。というより。郁人先生が、その可能性を否定しなかったことに。一瞬、言葉が追いつかなかった。郁人先生は。いつもと同じ顔をしている。照れも。迷いもない。まるで、仕事上の提案に対し。条件を確認して答えているようだった。「仕事でご一緒して」郁人先生は続ける。「医師としての考え方も、ある程度は分かっています」「判断も、安定していると思います」それは。私自身への評価のはずだった。けれど。今は、縁談を受け入れる理由として使われている。「生活については」綾瀬家の父親が尋ねる。「話し合いは必要でしょう」郁人先生は答えた。「お互いに仕事がありますから」あまりにも淡々としていた。だからこそ。この話を本当に現実のものとして考えているように聞こえる。真哉兄さんは、何も言わない。父も。綾瀬家の父親も。郁人先生の答えを、前向きなものとして受け取ったようだった。「なら」父が口を開く。その先を聞く前に。郁人先生が、静かに言葉を重ねた。「ただし」短い一言で。父親たちの視線が、郁人先生へ戻る。「白松先生に意思がないのであれば」郁人先生は、初めてこちらを見た。真っ直ぐに。けれど、答えを迫るような強さではなかった。私の表情を確認するように、一度だけ視線が止まる。「進めるべき話ではないと思います」父が、わずかに眉を寄せた。「家同士の話でもある」「そうですね」郁人先生は否定しない。「それでも」「本人が望んでいない状態で進めれば」「後から問題になります」あ
Baca selengkapnya

第343話 完璧な無礼

襖の前に立つ隼人くんを見た瞬間。最初に浮かんだのは、どうして、という疑問だった。会食の場所は伝えていない。少なくとも、私からは。終わったら連絡すると約束しただけで、来てほしいとは一言も言っていなかった。それなのに。隼人くんは、まっすぐ部屋の中へ入ってきた。濃い色のスーツに、乱れのない髪。急いで来たようには見えない。息も上がっていなければ、表情にも焦りはなかった。店員へ静かに礼を言い、襖が閉じるのを待つ。その間、一度も私を見なかった。「隼人」綾瀬家の父親が名前を呼ぶ。声には、明らかな不快感があった。それでも、隼人くんの表情は変わらない。父親へ先に返事をするのではなく、まず私の父へ向き直った。背筋を伸ばし、深く頭を下げる。「ご無沙汰しております」声は低く、よく通った。私と話す時の柔らかさは、どこにもない。ギャラリーで人と接していた時よりも、さらに整っている。誰にどう見られるかを一つも外さず、それでいて相手へ媚びる気配もなかった。父は、返事をするまでにわずかな間を置いた。「久しぶりだな」「本日は、お招きいただいていない席へ伺いましたこと、先にお詫び申し上げます」隼人くんは、もう一度頭を下げた。「今日の無礼は承知しております」無礼だと認めながら。そこに後悔は見えない。むしろ。無礼と分かった上で、それでも来ると決めた人の声だった。「分かっているなら」父が言う。「帰りなさい」「申し訳ありません」隼人くんは、すぐに答えた。「それはできません」声を荒らげることもなく。父の言葉を否定した。あまりにも静かで、迷いがない。父の眉が、わずかに動く。綾瀬家の父親も、何も言わず息子を見ていた。真哉兄さんは、隼人くんの立ち位置を測るように目を細めている。郁人先生だけが、いつもと変わらない顔で座っていた。「何のために来た」父が尋ねる。隼人くんは、そこで初めて部屋全体へ視線を向けた。父。綾瀬家の父親。真哉兄さん。郁人先生。最後まで、私だけは見ない。「白松家と綾瀬家の今後について、私からも意見させて頂きたくお伺いしました」父の目が、少しだけ鋭くなる。「誰から聞いた」「重要なのは、誰から聞いたかではないと思います」返事は早かった。「事実として、白松先生と兄の婚姻を、両家の事業連携と結びつ
Baca selengkapnya

