All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話 白い花の噂③

 心臓が冷たい手でぎゅっと握り潰されるように収縮した。「それから、お加減が良くなることはなく……そのまま、お二人とも、お屋敷からいなくなってしまわれたので。使用人の間では、あの白い花が飾られると、お嬢様方はもう……」 そこまで言って、千尋はハッとしたように両手で自分の口元を覆った。 自分が「禁じられた話題」を、それも新しい婚約者に向かって口にしてしまったことへの強烈な後悔と恐怖で、彼女の顔面から急に血の気が引いていく。「も、申し訳ございません! 私、根拠のない噂話を……忘れてくださいませ!」 千尋は深く、震える身体で頭を下げた。「いいのよ、千尋さん。教えてくれてありがとう」 私は立ち上がり、彼女の震える細い肩にそっと手を置いた。「これは、私とあなただけの秘密にするわ。誰にも言わない」 千尋は涙ぐんだ目を瞬かせ、何度も頭を下げながら、逃げるようにワゴンを押して部屋を出て行った。 カチャリと扉が閉まる。 私は一人、サイドテーブルの上のクリスタルの花瓶に向き直った。 肉厚で、透き通るように白く、作り物のように美しい花。 この花は、ただの装飾ではない。 美津子が設定した「精神的失調」という死へのレールに乗せられたターゲットに対する、明確な『カウントダウンの開始』を告げるマーカーだ。 最初から、私がこの屋敷に入った初日から、美津子はこの花を私の部屋に置いた。 つまり彼女は、過去の婚約者たちのように時間をかけて徐々に追い詰めるのではなく、最初から私を「手早く処分する」つもりで、そのスケジュールを起動させている。 そして、あのダイニングの『空席』の下に落ちていた花びら。 あれは偶然落ちたのではない。美津子が、「次はあなたがここへ来るのよ」という呪いを視覚的に植え付けるために、わざと配置した舞台装置だ。 私は花瓶に手を伸ばし、その花の一輪を指先でそっと摘み上げた。 ビロードのように滑らかな花びらの感触。 そして、水に浸かっているはずの茎の切り口。
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第82話 透の傷跡①

 完璧な白さを誇るその花から視線を外し、私は時計を見た。  午後十一時。  屋敷の活動はとうに停止し、分厚い壁と吸音性の高い絨毯に守られたこの空間は、完全な無音の底に沈んでいた。  千尋の警告。――夜、温室のほうで音がすることがあります。  昼間、あの焼け焦げた扉の前で黒瀬に止められた時、これ以上進めば物理的に排除されるという確かな殺気を感じた。黒瀬の監視網がある限り、昼間にあの温室の奥を調査するのは不可能だ。  けれど、夜ならばどうだろう。  私はクローゼットから暗い色のカーディガンを取り出し、ナイトガウンの上に羽織った。  透が使用人たちに出した「解雇と再就職禁止」という暴力的な通達は、屋敷内の空気を極限まで萎縮させている。使用人たちは私と顔を合わせることを恐れ、夜間の見回りですら、私室があるこのエリアを意図的に避けているような気配があった。  扉のノブに手をかけ、ゆっくり回す。  カチャリという小さな金属音さえ、静まり返った廊下では爆音のように感じられた。  隙間から廊下を窺う。フットライトだけが点灯する薄暗い空間に、人影はない。  私は音を立てずに廊下へと滑り出た。  昼間よりもさらに冷え込んだ空気が、足元から這い上がってくる。  一階へ続く階段を下りる。  目的は、昼間に入った中庭の温室だ。あの黒く炭化した扉の錠前に残された、削り取られた痕跡。そこに何が隠されているのか、そして夜に鳴るという「硬いものがガラスを叩く音」の正体は何なのか。  一階のテラスへ続くガラス戸の前に着く。  鍵はかかっていない。この屋敷は、外からの侵入者よりも内側の人間を管理することに特化している。  