جميع فصول : الفصل -الفصل 70

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第61話 いい人では終われない

その日の、仕事終わり。休憩室でカルテ整理を終えた頃、ドアが軽くノックされた。「東郷先生」顔を上げると、綾瀬先生が立っていた。白衣姿。いつもより少し疲れているように見える。長い黒髪は後ろで束ねられているけれど、前髪が少しだけ額に落ちていた。整った顔立ちなのに、完璧に作り込まれていない。その少し乱れた感じが、いつも通り目をひく。「顔、大丈夫?」第一声がそれだった。「そんなにひどいですか?」「いや」綾瀬先生は私をしばらく見た。「昨日より、少し静かだから」その観察が、妙に深い。私は笑おうとして、うまく笑えなかった。「朝、少しだけ空気が重くて」正確には、咲子の苛立ちもあった。優の視線もあった。離婚の話が、家の中に残したものもあった。「離婚の話をしたから、家の空気が少し変わった気がします」綾瀬先生は軽く流さなかった。「そっか」それだけ言って、少し間を置く。「じゃあ今日は、頑張った日だ」短い言葉だった。でも、胸の奥が熱くなる。“頑張った”。今までなら、そんな言葉は安っぽく聞こえたかもしれない。でも、この人が言うと違った。見た上で言っている。私が平気な顔をしていても、どこかで疲れていることをわかった上で言ってくれている。「東郷先生」綾瀬先生が、少しだけ声を柔らかくする。「今日帰ったら、あったかいもの食べて」「で、風呂入って寝る」また生活指導。思わず笑ってしまった。「先生、ほんとお母さんみたいですね」言った瞬間、綾瀬先生の動きが止まった。白衣のポケットに入れかけた手が、そのまま止まっている。それから、ゆっくり眉を上げた。「それ」声は静かだった。けれど、いつもと少しだけ違った。「普通に傷つくんだけど」思わず笑ってしまう。「え、なんでですか」綾瀬先生は私を見る。その目に、いつもの軽さがなかった。正確には、軽さの奥に隠していたものが、ほんの少しだけ見えた。「俺」少しだけ間が空く。「東郷先生に、そんな“いい人”ポジションで終わる気ないし」時間が止まった。息が、少しだけ詰まる。休憩室の空調の音が、急にはっきり聞こえた。白衣の袖。少し疲れた横顔。こちらをまっすぐ見る目。その一言は、冗談の形をしていなかった。けれど、告白でもなかった。今すぐ何かを求める言葉ではない。ただ
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第62話 この結婚の意味

その日の夜。帰宅すると、リビングの灯りがついていた。玄関に咲子の靴はない。それだけで、部屋の空気が少しだけ軽く感じる。けれど、ソファに座っている優の横顔を見た瞬間、その軽さはすぐに消えた。優はスーツのままだった。ネクタイは外している。けれど、仕事を終えた人の顔ではなかった。何か大切な話があるときの顔だった。「ただいま」「おかえり」優はそう言って、少しだけ視線を上げた。その目が、いつもより静かだった。怒っているわけでも、焦っているわけでもない。ただ、何かを決めた後の顔に見えた。「ちょっと話せる?」私は少しだけ息を吸った。昨日、離婚の話をした。婚前契約書のこと。弁護士のこと。この結婚の始まりについて、近いうちに話すこと。それらが、まだ胸の奥に残っている。「うん」向かいの椅子に座る。テーブルの上には、封筒が置かれていた。仕事用の書類ではない。でも、優が仕事の場から持って帰ってきたものだとすぐにわかった。「案件」優が先に口を開いた。「正式に、あと三ヶ月で終わることになった」三ヶ月。思っていたより早い。優の大型プロジェクト。この結婚の主な理由になった案件。ずっと、この家に影のようにあったもの。それが、終わる。「そうなんだ」私は短く答えた。声は思ったより落ち着いていた。けれど、胸の奥では何かが静かに動いている。離婚まで、あと四ヶ月ほどだと思っていた。けれど、案件の終了が三ヶ月後に決まったのなら、婚前契約に書かれていた条件は、もうほとんど満たされることになる。優は封筒に視線を落とす。「白松先生のおかげで、かなり進んだ」その名前を聞いた瞬間、指先が冷えた。白松先生。私の父。実家では、父はいつも“先生”だった。政治の世界に近い場所にいて、兄二人はその道へ進んだ。私は違った。必死に勉強して医者になった。でも父が私を本当の意味で認めた瞬間は、医師になった時ではなかった。この結婚が決まった時だった。東郷家との関係。優のキャリア。父親同士の利害。その中で、私は初めて“役に立つ娘”になった。その記憶が、胸の奥で鈍く疼いた。優は私の表情に気づいたようだった。少しだけ言葉を止める。けれど、続けた。「白松先生が動いてくれたから、いろんな先生の協力が得られた」「それで、想定より早く
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第63話 契約書を開く前に