第344話 お前は、何を条件にしている

「随分と簡単に言う」「簡単だとは思っていません」「君一人で決められることでもない」「その通りです」隼人くんは、父の反論をそのまま認めた。「ですから、正式な条件は改めて整理します」「綾瀬家側の権限と責任」「白松家側が必要とする保証」「事業継続に必要な契約」「婚姻ではなく、法人間の合意として明文化します」父の口元が、わずかに固くなる。婚姻よりも。契約の方が、事業上は確実だ。誰かの感情や離婚の可能性に左右されない。責任の範囲も。不履行時の対応も。すべて明確にできる。父にとって。反論しにくい提案だった。「家同士の信頼は」父が言う。「契約だけで成り立つものではない」「おっしゃる通りです」隼人くんは、少しもひるまない。「だからこそ、僕が個人としても責任を負います」「白松家との事業に関しては」「途中で投げ出さない」「家の意向が変わっても、僕が継続する」「そのことを条件に入れていただいて構いません」「それで何年続けるつもりだ」「必要な期間すべてです」「十年でも?」「はい」「二十年でも?」「必要なら」一度も。言葉が揺れない。私が知っている隼人くんは。家の話になると、少しだけ面倒そうに笑った。関わらないといけないところはある。でも、家とは分けたところで仕事をする。そう言っていた。その人が今。十年でも、二十年でも。必要なら家の事業を担うと言っている。その意味が。分からないはずはなかった。胸の奥が。ゆっくりと冷えていく。嬉しいとは思えなかった。守られたとも。まだ感じられない。怖かった。隼人くんが。自分の人生を。あまりにも迷いなく差し出していることが。「隼人」綾瀬家の父親が言う。「お前は、何を条件にしている」隼人くんの視線が。父親から動かない。「一つだけです」部屋の中が静まる。私の名前が。出ると分かった。それでも。隼人くんは、こちらを見なかった。「白松先生を」一度、言葉を区切る。「事業連携の条件に使わないことです」声は、冷たかった。感情を抑えているのではない。感情を。完全に決断へ変えてしまった人の声だった。「兄との縁談を」「両家の事業上の利益と結びつけない」「白松先生の結婚を」「綾瀬家への保証として扱わない」「それを約束していただけるの
Baca selengkapnya

第345話 継がせたい事業

「なら、確認することがある」隼人くんのお父さんがそう言うと、隼人くんはわずかに顎を引いた。「はい」先ほどまでと変わらない声だった。父親たちの前へ突然現れ、白松家との事業連携を自分が引き受けると宣言した後も、呼吸一つ乱れていない。私の父へ向けていた完璧な礼儀も。自分の父親へ向ける冷静な視線も。最初から、この場で何を差し出すのか決めてきた人のものだった。それでも私は、隼人くんがここまで言うとは思っていなかった。家の医療法人へ入るつもりはない。これからも、家とは分けた場所で仕事をする。クリニックで郁人先生へ、そう言い切っていたのは、つい先日のことだった。その考えは今も変わらないと、隼人くん自身が言った。けれど。私を事業の条件から外すためなら、必要な役割をすべて引き受けるとも言っている。「お前は以前から」隼人くんのお父さんが、ゆっくりと言葉を続けた。「家の事業には入らないと言ってきた」「はい」「何度話しても、答えは変わらなかった」「覚えています」「クリニックを立ち上げる時も、資金も運営も家と分けた」「その方がよいと判断しました」言い訳も、反発もない。聞かれたことだけに答える。お父さんは、そんな隼人くんをしばらく見ていた。叱るというより、値踏みするような目だった。「だが」低い声が、静かな個室へ落ちる。「お前のやり方が間違っていたとは思っていない」隼人くんの表情は変わらなかった。けれど、真哉兄さんがわずかに顔を上げた。私の父も、続きを待つように杯から手を離す。「自分で起こした事業を、ここまで安定させた」お父さんが言う。「医療現場だけでなく、数字も見ている。人を雇い、組織を作り、必要なところには資金を入れる判断もできる」「ありがとうございます」隼人くんの返答は短かった。褒められたことを喜んでいる様子もない。今、父親が自分をどう評価しているのか。その先に、どのような条件を置こうとしているのか。ただ静かに待っている。「投資についても」お父さんが続けた。「お前に才能があることは把握している」隼人くんが個人で行ってきた投資については、私も詳しく知らない。医療関連だけではなく、今後伸びる事業へ早い段階で資金を入れて。利益を出していると、以前少しだけ聞いたことがあった。それも父親は把握していたら
Baca selengkapnya