ガラス戸を押し開け、冬の夜気の中へ足を踏み出した。  吐く息が白く濁る。  雲の切れ間から覗く月光が、手入れされすぎた庭園の木々を、鋭く黒いシルエットとして地面に焼き付けている。  白砂利の小道を、ヒールではなくつま先からそっと足を下ろして進む。  ジャリという音を最小限に抑えながら、温室の方へと向かう。  視界の先に、暗闇の中で巨大なクリスタルのように鈍く光を反射するガラスの箱が見えてきた。  だが。  温室の入り口から十メートルほど手前で、私の足はピタリと止まった。  入り口の少し手前、テラスの石組みの上に、誰かがいる。  月の光
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第83話 透の傷跡②

 私は息を殺したまま、木陰から彼の姿をじっと観察した。  彼は右手でタバコを挟み、手すりに寄りかかっている。  そのとき、月明かりが、彼の捲り上げられた右腕を白く照らし出した。  私の目は、その腕の表面にある「異質なもの」に釘付けになった。  手首から肘にかけて。  滑らかで白い肌の表面が、そこだけ広範囲にわたって、赤黒く爛(ただ)れ、ケロイド状にひきつれていたのだ。  火傷の痕だ。  それも、熱湯がはねたような小さなものではない。直接炎に舐められ、皮膚の奥の組織まで破壊された後に、長い時間をかけて歪な形で引きつれて治癒した、生々しい古い傷跡。  彼はタバコを口に運ぶたびに、その傷跡が月の光に晒される。  心臓が大きく脈打った。  温室の奥にある、あの焼け焦げた木とレンガの残骸。  彼がその火災の現場の前に立ち、痛切な顔で白い花を見つめていた理由。  この傷は、あの火災と直接繋がっている。  彼はあの火事の現場にいたのだ。  私は無意識のうちに木陰から一歩、足を踏み出していた。  足元の枯れ枝が、パリッ、と硬い音を立てた。  透の肩が、弾かれたように跳ねる。  彼は振り返り、木陰に立つ私を視界に捉えた。  そのとき、彼の目が見開かれ、右腕を咄嗟に背中側へ隠そうとする動作を見せた。  吸いかけのタバコが指先から滑り落ち、テラスの石組みの上で小さな火花を散らして転がる。 「……何をしている」  数秒の沈黙の後、透の声が夜の空気を切り裂いた。  感情を押し殺そうとしているが、その声の底には、見られたことに対する強烈な動揺と焦りが混じっていた。 「こんな夜更けに出歩くなど、僕が許可した覚えはない」  彼は私に向かって、氷の仮面を急いで貼り付けようとしている。  けれど、私はもう、その表面的な言葉に怯えることはなかった。  私は木陰から姿を現し、月明かりの下を彼に向かって歩みを進めた。  一歩、また一歩。 「眠れなかったので、少し夜風に当たりに」  私は彼の目を真っ直ぐに見据えたまま答えた。 「透さんこそ。こんな寒空の下で、上着も羽織らずに。……その腕の傷が、痛むのですか」  透の表情が、凍りついた。  彼が背中側に隠そうとした右腕の筋肉が、スーツの生地越しではなく、シャツの下で硬く強張っているのがわかる。 「
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第84話 透の傷跡③

 彼は隠していた右腕をゆっくり前に戻し、左手でその引き攣れたケロイドの表面を強く、自傷するように握りしめた。 「僕が……僕の弱さが、この傷を作り、そして奪った」 「奪った?」 「十数年前だ。あの温室の奥には、離れへと続く古い通路があった」  透は私を見ているようで、私ではない過去の亡霊を見つめているような虚ろな瞳で語り始めた。 「火が出た時、僕はそこにいた。炎が広がる中で、助けを求める声が聞こえた。だが……僕は、恐怖で動けなかった。腕を焼かれる熱さと痛みに怯え、手を伸ばすことができなかった」  彼の左手の指が、右腕の傷に深く食い込んでいる。  