「この結婚が終わることは、最初から決まってた」優はテーブルの封筒を見つめたまま言った。「でも、終わった後に綾香がどこへ行くのかまで、俺は想像してなかった」前にも聞いた言葉だった。でも今は、少し違って聞こえる。優は、私の生活を想像していなかった。同時に、自分がこの結婚で得たものの代償も、ちゃんと見ていなかったのだと思う。「……私は」声を出すと、少しだけ喉が詰まった。「この結婚に意味があったって言われても」優が私を見る。私は言葉を選んだ。まだ、全部は言えない。ここで言い切るには早すぎる。「すぐには、よかったとは思えない」優の顔がわずかに歪む。それでも、目を逸らさなかった。「うん」短い返事だった。言い返さない。否定しない。その態度が、少しだけ意外だった。「今週末」私はもう一度言った。「ちゃんと話そう」「わかった」優は頷いた。その時、テーブルの上のスマホが震えた。優のものだった。画面に浮かんだ名前は、見なくてもわかった。優は一瞬だけ画面を見て、すぐに伏せた。私はその動作を見ていた。以前なら、それだけで胸が痛んだ。今は、痛みよりも静かな確信がある。この家で、私はずっと外側にいた。婚前契約書を読み直しても。父親たちの事情を聞いても。優のキャリアにどんな意味があったと知っても。その事実だけは、きっと変わらない。でも、知る必要はある。終わらせるために。私は立ち上がった。「今日はもう休むね」「うん」優はスマホに触れなかった。それでも、テーブルの上に伏せられたそれは、静かに存在を主張していた。私は部屋へ戻る。ドアを閉める直前、リビングを一度だけ振り返った。優はテーブルの前に座ったまま、封筒を見つめていた。案件終了の通知。この結婚の意味。私の父の名前。全部が、その封筒の中に入っているように見えた。***部屋に入ると、私は深く息を吐いた。閉めたドアに背中を預けたまま、しばらく動けなかった。今週末。婚前契約書を開く。この結婚がどう始まったのかを、もう一度見る。父に認められたかった私。父に押された優。その間で、夫婦の形だけを与えられた二人。胸の奥が重い。でも、不思議と逃げたいとは思わなかった。知らないまま終わらせるには、あまりにも長く傷つきすぎた。机の上には、先日
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第64話 選ばれなかった側

