All Chapters of 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話 しつこい味方

不動産屋では、担当者がいくつか追加の資料を出してくれた。「今は繁忙期ではないので、前回の候補もまだ空いています」担当者は、机の上に間取り図を並べながら説明した。「ただ、条件が良いので、本審査に進むなら早めに動けるよう準備だけしておくのが良いと思います」私は頷きながら、資料を見る。綾瀬先生は隣で資料を見ながら、余計な口出しはしなかった。けれど、必要なところだけ静かに質問する。「夜の道は前回確認済みですよね」「はい」「この候補、ゴミ置き場が外ですよね。帰宅が遅い日、そこ少し気になりませんか」「たしかに、そうですね」「東郷先生、朝も夜も慌ただしくなると思うので、家事動線は見た方がいいです」担当者が感心したように笑った。「綾瀬先生、本当に細かいですね」綾瀬先生はさらっと答える。「次の生活なので」次の生活。その言葉だけ、少しだけ声の温度が違った。この人は、家を探しているのではない。私が息をし直す場所を、一緒に探してくれている。それが、少し怖いくらい伝わる。候補をいくつか確認した結果、やっぱり前回の部屋を第一候補にすることになった。無理に新しい内見を増やす必要はない。焦らず、本審査の準備を進める。不動産屋を出ると、外はすっかり夜に近づいていた。駅までの道を、並んで歩く。ただ、私の歩幅に合わせて歩いている。その沈黙が、不思議と心地よかった。「どうでした?」綾瀬先生が聞く。私は少し考えてから、正直に言った。「思っていたより、現実的でした」「物件が?」「生活が」私は手元の資料を見下ろす。「引っ越しの話をしてると、本当に生活が変わるんだなって思います」綾瀬先生は少しだけ歩く速度を落とした。「怖い?」私はすぐには答えられなかった。あの家を出たい。咲子の足音に身構えずに眠りたい。そんな小さな願いが、少しずつ怖さを上回ってきている。「怖いです」「でも、前よりは」「帰りたい場所を作りたい気持ちの方が強いかもしれません」綾瀬先生は、すぐには返事をしなかった。ふと視線を感じて顔を上げると、彼が私を見ていた。街灯の下。黒い髪が風で少しだけ揺れて、束ねきれなかった細い髪が頬の近くに落ちている。目元が、いつもより少し柔らかかった。でも、その奥にある熱が今日は隠れていない気がした。「いい顔するようになっ
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第72話 戻れない理由

家に帰ると、リビングの灯りがついていた。優が待っていた。「おかえり」「ただいま」優は少しだけ言いにくそうに視線を落とした。「少し、話せる?」最近の優は、こういう聞き方をするようになった。前なら、こちらの予定を確認する前に話し始めていたと思う。その変化に、私はもう驚かなくなっている。慣れ始めていることに、自分で少し戸惑う。「少しなら」そう答えると、優は小さく頷いた。「久しぶりに、来週会食がある」会食。その言葉に、胸の奥が少しだけ重くなる。笑って、相槌を打って、妻として隣に座る。その役割を、私はずっと黙ってこなしてきた。「プロジェクト完了前の大事な時期だから」優は言葉を選びながら続けた。「残り三ヶ月で、あと数回はこういう場があると思う」少し間を置く。「無理にとは言わない。でも、来てほしい」その言い方は、昔とは違っていた。当然来るものとして言われていない。頼まれている。それだけで、少しだけ空気の重さが変わる。「……日程は?」「木曜の夜」優はすぐ答えたあと、少しだけこちらを見る。「その日、外来遅くなる?」「たぶん通常通り」「じゃあ、疲れてたら無理しなくていい。」私は少しだけ目を瞬いた。そんな条件を、優の方から出される日が来るとは思わなかった。「珍しいね」思わず言うと、優は苦く笑った。「今まで、そういう確認してなかったから」その言葉で、少しだけ胸が痛んだ。「会食も、案件も、親父のことも」優はテーブルの資料を指先で揃えた。