白く美しい肌と、赤黒く爛れた火傷の痕のコントラストが、月明かりの下でひどく痛々しく見えた。  反射的に、傷跡へ手を伸ばしかけた。  けれど、指先が彼の腕に触れる寸前で、私はそれを止めた。  同情で触れてはいけない傷がある。本人が差し出してもいない痛みに、こちらの正しさだけで踏み込めば、それは美津子がしていることと同じになる。相手の領域を、守るという言葉で勝手に決めつけることになる。  透は私の止まった指先を見ていた。隠したいのに見られたくて、拒みたいのに拒みきれない。そんな矛盾が、彼の喉元で小さく震えているようだった。 「……触らないのか」  掠れた声で、彼が言った。 「触れていいと言われていないから」  私は答えた。 「でも、見なかったことにはしません。あなたが何を怖がっているのか、きちんと聞きます」  月明かりが、彼の火傷の痕の凹凸を淡く浮かび上がらせていた。そこにあるのは、怪物の証でも、呪いの刻印でもない。ただ、幼い誰かが確かに炎の中で痛みを受けたという、消すことのできない記録だった。  透は答えなかった。けれど、傷を握り潰していた左手の力が、かすかに緩んだ。  それは、恋に似た甘さではなかった。  まだ、彼を信じるには早すぎる。彼の言葉は何度も私を突き放し、彼の沈黙は何度も私を一人にした。ここで彼の傷を見たからといって、それらが帳消しになるわけじゃない。  けれど、私の中で、彼を見る角度だけが少し変わった。  天野透は私を冷たい檻に閉じ込めるだけの男ではない。自分自身もまた、その檻の奥で何年も息を潜めていた人だ。  だからこそ、彼の弱さを理由に、私の意思を奪わせてはいけない
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第85話 透の傷跡④

「だから、言っただろう」  透は私から一歩後ずさった。 「だから、僕に近づくな。君までいなくなる」  私の肋骨の内側で、鋭い痛みが走った。  この人は、本気でそう信じ込んでいるのだ。  理沙の死も、二人目の花嫁の死も、すべて自分が背負った「呪い」のせいだと。自分が手を差し伸べなかった過去の罪が、今の婚約者たちを狂わせ、殺しているのだと。  違う。  それは呪いなんかじゃない。  理沙を突き落とし、二人目の花嫁に薬を盛り、記録を物理的に削り取って消し去っているのは、目に見えないオカルトめいた呪いなどではなく、紛れもない「人間の悪意」だ。  美津子が構築した、合法の顔をした排除の仕組み。  透はその仕組みに守られているのではなく、その仕組みの中で永遠に罪悪感を植え付けられ、母親の支配下に置かれるための「最も都合の良い囚人」として生かされているだけだ。  残酷だと思った。  けれど、だからといって、彼の沈黙が私を傷つけなかったわけじゃない。晩餐の席で何も言わなかったことも、守るという顔をして遠ざけたことも、確かに私を一人にした。  怖がっている人だとわかった。けれど、怖がっているから何をしてもいいわけじゃない。その弱さまで含めて、目の前の天野透なのだと思った。  前世の会議室で、私は自分がやったことの意味を悪意で書き換えられ、極悪人に仕立て上げられた。  透は自分がやっていないことの罪まで背負わされ、自分が呪われているという嘘の筋書きを、何十年も信じ込まされている。  私は両手を身体の脇で強く握りしめた。 「私がどうなるかまで、あなたが決めないでください」  私の声は、震えていなかった。  夜の冷気を真っ直ぐに切り裂く、平坦で確かな声。  透の目が、驚きに見開かれる。  私は彼に向かって、再び距離を詰めた。 「火事のことも、その傷も、私を追い払う理由にはなりません」 「君は、僕の話を聞いていなかったのか! 僕に関われば、君も――」 「壊れて消える?」  私は彼の言葉を遮った。 「私が毎晩泣いていて、そのうち心を病んで、自ら命を絶つとでも思っているのですか」  透が息を呑む。  私は彼の手首に、――彼が火傷の痕を強く握りしめているその左手に――そっと自分の手を重ねた。  ビクッ、と彼が身体を強張らせ、手を振り払おうと