翌朝は天気が良く、いつもよりも窓から入る陽射しが強かった。リビングに行くと、空気が少し張っていた。優はテーブルの前に座っていた。手元にはノートパソコンがある。けれど、画面は開いたまま止まっていて、仕事をしているようで、していない。その向かい側に、咲子がいた。薄いピンクのカーディガンに、綺麗に巻かれた髪。いつも通り可愛い。けれど今日は、その可愛さの輪郭が少しだけ硬かった。口元には笑みがあるのに、目が笑っていない。「おはよう」私が言うと、咲子が先に顔を上げた。「おはようございます」甘い声だった。けれど、視線だけが私を探るように動く。優は少し遅れて言った。「おはよう」その声に、咲子の目が一瞬だけ優へ向いた。たぶん、優が私を見るタイミングを見ていたのだと思う。最近の咲子は、そういう小さなことに敏感だった。優が私に何を言うか。私が何を持っているか。私の予定に、優がどれくらい反応するか。以前は気にする必要がなかったものを、今はひとつずつ確かめているように見えた。私は冷蔵庫から水を取り出す。その時、テーブルの端に置かれたプリンが目に入った。昨夜、優が買ってきたもの。冷蔵庫に入れると言っていたのに、まだそこにあった。食べられなかったのか。それとも、私が食べるかどうかを見たかったのか。「それ」咲子さんが、ふいに言った。「綾香さんの好きなやつなんですか?」声は軽い。でも、少しだけ棘があった。優が顔を上げる。私はプリンを見る。昔、好きだった。研修医の頃、疲れた夜勤明けによく食べていた。でも今は、その甘さを思い出しても、胸の奥が少し痛むだけだった。「昔はね」そう答える。咲子が小さく笑った。「へえ」短い返事だった。その笑顔が、ほんの少し崩れた気がした。たぶん咲子は、優が私の“昔”を覚えているなんて思っていなかったのだ。私もそう思っていた。でも違った。優は覚えていた。覚えていたのに、使わなかった。それだけだった。優が静かに言う。「食べないなら、処分する」私は首を振った。「ううん。あとで食べる」そう言うと、優の表情がほんの少し緩んだ。本当に小さな変化だった。でも、咲子はそれを見逃さなかった。テーブルの下で、咲子の指がカップの取っ手を握り直す。白い指先に、少しだけ力が入っていた。「綾香さん」
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第65話 譲らない夜

昼過ぎ。クリニックの休憩室で、スマホが震えた。不動産屋からだった。【不動産担当】『東郷様』『先日の物件ですが、オーナー様より事前確認は問題なさそうとのことです』『次回の給与明細が出ましたら、本審査に進めます』画面を見たまま、しばらく動けなかった。問題なさそう。本審査。たったそれだけの言葉なのに、急にあの白い壁の部屋が近づいた気がした。小さなキッチン。午後の光。まだ何も置いていない床。自分だけの鍵。胸の奥が熱くなる。怖い。でも、それ以上に少しだけ嬉しかった。その時、ドアが軽くノックされた。「東郷先生」綾瀬先生だった。白衣の袖を少しだけ捲っている。長い黒髪は後ろでまとめられていて、少し疲れた顔をしているのに、相変わらず綺麗だった。「顔」「え?」「今、何か進んだ顔」私は思わず笑ってしまう。「顔でわかるんですか」「最近、結構わかる」さらっと言う。でも、今日は少しだけ目が柔らかかった。私はスマホを見せた。「物件、事前確認は大丈夫そうです」綾瀬先生の表情が、ほんの少し変わる。明るく笑うわけではない。でも、目の奥が静かに和らいだ。「そっか」その声は低く、優しかった。「よかった」その一言が、思ったより胸に響く。「まだ本審査がありますけど」「うん。でも、一歩進んだ」綾瀬先生はそう言って、休憩室の入口にもたれた。「鍵、近づいたね」鍵。その言葉に、息が止まる。新しい部屋の鍵。誰にも遠慮しなくていい場所の鍵。帰りたいと思える場所の鍵。「……鍵」小さく呟くと、綾瀬先生が少し笑った。「東郷先生、鍵持ったら泣きそう」「泣きません」「泣くと思う。しかも、たぶん玄関で」思わず笑ってしまう。でも、少しだけ本当かもしれないと思った。綾瀬先生は、そんな私を見て、ふっと空気を変えるように少し真面目になる。「でも、急がなくていい」私は顔を上げる。「ただ、部屋はちゃんと空けとく」時間が止まる。「え?」「東郷先生が、いつでも自分の方に戻れるように」少しだけ間を置く。「その場所だけは、先に作っておこう」胸の奥が、静かに熱くなる。“戻る”という言葉を、優のいる家ではなく、私自身へ向かう言葉として使ってくれる。それが、少し泣きたくなるくらい嬉しかった。綾瀬先生は、私の反応を見て、少しだけ視
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第66話 もう夫婦じゃない話

