息が、白かった。 深夜のタクシーを降りた瞬間、微かに開いた口元からこぼれ落ちた吐息が、冬のひどく乾いた空気の中で、ふわりと白く滲み、そしてあっけなく溶けていく。 鋭い冷気が、肌の薄い部分を容赦なく刺してきた。コートの襟をぎゅっと立て、分厚いマフラーに顎の先まで深く埋めながら、詩織は、自宅のある角を曲がった。 こつ、こつ、と。 ヒールの硬い靴音だけが、深夜の静まり返った高級住宅街の、冷えたアスファルトに落ちる。規則正しいその足音が、今の詩織にとって唯一、自分が前に進んでいることを証明してくれるものだった。 分厚いウールコートの繊維の奥から、消毒液の匂いが、かすかに、けれど確実に立ち上っていた。 病院の、あの独特の匂い。 長く無機質な廊下の冷えた空気と、薬品のツンと鼻の奥を刺す匂いが混ざり合った、あの逃れようのない空気が、もう何日も、詩織の髪にも、服にも、そして身体の芯にまで染みついて離れない。 ここ数週間――母の病状が、急速に、そして残酷なまでに悪化していた。 朝、出勤前に少しでも顔を見ようと病室へ寄る日もある。退勤後は、どこへも寄らずにまっすぐ病院へ向かう。 会社では、隙のない完璧な「水瀬主任」の仮面を顔に貼り付け、宣伝部の複雑な案件をいくつも回し、誰に対しても非の打ち所のない笑顔で打ち合わせを終わらせる。けれど、会社を一歩出た次の瞬間には、タクシーを呼び、すがるような思いで病院へと向かっているのだ。 無機質な白いベッドの横で、規則正しく点滴の落ちる微かな水音と、心電図の無機質な電子音、そして、日に日に細くなっていく母の浅い呼吸を聞きながら、できる限り長く、そのしわの増えた手を握り続ける。深夜近くになってようやく帰宅し、泥のように疲れた身体でシャワーを浴び、ろくに食事もとらずに倒れ込むように横になる。 その繰り返しだった。毎日が、薄氷の上を裸足で歩くような、ギリギリの均衡で成り立っていた。 夫である陵には、何も話していなかった。 話したところで、いったい何が変わるというのだろう。あの人には、誰もが羨むような美しい恋人、アリスがいる。形だけの契約で結ばれた夫婦の、形だけの冷たい家に、自分の個人的な家族の不幸や悲しみを持ち込む場所など、最初から用意されてはいなかった。彼にすがり、助けを求めるための言葉を、詩織は、とうの昔に失っていたのだ。
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