「綾香が合わせてくれる前提だった」私は何も言わなかった。否定できなかった。実際、そうだった。契約上の妻として求められる役割をしていた。「クリーニングも」優がふいに言った。私は顔を上げる。「スーツ、戻ってた」「ああ」「復職して忙しいのに、今まで通り出してくれてた」言われて、少しだけ困る。確かに出した。もうすぐ出ていくと決めてからも、最低限の家事は続けていた。それを優が見ていたことの方に驚いた。「気づいてたんだ」そう言うと、優は静かに首を振った。「気づいたのが、遅かったんだと思う」「やってくれて当然みたいに思ってた」...こういう言葉を、昔の私はどれだけ待っていただろう。「あと三ヶ月は夫婦なんだし」「俺が気づかなかったことで傷ついたこと、些細
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第73話 夫婦の席

会食当日。久しぶりに、優と並んで家を出た。玄関の鏡の前で、私は小さく息を整える。隣に立つ優は、ネイビーのスーツを着ていた。肩のラインが綺麗に出るジャケットに、落ち着いたグレーのネクタイ。派手さはないのに、控えめに整ったその姿は、昔から優らしかった。少し疲れているはずなのに、顔立ちは相変わらず端正だった。切れ長の目。通った鼻筋。感情をあまり見せない口元。優は黙っているだけで人目を引く人だった。華やかに笑うタイプではない。人懐っこいわけでもない。それなのに、場にいるだけで空気が少し締まる。その横顔を見て、ふいに思い出す。結婚したばかりの頃。会食や式典で優の隣に立つことが、少しだけ誇らしかった。この人の隣にいるのが私なのだと。そう思えた時期が、確かにあった。「行く?」優がこちらを見る。いつもの短い声。でも、今日はほんの少しだけ柔らかかった。「うん」靴を履こうとした時、優が私の薄手のジャケットを見た。「……寒くない?」息が止まる。そんなことを聞かれたのは、いつ以来だろう。「大丈夫」そう返すと、優は少し迷ったあと、自分のコートを手に取った。「夜、風出るかもしれないから」それ以上は言わない。押しつけるわけでも、恩着せがましくするわけでもない。ただ、少しだけ気にしている。その“少しだけ”が昔の優に似ていて、胸が痛かった。***会場はホテルのレストランだった。半分は仕事、半分は社交。父同士の関係から続いている人脈も混ざっている。優にとっては、気を抜けない場のはずだった。それでも、優は完璧だった。受付での挨拶。名刺を出す角度。相手の話を受ける時の視線。会話の温度を読み、必要なところで穏やかに笑う。優はもともと、こういう場所でとても綺麗に立つ人だった。冷たすぎず、馴れ馴れしすぎず、相手に気分よく話させながら、必要な情報だけは逃さない。弁護士としての知性と、育ちの良さ。そこに、少し近寄りがたい容姿が重なる。客観的に見れば、優はとても魅力的な人だった。そんなこと、私はずっと知っていた。知っていたからこそ、苦しかったのだと思う。「奥様、お久しぶりです」「相変わらずお綺麗ですね」声をかけられる。優は自然に私の背中へ手を添えた。距離が近い。でも、不自然ではない。夫婦として、あまりに
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第74話 選べない夜

店は変わっていなかった。木のカウンター。出汁の匂い。少し古い暖簾。照明はやわらかく、外の冷たい空気が嘘みたいに店内は温かかった。懐かしい。懐かしすぎて、少し痛い。カウンターに並んで座ると、優はすぐにメニューを開いた。「だし巻き、頼む?」私は思わず笑ってしまう。「覚えてたんだ」優は少し視線を逸らす。「当たり前だろ」少し間を置く。「綾香、好きだったじゃん」胸が苦しくなる。遅い。本当に、遅い。でも、嬉しい。その感情が混ざる。こんな時、全部が嫌いだったらどれだけ楽だっただろう。料理を待ちながら、優はいつもより口数が少なかった。けれど、その沈黙は昔の無関心とは違った。何を言えばいいのか、慎重に探している沈黙だった。「最近」優がようやく口を開く。