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第二十一話「渇望のノイズと静謐なる幕引き」

 冬の終わりと春の入り口が混じり合う、酷く冷え込んだ夜だった。 都心の高級ホテルの一室。分厚いカーテンに遮られた窓の外には、無数の光が瞬く夜景が広がっているのだろうが、今の詩織にそれを楽しむ余裕はない。間接照明の仄暗いオレンジ色の光だけが、静寂に包まれた部屋を頼りなく照らしていた。 空調の微かな稼働音だけが、等間隔に鼓膜を打つ。 詩織は、部屋の隅に置かれた一人掛けのソファに深く沈み込んでいた。足元には、慌ただしく荷物を詰め込んできた小さなキャリーケースが、ぽつんと置かれている。身に纏っているのは、皺の寄った漆黒の喪服だ。黒い布地が、疲労しきった身体に鉛のように重くのしかかっている。 たった数時間前、母の葬儀を終え、誰のいない冷たい寝室で離婚届にサインをした。愛しているからこそ、これ以上彼のそばにいることはできなかった。身を引き裂かれるような思いでペンを走らせ、逃げるように家を飛び出したのだ。 行く当てなどなかった。冷たい夜風に吹かれながら、ぼんやりと街を歩き、気づけば一つの番号をタップしていた。 頼れる相手は、もう、朔しかいなかった。 同じ画家であり、誰よりも詩織の本音を知る親友。彼は急な連絡にも嫌な顔一つせず、現在滞在しているこのホテルの部屋へ詩織を招き入れてくれた。 温かいコーヒーの香りが、鼻腔をくすぐる。朔が淹れてくれたマグカップを両手で包み込んでいるものの、指先は氷のように冷たいままだ。 静寂を破ったのは、ローテーブルの上に置かれたスマートフォンの無機質な振動音だった。 ブーッ、ブーッ、と。硬いテーブルの天板を震わせる音が、部屋の空気を一瞬にして張り詰めさせる。 マグカップを持つ詩織の手が、びくりと跳ねた。中の褐色の液体が波打ち、表面に歪な波紋を作る。 ソファの向かい、ベッドの端に腰掛けていた朔が、ゆっくりと手を伸ばして画面を覗き込んだ。長い前髪の奥で、鋭い双眸が僅かに細められる。「お前の旦那からだ」 淡々とした、平坦な声だった。 その言葉が耳に届いた瞬間、詩織の心臓が警鐘のように激しく打ち鳴らされた。胃の奥がぎゅっと収縮し、冷や汗が背筋を伝い落ちる。 彼がかけてくるはずはない。そう思っていた。離婚届を見つければ、彼は安堵して、アリスという本命の女性の元へ向かうはずだ。それが、詩織が望んだ結末なのだから。 朔は詩織の強張っ
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第二十二話「暁光の疾走」

 絵の具と亜麻仁油の、ひどく重苦しく粘り気のある匂いが立ち込めるアトリエ。 暖房の切れた部屋の床に座り込んだまま、陵の中から時間の感覚が完全に抜け落ちていた。 一睡もしていない。瞬きをすることすら忘れ、ただ一点を見つめ続けていた。無垢材のフローリングの硬い冷たさが、上質なスラックスの薄い生地を透過し、じわじわと肌の奥まで氷のような冷気を突き刺してくる。膝を抱え込む指先はとうに温度を失い、死体のように冷え切っていた。ただ心臓だけが耳の奥で、ドクン、ドクンと、ひどく鈍く、無意味な脈動を単調に繰り返している。 真っ黒に暗転したスマートフォンの画面を、祈りを捧げる狂信者のように両手で強く握りしめる。ガラスの表面には、無精髭を生やし、絶望に顔を歪めたひどく無様な男の顔が亡霊のように映り込んでいた。 何度かけ直しても、詩織の番号からは無機質で冷酷なアナウンスが等間隔で返ってくるだけだ。メッセージアプリを開いても、画面に並ぶ緑色の吹き出しの横に「既読」の文字がつくことはない。彼女の時間を、陵という存在が完全に切り離されてしまったことを、残酷なまでに視覚が訴えかけてくる。(俺は――詩織を失った……) その決定的な事実が、冷たい泥のように胃の奥にどろりとたまり、強烈な吐き気を催させる。喉の奥からせり上がってくる酸っぱい胃液を、奥歯を強く噛み締めて必死に飲み込んだ。 唯一の連絡手段だった草薙朔からの通話も、陵を容赦なく拒絶し、ツーツーという無機質な電子音とともに切断された。 