All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話 生き延びるだけでは足りない③

『天野グループの飛躍』『次期当主・天野透の手腕』。  そんな提灯記事ばかりが並ぶ中で、ある日、父が忌々しそうに舌打ちをして、ゴミ箱に丸めて捨てた一冊の週刊誌があった。  私はそれを拾い上げ、何気なく目を通した。  そこには、天野グループの強引な企業買収の裏にある資金の流れの不透明さや、過去の役員に関する黒い噂を、しつこく、けれど筋道立てて追った記事が載っていた。  父は「こんな三流記者の戯言を真に受けて、天野家の御機嫌を損ねるわけにはいかん」と怒り狂っていた。  その記事の最後に記されていた、短い署名。  私は頭の中の引き出しをひとつずつ開けるように、その名前を探し当てた。  ――佐伯。  ――佐伯、律。  そうだ。佐伯律。  フリーの経済誌記者か何かで、天野グループを執拗に追っているという男。  彼なら。  彼が天野グループの内部を嗅ぎ回っているのなら、過去の不審な事故や、あの温室の火災についても、何らかの情報に触れている可能性がある。  それに、彼にとって、天野家本邸の内情を知る私からの情報提供は、喉から手が出るほど欲しい餌のはずだ。  取引ができるかもしれない。  彼に外部の公式記録を調べさせる。代わりに、私はこの屋敷の内部から、切り取られない形で情報を渡す。  私は顔を上げ、部屋の大きな窓へと歩み寄った。  分厚いガラスの向こうには、完璧に整備された広大な庭園が広がっている。  この物理的な檻から、どうやって佐伯律に接触するか。  手紙を出すのは危険だ。投函する前に黒瀬の検閲に引っかかる。  ならば、私自身が屋敷の外に出るしかない。  堂々と、屋敷の外の人間と接触できる公式な理由。  思考を巡らせる。  私は天野家の「正式な婚約者」だ。  美津子は私を社交の場で「透の重荷」として見せつけることには積極的だった。  ならば。 『婚約者として、ふさわしい教養や作法を身につけるためのお稽古』、あるいは『結婚式に向けた衣装の仕立て』という名目であれば、どうだろう。  天野家の体面を気にする彼女なら、私を閉じ込めているよりも、外部の目に晒して「可哀想な娘」という印象を補強した方が都合がいいと考えるかもしれない。  私は窓枠に置いた指先に、強く力を込めた。  待っているだけではだめだ。  こちらから仕掛けなけれ
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第72話 佐伯律という取引①

 肌を刺すような冬の寒気から一転し、店内はむせ返るような暖気と、濃厚なローズの香水に満ちていた。 銀座のメインストリートから一本裏に入った、看板のない完全予約制のオートクチュール・サロン。 壁一面を覆う巨大な三面鏡の前で、私は両腕を水平に上げたまま、じっと息を殺していた。 初老の女性フィッターが、メジャーを私のウエストから背中へと素早く滑らせ、まち針を次々と生地に打ち込んでいく。「……ええ。素晴らしいお背中のラインですわ、凛花様」 フィッターは、絹の擦れるような声で褒めそやした。「美津子様からは、『清楚でありながら、天野家の婚約者として恥じない華やかさを』と仰せつかっております。最高級のシルクタフタをご用意いたしましょう」「ありがとう。お任せするわ」 私は、鏡の中の自分に向けられた完璧な微笑みを崩さずに答えた。 千尋を通じて出した「結婚式に向けて、外の仕立て師に会いたい」という要求は、驚くほどあっさりと、当日の朝には美津子の許可が下りていた。 不思議なことではない。 美津子にとって、私が天野家の人間として豪華に飾り立てられ、社交界の目に触れる場所へ出向くことは、昨日サロンで作り上げた「透の重荷となっている哀れな娘」という筋書きを補強するための、絶好のプロモーションだ。 鏡越しに視線を動かす。 広々としたVIPルームの重厚な扉の前には、漆黒のスーツを着た黒瀬が、彫像のように微動だにせず控えている。 彼の氷のような瞳は、私の動作一つ、フィッターとの会話の一言一句を、正確無比なレコーダーのように記録し続けている。 この物理的な監視網の中で、どうやって外部と接触するか。 私は、フィッターが背中の採寸を終えたタイミングを見計らい、ゆっくり腕を下ろした。「……少し、気分が。空気が乾燥しているせいかしら」 私はわざとらしく目元を押さえ、小さく息を吐いた。「お化粧室をお借りしてもよろしくて?」 フィッターが慌てて頭を下げ、「もちろんでございます。ご案内いたします」と手で通路を指し示す。