「ちゃんと笑うようになったな」私は少しだけ息を止めた。「そう?」優は頷く。「前より」少しだけ間が空く。「遠いけど」その言葉が、妙に刺さった。遠い。優から見ても、私は遠くなっているのだ。「遠いのに」優は続けた。「今の方が、ちゃんと生きてる感じがする」言葉が出なかった。優は水のグラスに視線を落とす。「俺がそうさせたんじゃないのが、きつい」その言葉が、胸に落ちる。綾瀬先生。仕事。新しい家。自分で選んだマグカップ。私を少しずつ戻してくれたものの中に、優はいない。優もそれに気づいている。だから、苦しいのだろう。「……優」名前を呼ぶと、優がこちらを見る。整った顔。静かな目。きっと、他の誰かから見れば、今夜の優は完璧な夫に見える。容姿も、立ち居振る舞いも、言葉少なな優しさも。でも私は、その内側にある遅すぎた後悔を知っている。「今日」私はゆっくり言った。「ちゃんと向き合おうとしてくれてるのは、わかる」優の表情がわずかに動く。「でも」その先を言うのに、少しだけ勇気がいった。「だからこそ、苦しい」優は何も言わなかった。「昔の優を思い出すから」「こういう時間が、全然なかったわけじゃないから」声が少しだけ震えた。「全部嘘だったと思えたら楽なのに、そうじゃないから」優は目を伏せた。その横顔が、少しだけ痛そうに歪む。「……ごめん」また、その言葉。優は本当に謝っている。今さらでも、ちゃんと。だから私は、余計に揺れてし
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第75話 壊れる音

優のスマホに、咲子からの通知が浮かんでいた。【咲子】『終わった?』『今日、うち来てほしい』『一人だと寂しい』夜の歩道で、空気が静かに固まる。ホテルの会食。昔の和食屋。だし巻き卵。優の不器用な気遣い。少しだけ新婚の頃に戻ったような時間が、その数行で現実に引き戻された。私はスマホから目を上げた。優は画面を見つめたまま動かない。迷っている。返信の早い優にしては、珍しいくらいに。以前なら迷わなかったはずだ。咲子に呼ばれれば行く。それがこの結婚の普通だった。どんなときでも。優は必ず咲子を優先していた。でも今夜の優は違った。「……今日は行くの?」私が聞くと、優は顔を上げた。「綾香」名前を呼んだあと、言葉が続かない。「咲子さんのところ」そう言うと、優は目を伏せた。さっきからずっと。少し困ったような顔をしている。「……行かない」短い言葉だった。けれど簡単に出た言葉ではなかった。優はスマホを操作する。【優】『今日は行けない』送信。すぐに返信が来ている。【咲子】『なんで?』『今日くらい来てよ』『最近、優ずっと変だよ』優の指が止まる。私はその横顔を見つめた。今までこの人は、こういう迷いを私に見せなかった。私の知らない場所で咲子を選び、何事もなかったように帰ってきた。その積み重ねが私を壊していた。「……無理しなくていいよ」思わず言うと、優は首を振った。「無理じゃない」少し沈黙してから続ける。「今までのことを考えたら、今日は行かない方がいい」今日は。その言葉に胸が少し痛んだ。今日だけなのか、それともこれからもなのか。たぶん優自身にもまだ答えはない。それでも今夜は、私の前で咲子を選ばなかった。それは事実だった。再び通知が届く。【咲子】『綾香さんといるから?』『私のことはもうどうでもいいの?』文字の向こうに焦りが見えた。少し前なら傷ついていた。咲子は選ばれる人で、私は残される人だったから。でも今は違う。咲子もまた不安なのだと思った。優が思い通りに動かなくなったことに。優は深く息を吐き、返信を打つ。【優】『どうでもよくはない』『でも今日は行かない』『また明日話す』送信。頼りない線かもしれない。それでも確かに線は引かれた。しばらく沈黙が続いた。夜風が吹き抜ける
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第76話 遠くなった理由