だが、諦めることなどできなかった。諦められるはずがない。 ここで手を離せば、詩織は本当に陵の届かない場所へ、永遠に消えてしまう。その恐怖が、全身の血液を急速に沸騰させ、同時に凍りつかせる。 残された手がかりは、草薙朔というあの憎き男の存在だけだった。 先日のパーティの夜。シャンデリアの眩い光の下で、詩織が陵には一度も見せたこともないほど柔らかく、無防備な笑顔を向けていた若い男の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって脳裏を激しく焼く。 詩織と同じ画家であり、彼女と親しげに笑い合っていたあの男。光の世界の住人。彼女の才能を理解し、彼女を鳥籠から連れ出そうとした男。 詩織は今、陵の手の絶対的な支配が及ばない、あの男の元へ身を寄せているに違いない。 陵以外の男の温もりを求めているかもしれない。あ
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第二十三話「泥濘の愛執」

 会社に出社した瞬間、空気の異質さに肌が粟立った。 見慣れているはずの、そして自らが守り続けてきたはずの社長室。その重厚なマホガニーのデスクも、壁に掛けられたクラシカルな絵画も、すべてが昨日までとは違う、ひどく他人のもののような冷徹さを帯びて陵を迎える。 何より、部屋の隅々にまで完全に染み付いていた。 噎せ返るほどに甘ったるく、粘り気のあるフローラルの香水の匂い。 詩織の残していった、あの微かな絵の具と亜麻仁油の静謐な香りとはあまりにもかけ離れた、欲望そのものを形にしたような毒々しい芳香が、陵の鼻腔を容赦なく蹂躙する。息を吸い込むたびに、胃の奥が嫌悪感で不快に脈打った。 静寂を切り裂くように、硬い音が近づいてくる。 カツカツ、と。大理石の床を、そして木製のフローリングを容赦なく傷つけるようにして、ヒールの音が暴力的なリズムを刻む。 開かれたドアの向こうから現れたのは、仕立ての良い豪奢なドレスを纏ったアリス・橘だった。彼女の唇は、獲物を追い詰めた猛獣のように、歪で底意地の悪い笑みを湛えている。「連絡、きているかしら? 今日から私がここの社長。陵は秘書よ」 勝ち誇った声が、天井の高い室内に不快に反響した。 アリスの父親が持つ絶大な権力。それを用いて裏で汚く手を回され、陵が血の滲むような思いで維持してきた会社は、一晩のうちに強引な吸収合併の波に呑み込まれていた。 すべては、陵が先ほど彼女に別れを切り出したことに対する、アリスなりの、そして橘家なりの残酷で迅速な報復に他ならなかった。 男から地位を奪い、誇りを奪い、逃げ道をすべて塞ぐ。そうして自分の手元に、都合のいい人形として永遠に縛り付けるための、浅ましくも確実な罠。 胸の奥から、乾いた笑いがせり上がってくる。 会社を守るため。ただその大義名分のために、詩織というかけがえのない存在を日陰に追いやり、冷徹な仮面を被って彼女の心を殺し続けた。その結果が、この無残な結末だった。守りたかった城は、一瞬にして砂の城のように崩れ去り、手元には何も残っていない。 アリスがゆっくりと陵の前に歩み寄ってくる。 香水の匂いがさらに色濃くなり、眩暈がしそうなほどの不快感が陵を襲った。 アリスは躊躇いもなく手を伸ばすと、丁寧に手入れされ、真っ赤なネイルに彩られた指先で、陵の顎を強引に掴み上げた。 爪が皮膚に食
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第二十四話「断ち切れない残響」

 パリの午後の光は、どこかひどく乾いている。 高い天窓から斜めに差し込む陽光が、空中の細かな埃をきらきらと反射させながら、アトリエの荒削りな木板の床に淡い四角形をくっきりと描き出していた。窓の外から聞こえてくる、石畳を叩く車の走行音や、遠くで響く教会の鐘の音。それらが厚いガラス窓に遮られてくぐもった響きとなり、この部屋の静寂をより一層際立たせている。 油絵具の重たくて甘やかな匂いと、亜麻仁油の独特な香り。それに混じって、キャンバスの脇に置かれたマグカップから、微かに漂うペパーミントティーの清涼な香りが鼻腔をくすぐる。 