第346話 それでも、本当に継ぐのか

海外の関係者との調整。現地法人の経営。投資判断。必要なら、長期間日本を離れることもあるのかもしれない。隼人くんが、自分のクリニックを今まで通り続けながら、簡単に担える仕事ではない。「経営については、お前のやり方でいい」お父さんが言う。「投資も、お前の判断に任せる」「クリニックを手放せとも言わない」一つずつ。隼人くんが拒む理由を減らしていく。「だが、海外事業だけは、お前が責任を持って継げ」お父さんは、少し間を置いた。「それが、こちらの条件だ」隼人くんは答えなかった。先ほどまで、どの問いにも迷わず返していた。その隼人くんが、初めて沈黙している。けれど。迷っているようには見えなかった。条件の重さを測っている。引き受けた場合に必要となる責任を、一つずつ確認しているようだった。郁人先生が、隼人くんを見る。いつもと変わらない表情だった。止めもしない。代わりに答えることもしない。弟が何を選ぶのかを、ただ待っている。「海外事業については」隼人くんが、ようやく口を開いた。「現在の権限と収益構造を、すべて確認させてください」「当然だ」「既存の経営陣も、能力を見た上で再編します」「構わない」「投資判断へ、家から個別の指示を入れないことも条件にします」「結果を出すのであれば任せる」「僕のクリニックを、海外事業の傘下へ入れるつもりもありません」「それも認める」お父さんは、一つずつ即答した。交渉だった。親子の話ではない。これから事業を渡す側と。引き受ける側。互いに、譲れるものと譲れないものを並べている。私の父も、真哉兄さんも、何も口を挟まなかった。隼人くんが海外事業を担えば、白松家との連携に必要な経営判断も、投資も、十分に引き受けられる。父親たちが縁談によって得ようとしていたものを。より大きな形で差し出すことになる。「隼人」お父さんが改めて名前を呼ぶ。「絶対にやらないと、ずっと言っていたお前が」視線が鋭くなる。「それでも、本当に継ぐのか」隼人くんは、お父さんをまっすぐに見た。その横顔には。先ほどまでの冷たさが、そのまま残っている。苦しさも。迷いも。少なくとも、私たちに見せるつもりはない。「綾香さんを」隼人くんが言う。初めて。私の名前が呼ばれた。それでも、視線はこちらへは向
Baca selengkapnya

第347話 私の意思

「私のことなので、ここからは私が話します」声を出した瞬間。室内の視線が、一斉にこちらへ集まった。父。真哉兄さん。隼人くんのお父さん。郁人先生。そして。隼人くんだけが、まだ私を見なかった。膝の上で握っていた指を、ゆっくりと開く。感情のままに言えば、簡単だった。私の結婚を、事業の条件にしないでほしい。勝手に話を進めないでほしい。隼人くんも、自分の人生を私の知らないところで決めないでほしい。言いたいことはいくつもある。けれど、ここは家族だけの場所ではない。両家の父親がいて、今後も仕事で関わる相手がいる。郁人先生にも、何の非もない。誰かを傷つける形で断れば、その後の仕事へ余計なものを残す。優と結婚していた頃。私は何度も、こうした席に座った。相手を否定せず。意図を理解していると伝え。その上で、自分に不利な約束だけは避ける。当時は、東郷家の妻として身につけた話し方だった。今は。自分の意思を守るために使う。私は、まず綾瀬家の父親へ向き直った。「このようなお話をいただけたことは、大変ありがたく思っております」自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。「郁人先生ほどの方とのご縁を、両家の将来も含めてご検討いただいたこと自体、光栄です」郁人先生が、静かにこちらを見る。先ほどと変わらない表情だった。それでも、私が何を言うのかを、きちんと待っていることは分かった。「また」私は続けた。「父が、この話を事業の発展と両家の関係を考えた上で提案していることも理解しています」父の顔へ視線を移す。「新設病院と地域医療連携は、今後も長く続く事業です」「そのために、両家の関係をより確かなものにしたいと考えることも、立場としては理解できます」父は何も言わなかった。否定せずに聞いている。おそらく。私がここまで父の意図を汲んで話すとは思っていなかったのだろう。「ですが」言葉を急がず、短く息を吸う。「事業上の必要性がなかったとしても」「私は、郁人先生との婚姻の意思を持つことはできません」部屋の空気が、わずかに動いた。声を強くしたわけではない。それでも。曖昧に受け取られる余地がないように言った。「郁人先生に何か問題があるという意味ではございません」すぐに言葉を重ねる。「むしろ」郁人先生へ向き直った。「とても
Baca selengkapnya