テーブルの上には、何枚かの紙が置かれていた。住居。生活費の精算。保険。各種解約手続き。離婚届。弁護士を入れる場合の相談先。それらの単語が、紙の上で妙に冷静に並んでいる。感情とは関係なく、生活は細かい手続きでできている。その現実に、膝の上で重ねた指先が少し冷えた。優は資料を一枚、私の方へ向ける。「昨日話した通り、婚前契約書の細かいところは週末に改めてでいい」声は落ち着いていた。「今日は、その前に整理できることだけ確認したい」私は小さく頷いた。「わかった」優の話し方は、仕事の時のそれだった。冷静で、抜けがなくて、必要なことを順番に並べていく。少し悔しいくらい整っている。けれど同時に、わかってしまった。これは、ただ事務的に離婚を進めようとしているだけではない。少なくとも、私が不利にならないように。後から困らないように。今の優ができる限り、ちゃんと準備しようとしている。そう見えてしまった。それが、少し複雑だった。「感情だけで揉めたくない」優は資料を見ながら言った。「だから、先に整理した」「ありがとう」自然にそう言うと、優が一瞬だけ苦く笑った。「また、ありがとうって言うんだな」「ちゃんと向き合ってくれてるから」そう答えると、優は少しだけ視線を落とした。最初に確認したのは、住まいのことだった。この家は優の名義。私の荷物は、基本的には自分で持ち出せる。家具や家電はほとんど優が手配したものだから、私が持っていくものは少ない。新しい部屋に必要なものは、自分で買い直すことになる。それを確認するたびに、胸の奥が少し重くなった。本当に、この家に私はあまり残してこなかったのだと思う。食器も。家具も。照明も。生活のほとんどが、私の選んだものではなかった。便利で、品が良くて、整っている。でも、その整った部屋の中に、私の好みはほとんどない。だからこそ、あのマグカップの小さな箱が、急に大事なものに思えた。新しい朝に、自分で選んだものを使う。たったそれだけのことが、今の私には少しだけ未来に見えた。優はペンを持ち、淡々と項目に印をつけていく。紙の上を走るペン先の音が、やけに大きく聞こえた。「引っ越しは」優が言う。「物件の本審査が通ったら?」「うん」「そこから一ヶ月以内くらい?」「たぶん」私は頷
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第67話 普通じゃなかった

玄関から聞こえた咲子さんの声に、リビングの空気が一瞬で凍った。優の表情が変わる。私は静かに、手元の資料を閉じた。紙が重なる音が、やけに乾いて聞こえた。咲子がリビングに入ってくる。「まだ起きてたの?」甘い声。いつものように軽く入ってきたはずなのに、足取りは少しだけ止まっていた。たぶん、部屋の空気の違いに気づいたのだと思う。彼女の視線が、テーブルの上に落ちる。住居。生活費。離婚届。弁護士。並んだ文字を、目がひとつずつ拾っていく。咲子の笑顔が、少し固まった。「何してるの?」優は立ち上がらなかった。ただ、静かに言った。「離婚の話」咲子の目が、一瞬だけ私に向く。それから、優へ戻る。「ああ」笑おうとした。でも、うまく笑えていなかった。「やっと進めるんだ」その言葉は明るいはずなのに、どこか硬かった。優は続けた。「あと」少しだけ間が空く。「綾香が出ていくまで、この家には泊まらないでほしい」時間が止まった。咲子の表情が、今度こそはっきり変わる。「……え?」声が高くなる。「なんで?」優は一瞬だけ私を見た。でも、すぐ咲子に視線を戻した。「ここは、まだ綾香も住んでるから」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ震えた。咲子は黙る。数秒。そして、笑った。でも、目は笑っていなかった。「今さら?」その一言が、空気を裂いた。私は何も言わなかった。優もすぐには答えなかった。けれど、その沈黙はもう以前とは違っていた。前なら、優は困った顔をして終わらせていたと思う。私が黙って耐えて、咲子が笑って、優がどちらにもはっきりしないまま、その場は曖昧に流れていった。でも今は違う。優は逃げていない。遅すぎるけれど、今ここで線を引こうとしている。「今さらでも」優が言った。声は大きくない。でも、揺れていなかった。「普通じゃなかったことは、直す」咲子の唇が、ほんの少し歪んだ。「普通じゃなかったって、何?」「綾香がいる家に、咲子を泊めてたこと」優は答えた。言葉にした瞬間、リビングの空気がさらに重くなる。私の胸の奥にも、小さな痛みが走った。それはもう過去のことなのに、過去にできていない痛みだった。咲子は私を見る。その目に、苛立ちと焦りが混じっていた。「でも、もう離婚するんですよね?」声は
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第68話 今さら夫婦みたいに