水瀬詩織の細い指先が握る筆先が、滑らかに、そして迷いなく、キャンバスの上へ色を重ねていく。 ペインティングナイフで削り取っては、再び筆を走らせる。硬質な摩擦音と、布地が擦れる微かな音だけが、規則正しいリズムを刻んでいた。 数年の時間が、静かに、だが確実に過ぎていた。 かつて、夫の心を探り、感情を押し殺し、冷たくて広い家の中でただ息を潜めていた「妻」という名の幽霊のような女は、もうここにはいない。 世界的な覆面画家として、詩織は今、自らの足で立ち、静かで、そして確固たる生活を築き上げていた。自らの奥底から絞り出し、生み出した色彩が、海を越えて誰かの心を震わせる。誰の付属物でもない、誰の庇護も必要としない、水瀬詩織という一個の人間としての、はっきりとした輪郭。 それが、ここパリのアトリエには確かに存在していた。 パレットの上で、深い青と微かな白を混ぜ合わせ、自分だけの夜空の色を作り出そうとしていた時だった。 背後で、重い木製の扉が開く鈍い音がした。「邪魔するよ」 ノックとほぼ同時に響いたその声に、詩織は肩の力を抜いた。軽い足音とともに、草薙朔がアトリエに足を踏み入れる。彼の手に持ち込まれた二つの紙コップから、淹れたてのコーヒーの芳醇で苦味のある香りが、油絵具の匂いが充満する空気にすっと割り込んできた。 共に海外で活動する画家仲間であり、今の詩織の生活圏に最も深く立ち入る男。 朔は、キャンバスの横に置かれた、絵の具の汚れがこびりついた古いスツールに無造作に腰を下ろすと、長い足を組んだ。着古したレザージャケットが、微かに擦れる音を立てる。「そろそろ俺のものになる気ない?」「ない」 筆を止めることすらなく、詩織は即答した。 
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第二十五話「熱を帯びる未練」

 絵の具と亜麻仁油の匂いが染み付いたアトリエの静寂を破るように、エージェントであるカトリーヌが、硬い木製のテーブルの上にタブレットを滑らせた。 カチリ、と硬質な音が響く。 差し出された画面には、英語と日本語が混在したビジネスメールの文面が表示されていた。「会社の入り口に飾るための、特別な絵を描いてほしいという、企業からの新規の制作依頼よ」 コーヒーカップを持ったまま、詩織は視線を落とす。見覚えのない、日本の企業名だった。画廊を通さず、直接このアトリエへ送られてきた指名依頼。(珍しい案件ね)「この依頼主、あなたも見覚えがあるんじゃない? ほら、かつてはあなたの新作が出るたび、どんな高値でもすべて買い集める勢いだったのに、ここ数年前からぱたりと姿を見せなくなっていた、あの熱狂的な顧客よ」 カトリーヌの言葉に、詩織はコーヒーカップを置き、画面を指先でスクロールした。 依頼の目的、提示された破格の報酬額、そして、文末。 代表者名の欄に記された黒い文字を見た瞬間。 詩織の呼吸が、完全に止まった。『羽島陵』 画面上のその三文字が、鋭い刃となって詩織の網膜を突き刺す。 先日、朔の口から「会社を乗っ取られ、消息不明だ」と聞かされたばかりの、元夫の名前だ。 決して忘れることのできない、たった一人の男。 喉の奥がカラカラに乾き、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち始めた。指先が微かに震え、タブレットの冷たい縁を思わず強く握りしめる。「……日本だし、断る?」 沈黙の長さに気づいたのか、カトリーヌが気遣うように声を潜める。 彼女は、詩織が遠い日本に元夫を残し、逃げるようにこのパリへ渡ってきたことを、ある程度察している。有能なエージェントとしての彼女なりの、静かで優しい配慮だった。「引き受けるわ」 迷う間もなく、言葉は詩織の唇からこぼれ落ちていた。 自分の口を突いて出た言葉のあまりの速さと、そこに込められた切実な響きに、自分自身が一番驚愕している。 カトリーヌが、少しだけ目を丸くして詩織を見た。 嘘だ。本当は、消息不明だと聞いた日から、ずっと彼のことが気になって仕方がなかった。彼がどこで何をしているのか。その狂おしいほどの執着を、誰より自分自身に見透かされたような気がして、詩織はたまらず奥歯を強く噛み締めた。 その日の夜。 アトリエでの
