その日の、仕事終わり。休憩室でカルテ整理を終えた頃、ドアが軽くノックされた。「東郷先生」顔を上げると、綾瀬先生が立っていた。白衣姿。いつもより少し疲れているように見える。長い黒髪は後ろで束ねられているけれど、前髪が少しだけ額に落ちていた。整った顔立ちなのに、完璧に作り込まれていない。その少し乱れた感じが、いつも通り目をひく。「顔、大丈夫?」第一声がそれだった。「そんなにひどいですか?」「いや」綾瀬先生は私をしばらく見た。「昨日より、少し静かだから」その観察が、妙に深い。私は笑おうとして、うまく笑えなかった。「朝、少しだけ空気が重くて」正確には、咲子の苛立ちもあった。優の視線もあった。離婚の話が、家の中に残したものもあった。「離婚の話をしたから、家の空気が少し変わった気がします」綾瀬先生は軽く流さなかった。「そっか」それだけ言って、少し間を置く。「じゃあ今日は、頑張った日だ」短い言葉だった。でも、胸の奥が熱くなる。“頑張った”。今までなら、そんな言葉は安っぽく聞こえたかもしれない。でも、この人が言うと違った。見た上で言っている。私が平気な顔をしていても、どこかで疲れていることをわかった上で言ってくれている。「東郷先生」綾瀬先生が、少しだけ声を柔らかくする。「今日帰ったら、あったかいもの食べて」「で、風呂入って寝る」また生活指導。思わず笑ってしまった。「先生、ほんとお母さんみたいですね」言った瞬間、綾瀬先生の動きが止まった。白衣のポケットに入れかけた手が、そのまま止まっている。それから、ゆっくり眉を上げた。「それ」声は静かだった。けれど、いつもと少しだけ違った。「普通に傷つくんだけど」思わず笑ってしまう。「え、なんでですか」綾瀬先生は私を見る。その目に、いつもの軽さがなかった。正確には、軽さの奥に隠していたものが、ほんの少しだけ見えた。「俺」少しだけ間が空く。「東郷先生に、そんな“いい人”ポジションで終わる気ないし」時間が止まった。息が、少しだけ詰まる。休憩室の空調の音が、急にはっきり聞こえた。白衣の袖。少し疲れた横顔。こちらをまっすぐ見る目。その一言は、冗談の形をしていなかった。けれど、告白でもなかった。今すぐ何かを求める言葉ではない。ただ
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