Alle Kapitel von 政略結婚の妻を捨てたら、世界で一番手に入らない女になっていた: Kapitel 1 – Kapitel 9

9 Kapitel

第一話「冷徹な夫と香水の棘」

 深夜一時を過ぎていた。 リビングの灯りはとうに落とされ、闇に沈んだ部屋を、カーテンの隙間から漏れる街灯のかすかな光だけが、青白く撫でている。 二重サッシの隙間から、冬の冷気が音もなく忍び寄ってきた。靴下越しの足の指は、もう感覚をなくしかけている。しんと静まり返った室内には、自分の呼吸の音だけが、妙に大きく響く。 詩織はソファに深く身を沈めたまま、視線をダイニングテーブルへと流した。 そこには、二人分の食器が虚しく並んでいる。丹念に焼き上げ、美しく盛り付けたはずのローストビーフには、冷えて固まったグレイビーソースがまとわりついていた。湯気の消えた味噌椀は、暗がりの中でひっそりと冷え切り、温め直される時を失っている。冷えて乾いた米の表面が、窓からの青白い光をぼんやりと撥ね返していた。半解凍のように力なく沈んだ青菜の浸し。時間をかけ、彼の好物を揃えたはずの料理が、今はただ、闇の底に置き忘れられた残骸でしかなかった。 朝、仕事に向かう彼は確かにそう言ったのだ。「今日は早く帰れる」 鏡の前でネクタイを締めながら、こちらを見もせずに放たれた、いつもの無機質な声。 それでも詩織は、その一言だけで胸が弾むのを感じていた。夕食の有無を尋ね、「家で食べる」という短い返事をもらっただけで、頬の筋肉が勝手に緩んでいくのを抑えられなかった。彼を送り出してから、すぐに近くのスーパーへ買い物に出た。普段は慎ましく選ぶ食材を、今日だけは少しだけ奮発して。彼が美味しそうに食べてくれる姿を想像するだけで、キッチンに立つ時間は輝いて見えたのだ。(馬鹿みたいだ) 心の中で吐き捨てた言葉が、自身の喉を逆向きに削っていく。期待すればするほど、裏切られた時の痛みは鋭く、深く胸を刺す。 その時だった。 静寂を破るように、玄関の鍵がガチャリと、無遠慮な金属音を立てて回された。続けて、重厚な革靴がタイルを打つ重い足音。詩織の鼓動が、一拍だけ、不規則に跳ねた。 リビングの扉が開く。 パチン、と乾いたスイッチの音が響いた。 突然、天井からの橙色の照明が部屋を満たし、暗闇に慣れていた瞳の奥が、きゅっと痛んだ。詩織は眩しさに目を細め、入ってきた男を見上げた。「起きていたのか」 低い、平坦な声だった。 羽島陵はソファに座る詩織を一瞥したきり、それ以上目を合わせようとはしなかった。完璧に整
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-15
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第二話「手のひらの残熱」