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第73話 佐伯律という取引②

 スッ、と。  無臭に保たれているはずの化粧室の空気に、異物が混じった。  ほのかな、だが確かな、タバコのヤニと安物の缶コーヒーが焦げたような匂い。  天野家でも、この高級サロンでも、絶対に嗅ぐことのない匂い。それは、前世の広報部のオフィスや、徹夜明けの会議室で嫌というほど染み付いていた、俗世間のノイズそのものの匂いだった。  私の身体が反射的に硬直した。  洗面台の大きな鏡。その鏡越しに、私の背後――化粧室の奥にある、清掃用具入れの扉が、音もなくわずかに開いているのが見えた。 「……驚かせるつもりはなかったんですがね」  低い、少ししゃがれた男の声。  清掃用具入れの陰から現れたのは、ヨレたグレーのスーツを着た、三十歳前後の男だった。  ネクタイは緩く結ばれ、無造作に伸ばされた髪の毛先が少し跳ねている。靴の踵はすり減り、右手の指先には、長年タバコを挟んできた証である黄ばみが染み付いていた。  この無菌状態のような高級サロンに、これほど似合わない人間もいない。  私の心臓がドクンと大きな音を立てた。恐怖ではない。  向こうから、来たのだ。 「水科凛花さん、ですね。……天野の新しいお飾りの令嬢」  男は、ポケットから無造作に手を出し、二本の指で挟んだ薄っぺらい紙切れを私の方へと差し出した。 「佐伯律。フリーの記者をやっています」  差し出された名刺を受け取る前に、私は彼の爪先から表情までを一度だけ見た。信用できる男ではない。けれど、信用できない相手だからこそ、利用価値はある。  佐伯。律。  私は洗面台に置いた手に力を込め、鏡越しではなく、直接振り返って彼を真っ直ぐに見据えた。 「……記者が、私に何の用かしら。女性用の化粧室に忍び込んでまで」  私の声帯は、一ミリの震えも起こさなかった。 「ご安心を。裏の非常口から清掃業者に紛れ込んだだけです。お付きの番犬が入り口に立ってるんで、ここで網を張らせてもらいました」  佐伯は私の乾いた視線を受け止めても怯むどころか、薄くニヤリと笑った。  その目には、私への同情や心配など一滴も含まれていない。目の前に転がってきた「特ダネの餌」を、どこから食い千切ろうかという、純粋で下品なハイエナの光だけがあった。 「天野のお偉い次期当主が、借金まみれの家から買い叩いた新しい婚約者。それが初め
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第74話 佐伯律という取引③

 佐伯律は、私を救うために現れた人間ではない。私の傷も、天野家の腐った内側も、彼にとっては紙面に載せるための材料だ。  だからこそ、こちらも彼を味方として信じてはいけない。外へ届く刃として、柄の端だけを握る。それ以上を許した瞬間、今度は私自身が記事の中で都合よく切り取られる。 「天野グループの闇を追っていると聞いているわ」  私は佐伯の軽口を無視し、本題だけを切り出した。 「三流週刊誌の末尾に、あなたの署名記事が載っていたのを拝見したことがあるもの」  佐伯のニヤついた笑顔が、ほんの一瞬だけピクリと引き攣った。 「……三流、とはご挨拶だ。まあ、否定はしませんがね」 「天野家の婚約者に接触して、何を聞き出したかったの。