冬の終わりと春の入り口が混じり合う、酷く冷え込んだ夜だった。 都心の高級ホテルの一室。分厚いカーテンに遮られた窓の外には、無数の光が瞬く夜景が広がっているのだろうが、今の詩織にそれを楽しむ余裕はない。間接照明の仄暗いオレンジ色の光だけが、静寂に包まれた部屋を頼りなく照らしていた。 空調の微かな稼働音だけが、等間隔に鼓膜を打つ。 詩織は、部屋の隅に置かれた一人掛けのソファに深く沈み込んでいた。足元には、慌ただしく荷物を詰め込んできた小さなキャリーケースが、ぽつんと置かれている。身に纏っているのは、皺の寄った漆黒の喪服だ。黒い布地が、疲労しきった身体に鉛のように重くのしかかっている。 たった数時間前、母の葬儀を終え、誰のいない冷たい寝室で離婚届にサインをした。愛しているからこそ、これ以上彼のそばにいることはできなかった。身を引き裂かれるような思いでペンを走らせ、逃げるように家を飛び出したのだ。 行く当てなどなかった。冷たい夜風に吹かれながら、ぼんやりと街を歩き、気づけば一つの番号をタップしていた。 頼れる相手は、もう、朔しかいなかった。 同じ画家であり、誰よりも詩織の本音を知る親友。彼は急な連絡にも嫌な顔一つせず、現在滞在しているこのホテルの部屋へ詩織を招き入れてくれた。 温かいコーヒーの香りが、鼻腔をくすぐる。朔が淹れてくれたマグカップを両手で包み込んでいるものの、指先は氷のように冷たいままだ。 静寂を破ったのは、ローテーブルの上に置かれたスマートフォンの無機質な振動音だった。 ブーッ、ブーッ、と。硬いテーブルの天板を震わせる音が、部屋の空気を一瞬にして張り詰めさせる。 マグカップを持つ詩織の手が、びくりと跳ねた。中の褐色の液体が波打ち、表面に歪な波紋を作る。 ソファの向かい、ベッドの端に腰掛けていた朔が、ゆっくりと手を伸ばして画面を覗き込んだ。長い前髪の奥で、鋭い双眸が僅かに細められる。「お前の旦那からだ」 淡々とした、平坦な声だった。 その言葉が耳に届いた瞬間、詩織の心臓が警鐘のように激しく打ち鳴らされた。胃の奥がぎゅっと収縮し、冷や汗が背筋を伝い落ちる。 彼がかけてくるはずはない。そう思っていた。離婚届を見つければ、彼は安堵して、アリスという本命の女性の元へ向かうはずだ。それが、詩織が望んだ結末なのだから。 朔は詩織の強張っ
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