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第86話 美津子の晩餐①

 指先に、まだ熱が消え残っている気がした。  昨夜、冬の夜風が吹き抜ける中庭で、透の左手首を握りしめた時の感触。  冷え切っていた彼の肌の下で、脈が早鐘のように打ち、そして火傷の痕へと伝わっていく不器用な体温があった。  彼は私を遠ざけようとした。僕に近づけば不幸になると、自分自身を呪いのように縛り付けながら。だが、その拒絶の奥にあったのは、私を傷つけたくないという痛切なまでの怯えだった。  ――あなたが殺したわけじゃない。誰かが、そう思わせているだけです。  私がそう告げた時、彼の瞳孔がほのかに揺れ、言葉を失ったあの顔が、網膜の裏側に焼き付いて離れない。  自室の鏡の前で、私は自分の唇にコーラルピンクの口紅を引いた。  今日は、美津子が主催する本邸の晩餐がある。  昨日一日、透が仕事で不在だったこともあり、私はあの夜以来、彼と顔を合わせていなかった。  時計の針が午後七時を指す。  控えめなノックの音とともに千尋が迎えに来て、私は重いマホガニーの扉を開けた。  一階のダイニングルームへ向かう廊下は、シャンデリアの光が深紅の絨毯を照らし、完璧な静けさに包まれていた。だが、私の心臓の鼓動は、昨日までのそれとは少し違っていた。  透が、そこにいる。  彼が私の言葉をどう受け止めたのか。あの氷の仮面の奥で、彼の中で何かが少しでも変わったのか。  ほんの小さな、バカみたいな期待が、胸の底で小さな炎のように燻っていた。  ダイニングルームの重厚な両開きの扉が、使用人たちの手によって音もなく開かれる。  圧倒的な広さを持つ空間。  長大なマホガニーのテーブルの上座には、すでに天野美津子が座っていた。  今夜の彼女は深いワインレッドのドレスに身を包み、デコルテには大粒のルビーのネックレスが血の滴りのように妖しい光を放っている。  それから、その右側。  透が、濃紺のスーツ姿で座っていた。  昨夜、私の手首を振り払わなかった彼の体温だけが、やけに鮮明に蘇る。腹立たしいほど、私はその続きを待っていた。  私が入室しても、彼は視線を一ミリもこちらに向けなかった。  背筋を真っ直ぐに伸ばし、手元のクリスタルのグラスを見つめたまま、まるで精巧に作られた蝋人形のように微動だにしない。  昨夜の庭園で、私から目を逸らせず、息を呑んでいたあの脆い青
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第87話 美津子の晩餐②

 ナイフとフォークが陶器に触れる、かすかな音だけがダイニングルームに響く。「凛花さん」 一口目を飲み込んだところで、美津子がふわりと微笑みかけてきた。「昨夜は、よく眠れましたか? 夜中にお部屋を抜け出して、お屋敷の中を歩き回っていらしたと耳にしたのだけれど」 ピタリ、と。 私のナイフの動きが止まった。 美津子の視線は、優しい母親の顔をしたまま、私の皮膚の表面を鋭利なメスで撫で回している。 黒瀬が報告したのだ。私が昨夜、中庭へ通じるガラス戸の前にいたことを。あるいは、別の監視の目が、私と透が中庭で接触していたことまで伝えているのだろうか。「……ええ。少し空気が乾燥していたせいか、寝付けず、喉を潤したくなりまして」 私はナイフの柄に指を添えたまま、表情だけは崩さずに答えた。「そう。お可哀想に」 美津子は、大げさに細い眉をひそめてみせた。「水科の古いお家とは、ずいぶんと勝手が違うでしょうからね。隙間風の入るお屋敷で育たれた方には、天野の完璧な空調は、少し息苦しく感じられるのかもしれないわ」 隙間風の入るお屋敷。 