翌朝、まだ部屋で支度をしている途中だった。鏡の前で髪をまとめていると、玄関の方から声が聞こえた。「……なんで急にそんなこと言うの?」咲子の声だった。昨日帰ったはずなのに、朝になってまた来たのだろう。ドア越しでもわかるくらい、その声は揺れていた。優の返事は低く、内容までは聞き取れない。「綾香さん、もう出ていくんでしょ?」そして、咲子が少し声を荒げた。「じゃあ、優がうちに来ればいいのよ」その言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。優が何かを言う。今度も聞こえない。けれど、咲子がすぐに言い返さなかったことで、なんとなくわかった。優は、咲子の望む答えを返さなかったのだろう。しばらくして、玄関の扉が閉まる音がした。家の中が、急に静かになった。大変だな、と他人事のように思った。私は少しだけ気まずさを抱えながら、バッグを持って部屋を出た。リビングには、優が一人で立っていた。私を見ると何か言いかけたが、結局言葉にはしなかった。聞く必要もないし、そのまま家を出ることにした。「行ってきます」そう言うと、優は小さく頷いた。「行ってらっしゃい」その声は、いつもより少し疲れていた。***その日のクリニックは忙しかった。患者さんは途切れず、午後には急な相談も入った。仕事をしている間だけは、私は“妻”ではなく“医師”でいられる。そのことに、少し救われた。昼過ぎ、廊下ですれ違った時、綾瀬先生が一度だけ私を見た。声には出さなかった。けれど、目だけで「大丈夫?」と聞かれた気がした。私は小さく頷いた。それだけだった。***家に帰ると、玄関は静かだった。咲子の靴はない。それだけで少し息がしやすかった。けれど同時に、家の静けさが妙に濃く感じられた。リビングへ入ると、キッチンに優がいた。一瞬、見間違えたのかと思った。「何してるの?」思わず聞くと、優が振り返る。「飯」短い返事だった。けれど、その横顔は少し気まずそうだった。キッチンからは、生姜の香りがした。鍋の中には、鶏肉と卵の雑炊。「作ったの?」「買ったやつ、温めただけ」優は視線を逸らした。「卵だけ入れた」その言い方が、妙に優らしかった。「前」「夜勤明けとか、こういうの食べてたろ」時間が少し止まった。また、覚えていた。「うん。食べてた」「じゃあ、食べ
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第69話 揺れる夜、離さない人