家に着くまで、ほとんど会話はなかった。駅から家までの短い道のり。心の距離はさっきより遠くなった気がした。優は今日、咲子のところへ行かなかった。咲子からの切実なメッセージに揺れながら、もう一度線を引いた。それを見て、私は少しだけ安心した。本当に、少しだけ。でも同時に、今までの私は何だったのだろうと思った。私が傷ついていた時は、どうしてその線を引いてくれなかったのだろう。そんな問いが、喉の奥にずっと残っていた。家に着いて玄関を開けると、家の中は静かだった。「……綾香」靴を脱いでいると、優が私を呼んだ。振り返る。優は少し疲れた顔をしていた。会食の時の整った余裕はもうなくて、ネクタイも少し緩んでいる。それでも、やっぱり綺麗な人だった。顔立ちは崩れない。切れ長の目も、真っ直ぐな鼻筋も、黙っているだけで人を惹きつける。こんな人が今さら誠実にこちらを見てくるのは、少しずるいと思った。「今日は」優は少し言葉を探した。「楽しかった」「うん」私は頷いた。「私も、少し」優の表情がほんの少しだけ緩む。けれど私は、そのまま続けた。「でも、楽しかったからって戻れるわけじゃない」優の目が揺れた。さっきまで和食屋にあった温かさが、少しずつ現実の冷たさへ戻っていく。「今日みたいな時間が、もっと前にあったら」「違ったかもしれない」優は何も言えなかった。言い返されないことが、余計に苦しい。「優が咲子さんを断ったことは、ちゃんとわかってる」「でもやっぱり、今さらだって思う自分がいる」優は黙ったまま、私を見ていた。「私、ずっといたよ」その言葉が、自分の中からこぼれた。「ずっと、この家にいた」仕事を辞めて。妻としての役割をして。会食に出て。優の予定に合わせて。咲子が来るたびに、自分の気持ちを押し込めて。ずっと、同じ場所にいた。「でも、優がいなかった」「仕事も」「咲子さんも」「帰らない夜も」「全部、私の外側にあった」言いながら、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ形になっていく。私はもう、どこで壊れたのかを知っている。「だから、今日優がこっちを見てくれたことはわかる」「でも、私はもう、優が見てくれなかった時間の中で変わったんだと思う」優は目を伏せた。「……ごめん」その言葉は、ちゃんと届いた。でも
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第77話 顔を見る朝

翌朝、少し早く目が覚めた。眠りは浅かった。目を開けた瞬間から、昨日の夜の言葉だけが胸の奥に残っていた。【綾瀬隼人】『でも、明日顔を見たら、少し安心すると思う』顔を見たら安心する。それは、会いたいという言葉よりずっと静かで、なぜかもっと近かった。夜、スマホの中で綾瀬先生の言葉を読んだ時、胸が熱くなった。そのことが、いちばん私を戸惑わせていた。私はまだ離婚していない。優との話も終わっていない。日曜日には婚前契約書の話をする。それなのに、綾瀬先生の顔を思い浮かべるだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。それが少し怖かった。起きて白いブラウスに袖を通し、髪を低めにまとめる。仕事へ行く準備だけなのに、私は少しずつ自分に戻っている気がする。“優の妻”ではなく。“東郷綾香”として、一日を始める。その感覚が、今は支えになっていた。リビングへ降りると、優がいた。もうスーツを着ている。テーブルには、コーヒーが二つ置かれていた。片方は、少し白く濁っている。ミルク入り。「おはよう」優が先に言った。昨日より、少し慎重な声だった。「おはよう」私はカップを見る。優は視線を逸らしながら言った。「甘めにした」「前、ブラック飲まなかったから」胸が、ほんの少しだけ揺れた。覚えている。それは嬉しいはずなのに、今は少し痛い。「ありがとう」カップに触れると、手のひらに温かさが広がった。優は私の顔を見て、何かを確認するように少し黙った。「昨日」そう言ってから、言葉を選び直す。「ちゃんと寝た?」「少しだけ」正直に答えると、優の表情がわずかに曇った。「そっか」責めるでもなく、深く聞くでもない。