第348話 今後のことは分かりません

「白松先生のお考えは理解しました」「ありがとうございます」頭を下げる。「ただ」その声が、わずかに低くなる。「一つだけ、確認してもよろしいですか」「はい」父親の視線が。私から隼人くんへ移った。隼人くんは、姿勢を崩さない。まだ私を見ていない。「これまで」隼人くんのお父さんが言う。「何度話しても、家の事業には関わらないと言っていた隼人が」「今日、海外事業を継ぐとまで言った」「それほど頑なだった意見を変えさせたにもかかわらず」父親の視線が、再び私へ戻る。「あなたには、うちとの縁談の意向は本当にないのですか」問いかけは丁寧だった。けれど。何を確認したいのかは分かる。郁人先生との縁談ではなく。隼人くんとの将来を考えているのではないか。隼人くんが、ここまでした理由を。私も受け入れているのではないか。そう聞かれている。一瞬。隼人くんの肩が、わずかに強張ったように見えた。それでも。こちらは見ない。私は、答えを急がなかった。今。隼人くんのために。都合のいい言葉を返すこともできた。個人的に交際していることを伝え。将来的な可能性を否定しないと言えば。隼人くんの決断にも、表向きの理由がつく。けれど。それをしてしまえば。今度は、隼人くんとの関係が。家同士の話の中へ組み込まれる。郁人先生との縁談を断った直後に。別の綾瀬家との婚姻の可能性を差し出すことになる。それは。私が今伝えたかったことと違う。「隼人さんが今日決めたことは」私は、言葉を慎重に選んだ。「私自身も、知らなかったことです」初めて。隼人くんの表情が、わずかに動いた。横顔しか見えない。それでも。頬の筋肉が一瞬だけ固くなり。伏せていた視線が、わずかに上がる。「私に事前の相談はありませんでした」続ける。「ですので」「隼人さんの決断を理由に」「私の意向まで、今ここで決めることはできません」父親は黙って聞いている。隼人くんも。今度は完全に無反応ではいられなかった。それでも。まだこちらを見ない。「今後のことは分かりません」私は、曖昧に逃げるためではなく。正確に答えるために言った。「ただ」一度息を置く。「少なくとも、今の私には」「綾瀬家との婚姻の意向はございません」部屋の中に、静かな沈黙が落ちた。郁人先生と
Baca selengkapnya