その一言が、テーブルの空気を急に重くした。「でも、安心なさってね。お父様のもとには、昨日、当家からの融資が正式に実行されたと連絡がありましたから」 美津子は、ワイングラスを優雅に持ち上げた。「これで、水科のお家も、毎日のように借金取りの影に怯える生活から解放されたはずよ。お父様も、さぞやホッとされて、昨夜はぐっすりと眠られたことでしょう」 私は、膝の上でナプキンを握りしめた。 借金取りに怯える生活。 それを、次期当主である透の目の前で、そして何人もの使用人たちが控えるこの公の場で、これほどまでに上品な言葉でラッピングして突きつけてくる。「あなたも、もう無理をして強がらなくてもいいのよ」 美津子の声は、どこまでも甘く、慈愛に満ちていた。「家を救うために、ご自分の身を犠牲になさったこと。わたくしたちは、ちゃんとわかっていますから。……こ
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第88話 美津子の晩餐③

 彼は、目の前のテリーヌを黙って切り分けている。 その動作は機械的で、彼の意識がこの食卓の会話から切り離されているかのようだった。 ただ。 ナイフを握る彼の右手の指先が血の気が失せるほどに白く鬱血しているのが見えた。 カチャッ、カチャッと、銀食器が陶器に触れる音が、不自然なほど細かく、何度も鳴っている。 彼は、無関心なのではない。 私の視線に気づいていながら、美津子の言葉に反発したいという衝動を、自分の内側で必死に殺し、抑え込んでいるのだ。 彼がここで私を庇えば、美津子の攻撃はさらに鋭さを増し、私への監視や精神的圧力は倍増する。あるいは、彼自身が美津子に対して背負っている「過去の死者たちへの罪悪感」という呪いが、彼が母に逆らうことを物理的に封じ込めているのかもしれない。 理由は、どうでもよかった。 結果として、彼は沈黙を選んだ。 私を一人で、この毒を含んだ食卓の中に放置することを選んだのだ。 肋骨の内側で燻っていた小さな期待の炎が、シュッと音を立てて消え去った。 ああ。 そうだ。誰も、助けてくれない。 前世の会議室で、同期の紗耶が泣き崩れ、私が極悪人に仕立て上げられていった時。 営業部の新堂も、直属の上司も、他の同僚たちも、みんなそうやって目を逸らし、自分の手元の資料だけを見つめて沈黙していた。 誰も私を庇わなかった。組織の『空気』に逆らうことのリスクを恐れ、私が生贄として消費されていくのを、ただ黙って見過ごした。 透も、同じだ。 彼がどんなに内面で苦しんでいようと、どれほど私を心配していようと。ここで口を開かない限り、彼は私を殺すからくりの一部でしかない。そう思うのは酷いとわかっていた。それでも、今だけは透の事情まで抱えていられなかった。 胃の奥から、冷たい泥水のような絶望がせり上がってくる。 隣の「誰も座らない席」が、まるで私を招き入れるように、虚無の口を大きく開けている気がした。 理沙も、二人目の花嫁も、この席で、美津子の優雅な毒を一人で浴び続けたのだろう。 誰も助けてくれない絶望と、自分の存在
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第89話 美津子の晩餐④

「いいえ、お母様」 私の声は、自分でも驚くほど高く、澄んでいた。「ただ、あまりにも美味しいので、味わっていただいておりましたの。水科の家では、このような素晴らしいテリーヌは、めったに口にできませんでしたから」 ピタリ、と。 美津子のグラスを持つ手が空中で一瞬だけ止まった。 向かいに座る透のナイフの音も、停止した。「お父様の借金の件、ご心配いただきありがとうございます」 私は、美津子の目から一切視線を逸らさずに続けた。「おかげさまで、父もようやく肩の荷が下りたことでしょう。