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第二十六話「双つの銀輪」

 彼が他の女性と、あの寝室で、私の描いた絵を見上げながら新しい夜を紡いでいる。その残酷な想像が、鋭い爪を立てて心臓の柔らかな部分をぐちゃぐちゃに掻き毟る。息をするたびに肺が軋み、目の前がチカチカと点滅し始めた。「本当に、社長ったら寝室の絵を――」「余計なことを言わなくていい」 背後から、不意に声が落ちた。 ピシャリと、冷や水を浴びせかけるような鋭い響き。 低く、ひどく静かな、けれど有無を言わさぬ絶対的な威圧感を孕んで、鼓膜の奥を直接震わせるような男の声。 聞き覚えのある、いや、細胞の隅々にまで染み込んで決して忘れることのできなかったその声に、詩織の肩がびくりと大きく跳ねた。 呼吸が、完全に止まる。 高いヒールを履いた靴の裏が、大理石の床にべったりと張り付いてしまったかのように、身体がぴくりとも動かない。指先から急速に温度が奪われ、代わりに全身の血液が心臓に向かってドクドクと逆流していくのがわかる。 気のせいではない。幻聴でもない。 恐る恐る、軋む首を動かし、スローモーションのようにゆっくりと振り返る。 そこに、彼が立っていた。 数年ぶりの彼が――。 仕立ての良い、深いネイビーのスリーピーススーツに身を包み、長身を静かにそびえ立たせている。かつての傲慢な若さは削ぎ落とされ、代わりに幾多の修羅場を潜り抜けてきた大人の男としての、研ぎ澄まされた凄みが漂っていた。 感情を一切読ませない、氷のように冷たく端正な無表情。 それは、記憶の中に刻み込まれた彼の姿そのものだった。 時が、完全に止まった。 エントランスの空調の音も、遠くから聞こえていたはずの都市の喧騒も、周囲の空気から一切の音が消え去る。ただ、早鐘のように激しく打つ自分の鼓動だけが、耳の奥でやけに大きく、暴力的に響いている。 彼の漆黒の瞳が、真っ直ぐに詩織を捉えていた。その奥で、何かが微かに揺らめいたように見えたが、由衣が目を丸くして慌てた声を上げたことで、その機微はかき消された。「お兄ちゃん? あれ、会議は?」「お前が気にすることじゃない」「いやいやいや、外せない重要な会議があるって言ってたじゃん!」「いいから。お前は席を外せ」「もうっ、なによそれ……」(……お兄ちゃん?) 張り詰めていた糸が、ぷつん、と音を立てて切れた。 陵の、妹。「羽島」という同じ苗字。少し
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第二十七話「結び直す熱情」

 今後、詩織の絵が飾られる予定の、真っ白な空白の壁。 その巨大なキャンバスのような壁面を前にして、二人は仕事の話を始めた。 ついさっき、唇が触れ合う寸前まで近づいた。互いの熱い吐息が混じり合い、理性が焼き切れるかと思った、あの生々しい熱が、まだ二人の間に色濃く燻っている。 ふとした拍子に視線が交差するたび、心臓が跳ね、気まずさと、隠しきれない甘い余韻が空気を微かに揺らした。空調の効いたエントランスの空気が、そこだけひどく湿度を帯びているように感じる。 それでも、絵を飾る場所の確認は、社長である陵と、画家である詩織の間で、あくまでビジネスライクに進められていく。 絵のサイズ。窓からの光の入り方。壁の色とのコントラスト。 当たり障りのない、無機質な仕事の言葉。しかし、その合間に、少しずつ、まるで氷が溶け出すように、私的な言葉が混じり始めていた。「ここなら、夕方の光が綺麗に入る」「ええ……そうね。西日が直接当たらないのも、絵の具の劣化を防ぐにはちょうどいいわ」「君の描く青は、少し暗い方が映えるから」 陵の声が、少しずつ低く、柔らかみを帯びていく。 かつての冷徹で、命令するような硬いトーンはそこにはない。(彼は、私の描く絵を深く理解してくれている) 単なるビジネスとしての評価ではない。世界的な覆面画家として名前が売れる前から、彼は詩織の絵を買い、見つめ続けてくれていた。水瀬詩織という人間の内面が剥き出しになったキャンバスの「青」を、彼はずっと深く愛してくれている。 