私が『美津子様にいびられて辛い』と泣きつけば、天野家の内情を暴くスキャンダル記事にでもするつもりだった?」  私が一歩距離を詰めると、佐伯は面白そうなものを見るように目を細めた。 「いいえ。俺が欲しいのは、そんなチンケな嫁姑の小競り合いじゃない」  佐伯の声の温度が、急激に下がった。  ヤニの匂いの奥に、得体の知れない熱と執念が混じる。 「天野の化けの皮を剥ぐ、決定的な事実だ。……あんた、このまま黙って飼い殺されるつもりでこの家に入ったわけじゃないんでしょう。内部の人間しか知らない何かを、持ってるんじゃないですか」  佐伯は私の目から視線を外さなかった。  彼が天野を追う理由は、正義感などではない。過去に天野の力によって自分の記事を潰されたか、何らかの痛手を負わされた「復讐」と「特ダネへの飢え」だ。  けれど、それでいい。  倫理観のある正義の味方など、巨大な権力の前ではあっという間に丸め込まれる。自分の利益と執念のために動く人間だけが、天野の隠蔽の仕組みに対抗できる歯車になる。 「……ええ。持っているわ」  私はゆっくり瞬きをして答えた。 「取引をしましょう、佐伯さん」  佐伯の喉仏が、小さく上下したのが見えた。 「取引、ね。……天野の箱入り娘が、俺みたいな底辺の記者と何を取引できるって言うんです」 「私から、天野本邸の内部からしか得られない『日付』と『手がかり』を渡す」  私はハンドバッグを固く握りしめたまま、佐伯に向かって冷徹に条件を突きつけた。 「私は屋敷の中の情報を渡す。あなたは、警察や消防、病院
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第75話 佐伯律という取引④

「……ははっ」  佐伯が、急に肩を揺らして低く笑い出した。 「野良犬、ね。こりゃ驚いた。ただの哀れな生贄だって噂は、大外れってわけだ」  彼はスーツのポケットから、古びた手帳とボールペンを取り出した。 「いいでしょう。乗りましょう、その取引。……で? あんたが掴んだ『手がかり』ってのは?」  私は深く息を吸い込み、記憶の奥底に焼き付けていたあの数字を口にした。 「十一月十二日」  佐伯のボールペンが、紙の上でピタリと止まる。 「……十一月十二日?」 「過去の婚約者が、屋敷の奥のクローゼットに物理的に刻み込んでいた、最後の日付よ」  私が言い切ると、佐伯の顔から一切の笑みが消え失せた。  彼の瞳の奥に、記者としての強烈な飢餓感が炎のように燃え上がる。 「十一月十二日の前後に、病院や警察へ残った記録があるはずです。病気か事故として処理されたものを探して」 「なるほど……。内部の狂気に侵されていく過程の、最後の日付ってわけか」  佐伯は手帳に素早く『11/12』と書き殴り、パタンと閉じた。  そのとき。  化粧室の扉の向こう、廊下の方から、コツ、という硬い靴音が響いた。  黒瀬だ。  私の戻りが遅いのを不審に思い、入り口まで様子を窺いに来たのだろう。 「……時間切れだな」  佐伯は手帳を懐にしまうと、内ポケットから安っぽいプラスチック製のライターの裏側に、小さな数字の羅列が書かれたシールが貼られているものを私に差し出した。 「連絡用の使い捨てのメールアドレスと、パスワードだ。天野の監視をかいくぐって、なんとかそこにアクセスしてくれ。俺からの調査報告もそこに入れる」  私は何も言わずにそれを受け取り、ドレスの袖口のレースの奥深くへと滑り込ませた。  佐伯は清掃用具入れの方へ身体を向け、最後に一度だけ振り返った。 「……一人目の花嫁。透の従姉で、階段から転落したってことになってますがね」  佐伯の低い声が、換気扇の音に紛れて私の鼓膜に届いた。 「あれ、事故じゃないですよ」  私の呼吸が一瞬だけ止まる。 「記録上は目眩による転落死。だが、俺が警察の末端から引いた情報じゃ……彼女の遺体には、不自然な点があった」  コン、コン。 「凛花お嬢様。ご気分が優れませんでしょうか」  扉の向こうから、黒瀬の氷のような声が響いた。
