جميع فصول : الفصل -الفصل 20

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第十一話「冷たい指先と残酷なまでの優しさ」

 息が、白かった。 深夜のタクシーを降りた瞬間、微かに開いた口元からこぼれ落ちた吐息が、冬のひどく乾いた空気の中で、ふわりと白く滲み、そしてあっけなく溶けていく。 鋭い冷気が、肌の薄い部分を容赦なく刺してきた。コートの襟をぎゅっと立て、分厚いマフラーに顎の先まで深く埋めながら、詩織は、自宅のある角を曲がった。 こつ、こつ、と。 ヒールの硬い靴音だけが、深夜の静まり返った高級住宅街の、冷えたアスファルトに落ちる。規則正しいその足音が、今の詩織にとって唯一、自分が前に進んでいることを証明してくれるものだった。 分厚いウールコートの繊維の奥から、消毒液の匂いが、かすかに、けれど確実に立ち上っていた。 病院の、あの独特の匂い。 長く無機質な廊下の冷えた空気と、薬品のツンと鼻の奥を刺す匂いが混ざり合った、あの逃れようのない空気が、もう何日も、詩織の髪にも、服にも、そして身体の芯にまで染みついて離れない。 ここ数週間――母の病状が、急速に、そして残酷なまでに悪化していた。 朝、出勤前に少しでも顔を見ようと病室へ寄る日もある。退勤後は、どこへも寄らずにまっすぐ病院へ向かう。 会社では、隙のない完璧な「水瀬主任」の仮面を顔に貼り付け、宣伝部の複雑な案件をいくつも回し、誰に対しても非の打ち所のない笑顔で打ち合わせを終わらせる。けれど、会社を一歩出た次の瞬間には、タクシーを呼び、すがるような思いで病院へと向かっているのだ。 無機質な白いベッドの横で、規則正しく点滴の落ちる微かな水音と、心電図の無機質な電子音、そして、日に日に細くなっていく母の浅い呼吸を聞きながら、できる限り長く、そのしわの増えた手を握り続ける。深夜近くになってようやく帰宅し、泥のように疲れた身体でシャワーを浴び、ろくに食事もとらずに倒れ込むように横になる。 その繰り返しだった。毎日が、薄氷の上を裸足で歩くような、ギリギリの均衡で成り立っていた。 夫である陵には、何も話していなかった。 話したところで、いったい何が変わるというのだろう。あの人には、誰もが羨むような美しい恋人、アリスがいる。形だけの契約で結ばれた夫婦の、形だけの冷たい家に、自分の個人的な家族の不幸や悲しみを持ち込む場所など、最初から用意されてはいなかった。彼にすがり、助けを求めるための言葉を、詩織は、とうの昔に失っていたのだ。
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第十二話「優しい嘘でもいい、今夜だけは目を閉じて」

 ガチャリ、と。 重厚な玄関のドアの鍵が回る金属音が、静まり返った家の奥、キッチンにはっきりと届いた。 詩織は、コンロの上の小鍋の火を弱めたまま、思わず壁掛け時計を見上げた。短針は、まだ十九時を少し過ぎたばかりのところを指している。こんな早い時間に、いつも深夜にしか帰らない彼が家に戻ってくることなど、ほとんどなかった。 リビングの重い木製のドアが、静かに、ゆっくりと開く。「ただいま」 低く、よく響く声。いつもと何一つ変わらない、抑揚のない事務的な声音なのに、この時間に、このキッチンで聞くと、妙に耳の奥にこびりつくように残る。「お、おかえりなさい」 隠そうとした動揺が、声の端にどうしようもなく滲んでしまった。詩織は慌てて小鍋に視線を戻し、震えそうになる手でお玉をぎゅっと握り直す。プラスチックの柄に触れる手のひらが、変な汗でじんわりと湿っていた。「夕食、できているか」「もう少しで……」「わかった」 それだけ短く告げて、陵はリビングの奥、大きなソファにどさりと腰を下ろしたようだった。上質なスーツの布地が擦れる衣擦れの音と、沈み込んだ革のソファがかすかに軋む重い音が、壁越しに届いてくる。 
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第十三話「絡み合う男たちの独占欲」

