パリの乾いた風を肌に感じながら、詩織は最後のキャンバスに筆を置いた。 拠点を完全に日本へと移す手続きや住まいの移動はとうに終わっていたが、向こうで引き受けていたいくつかの細々とした仕事が残っていたのだ。それらすべてを無事に納品し、長年孤独を癒やしてくれたアトリエを完全に引き払う。 予定よりも二日早いフライトに変更できたのは、単なる幸運だった。連絡を入れようとしてスマートフォンを取り出し、ふと手を止める。驚く彼の顔が見たくて、詩織は内緒のまま帰国の途に就いた。 十数時間の長いフライトを終え、日本の湿気を含んだ空気を深く吸い込む。空港からタクシーに乗り込み、まっすぐに向かったのは彼と暮らすマンションではなく、彼が立派に再建した会社の真新しいオフィスビルだった。 静まり返った休日のエントランスに足を踏み入れる。広々とした大理石の床に、かつてあの冷たい雨の夜に持ち出したのと同じ、小さなキャリーケースの車輪の音が軽やかに反響した。 歩みを止めたのは、エントランスの奥。かつて何もない真っ白だった大きな壁の前に、一枚の絵が堂々と飾られている。 完成したばかりの、詩織の最新作だった。 足を止め、詩織は自らが描き上げたキャンバスを愛おしく見上げた。 かつての詩織は、顔をぼかした一人の男性の姿ばかりを描いていた。決して手の届かない片想いの相手を、隠し部屋という誰にも見られない檻の中でだけ、こっそりと描き続けるしかなかった。言葉にできない情念を、ただ色彩にぶつけるだけの孤独な作業。 だが、今ここにあるのは違う。 柔らかな陽だまりのような光に包まれながら、二つの指輪をはめた男女が、額を寄せ合い、心から幸せそうに微笑み合っている絵だった。表情もはっきりと描かれた、希望に満ちた二人の姿。 もう、一人ではない。長くて苦しかった片想いは終わり、二人で手を繋いで歩む未来が、たしかにそこにあった。 キャリーケースのハンドルを握っていた右手を、そっと持ち上げる。自分の左手の薬指を見つめると、絵の中の女性とまったく同じように、プラチナの指輪が二本、静かに重なって光っていた。 下にはめられた一本は、かつて冷たい契約の証として交わし、離婚して遠く離れた後も、二人がどうしても捨てられなかった古い指輪。細かな傷が刻まれたそれは、すれ違いと痛みの記憶。 そしてその上に重ねられたもう一本
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