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第76話 一人目の花嫁①

 天野家の本邸に戻り、自室の重いマホガニーの扉を閉めた瞬間、私は張り詰めていた肩の力を急に抜いた。  ドレスの袖口のレースの奥深くに指を滑り込ませる。  布地の柔らかさとは異質な、硬く角ばったプラスチックの感触。  佐伯律から渡された、百円ライター。  その裏側には、指の爪ほどの小さな白いシールが貼られ、そこに細かな英数字の羅列――使い捨てのウェブメールのアドレスと、パスワードが印字されていた。  私はそれを化粧台の鏡の前に置き、手袋を外した。  洗面所のシンクで手を洗いながら、水音に紛れさせて小さく息を吐く。  黒瀬の監視は、サロンの化粧室の扉の前まで完璧だった。私がタバコの匂いを誤魔化せたかどうかはわからない。だが、少なくともこのライターを奪われずに持ち帰ることには成功した。  問題は、ここからだ。  私に与えられているスマートフォンは、天野家が用意した真新しい端末だ。当然、通信回線もルーターも、天野家のネットワークを経由している。  素直にブラウザを開いて見知らぬウェブメールにアクセスすれば、数分後には黒瀬の持っている端末に『不審なアクセスログ』として警告が飛ぶだろう。  広報部時代、社員の不正な情報持ち出しを防ぐためのネットワーク監視システムを、情シス部門と一緒に導入したことがある。  監視の目は、必ず「URLのドメイン」と「通信の容量」を記録している。  私はタオルで手を拭き、ベッドの上に放り投げておいたスマートフォンを手に取った。  画面をタップし、ブラウザを立ち上げる。  検索窓に打ち込んだのは、『海外 オートクチュール ウェディングドレス』というキーワード。  検索結果から、画像が大量に埋め込まれた海外のハイブランドのサイトを次々と新しいタブで開いていく。フランス、イタリア、アメリカ。重い画像データの読み込みで、画面の上部にある通信インジケーターが激しく回転し始める。  ダミーの通信だ。  監視網に、「婚約者がドレス選びのために、海外の重い画像サイトを大量に閲覧している」という正常な、かつ容量の大きいログを滝のように流し込む。  その裏側。  私はシークレットモードのタブを一枚だけ開き、ライターの裏のシールに書かれた短いURLを直接打ち込んだ。  飾り気のない、シンプルなログイン画面が表示される。  アドレ
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第77話 一人目の花嫁②

 死因は頸椎の骨折。事前の医師の診断として「重度の目眩と精神的疲労」が記録されており、事故として処理された。  けれど、遺体を検案した警察の末端の記録には、公式発表から弾かれた不自然な点が二つある。  一つ。彼女の爪の間から、絨毯の繊維が大量に検出されたこと。足を滑らせたのではなく、何かに引きずられるか、必死に床にしがみついた痕跡だ。  二つ。血中から、処方記録にない規格外の睡眠導入剤の成分が検出されたこと。それも、致死量の一歩手前という異常な濃度でだ』  スマートフォンのひやりとしたガラスの表面をなぞる指先がかすかに震え始めた。  絨毯の繊維。  規格外の睡眠薬。  美津子はサンルームで優雅に紅茶を傾けながら言った。『少しだけ、お心が弱くていらしたの。不幸な事故に遭われたり……本当に、悲しいことだったわ』と。  あれが、ただの悲しい事故だったとは思えない。  薬で意識を混濁させられ、階段へ向かうよう仕向けられた可能性がある。少なくとも、そこには明確な悪意の痕跡があった。  私は唾を飲み込み、さらに画面の下へと視線を移した。 『なぜ、身内である彼女が消されなければならなかったのか。  理沙は、天野グループの系列会社で経理の補助をしていた。彼女が死ぬ数週間前、彼女のパソコンから、天野のペーパーカンパニーを通じた不自然な資金流用のデータにアクセスした形跡がある。  彼女は一族の闇に気づいた。そして、それを外に出そうとしたか、あるいは透に相談しようとした。  