部屋へ戻ると、ドアを閉めた瞬間に、身体から力が抜けた。ベッドの端に腰を下ろす。指先には、まだ器の熱が残っている気がした。リビングの方から、水音が聞こえる。優が食器を洗っている音だ。その静かな水音が、今夜はやけに胸に残った。スマホを開くと、通知が一件入っていた。【綾瀬隼人】『今日、家どうだった?』短い文だった。けれど、その短さに綾瀬先生らしさがあった。踏み込みすぎない。でも、気にしている。今日はクリニックでもほとんど話せなかった。忙しかったのもある。でも、私自身が少しぎこちなかったのも本当だった。昨夜の離婚条件の話。今朝の咲子の声。そして、優が思ったよりも誠実に向き合おうとしていること。その全部が、私の中でまだ整理できていなかった。私はしばらく画面を見つめる。それから、正直に打った。【綾香】『少しだけ』『普通の夫婦みたいでした』送信した瞬間、胸が痛くなった。普通の夫婦みたい。その言葉は、自分で思った以上に重かった。すぐに既読がつく。けれど、返信は来ない。珍しい。綾瀬先生なら、いつもはもう少し早い。生活指導でも、軽口でも、逃げ道でも。何かしら、私が呼吸できる言葉を置いてくれる。でも今夜は、画面が静かだった。ようやく通知が鳴った。【綾瀬隼人】『そっか』その一言だけだった。でも、その短さに何かが滲んでいた。言葉を選べなかったかのような。私は画面を見つめる。さらに数秒後、もう一件届いた。【綾瀬隼人】『そういう日は、揺れるよね』胸の奥が少し震えた。否定しない。責めない。戻るなとも言わない。ただ、揺れるとわかっている。【綾香】『はい』『少し揺れました』送った瞬間、目の奥が熱くなった。認めてしまった。優に揺れたことを。昔好きだった人に。ずっと待っていた言葉に。傷つけられた時間が消えたわけではない。それでも、今日の優は不誠実ではなかった。だから苦しかった。既読がつく。【綾瀬隼人】『揺れていいと思う』短い文。でも、その続きがあった。【綾瀬隼人】『四年一緒にいた人なんだから』『揺れない方がむしろ不自然だし』綾瀬先生は、優を否定しない。私の揺れも否定しない。そのことが、今夜は少しだけ苦しかった。だって、否定してくれた方が楽だった。戻るな、と言っ
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第70話 次の生活

復職してから、少しずつ毎日のリズムができてきた。朝、白衣に袖を通す時の緊張は、まだ完全には消えない。それでも最初の頃みたいに、診察室へ入る前に手が冷たくなることは減った。患者さんの表情を見る。声の調子を聞く。言葉の奥にある不安を拾う。一度離れてしまったはずの感覚が、少しずつ指先に戻ってくるようだった。午前診療を終えたあと、処置室の前で看護師の一人に声をかけられた。「東郷先生、最近すごく安定してますよね」私は少し驚いて顔を上げる。そんなふうに言ってもらえると思っていなかったら。素直に嬉しくて、自然に笑顔になる。「そうですか?」「はい。患者さん、先生だと話しやすいって言ってました」別の看護師も、カルテを抱えながら笑った。「説明が丁寧だから、初診の方も落ち着くんですよ」「院長の採用、大正解ですね」院長。その言葉に、胸の奥がほんの少し反応した。綾瀬先生の顔を思い浮かべてしまい、慌てて資料へ視線を落とす。仕事に慣れてきた。周りにも、少しずつ受け入れられている。幸い、みんないい人で人間関係にも苦労していない。最初は新しい場所に慣れるので精一杯で。迷惑をかけたらどうしようと少し不安だった。綾瀬先生が直接、丁寧にサポートしてくれて。さりげなくフォローをしてくれたからこそ、今がある。ようやく仕事が、自分の生活の一部として馴染み始めた。その事実が、最近の私を支えていた。離婚の話も、家のことも、婚前契約書のことも、まだ重い。それでも、私はもう何も持っていない人間ではない。仕事がある。給与明細が増えていく。本審査へ進める物件がある。自分で選んだマグカップがある。少しずつ、本当に少しずつ、次の生活が形になっている。***仕事終わり。クリニックを出る頃には、空が薄い藍色に変わり始めていた。今日は内見ではない。不動産屋へ行って、今の候補以外に条件の良い物件がないか確認する予定だった。幸い、今は引っ越しシーズンではない。春先のように物件が一気に動く時期ではないから、前から気になっていた部屋もまだ空きで残っている。担当者からも、焦って決めなくて大丈夫そうだと言われていた。それでも、何もしないで待つのは落ち着かなかった。本審査に進む前に、もう一度候補を整理したかった。駅近。夜道が暗くないこと。オートロック
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