その事実が、詩織の胸の奥を温かいもので満たした。 数年間、ずっと凍りついていたぎこちない空気が、静かに、ゆっくりとほどけていくのを感じていた。「ここに、詩織が一番描きたいものを描いて欲しい」 それは、愛おしむような、ひどく甘い響きだった。 同時に、陵の大きな手が、ふと、詩織の右手に伸びた。 そっと、大切に包み込むように握られる。手のひらから直に伝わってくる、懐かしく力強い体温。びくりと肩が跳ねたが、振り払うことなどできなかった。「今夜、夕食を一緒に……」 耳元に低く落ちた声に、詩織の鼓動が、とん、と小さく跳ねる。 無言で応じようとした瞬間、握られた手から、陵の長くて骨ばった指が、ゆっくりと詩織の指の間へ滑り込んでくる。 ごつごつとした男の指先が、華奢な指の隙間を押し
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第二十八話「真実を告げる熱い吐息」

 詩織の弱音を完全に塞ぎ、すべての言い訳を消し去るような、深く、そして貪欲なまでの激しい口づけだった。 互いの体内の酸素をすっかり奪い尽くし、熱い口内を幾度も味わい尽くしたあと、名残惜しそうに、微かな銀の糸を引きながらゆっくりと二人の唇が離れていく。 はぁ、はぁ、と、未だに荒く上下を繰り返す互いの胸が、コートやスーツの厚い布地越しに、ぴったりと隙間なく触れ合っていた。衣服の擦れる微かな音が、静まり返った空間にやけに生々しく響く。重なり合った鼓動のリズムが、一つの巨大な地鳴りのようになって詩織の全身の皮膚を揺るがしていた。 陵は、骨ばった大きな両手で詩織の後頭部を優しく包み込み、引き寄せる。そのまま、詩織の額に自らの額をぴたりと押し当てた。至近距離で見つめ合う漆黒の瞳には、かつての冷徹な仮面など微塵も残されておらず、ただ熱い情動だけがゆらゆらと揺らめいている。 陵が、微かに震える熱い息を吐き出した。「……詩織を抱きたい――だが、その前に、どうしても君に聞いてほしいんだ」 低く、ひどく切実な、どこか祈るような響きを孕んだ声が耳元に落ちる。 そのあまりの必死さに、詩織は胸を突かれ、彼の広い胸に顔をうずめたまま、こくりと小さく頷くことしかできなかった。 靴も脱がないまま、小さなキャリーケースを床に転がしただけの、無機質な高級マンションの玄関。 一定の静止時間を過ぎた頭上のセンサーライトが、カチッ、という冷たい電子音を立てて、再び無情に消え去った。 不意に訪れた、完全な暗闇。 一切の光が遮断され、網膜の奥に深い黒が広がる。視覚を完全に奪われたことで、残された他の五感が、恐ろしいほどの鋭敏さで目を覚まし始めた。 静寂の中で、すぐ目の前にある彼の雄としての高い体温が、じわじわと詩織の肌を焦がすように伝わってくる。首筋の柔らかな皮膚を直に撫でる、彼の熱く甘い吐息。ウールコートの繊維の匂いに混じる、彼特有の清涼で重みのある体臭。 その濃密な気配と、どこにも逃げ出すことのできない絶対的な質感が、詩織の心を激しく、そして痛いほどに震わせていた。 陵が、これまで長い歳月の間、ずっと胸の奥底に堰き止めていた不器用な言葉を、暗闇の中に一つずつ、慎重に置き始めた。「アリスとは……ただのビジネス関係だったんだ。身体の関係が全くなかったとは言わない。少なからず俺は、表
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第二十九話「色褪せぬ記憶が導く夜明け」

 深海からゆっくりと浮上してくるような、心地よい微睡みの時間だった。 重い瞼をそっと押し上げると、視界の端が白くぼやけている。少しだけ開いた遮光カーテンの隙間から、朝の柔らかく、ひどく優しい光が幾筋も真っ白なシーツの上に差し込んでいた。 ふと気づくと、詩織はキングサイズの広く整えられたダブルベッドの上で一人、うつ伏せになった状態で寝ていた。 身じろぎをしようとして、思わず「んっ」と小さな声が漏れた。 昨晩、お互いの失われた数年間を埋め合わせるように、何度も、何度も激しく繋がり合ったせいか、気だるい身体が鉛のようにひどく重い。骨の芯まで溶かされてしまったような、甘い疲労感。 