ただ、受け止めようとしている。その不器用な変化が、また胸を揺らす。「今日、送る」優が言った。私は顔を上げる。「大丈夫だよ」「近く通るから」言い方は淡々としていた。でも、その裏にあるものはわかった。昨日の続き。綾瀬先生のいるクリニックへ行く私を、ただ送りたいのだ。たぶん、優自身もその感情にうまく名前をつけられていない。私は少し迷った。断ることもできた。でも、昨日の優が咲子に線を引いたこと。あと三ヶ月だけでもちゃんと夫でいたいと言ったこと。その言葉を、完全に無視することもできなかった。「……じゃあ、お願い」そう
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第78話:否定できないもの

午前の診療は、想像以上に忙しかった。初診、再診、処置の確認。患者さんの不安に答えながら、カルテをまとめる。気づけば、昨日のことを考える余裕もなかった。仕事に集中している時間だけ、私は揺れずにいられる。そのことに、少し救われた。昼前。休憩室でカルテの確認をしていると、ドアが軽くノックされた。「東郷先生」顔を上げる。綾瀬先生だった。白衣の袖を少しだけ捲っている。朝より少し髪が乱れていて、束ねた黒髪の横から細い髪が落ちている。疲れているはずなのに、顔の整い方は少しも崩れない。むしろ、余計に色気が増して見えた。長い睫毛の影。白衣の襟元から見える黒いシャツ。腕時計を直す指の動き。ふとした仕草まで妙に絵になる。私は一瞬、視線を逸らした。朝は院長として普通に接してくれて安心したはずなのに。油断した瞬間に、急に異性として意識してしまう。「少し時間ある?」「はい」「じゃあ、五分だけ」綾瀬先生は休憩室のドアを閉めた。その音が、やけに静かに響く。私は少しだけ背筋を伸ばした。綾瀬先生は向かいの椅子には座らず、テーブルの端に軽く手を置いた。「昨日言ったことだけど」あまりにも普通に切り出されて、心臓が跳ねた。私は紙カップを持つ手に力を入れる。「昨日?」とぼけるには無理があった。綾瀬先生は少しだけ笑う。「顔見たら安心するって言ったやつ」呼吸が浅くなる。「……朝、普通だったので」そう言うと、綾瀬先生は少し目を細めた。「普通にしてた」さらっと言う。「仕事中にする話じゃないから」その言い方が、あまりにも大人で、余計に困った。綾瀬先生は少しだけ視線を逸らす。窓の方を見る横顔に、昼の光が当たっている。その横顔が綺麗すぎて、一瞬、言葉を忘れた。「正直に言うと」前を向いたまま続ける。「昨日の旦那さんとの距離、普通に戻るんじゃないかって思って、少し心配した」流し目のように、ほんの少しだけこちらを見る。その視線が、静かに胸へ刺さる。冗談めかしていない。責めてもいない。でも、隠してもいない。「戻るって」「夫婦の場所に」綾瀬先生の声は穏やかだった。「旦那さんがちゃんと向き合ってきたなら、東郷先生は揺れると思った」少し間。「情が深いからね、東郷先生」言葉が出なかった。その通りだった。私は揺れた。
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第79話 新しい部屋の審査

翌朝。クリニックの更衣室で白衣に袖を通しながら、私はスマホに届いていた不動産会社からのメールをもう一度開いた。『お申し込みいただいた物件につきまして、保証会社審査に進めさせていただきます』その一文を見た瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。まだ決まったわけではない。審査に進むだけ。それだけなのに、私はしばらく画面から目を離せなかった。本当に、家を出るんだ。そう思った途端、指先が少し冷える。東郷の家を出る。優の帰りを待つためだけに整えていたリビングを出る。玄関の音に心臓だけが反応する生活を終わらせる。望んでいたことのはずだった。それなのに、手続きが進み始めると足元が少し頼りなくなる。怖い、と思った。自由になることが。自分の名前で部屋を借りることが。誰かの妻でも、白松の娘でもなく、一人で生活を始めることが。