 さらさらと紙の上を走る筆の音だけが、静まり返ったアトリエに響いている。 キャンバスに向かい、無心で筆を動かしていると、詩織の意識はいつしか現実の輪郭を失い、深い記憶の底へと沈んでいった。 絵を描いているときは、いつもそうだ。指先の微細な動きだけが確かな現実となり、それ以外の世界は霧の向こうへと遠ざかっていく。集中が極限に達したとき、心の奥底に鍵をかけて仕舞い込んでいた記憶の引き出しが、ひとりでに、音もなく開いていくのだ。 あれは――まだ、今の会社に入社して間もない頃のこと。 若さゆえの希望と、それ以上に大きな不安を抱えていた。    ◇◇◇ 初夏の、長く明るい午後だった。 郊外のスタジオに一歩踏み入れると、そこには独特の気だるい熱気が渦巻いていた。大型の撮影機材が放つジリジリとした熱、化粧品の甘ったるい香り、そして現場を駆け回るスタッフたちの焦燥を含んだ汗の匂い。それらが混ざり合い、肺の奥にねっとりと張り付くような重苦しい空気を作り出している。 天井の高いスタジオには、太陽を模したような強いライトがいくつも吊るされ、真っ白なバックドロップの前で、一人の女性が傲慢なほどに完璧なポーズを決めていた。 アリス・橘。 テレビをつけても、街を歩いても、その名前を目にしない日はないほどの売れっ子モデルだった。 宣伝部の新人として配属されたばかりの詩織は、張り詰めた空気の中で呼吸さえも遠慮がちになりながら、昼の休憩を告げる声を待っていた。 ようやく訪れた休憩時間。詩織は預かっていたメモを何度も見返し、指定された銀座の老舗から届いた折詰弁当を、彼女の控室へと運んだ。 老舗の暖簾に恥じない、端正な包み。指定されたメニュー、指定された数。何度も、それこそ念仏のように確認したはずだった。「これじゃない」 甲高い声が、スタジオの冷え切った天井に反響した。 詩織が差し出した弁当の蓋は、彼女の鋭い指先によって無造作に弾き飛ばされた。勢いよく放り出された折詰が床に落ち、中の色鮮やかな煮物が無残に飛び散る。白い養生シートの上に、じわりと醜い茶色い染みが広がっていくのを、詩織は呆然と見つめることしかできなかった。「私が頼んだのは、こんな脂っこい弁当じゃないわ。私を太らせたいわけ? 嫌がらせのつもり?」 アリスの冷ややかな瞳が、詩織を見下ろした。 長身を支える
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-15
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第三話「無言の契約とかりそめの愛」

 恋の苦さに、いつしか慣れてしまった。 胸の奥底で、かつて踏み消されたはずの、あの小さく頼りない火は――灰の中で、誰にも気付かれることなく、ずっと、ずっと、燻り続けていた。消え去るほどの潔さはなく、かといって、世界を焼き尽くすほど燃え広がる勇気もない。そういう、ぬるくて、けれど肌をじりじりと焦がすような半端な熱のまま、月日だけが、静かに、無機質に過ぎていった。 その電話が鳴ったのは、街路樹の葉がわずかに色づき、秋が深まり始めた頃のことだった。冷ややかな着信音が、詩織の平穏な、しかし空虚な日常を唐突に突き破った。    ◇◇◇ 病院の長い廊下は、消毒液の刺すような匂いに、深く、隅々まで浸されていた。吸い込むたびに肺の奥がひりつくような、清潔で残酷な無機質さ。 白い壁、白い床、白いシーツ。色という色を、誰かが悪意を持って、あるいは慈悲を持って拭い去ったような場所で、詩織は母の、痩せ細った手をただ握っていた。かつてはもっと大きく、温かく、自分を守ってくれたはずの手は、記憶の中よりもずっと小さく、驚くほど軽くなっていた。 母の手は、思いのほか、痩せていた。指の節が浮き出し、透き通るような皮膚の下に青い血管が力なく這っている。その脆さに触れるのが怖くて、けれど離してしまえば母がどこか遠くへ消えてしまいそうで、詩織は祈るように指を絡めた。「……ですから、現状では切除よりも、最新の免疫療法を組み合わせた治療が最善かと思われます」 検査結果。ステージ。治療方針。そして、余命を示唆する数字。 医師の口から繰り出される淡々とした言葉の連なりを、詩織は身じろぎ一つせず、背筋を伸ばして聞いていた。まるで、そうしていなければ自分という形が崩れてしまいそうだったからだ。膝の上に組んだ自分の指先が、いつのまにか白くなるほど強く力を込めていたことに、彼女自身、気付いてさえいなかった。 母も、同じように聞いていた。毛布の上に重ねられた母の両手が、ほんのわずかに、けれど絶え間なく震えているのを、詩織は、見ないふりをした。その震えを認めてしまえば、堰を切ったように涙が溢れてしまうことを知っていたから。あるいは、母の恐怖に寄り添うだけの強さが、今の自分にはないことを突きつけられるのが怖かったからだ。 頷くこと。的確な質問をすること。医師に深々と礼を述べること。 全部、別人がするよ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-17
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第四話「仮面夫婦の輪舞」