 エレベーターが最上階で止まり、滑らかな電子音とともに分厚い金属の扉が開いた瞬間だった。 詩織は、その先に広がる光景を見て、ふっと足を止めた。 長く続く大理石の廊下の突き当たり。豪奢な装飾が施された磨りガラスの向こうから、大勢の人のざわめく声と、高価なクリスタルグラスが触れ合う涼やかな音が、くぐもって流れてくる。 廊下には計算された間接照明が静かに灯り、柔らかな橙色の光が、鏡のように艶のある床に長く伸びていた。空調の効いた冷たい空気の中に、どこからか、白百合の甘い香りが濃密に漂ってくる。華やかで、むせ返るように少し重い匂いだった。 そしてその壁に、スポットライトを浴びた一枚の絵が、かかっていた。(――私の、絵だ) 無意識のうちに、詩織の足が完全に止まる。 小品だった。夜明け前の、静かで暗い海岸線を描いた風景画。昨年の個展で、誰かの手に渡った一枚。まさか、自分が連れられてきたこの場所に飾られているとは、思いもしなかった。「知り合いのパーティって言ったよね」 詩織は、隣に立つ朔を、横目で細めるように見た。 朔は涼しい顔で、少しだけ伸びた長い前髪を無造作にかき上げながら、「うん」とだけ短く答える。「アリスさんのパーティじゃないの、これ」「そうだよ」「……」「言ったら断るだろ?」 あっけらかんと言い放つ朔に、詩織は一拍置いて、ため息混じりに答えた。「断ってたよ」「だから言わなかった」 朔が、にっと悪戯っぽく笑う。詩織は深く息をついた。この男は、学生の頃からずっとこうだ。飄々としていて、ちっとも悪びれない。怒る気も、呆れの中でだんだんと失せてくる。「まあいいけど」 詩織が小さくぼやいた、次の瞬間だった。 朔が、急に、距離を詰めてきた。 肩が触れた、と思ったときには、もう詩織の腰に、彼の長い腕がしっかりと回っていた。男の熱い体温が、薄いドレスの生地越しに、脇腹からじわりと滲んでくる。 整髪料の落ち着いた、すっきりとした香りが鼻先をかすめた。廊下に流れる空調のかすかな冷たい風が、耳元を撫でるのに、触れられている場所だけがひどく熱い。朔の腕の重さが、腰骨のあたりにずっしりとのしかかってきて、詩織は思わず息が浅くなった。「ちょっと――」「今までのお礼なんだろ? ならしっかりと俺のパートナー役をよろしく。俺、困ってるんだよ。アリスから
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第十四話「愚かな嫉妬の果てに、ただ君の熱を乞う」

 家に帰ると、誰の気配もなかった。 しんと静まり返った空気は冷え切っていて、生活の匂いなど微塵も感じられない。陵は玄関の電気もつけないまま、暗い廊下を抜けて、広いリビングのソファに重い腰を下ろした。 暗い部屋の中で、冷たいガラス越しに見える光景は、今の陵の荒んだ心にはひどく無機質で、空々しく見えた。 グラスに強い酒でも注いで、喉を焼こうかと思ったが、立ち上がってキッチンへ向かうのすら億劫で、面倒だった。深く息を吐き出し、上等なスーツのジャケットを脱ぐと、ソファの背もたれに乱暴に投げ捨てた。シャツの第一ボタンを外し、きつく締まっていたネクタイを少しだけ緩める。 頭の中では、数時間前の出来事が、鮮明な映像として蘇ってくる。 アリスは、パーティの途中で、まるで手に入れていたおもちゃに突然興味を失った子どものような、冷めた顔で言った。「朔――帰っちゃった。もう今夜はお開きね。陵ももういいわ」 手に入らない男ほど、執着し、欲しがる。アリスは昔からそういう女だ。自分の思い通りにならない存在を見つけると、周りを巻き込んででも手に入れようとし、飽きれば平気で捨てる。その傲慢さと残酷さは、少しも変わっていない。 部屋の精巧なアンティーク時計が、暗がりの中で、チク、タク、と規則正しく時間を刻んでいる。その無機質な音だけが、誰もいない静まり返った部屋に虚しく響いていた。外の街明かりが、分厚い窓ガラスに薄く反射して、磨き上げられた床に淡い光の帯を落としている。 それ以外は、何もない。 音も、匂いも、人の温もりも、この部屋には存在しない。 ふと、あの男――朔の言葉が、鋭い棘のように、まだ胸の奥に深く刺さったまま抜けないことに気づいた。『好きな女一人、守れないなんて』 朔は、陵の妻である詩織の華奢な腰を抱き寄せて、人を食ったような涼しい顔で笑っていた。 ああいう手合いの男が、陵は昔から一番苦手だった。本音と建前の境目がなく、思ったことを平気で口にする。それでいて、どこか世の中を俯瞰しているような飄々とした態度を崩さない。飄々としながら、相手の一番痛いところを、迷うことなく正確に突いてくる。 あの男と詩織が、並んでパーティ会場を出ていくのを見た。 陵の妻が、別の男の腕の中にすっぽりと収まり、夜の街のどこかへ消えていくのを、ただ見送ることしかできなかったのが苦しい
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第十五話「代用品の残酷な錯覚」