少し動くだけで、上質なシーツに擦れる素肌が異常なほど過敏に反応し、ちりちりとした痺れを伝えてくる。特に、彼を何度も深く迎え入れた下腹部の奥底が、ジンジンと、未だに火を持ったように熱く疼いていた。 目を閉じれば、彼に激しく打ち据えられ、限界まで奥を押し広げられた強烈な快感が鮮明に蘇る。まるで、まだ陵の圧倒的な質量と熱が、自分の中に深々と残されているみたいだった。 彼が隣にいないことに気づき、かすかな不安が胸をよぎる。だが、遠くのリビングの方から微かな物音が聞こえ、すぐに安堵した。 痛む腰を庇いながら、シーツを巻き込むようにしてゆっくりと身体を反転させ、仰向けになって高い天井を見上げた。 ふと、視界の端。 少しだけ開いたままになっている寝室の扉の向こう、リビングの壁の一部が見えた。 そこに、見慣れた額縁が掛かっている。 昨夜、玄関から抱き抱えられて通り過ぎた時には、暗さと情熱に浮かされてはっきりと認識できなかったが、それは間違いなく、かつて詩織自身が描き上げた絵だった。 顔をぼかした、彼の肖像画。 彼が私を愛していると証明してくれた、大切な過去の欠片。 朝の光の中でぼんやりとそれを見つめていた詩織の口から、ふと、無意識のうちに声が漏れた。「……あれ?」 違和感の正体を探るように、詩織は自分の裸体を包み込んでいるシーツを、指先でそっと撫でた。 なめらかで、少しひんやりとした肌触り。 そして、ゆっくりと視線を巡らせ、視界に入るファブリックの色合いや、枕カバーの縁に施された控えめな意匠を確認する。 昨晩は深い暗闇と、理性を吹き飛ばすほどの激しい情熱にすっかり浮かされ
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第三十話「甘いお預け」

 エージェントであるカトリーヌとの最終的な打ち合わせを終え、画家の活動拠点を本格的に日本へ移すことが正式に決定し、帰国した日のこと。 大きなガラス窓から昼の明るい陽光がたっぷりと差し込む日本の国際空港の到着ロビーは、旅立つ者と帰還する者たちが交差する、独特の活気と熱気に満ちていた。 様々な言語が飛び交い、キャリーケースの車輪が滑る音が重なり合う。 詩織は、あの日家を出た時と同じ小さなキャリーケースを引きながら、慣れた足取りで雑踏を歩いていた。 ふと、前方の不自然な光景に気づく。 上等な仕立てのスーツを着た、恰幅の良いイギリス紳士の初老の男性が、抵抗する一人の若い女性の細い腕を乱暴に引っ張りながら、搭乗口へと向かって歩いていたのだ。 すれ違おうと横に避けたとき、床をひっかくような甲高いヒールの音とともに、二人の言い争う声がはっきりと耳に届いた。「パパ、やめて。私は帰りたくないわ!」「いい加減にしろ。お前のくだらないわがままで、どれだけの莫大な損害を出していると思っているんだ」「仕方ないじゃない! 日本支社の社長なんてするつもりなんて、最初からなかったんだから。ああすれば、陵が私のところへ帰ってくると思ったの!」 ぴたりと。 大理石の床を踏みしめていた詩織の足が、止まる。 聞き覚えのある、執着に満ちた甲高い金切り声。 父親に腕を強く掴まれ、美しくセットされていたはずの髪を振り乱して引きずられていた女性は――アリスだった。(……ああすれば、陵さんが帰ってくると思った……?) 詩織は、目を僅かに見開いた。 彼女が父の強大な権力を使って、陵の会社を強引に買収し、奪った理由。それは、経営への野心やビジネスとしての勝算などではなく。ただ、どうしても手に入らない陵という男を、権力と金で無理やり自分に縛り付けるための、ひどく浅はかで愚かな執着でしかなかったのだ。 結果として、彼女は会社を傾かせ、莫大な損害を出し、父の激しい怒りを買い、こうして無様に、日本から連れ去られようとしている。 欲しいものを全て強引に取りにいって、結果として愛する男も、地位も、全てを失った女の、哀れな末路。 詩織が静かにその光景を見つめていると、抵抗して激しく暴れたアリスのせいで、父親がバランスを大きく崩し、よろめいて詩織の肩に軽くぶつかりそうになった。「ソーリー……」
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