 婚姻届に判を押した、あの夜から半年が過ぎていた。 季節は二度ほど、ささやかに巡った。家には二人分の家具が増え、二人分の食器が並ぶようになったが、詩織の中に「夫婦」という確かな手応えを、運んできてはくれなかった。 心の中に隙間風が吹くような、寄る辺ない日々。名前ばかりの絆が、ただ重く、詩織の肩にのしかかっていた。    ◇◇◇ 今夜の詩織はいつもと違い、シャンデリアの光に、深く、深く、照らされていた。 都内の老舗ホテル、最上階の大広間。財界人を一堂に集めた、年に一度の祝賀パーティ。天井から吊り下げられた無数のクリスタルが、床に敷き詰められた深紅の絨毯に、万華鏡のような光の粒を落としている。 上等なドレスの裾がささめき、磨き上げられた革靴が静かに行き交う。空気には香水の甘い香りと、高価な酒の匂い、そして独特の権力的な熱が混じり合っていた。 詩織は、藍色のロングドレスに身を包み、会場の隅にひっそりと立っていた。 壁の陰に身を寄せるようにして、華やかな喧騒から目を逸らす。これは、父からの命令だった。『勉強がてら、顔を出しておけ』 ただ、それだけ。 愛人の子として認められ人並みに財界の空気を覚えておけ、ということなのだろう。父にとって、自分はやはり、使い勝手のいい駒の一つでしかない。 藍色のシルクは、片方の太ももから、深く、スリットが切られていた。 一歩踏み出すたびに、白い肌が、ちらりと、布の隙間からこぼれる。まるで誰かに品定めをされているような、落ち着かない心地だった。(こんなドレス、本当は、着たくなかったのに) このドレスを選び、詩織に着てくるように命じたのは――父だった。自分の所有物であると誇示するかのような意匠に、胸の奥が冷たく凍えていく。「飲み物、貰ってきたよ」 隣に立つ朔が、シャンパングラスを、するりと差し出した。 長めの前髪の下から覗く瞳が、からかうように細められる。「こういう場、嫌いだろ。お前」「……うん」 詩織は、わずかに微笑んだ。強張っていた頬が、彼の声でほんの少しだけ和らぐ。 草薙朔。同い年の、画家仲間。 詩織の、本当の自分を唯一知っている男。父からは「同伴者を一人連れていけ」とだけ告げられ、頼める相手は、彼しかいなかった。 朔は、何も問わない。詩織が抱える事情も、この場に漂う歪な空気も、全てを承知の上
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-18
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第五話「嫉妬は熱を帯びて」