 噂というものは、いつもひどく唐突に、無防備な背中を刺すように届く。 オフィスの給湯室。マグカップにドリップコーヒーを淹れていると、ふわりと苦い香りが鼻腔をくすぐった。背後から近づいてきた同僚が、周りの気配を窺うように声を潜めた。「ねえ、聞いた?」 不意に落とされたその言葉は、冷たい水滴のように詩織の鼓膜を打った。陵とアリスが別れるかもしれない、というひそやかな噂話。アリスが浮気を繰り返していて、今は気に入った若い男に本気になっているらしい、と。「社長、最近は早く帰るようになったじゃないですか。あれって、アリスさんとうまくいってないからじゃないかって、みんな言ってるんですよ」「そう言えば最近、アリスさんを社内で見かけないよね」「ほんとそれです。前はしょっちゅう社長室に出入りしてたのに。あ、でも水瀬さん、あんまりそういう話、興味なかったですよね。ごめんなさい」「ううん、いいよ」 詩織は、唇の端を引き上げて、精一杯の愛想笑いを作って答えた。声がわずかに掠れたが、同僚は気づかないようだった。 同僚は少し安心したように笑い、「最近、社長、機嫌いいですよね。なんかあったのかな」と首を傾けた。「実はアリスと別れたがってたりして」と無邪気に笑いながら、それぞれ自分のデスクへと戻っていった。 マグカップを持つ指先が、じわじわと冷たくなっていく。 言われてみれば、確かにそうだなと、嫌でも納得してしまった。以前は仕事の合間に、誰もが振り返るような派手な香水の匂いを漂わせながら、アリスが堂々と社長室へ出入りしていた。廊下を歩くヒールの音からして、まるでこの会社の女帝であるかのように違っていた。あの、自信を纏ったカツ、カツという高く鋭い音が、いつからだろうか。社内で全く聞こえなくなっている。 詩織は、マグカップを両手で包み込むように持ち、自分のデスクへと着席する。熱いはずのマグカップの温度が、少しも掌に伝わってこない。(そうか。最近やたらと帰ってくるのは、そういうことだったんだ) 頭の中で、ここ数週間の出来事が、パズルのピースのようにカチリ、カチリと音を立てて型にはまっていき、残酷なまでに腑に落ちた。 突然の子作りの提案。母の病室へのお見舞い。夕暮れの並木道で見せた、あの穏やかな微笑み。(あれは全部、アリスとの関係が揺らいでいたから――だったのか) 自分
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第十六話「引き裂かれた錯覚の果て」

