不動産屋では、担当者がいくつか追加の資料を出してくれた。「今は繁忙期ではないので、前回の候補もまだ空いています」担当者は、机の上に間取り図を並べながら説明した。「ただ、条件が良いので、本審査に進むなら早めに動けるよう準備だけしておくのが良いと思います」私は頷きながら、資料を見る。綾瀬先生は隣で資料を見ながら、余計な口出しはしなかった。けれど、必要なところだけ静かに質問する。「夜の道は前回確認済みですよね」「はい」「この候補、ゴミ置き場が外ですよね。帰宅が遅い日、そこ少し気になりませんか」「たしかに、そうですね」「東郷先生、朝も夜も慌ただしくなると思うので、家事動線は見た方がいいです」担当者が感心したように笑った。「綾瀬先生、本当に細かいですね」綾瀬先生はさらっと答える。「次の生活なので」次の生活。その言葉だけ、少しだけ声の温度が違った。この人は、家を探しているのではない。私が息をし直す場所を、一緒に探してくれている。それが、少し怖いくらい伝わる。候補をいくつか確認した結果、やっぱり前回の部屋を第一候補にすることになった。無理に新しい内見を増やす必要はない。焦らず、本審査の準備を進める。不動産屋を出ると、外はすっかり夜に近づいていた。駅までの道を、並んで歩く。ただ、私の歩幅に合わせて歩いている。その沈黙が、不思議と心地よかった。「どうでした?」綾瀬先生が聞く。私は少し考えてから、正直に言った。「思っていたより、現実的でした」「物件が?」「生活が」私は手元の資料を見下ろす。「引っ越しの話をしてると、本当に生活が変わるんだなって思います」綾瀬先生は少しだけ歩く速度を落とした。「怖い?」私はすぐには答えられなかった。あの家を出たい。咲子の足音に身構えずに眠りたい。そんな小さな願いが、少しずつ怖さを上回ってきている。「怖いです」「でも、前よりは」「帰りたい場所を作りたい気持ちの方が強いかもしれません」綾瀬先生は、すぐには返事をしなかった。ふと視線を感じて顔を上げると、彼が私を見ていた。街灯の下。黒い髪が風で少しだけ揺れて、束ねきれなかった細い髪が頬の近くに落ちている。目元が、いつもより少し柔らかかった。でも、その奥にある熱が今日は隠れていない気がした。「いい顔するようになっ
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