第349話 学んだこと

会食は、それ以上続かなかった。父親たちは、事業上の条件については改めて整理すると確認して。縁談については私の意思を尊重するという形で話を終えた。店の人が新しい茶を運んできたものの、誰もほとんど口をつけない。先ほどまでと同じ個室なのに、空気だけがすっかり変わっていた。私は背筋を崩さないまま、静かに席を立つ準備をした。感情のままに怒鳴ったわけではない。父の考えも。綾瀬家の立場も。郁人先生への敬意も。一つずつ言葉にして、その上で断った。間違ったことはしていない。それでも。隼人くんの表情が一瞬崩れたことだけが、胸の奥に残っていた。「今日は、これでいいだろう」父が言う。「今後の事業については、改めて話す」「分かりました」私は短く答えた。父は、まだ完全には納得していないのだと思う。けれど、ここで話を戻すことはしなかった。少なくとも。私が以前のように、家の用意した流れへ黙って乗るつもりがないことは伝わったはずだった。真哉兄さんも席を立つ。父と隼人くんのお父さんが先に部屋を出た後、兄が私の横へ並んだ。廊下へ出る前に、低い声で言う。「綾香は、学んだんだな」「何を?」「優との結婚で」足が止まりかける。真哉兄さんは、いつものように大きな表情を見せない。ただ、先ほど私が父親たちへ返した言葉を思い返しているようだった。「相手を立てたまま」兄が続ける。「自分の拒否だけを残した」「父さんにも、綾瀬家にも、反論する理由を与えなかった」褒めているのか。皮肉を言っているのか。兄の声からは判別しにくい。私は小さく息を吐いた。「四年間の結婚生活が」口元だけで笑う。「こういう場で役に立つなんてね」自分でも、少し皮肉な言い方だと思った。優の隣にいるために覚えたことだった。相手が何を求めているかを先に読み。不用意に感情を見せず。場を壊さない言葉だけを選ぶ。当時は。自分の意思を抑えるために使っていた。今日初めて。自分を守るために使った。「無駄ではなかったということだ」真哉兄さんが言う。「それ、慰めてるの?」「事実を言っている」兄らしい返事だった。「でも」真哉兄さんは少しだけ声を落とす。「今日の答え方でいい」「父さんに反発するだけでは」「また感情の話にすり替えられる」「分かってる」「ならい
Baca selengkapnya

第350話 お疲れさまでした

先ほどの縁談を。感情的な拒絶として受け取っていない。私が望んだ通り。仕事と婚姻を、きちんと分けてくれている。「白松先生」郁人先生が言う。「今日のことは」「今後の業務へ持ち込む必要はありません」「はい」「ただ」一度、隼人くんへ視線を向ける。「隼人とは、話した方がいいでしょう」その言い方に。わずかな含みがあった。心配というより。今の弟の状態を、正確に見ている人の言葉だった。「そうします」私が答えると、郁人先生はそれ以上何も言わなかった。「では」「お疲れさまでした」「お疲れさまでした」郁人先生は、隼人くんの横を通る。二人の間に。短い視線が交わった。「兄貴」隼人くんが呼ぶ。「何ですか」「後で連絡する」「分かった」兄弟の会話は、それだけだった。郁人先生が部屋を出ていく。襖が閉じると。急に、隼人くんと二人だけになった。***隼人くんは。すぐには話しかけてこなかった。上着のポケットへ片手を入れたまま、少し離れた場所に立っている。機嫌が悪い。そう見えた。けれど。表情から何を考えているのかは読めない。父親たちの前で見せていた冷たさは消えている。それでも。いつもの隼人くんにも戻っていなかった。「隼人くん」私から名前を呼ぶ。ようやく、視線がこちらへ向いた。今日初めて。正面から目が合う。その目には。怒っているような。傷ついているような。それでも、どちらも隠そうとしているような色があった。「終わった?」低い声だった。「うん」「郁人兄貴とは」一度、言葉が止まる。「ちゃんと話したんだ」「挨拶しただけだよ」「そう」短い返事。やはり、少し機嫌が悪い。「隼人くん」「何?」「私に言いたいことがあるでしょう」隼人くんは。少しだけ目を細めた。すぐには答えない。私の表情を。今度こそ、逃さず見るように。じっとこちらを見ている。「あるよ」やがて言う。声は静かだった。「かなり」「ここで話す?」隼人くんは、部屋の中を一度見回した。料亭の個室。父親たちがいた場所。郁人先生との縁談を提示され。隼人くんが海外事業を継ぐと決めた場所。「ここでは話したくない」はっきり言う。「じゃあ、帰る?」その問いに。隼人くんの口元が、わずかに固くなった。「帰りたい?」
Baca selengkapnya
Sebelumnya
1
...
313233343536
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status