 とめどなくあふれる涙を流しながら、狂ったように腰を振っていた。 大きなベッドの中央。陵の逞しい太腿を跨ぎ、彼の上にまたがるようにして膝をつき、向かい合うように胸を重ねて、詩織は、何度も、何度も、自ら腰を落としていた。 深夜から、ずっと続いている。激しい摩擦熱と運動で、全身から吹き出した汗が、背中のくぼみを、熱を持った首筋を、とめどなく流れ落ちていく。乱れた長い髪が涙と汗で濡れた頬にべったりと張りついて、視界がぐらぐらと白く滲んでいた。上質なシルクのシーツには二人分の生々しい体温と汗が染みついて、ひんやりとしていたはずの寝室全体が、むせ返るように熱くなっている。 母が、逝った。 昨夜の深夜、病院からの無機質な電話を受けてから、言葉にならない巨大な絶望と喪失感が、黒い泥のように胸の奥底にどろどろと溜まり続けていた。 電話を切った直後、泣き叫ぶことも、取り乱すこともできず、ただ全身の血の気が引き、自分が透明になって消えてしまいそうな凄まじい恐怖に襲われた。気づいたときには、隣で眠っていた陵の広い背中にすがりつき、無我夢中で彼の身体を求めていた。 初めてだった。控えめな詩織の方から、こんなふうに獣のように彼を求めるのは。陵は、暗闇の中で少しだけ驚いたように目を見開いたが、理由を何も聞かなかった。ただ、震える詩織の身体を強い腕で抱き寄せ、無言のまま、深く、激しく受け入れてくれた。 ぽたり、と。 詩織の顎の先から、大粒の涙が、陵の汗ばんだ熱い胸板へと落ちて弾けた。 下から詩織を見上げている陵の長い指が、すっと伸びてくる。熱を持った親指の腹が、濡れた頬を、赤く腫れた目の下を、やわらかく、ひどく丁寧に拭っていく。 その単調で不器用な動作が、詩織の胸の奥をじりじりと焦がし、また新たな涙がとめどなく込み上げてくる。 頭の中がめちゃくちゃに混乱し、ただ一つ確かな彼の硬い質量を身体の奥で感じながら、腰を振るたびに、涙が止まらなくなっていた。 薄暗い室内には、二人の荒い吐息と、肉と肉がぶつかり合う水音、そしてベッドのスプリングが重く軋む音だけが、密やかに満ちていた。陵から漂うベルガモットの整髪料の香りと、二人の汗の匂い、それに交じり合う愛液の匂いが濃密に混じり合って、朝の冷たい空気にねっとりと溶けている。 いつの間にか夜が明け、朝の光が、遮光カーテンのわずかな隙
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第十七話「引き裂かれた朝の温もり」

 朝日が薄いカーテンの隙間から細く差し込み、乱れたシーツの上に淡い光の帯を作っていた。 夜の静寂が少しずつ明けていく部屋の中で、泣きながら、詩織が腰を振っている。 陵の膝の上に乗って、向かい合うように身体を密着させ、柔らかな胸を陵の硬い胸板に重ねて、何度も腰を落としてくる。夜中からずっと、狂おしいほどに繰り返されている行為だった。シーツには二人分の汗と熱が深く染みつき、部屋の空気はむせ返るような濃密な匂いに満たされている。 ポツリと、詩織の涙が陵の胸へと落ちた。 熱い雫が肌に触れるたび、陵の胸の奥が締めつけられる。指を伸ばして、赤く染まった頬を拭う。けれど拭っても拭っても、また新しい涙が溢れ出し、長い睫毛を濡らして落ちていく。詩織は何も言わない。ただ唇を強く噛みしめ、声にならない何かを、身体の奥底から必死に吐き出そうとしているように見えた。(こんなに泣きながら、それでも求めてくる) 詩織の抱えている悲しみの大きさが、合わさった肌から痛いほどに伝わってくる。夜通し抱き合ってきた二人の身体には、詩織から香る石鹸の清潔な香りと、熱を帯びた汗の匂いが混じり合い、深く籠った熱が存在していた。 詩織の甘い吐息が、陵の首筋にかかるたびに、ひどく湿っていて、熱い。細い腕を陵の首に絡ませ、強く抱き締めてくるたびに、詩織の華奢な背中が小刻みに震えている。その震えの細かさと儚さが、陵の手のひらを通してじんりと伝わってくる。 深く繋がった部分で、詩織の柔らかい内壁が激しく収縮しているのが分かった。陵の熱をぎゅっと締めつけて、さらに奥へと引き込もうとし、また締めつける。その波のような蠢きがじかに伝わってくるたびに、陵は快感で息が詰まりそうになる。 腰を落とし、最奥まで陵を受け入れるたびに、詩織の震える唇から細い声が漏れた。「あ……んっ、く……」 泣き声を堪えようとして、それでも快感と悲しみに押し流されて堪えきれない、切ない声だ。(言葉にできない。ただ、受け止めるしかない) 今日という日が彼女にとってどれほど重い意味を持つのか、陵は痛いほど分かっていた。だからこそ、彼女の悲しみを全て溶かしてしまえるくらい、強く、深く抱きしめることしかできない。 そのとき、静寂を切り裂くように携帯の着信音が鳴り響いた。 びくっと詩織の肩が跳ね、動かしていた腰がピタリと止まった。潤
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第十八話「終わりの調べ」