結果として、彼女は「精神を病んで事故死した可哀想な従姉」に仕立て上げられ、口を封じられた』  その文章の下に、解像度の粗い画像が一枚添付されていた。出どころは書かれていない。だが、そこに写っていたのは、証拠写真というより、誰かの机の上を慌てて撮ったような一枚だった。  薄い花柄の便箋。飲みかけの紅茶が残った白いカップ。端の折れた小さなメモ帳。そこには、丸みのある癖字で『白灰蘭、水は朝だけ。透が温室に来たら、叱らずにお茶を出す』と書かれていた。  肋骨の内側が、静かに痛んだ。理沙は、ただ殺された人ではない。花に水をやり、透を気にかけ、温かい紅茶を飲みかけたまま明日へ続くはずだった、ひとりの人間だった。  資金流用。  その四文字が、私の脳内で、水科家の父が抱えている多額の借金という
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第78話 一人目の花嫁③

 私は、自分が置かれている状況の本当の致死率を、肌の表面温度が奪われていく感覚とともに理解していた。 透は、これをどこまで知っているのか。 従姉である理沙が、母である美津子の手によって殺されたことを。 温室で、あの白い花に向けられていた、痛切な懺悔の表情。 ――僕に近づく人は、必ず不幸になる。 彼が私を遠ざけようとしたのは、自分の近くにいた身内が、自分のあずかり知らぬところで『病気』にされ、排除されていった過去があるからだ。 彼自身もまた、母の作り上げた完璧な隠蔽の中で、真実の輪郭を掴みきれずに、ただ結果としての『死』だけを突きつけられ続けてきたのではないか。 私は、スマートフォンの画面に視線を戻した。 キーボードを呼び出し、佐伯が残した文章のさらに下に、私の返信を打ち込んでいく。 フリック入力する指先は冷え切っていたが、タップする力だけは正確だった。『情報確認した。 こちらの内部情報。過去の死者はもう一人いる。透の元婚約者。 彼女が最後に残した物理的な傷跡(日付)を見つけた。「11/12」。 この日付の前後で、二人目の花嫁に関する外部記録(病院の搬送記録や警察の処理)を追ってほしい。 それと、水科家の借金の流れ。天野の資金流用と関係がないか、そちらの線も洗って』 打ち終えた文章を確認し、送信ボタンではなく「下書き保存」をタップする。 画面が一度暗転し、保存が完了したことを告げる小さなポップアップが出た。 私はすぐにログアウトし、ブラウザのシークレットタブを閉じた。 残っているのは、海外のウェディングドレスの華やかな画像が並ぶ、大量のダミータブだけだ。 スマートフォンをベッドの上に放り出す。 息を吐き出すと、肺に溜まっていたひやりとした空気が、細い糸のように唇からこぼれた。 佐伯は味方ではない。 彼にとって、私は天野の内部情報を引き出すための便利なパイプにすぎない。もし私の存在が邪魔になれば、彼もまた私を切り捨てるだろう。 だが、それでも構わない。 私はもう、誰かに守ってもらう
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第79話 白い花の噂①

 両手のひらを、深紅のペルシャ絨毯の毛足に深く沈み込ませる。  指先を少しずつ滑らせながら、一見すると完璧に清掃された床の表面を、目ではなく触覚だけで探っていく。  佐伯からの情報が事実なら、一人目の花嫁である天野理沙は、階段から突き落とされる前、あるいは薬で意識を混濁させられて引きずり出される際、この部屋の絨毯に爪が剥がれるほどしがみついた。  窓際のソファの足元、サイドテーブルの周辺、そしてドアへ続く動線。  かすかな埃すら残っていない滑らかな感触が続く中で、私の右手がある一箇所でピクリと止まった。  ベッドの足元から、ドアへ向かって一メートルほど進んだ位置。  そこだけ、絨毯の毛足が不自然に硬く、キシキシと指先に引っかかる感触があった。  私はスマートフォンのライトを点灯させ、その部分を至近距離から照らし出した。  