「あっ――」 息を呑む間もなく、強引に引っ張られる。 抵抗する暇も与えられないまま、大広間の壁際、アーチの装飾と大ぶりな観葉植物の鉢が作り出す暗がりへと引きずり込まれた。 背中が冷たい壁にぶつかる。直後、ばんと鈍い音が響き、陵の大きな手が壁につかれた。 完全に退路が塞がれた。 見上げた至近距離に、冷徹な氷のような眼差しがある。いつもは感情を一切表に出さない彼の瞳の奥に、今は暗く重い炎が揺らめいているように見えた。「なんで、ここにいる」 地を這うような、低い声。 その声色に背筋がゾクリと震え、詩織は肩を竦めた。「父に、どうしてもと命じられて……」「あの男とは、どういう関係だ」 詩織の言葉を遮るように、さらに鋭い問いが飛ぶ。あの男、とは、同伴してくれた朔のことだろう。「朔は、ただの友人です。画家の仲間で……」 必死に弁明を口にするが、陵の表情は少しも緩まない。それどころか、彼の視線は詩織の身を包む藍色のロングドレスへと落とされた。父が指定して送ってきた、身体の線を強調し、太もも深くまでスリットの入った意匠。 するりと、陵の冷たい指先がスリットの隙間から侵入してきた。「ひっ」 喉の奥で悲鳴が跳ねる。薄い絹を隔てることなく、直接太ももの内側を撫で上げられた。タキシードの袖口から、微かに洗剤の清潔な匂いが漂い、それがかえって異常な状況を際立たせる。「随分と、男を誘うような格好で出てきたんだな」 耳元に落ちた囁きは、刃のように冷たかった。 腕を掴まれ、乱暴に身体を反転させられた。「きゃっ……」 壁に両手をつかされる。冷たい壁紙の感触が手のひらに張り付いた。 背後から陵の硬い身体が密着してくる。ドレスの裾が無造作に捲り上げられ、空調の冷気が素肌を直接舐めた。 すぐ向こう側には、談笑する人々の気配がある。グラスの触れ合う音、足音、話し声。鉢植えの葉の隙間、アーチの装飾から落ちるシャンデリアの細い光線が、足元の絨毯を微かに照らしているだけの密室。 下着の端に指が引っ掛けられ、脇へと強引に寄せられた。(私――初めて……) 籍を入れて半年。一度も指一本触れられなかった。ただの政略結婚。金目当てだと蔑まれてきた。 それが、こんな場所で。(こんなの――嫌だ) 胃のあたりがひどく不快にせり上がる。震える声で、詩織は背後の男に問いかけた
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-19
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第六話「甘やかなる贖罪」

 財界人パーティを早退した詩織は、タクシーで帰宅し、シャワーも浴びる気力もなく、薄手のネグリジェだけを身に着けて寝室のベッドに横たわっていた。 下腹部がまだ、じくじくと灼けている。少し動いただけで、内側のいちばん深い場所が鈍く脈打って、息が詰まった。 好きな人に抱かれた。籍を入れて半年、形だけの夫婦を続けてきたあの人に。それなのに、胸の奥はむしろ、ますます痛む。 眠りたいのに――身体は鉛のように重く疲労していたが、瞼の裏だけが妙に冴え渡っていて、暗闇の中でじっと天井を見つめ続けていた。 その時、階下で玄関の鍵が回る音がした。 詩織の身体が、跳ねるように強張る。 震える指で携帯電話を掴み、時刻を確認する。午後九時を、わずかに過ぎた頃合いだった。パーティはまだ終わっていない時間。それに何より、あの人にはアリスと過ごす夜が、当然のように用意されているはずだった。 階段を上がってくる足音。いつもより少しだけ急いでいるような、不規則な響き。 詩織は咄嗟に布団の奥深くへと潜り込み、固く目を閉じて寝たふりをした。 寝室の扉が、ノックもなしに乱暴に開かれた。直後、部屋の照明がつけられ、まぶたの裏が白く染まる。「――詩織」 低く、いつもより酷く掠れた声で名前を呼ばれた。 詩織は返事をしない。ベッドが軋み、すぐ近くから覗き込まれる気配がする。 大きな手のひらが、布団の縁からはみ出していた詩織の頭の上に、そっと置かれた。優しく、髪を撫でられる。まるで子供をあやすような、不器用な仕草だ。 息が止まりそうになった。あの、撮影スタジオの日と同じ触れ方。 なぜ今、こんな触れ方をするのだろう。会場の物陰で、己の欲望のままに苛立たしげに腰を振っていた人と、同じ男とは思えない。「詩織」 もう一度呼ばれるが、寝たふりを続けた。 陵の鼻先が髪に近づき、くんと匂いを嗅がれる気配がした。 ふいに、陵が身体を起こす。ネクタイを引き抜く衣擦れの音。スーツの上着を脱ぎ、そのまま床へと落とす鈍い音がした。完璧主義で潔癖な彼なら、いつもは絶対に脱ぎ散らかしたりしないのに。「詩織」 三度目の声が、いちばん低く、重かった。 次の瞬間、掛け布団が一気に剥ぎ取られた。 冷たい空気とともに、彼の匂いが降ってくる。仄かなアルコールと、ベルガモットとシダーウッドの深く冷たい香水。(―
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-22
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第七話「白日の仮面と、沈黙の聖域」