 玄関の重厚なドアを押し開けると、家の中はしんと静まり返っていた。 人の気配はどこにもなく、陵はまだ帰っていないようだった。リビングの方へ視線を向けても、灯りはひとつもついていない。(――まだ、帰ってきていないんだ) 心の中に、冷たい澱のようなものが溜まっていくのを感じた。暗い廊下が、奥まで無機質に伸びている。外の街明かりが、すりガラスの窓からわずかに滲んで、玄関のタイルにぼんやりと淡い光の帯を落としていた。(今日という日を、知っていたはずなのに) 母の葬儀。冷たい雨の降る中、一人で棺を見送ったあの日。彼にその事実を伝えたとき、陵は無表情でただ頷いただけだった。今もきっと、アリスと一緒にどこかで楽しく過ごしているのだろう。そう思うと、胸の奥底から仄暗い感情が、どろりと溢れ出してくる。 詩織は、肩に重くのしかかっていた喪服のコートを脱ぎ、ゆっくりとハンガーにかけた。黒いウールの生地が、空気を震わせてかすかな音を立てる。その些細な動作が、やけに鮮明に耳に響いた。 ――もう駄目だ。 ふと、自分の中にあった小さな灯火が消える音がした。 どれほど願い、彼を愛おしいと渇望しても、陵の瞳に自分が映ることはないのだ。結局のところ、自分は彼の世界において二番手の存在でしかない。 致し方なく結婚した身。この婚姻を通じて、父の会社と陵の事業が有利に運ぶからと、ただ書類上で契約したまでの関係。母がこの世を去った今、詩織がこの冷たい家庭を継続する理由は、塵ひとつ残っていなかった。(私のこれからの選択――きっと、父は激昂するよね) それでも、すべてを失った今の詩織には、もはや怖いものなど何もなかった。父にとって、詩織はただの駒でしかない。それは母も同じこと。葬儀にも参列せず、最期の別れすら惜しまなかったその冷酷さが、すべてを物語っていた。 自分も母も、男選びの才がなかったのだろう。自分を見てくれない男を一途に愛し続け、心をすり減らして生きるなんて。(全て、終わりにしよう) 震える指先で携帯を取り出し、震えることなく会社の番号を押した。呼び出し音が二回鳴り、無機質な事務的な声が耳に届く。「急ですが――」 退職の旨を、短く、淡々と告げた。声に淀みはなかった。電話口の相手が、驚愕で息を呑む気配が伝わってくる。真面目だけが取り柄だった水瀬主任。自分都合で一方的に辞め
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第十九話「届かない懺悔の果てに」