肉眼で立った状態から見下ろせば、まったくわからない。だが、光の角度を斜めに落として接写するように見ると、直径数十センチほどの範囲だけ、深紅の染料がわずかに色抜けし、くすんだ赤茶色に変色しているのがわかった。  顔を近づける。  もう無臭に近く漂白されているが、鼻の粘膜をチリッと刺激するような、微かな化学薬品の気配が残っている。  血液や、何らかの生々しい汚れを落とすために、業務用の強力な漂白剤を何度も執拗に擦り込んだ痕跡。  毛足が硬く傷んでいるのは、そのためだ。  私は、その硬くなった絨毯の繊維を指先でそっと撫でた。  ここに彼女の爪が食い込んだ。  ここで彼女は、ドアの向こうへ引きずり出されまいと、死の恐怖に震えながら最後の抵抗をしたのだ。  物理的な文字情報ではない。だが、この「必死に消そうとした物理的な傷跡」は、クローゼットの日付と同じくらい雄弁に、この部屋で起きた凄惨な事実を私に伝えていた。  息を深く吐き出し、私はゆっくり立ち上がった。  美津子の隠蔽の仕組みは完璧に見えるが、人間が物理的に生活し、死んでいく過程で生じるノイズを、ゼロにすることはできない。  翌日のお昼前。  千尋が、昼食の準備のために銀色のワゴンを押して部屋に入ってきた。 「失礼いたします、凛花お嬢様」  彼女は深く頭を下げ、テーブルにクロスを広げる。  透の「解雇と再就職禁止」という暴力的な通達のおかげで、屋敷中の使用人
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第80話 白い花の噂②

 ビクッ、と彼女の肩が跳ねる。 「……すぐに整えます、凛花お嬢様」 「このお花、とても美しいわね。毎日綺麗に咲いていて、目を楽しませてくれるわ」 「花瓶の水も、いつも澄んでいるもの。千尋さんの手入れが丁寧なのね」 「い、いえ。私は決められた通りにしているだけで……」 「決められた通りにできるのは、簡単なことじゃないわ。私なら、三日目には水を替え忘れて叱られていると思う」  千尋は思わず、というふうに私を見た。令嬢がそんな失敗を口にするとは思っていなかったのだろう。  私は相手の警戒心を解くための、広報部時代に身につけた「一番柔らかい声」を使った。  真っ向から尋問すれば、彼女は美津子への恐怖から口を閉ざしてしまう。相手が「世間話」だと錯覚するレベルの、緩やかな角度から質問を滑り込ませるのだ。 「水科の家でも見たことがない品種なのだけれど、なんていうお花なのかしら」  千尋は花瓶を持ったまま、ほのかに視線を泳がせた。 「……申し訳ございません。私どもも、正式な品種名までは存じ上げず……」 「そう。珍しいものなのね。透様が、中庭の温室で大切に育てていらっしゃるのを見たことがあるわ」  温室、という単語を出した瞬間。  千尋の手元がかすかに狂い、花瓶の中の水がチャプンと音を立てて波打った。 「……ええ。あのお花は、温室の、最も奥の区画でしか育たないと聞いております」  千尋は花瓶を素早く拭き上げながら、少し早口で言った。 「とても、気難しいお花だそうで。温室特有の、強烈な熱気と高い湿度がなければ、すぐに枯れてしまうのだと」  熱気と、高い湿度。  私はあの温室の奥の、息苦しいほどの黒土の匂いと熱帯のような空気を思い出した。  そんな環境でしか育たない植物が、なぜ、完璧に空調が管理され、冷え切って乾燥しているこの私室のサイドテーブルで、毎日少しも萎れずに咲き誇っているのか。  答えは一つしかない。  美津子が、あるいは彼女の指示を受けた庭師が、毎日、新鮮な花を温室の奥から切り取り、この部屋の古い花と「交換」し続けているのだ。  私が気づかないほど巧妙に、常に完璧な状態の白い花が私の視界に入るように。 「手がかかっているのね。わざわざ毎日、新しいものに取り替えてくれているのでしょう? 奥様のお心遣いかしら」  私は微笑みながら
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