これからは、私が天野家の婚約者として、この素晴らしい環境に見合う人間になれるよう、努力するのみですわ」 私は再びナイフとフォークを手に取り、テリーヌの最後の一口を美しく切り分け、口に運んだ。 味などしない。ゴムの塊を噛んでいるようだ。 だが、私はそれを咀嚼し、嚥下し、ナプキンで口元を優雅に拭ってみせた。「……そう」 美津子の微笑みが、ほんの数ミリだけ、引きつったように歪んだ。「それは、頼もしいことね」 彼女の目から、獲物を甚振るような余裕の色が消え、代わりに、不気味なものを観察するような冷酷な光が宿った。 私が「泣いて崩れる可哀想な娘」の役を降りたことで、彼女の筋書きに、明確なエラーが発生したのだ。 次の皿が運ばれてくる。 メインの、真紅のソースがかかった鴨のロースト。 私はそれも、言葉を挟まず、完璧なマナーで切り分け、一口残らず胃の腑へと収めていった。 透は、相変わらず一言も発しなかった。 だが、彼のナイフは止まり、彼自身のメインディッシュは半分以上が手つかずのまま残されていた。 彼の視線が、テーブルのクロスに落とされたまま、一度だけ、微かに私の方へ向けられた気配がした。 驚愕か、それとも恐怖か。 そんなものは、今の私にはどうでもよかった。 私はもう、この屋敷の誰にも期待しない。……そう決めたはずなのに、彼の止まったナイフがまだ目の端に引っか
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第90話 水科家の請求書①

 足の裏が絨毯を踏みしめる感覚だけを頼りに、私は薄暗い廊下を自室へと向かって歩いていた。  美津子の晩餐。  完璧なマナーで食事を終え、一切の涙を見せずにダイニングルームを退出した私の背中に、彼女が放った冷酷な視線の重みが、まだドレスの生地越しに張り付いている気がした。  彼女が用意した「重圧に耐えかねて心を病む娘」という筋書きを、私は真正面から踏み躙った。  次に彼女がどんな手を使ってくるかはわからない。だが、少なくとも今日、私は自分が誰かの思い通りに消費されるだけの生贄ではないことを、あの食卓で証明した。  自室の重いマホガニーの扉の前に着く。  そこには、私の帰りを待っていた千尋が、頭を下げて控えていた。 「……お帰りなさいませ、凛花お嬢様」  彼女の声は、私が部屋を出た時よりも高く、どこか戸惑いを含んでいるように聞こえた。  私が泣き崩れることもなく、青ざめて震えることもなく、平然とした顔で戻ってきたことが、彼女にとっては予想外だったのだろう。 「ええ。ただいま」  私が短く応えると、千尋は慌てて扉を開け、私を中へと迎え入れた。  部屋の空調は完璧に設定され、ほのかな防虫剤の匂いと清潔なリネンの香りが漂っている。  千尋が私の背後に回り、ドレスの編み上げを少しずつ緩めていく。  肋骨を締め付けていたコルセットの圧力が解かれ、強引に押し込められていた肺が、新しい酸素を求めて大きく膨らんだ。  スウッ、という深い吸気音とともに、肩の力がようやく抜ける。 「お疲れ様でございました。すぐにお召し替えを……」  千尋の指先が背中のリボンを解きながらかすかに震えているのがわかった。 「千尋さん」  私は鏡越しに彼女の顔を見つめた。 「あなたは、私が途中で食事を放棄して、泣きながら逃げ帰ってくると思っていたの?」  ビクッ、と千尋の肩が跳ねる。 「そ、そのようなことは……!」 「いいのよ。それがこの屋敷の『普通』なのでしょうから」  私は鏡の中の自分に向かって薄く微笑んだ。 「途中で逃げたら、奥様の思う通りになるもの。だから、最後まで座っていました」  千尋はドレスのファスナーを下ろす手を一瞬だけ止め、鏡越しに私の目を見つめ返した。  その瞳の奥には、美津子への恐怖に加えて、私という不可解な存在に対する小さな畏敬のよう
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