 玄関の重いドアを押し開けた瞬間、迎えたのは、骨まで凍てつかせるような完全な暗黒と静寂だった。 いつもなら、廊下の奥から微かに漏れているはずの暖色の明かりがない。それどころか、この家が本来持っているはずの、誰かがそこで息づいているという生活の温もりが、完全に消え失せていた。 肺に吸い込んだ空気はひどく冷たく、無機質で、まるで長い間打ち捨てられていた廃屋のそれのようだった。 アリスとの義務的な同伴。その呪縛のような時間からようやく解放され、俺は「すべてを話す」と心に決めて帰ってきた。彼女の母親の葬儀という最悪のタイミングが重なり、これまで詩織をどれほど孤独の中に置き去りにしてしまったか。その罪を、今夜こそすべて精算するつもりだった。アリスに会社を人質に取られていた事情も、表向きの恋人関係を強要されていたことも、そして何より、俺が最初から詩織だけを求めていたという事実も、すべてを打ち明けて、彼女をこの腕に抱き締めるはずだった。 なのに、この静けさはなんだ。「詩織」 暗闇に向かって名前を呼ぶ。自分の声が、壁に反射して虚しく耳に戻ってきた。返事はない。 嫌な胸騒ぎを抑えつけながら、廊下を進み、リビングのスイッチを押す。 パチ、と硬い音がして、天井の照明が白い光を放った。 視界に飛び込んできたのは、あまりにも整然と片付いた部屋だった。生活の乱れはいっさいなく、クッションひとつにいたるまで完璧な位置に収まっている。 その不自然なほどの綺麗さに、かえって心臓がドクンと嫌な脈動を刻んだ。 視線を滑らせた先、遮るもののないダイニングテーブルの真ん中に、一枚の紙がぽつんと取り残されていた。 吸い寄せられるように、足が動く。 テーブルの前に立ち、その紙を見下ろした瞬間、俺の視界は激しく歪んだ。 ――離婚届。 緑色の無機質な枠線の中に、彼女の、あの端正で迷いのない筆跡で「水瀬詩織」と署名がなされていた。捺印の朱肉の赤が、白地の紙の上で、まるで乾いた血痕のように鮮明に浮かび上がっている。 呼吸の仕方を忘れたように、喉が引き攣った。(なんだ、これは) 手を伸ばすことすらできなかった。ただ、その紙切れを凝視する。指先が急激に冷たくなり、微かな痺れが腕を駆け上がっていく。 そこへ、ポケットの中のスマートフォンが唐突に震えた。 静寂を切り裂く暴力的なバイブレ
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第二十話「凍てつく静寂と業火の悔恨」

 どれくらいの時間が過ぎたのか、わからない。 絵の具と亜麻仁油の重苦しい匂いが立ち込めるアトリエの床に座り込んだまま、陵の中から時間の感覚が完全に抜け落ちていた。フローリングの硬い冷たさが、上質なスラックス越しにじわじわと肌を刺してくる。指先はとうに温度を失い、心臓だけが耳の奥で鈍く、無意味な脈動を繰り返していた。 静寂が鼓膜にへばりつく。広い屋敷の中で、今は自分の呼吸音すらひどく遠く感じられた。 視界の端には、キャンバスの中にいる陵自身がいる。 冷徹に計算された光と影。そこに描かれているのは、妻に対する陵の傲慢さと無関心だ。陵を完全に見限った女が残した、冷酷なまでの最後通告。描きかけの筆跡が、彼女の絶望の深さを物語っているようで、見つめるたびに胸の奥が鋭く抉られた。 息を吸うたび、喉の奥が砂を噛んだようにザラつく。肺に酸素が届かず、浅い呼吸が繰り返される。(詩織……) 声にもならない名を呼んで、ふと、ある記憶が脳裏に蘇る。 先日のパーティ。彼女が、陵には見せたこともないほど柔らかく、無防備な笑顔を向けていた若い男の姿。 草薙朔。 詩織と同じ画家であり、彼女と親しげに笑い合っていたあの男なら、詩織の連絡先を知っているかもしれない。たとえ直接教えてもらえなくても、今の陵の言葉を、血を吐くようなこの謝罪を取り次いでくれる可能性はある。 暗闇の中で、わずかな光の糸が垂れ下がってきた気がした。 だが、陵のスマートフォンにあの男の連絡先は入っていない。凍りついた思考を無理やり動かし、陵は一つの残酷な事実に思い至る。(アリス……) 胃の奥から、強烈な吐き気が込み上げてくる。腹の底で嫌悪がどろりと渦を巻いた。 アリスなら、草薙の連絡先を知っているはずだ。彼女が最近、あの若い画家に目をつけて落としにかかっていることは、陵も把握済みだった。 あの男はパーティで堂々と宣誓布告をしてきたのだ。陵の妻である詩織に、明確な好意を寄せて。 彼ならきっと詩織の居場所を知っているはず。 ちっぽけなプライドにこだわっている余裕など、今の陵には一欠片も残されてはいなかった。なりふりなど構っていられない。詩織と繋がるたった一本の細い糸を手繰り寄せられるなら、陵は泥水を啜ってでも縋りつく。彼女を失う恐怖が、全身の血液を急速に冷やしていく。 震える指で液晶画面を叩き、
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