 整然とデスクが並ぶ宣伝部のフロアには、キーボードを叩く乾いたタイピング音と、電話越しの控えめな話し声だけが規則正しく響いていた。 窓の外には、都心の無機質なビル群が切り取られたように並んでいる。空調のよく効いた社内の廊下を、詩織は手元のタブレットに視線を落としながら、静かな足取りで歩いていた。 結婚を機に主任へ昇進して、ちょうど一年が経つ。今では数人の後輩の指導や、会社の根幹に関わるいくつかの重要案件の進行管理を任されている。感情を一切表に出さず、どんな理不尽な要求にも眉一つ動かさず、淡々と正確に仕事をこなす水瀬主任。それが、この会社における詩織の姿だった。 プライベートを見せず、誰とも深く関わらない。ただの有能な歯車として完璧に立ち回る彼女を、周囲は一目置き、同時に少しだけ遠ざけている。深く踏み込まれれば、隠し通さなければならない致命的な秘密が露呈してしまうかもしれないから。 角を曲がり、社長室へと続く長い廊下に出ようとした瞬間だった。 ふわりと、ひどく場違いな甘ったるいフローラルの香りが鼻腔を掠めた。 無意識のうちに、タブレットをなぞっていた指先が止まる。 磨き上げられた大理石の廊下の向こう側から、並んで歩いてくる二つの影があった。 一人は、洗練されたダークスーツを完璧に着こなした、この会社の若き社長である羽島陵。そして、彼の太い腕に親しげに寄り添い、軽やかな足取りで歩くのは、トップモデルのアリス・橘だった。 社長室に彼女が出入りすることは、もはやこの社内では誰もが知る公然の事実だ。すれ違う社員たちが、遠巻きに恭しく会釈をし、あるいは羨望と好奇の入り混じった眼差しをこっそりと向けている。誰もが振り返る、完璧な美男美女の姿。光を一身に集めるような二人が歩くたび、周囲の空気がそこだけ華やいでいくのがわかる。 視界に入った瞬間、胸の奥が鈍く軋んだ。胃の底に、鉛のような重い塊がストンと落ちる。 けれど、詩織の顔には動揺の欠片も浮かばない。全部飲み込んで、見ないふりをして、ただ静かにやり過ごすこと。秘密の妻としての惨めでみっともない感情には、きつく鍵をかけて深海に沈めている。 詩織は壁際に身を寄せると、足をとめた。そして、ただの一介の部下として、美しく完璧な角度で深く頭を下げた。視線を床に落とし、自分の存在を極限まで消す。 近づいてくる二種類
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-24
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第八話「言葉なき猜疑心」