こんなにも怖いなんて知らなかった。診察前の短い時間に必要書類を確認する。本人確認書類。収入証明。勤務先情報。緊急連絡先。そこで指が止まった。緊急連絡先。画面を見つめたまま、息が少し詰まる。保証人ではない。最近は保証会社を通すため、親族の保証人が不要なことも多い。それでも緊急連絡先は必要だった。事故や災害、連絡が取れなくなった時に確認できる人。夫。その単語が頭に浮かび、すぐに消した。優はもうすぐ夫ではなくなる。今はまだ戸籍上そうでも、離婚する相手の名前を書くのは違う気がした。みか。頼めばきっと引き受けてくれる。でも、それも違う気がした。みかにはもう十分心配をかけている。これ以上、私の生活の責任に近い場所へ名前を置かせたくなかった。そうなると。残る名前はひとつしかない。白松。...父の名前。その二文字を思い浮かべた瞬間、胃の奥が重く沈んだ。私の身元を説明できる人間は、結局血の繋がった家族しかいない。その事実が思った以上に息苦しい。結婚して東郷の家に入った。でも離婚したら白松の家に戻るわけではない。戻りたくないから、こうして部屋を探している。それなのに書類の上では、私はまだ父の名前に手を伸ばしかけている。情けなかった。どれだけ自立したつもりでも。私はまだ誰かの名前の影から完全には抜け出せていない。「東郷先生」背後から声をかけられ、慌ててスマホを伏せた。振り返ると、綾瀬先生
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第80話 優しい人に慣れていない

午後の診察が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。カルテを閉じ、デスクの端に置いたスマホを見る。不動産会社から届いたメールには、追加書類の項目がいくつか並んでいた。自分の生活を始めるための手続き。そう思えば前向きなはずだった。でも、実際には一つ進むたびに、私は今まで誰かの名前の中にいたのだと思い知らされる。東郷優の妻。白松の娘。その二つの肩書きから抜け出そうとしているのに、書類は簡単に私を一人にしてくれない。勤務先の欄に、綾瀬クリニックと入力する。職業の欄には、医師。その文字を見た時、少しだけ息がしやすくなった。医師。その肩書きだけは、私が自分で手に入れたものだ。少なくとも試験を受けたのは私で、病院で働いていたのも私だった。結婚してから、ずっと遠くに置いてきたもの。もう戻れないと思っていたもの。それを今、また自分の名前の横に書いている。そのことに、少しだけ救われる。『まだやってるの?』ふいに声がして、顔を上げた。診察室の扉のところに、綾瀬先生が立っていた。白衣の前を少し開け、片手にマグカップを持っている。院長室に戻る途中だったのだろう。『すみません。すぐ片付けます』反射的にそう言うと、綾瀬先生は眉をひそめた。『いや、怒ってない』『それ、謝るところじゃないでしょ』その言い方があまりにも自然で、逆に言葉に詰まる。私はいつからだろう。誰かの手を止めたかもしれないと思うだけで、先に謝る癖がついた。優に声をかける時もそうだった。いつの間にか、私の言葉は謝罪から始まることが増えていた。『不動産の追加書類です』私はスマホの画面を少しだけ傾けた。『勤務先確認と、収入見込みの補足が必要みたいで』『ああ、それなら明日事務に出してもらうよ』『でも、まだ入って間もないのに』『入って間もないから、見込みで出すんでしょ』綾瀬先生は当然みたいに言う。『勤務形態と予定給与を書けばいい』『必要なら俺の確認印も出せるし』あまりにも簡単に言われて、私は思わず聞き返した。『そこまで、普通にしていただけるものなんですか?』綾瀬先生は少しだけ目を瞬いた。本当に不思議そうな顔だった。『普通だよ、職場が出すべき書類を出すだけ』『でも』『東郷先生』少し低い声で、私の言葉を途中で止める。『それを頼るって思わなくて
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