 冬の夕暮れは、あっという間に街の輪郭を深い藍色へと沈めていく。 マフラーの襟元から入り込む冷たい風に肩をすくめながら、詩織は足早に帰路についていた。重いコートのポケットに手を入れると、指先が微かに震えているのがわかる。寒さのせいだけではない。数時間前までカフェで向き合っていた、草薙朔との打ち合わせの熱が、まだ身体の奥底に燻っていた。 覆面画家として活動している詩織にとって、個展は数少ない、自分の本当の姿で立てる場所だ。朔とキャンバスの配置や照明の角度について話し合っている時間だけは、息を潜めて生きる「秘密の妻」でも、「有能な宣伝部主任」でもない、ただの自分に戻れる。 冷え切った手を擦り合わせながら、一軒家の重い玄関扉を開ける。 薄暗い三和土に足を踏み入れた瞬間だった。「――え?」 思わず、小さく息を呑んだ。 綺麗に磨き上げられた大理石の床の上。そこには、あるはずのない見慣れた黒の革靴が、揃えられて置かれていた。(なんで? もう帰ってきているの?) 心臓が、ドクンと嫌な音を立てて大きく跳ねる。 今夜は、アリスとの予定があるから帰らないはずだ。そう聞いていたからこそ、朔との打ち合わせを夕方まで延ばしたのだ。それなのに、なぜ、彼がここにいるのか。 全身の血の気が一気に引いていく。もしも、どこで誰と会っていたのか問い詰められたら。個展のこと、絵を描き続けていることが知られたら。 頭の中で最悪の想像が渦を巻くが、詩織は即座に奥歯を強く噛み締めた。 動揺を表に出してはいけない。この一年間、陵のそばで息を潜めて生きるために、完璧な仮面を被る練習は積み重ねてきたのだ。どんな理不尽な状況でも、感情を殺して従順な妻を演じ切る。それが、ここでの生き残り方だった。 深く深呼吸をして肺に冷たい空気を取り込み、詩織はゆっくりと靴を脱いだ。 リビングの扉を開けると、暖かく空調の効いた部屋の中央、大きな革張りのソファに陵が腰を下ろしていた。 上着は脱ぎ捨てられ、ネクタイは少し緩められている。膝の上に広げた書類から、ゆっくりと冷たい鋼色の瞳が持ち上がり、入り口に立つ詩織を真っ直ぐに射抜いた。「遅かったな」 低く、感情の読めない声が静かなリビングに響く。「……申し訳ありません」 詩織は瞬き一つせず、すっと綺麗な角度で頭を下げた。「夕食の準備をしている途中で
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-26
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◆第九話「歪んだ所有欲」

 冬の早朝。まだ分厚いカーテンの隙間から白み始めたばかりの光が漏れる頃。 薄暗い寝室で、詩織は音を立てないようにそっとシーツをめくり、ベッドから抜け出ようとしていた。 今日は個展の初日。覆面画家として活動する詩織にとって、自分の本当の姿で立てる唯一の場所だ。開場前の準備があり、いつもより二時間も早く家を出る予定だった。 ひんやりとした空気に肩をすくめ、床に下ろした足先に力を入れた、その瞬間だった。「あっ――」 背後から、強い力が伸びてきた。 詩織の細い腰に太い腕が巻き付き、乱暴にベッドの中へと引き戻される。シーツの海に沈み込むと同時に、熱を持った重い身体が背後から覆い被さってきた。「今日は朝から用事があって……」 寝返りを打つようにして逃れようとするが、硬い胸板に阻まれる。見上げた至近距離に、いつもは無表情な陵の顔があった。その鋼色の瞳の奥には、ひどく暗く、ねっとりとした熱が揺らめいている。「俺だって朝から仕事だ」 短い、苛立ったような声。 いつもの平日の朝とは明らかに違っていた。少し掠れた眠たげな声の奥に、得体の知れない苛立ちと、あの夜の浴室から続く仄暗い熱が混じっている。 有無を言わさぬ力で仰向けにされ、薄いネグリジェの裾が、いとも容易く引き裂かれんばかりの勢いで胸元まで捲り上げられた。 冬の冷たい空気が無防備な素肌を撫でたのも束の間、それ以上に熱く、大きな手のひらが太ももの内側を鷲掴みにする。「待っ……今日は、本当に時間が……っ」 壁の時計の秒針が、無情にもカチカチと進んでいくのが見えた。このままでは絶対に間に合わない。 しかし、抗議の声を上げるより早く、陵の顔が近づき、乱暴に唇が塞がれた。「んんっ、ふ……っ!」 ただ押し付けられるだけのキスではない。無理やりこじ開けるように熱い舌が侵入し、口内の柔らかな粘膜を執拗に舐め上げられる。逃げようとする舌を太い舌で絡め取られ、深く吸い上げられるたびに、ちゅちゅ、という生々しく卑猥な水音が寝室の静寂を破った。 息が詰まり、抗うために陵の広い肩を叩いていた両手から、徐々に力が抜けていく。 唇を深く塞がれたまま、下半身では陵の熱い指先が、最も無防備な場所へと容赦なく侵入していた。「あ……んっ、ぁ……」 時間がないと頭では激しく警鐘を鳴らしているのに、秘裂は勝手に彼の指をきつく締
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-05-27
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