All Chapters of 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 閉ざされた温室④

「お答えいたしかねます。凛花お嬢様、今すぐご自室へお戻りください」 「もし、戻らないと言ったら?」  私は顎を上げ、彼に向かって一歩だけ足を踏み出した。 「力尽くで、私をここから引きずり出すつもり?」  黒瀬は動かなかった。  ただ、彼の瞳の奥にある「澱み」が、深海のように濃く暗く沈んでいくのを、私は見た。 「……必要とあらば」  ひどく低い、擦れた声だった。 「あそこへ入る前に、私が止めます。……必要なら、力ずくでも」  空気が、凍りついた。  温室の息苦しい熱気の中で、彼から放たれる冷気だけが、私の首筋に冷たい刃を突きつけている。  彼は本気だ。  これ以上進めば、彼は本当に物理的な手段を使ってでも私を止める。  けれど、その強烈な殺気にも似た気迫の裏側で、彼の握りしめられた両手がかすかに震えているのを私は見逃さなかった。  怒りではない。  彼がこれほどまでに私を止めるのは、美津子の命令を守るためだけじゃない。  これ以上進めば、私が過去の彼女たちと同じように、取り返しのつかない形で「消される」ことを知っているからだ。  彼は私を止めることで、私を生かそうとしている。透が今朝、強引な通達で私を守ろうとしたのと同じように。 「……わかったわ」  私は深く息を吐き出し、両手を身体の脇に下ろした。 「今日は、これ以上進むのはやめておくわ」  黒瀬の肩から、ほんのかすかに、本当にコンマ数ミリだけ、こわばりが抜けたのがわかった。 「賢明なご判断でございます、凛花お嬢様。……では、ご案内いたします」  黒瀬が半身をずらし、出口への道を空ける。  私は彼の方へと歩き出し、すれ違いざまに、もう一度だけ背後の焼けた扉を振り返った。  そのとき。  私の目は、薄暗がりの中で、ある「決定的な違和感」を捉え、頭に焼き付けた。  黒く炭化し、熱で歪んだ木製の扉。  けれど、その扉に取り付けられている真鍮の「錠前」と「蝶番(ちょうつがい)の金具」だけが。  異常なほど新しく、輝いていたのだ。  古い焼け跡であるにもかかわらず、その金具の表面には、金属用のヤスリか何かで削られたような、細かい無数の傷が新しい光を放っている。  火事の後に、錠前だけが付け替えられた?  いや、違う。  広報の仕事で、改ざんされた書類を何度も見て
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第62話 花嫁たちの噂①

 温室の熱気と湿気を背中に振り切り、私は早足で屋敷の廊下を進んだ。  自室の重い扉を閉め、鍵を持たないその部屋で、内側からドアノブを両手で強く握りしめた。  心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされている。  ドレスの裾にべっとりと張り付いた黒い土の重みと、手袋を濡らした結露の冷たさが、私がたった今まであの狂気の箱の底にいたことを証明していた。  洗面台へ向かい、手袋を乱暴に外す。  蛇口をひねり、氷のように冷たい水で両手を何度も洗い流した。あの甘すぎる白い花の香りと、灰のかすかな匂いが、皮膚の奥深くまで染み込んでいる気がしたからだ。  水滴をタオルで拭き取りながら、鏡に映る自分の顔を見る。  青ざめているが、瞳孔だけは奇妙なほどに澄んで、鋭い光を放っていた。  黒く炭化し、熱で歪んだ木製の扉。  それから、その扉に取り付けられていた真鍮の錠前と蝶番の金具。そこにあったはずの製造番号や刻印を、ヤスリで執拗に削り落とした無数の新しい傷。  火災という過去の惨劇そのものよりも、その「不都合な記録を物理的に削り取った」ように見える痕跡が、私の中の広報としての感覚を鋭く刺激していた。  誰かが、必死に隠している。  隠さなければならない事実が、あの焼けた扉の向こう側に、あるいはあの温室の成り立ちそのものに存在しているのだ。  私はドレスを着替え、汚れた衣服をランドリーボックスの底に隠した。  深呼吸をして、部屋の空調の音に耳を澄ませる。  過去の花嫁たち。  美津子は彼女たちが「心を病んだ」あるいは「不幸な事故に遭った」と言った。  けれど、記録を意図的に削り取るような人間たちが用意する「病気」や「事故」という言葉を、そのまま信じるほど私はもう素直ではない。前世の職場でも、不都合な出来事は、本人の弱さや不注意として処理されてきた。  個人を病人に仕立て上げれば、その人間が何を訴えても「精神的な幻覚」や「被害妄想」として、合法的に揉み消すことができる。  それが、圧倒的な権力を持つ組織の常套手段だ。  午後二時。  私は私室の扉を少しだけ開け、廊下の様子を窺っていた。  階下の玄関ホールから、いつもとは違う、見慣れない足音と低い話し声が聞こえてきたからだ。  黒瀬の声と、もう一人、少し年配の男性の声。  私は音を立てずに
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第63話 花嫁たちの噂②

 過去の花嫁たちが「心を病んだ」として処理されたのなら、当然、医師の診断書や処方箋が存在したはずだ。この屋敷の内部で全部を完結させるためには、外部の病院に連れ出すよりも、こうして抱え込んでいる主治医に「適切な病名」をつけさせる方がはるかに確実だ。  私は手すりから離れ、一階へと降りた。  主治医が応接室に入っている間、彼についてきた助手か、あるいは応接室にお茶を運ぶ使用人たちの間で、何らかの会話が交わされるかもしれない。  東翼の廊下の角。  太い大理石の柱の陰に身を潜め、私は給湯室へと続くバックヤードの扉に神経を集中させた。  透が「風説を流せば解雇する」という通達を出して以来、使用人たちの私語は極端に減った。だが、外部の人間が介入するイレギュラーなタイミングでは、必ずどこかに気の緩みやノイズが生じる。  カチャリ、と給湯室の扉が開き、二人の若いメイドが出てきた。  手にはティーセットの載ったトレイを持っている。 「……また、あの先生がいらしたのね」  一人のメイドが、声をひどく潜めて囁いた。 「奥様のご体調なんて、建前でしょうに。……新しいお嬢様も、そろそろ『あのお薬』を飲まれるようになるのかしら」  私の鼓膜が、その言葉を鋭く捕獲した。  あのお薬。  その短い呼び方の中に、屋敷の人間だけが共有する、ぞっとするほど慣れた響きがあった。 「やめなさいよ。透様の通達、忘れたの?」  もう一人が、慌てて周囲を見回しながらたしなめる。 「わかってるわよ。でも……だって、前のお二人もそうだったじゃない。先生がいらっしゃるようになってから、急にお部屋から出られなくなって……」 「しっ! 誰かに聞かれたらどうするの」  ティーカップがカチャカチャとほのかに鳴る。 「一人目の方は、そもそも最初から……ええと、お身体が弱かったんでしょう? 階段から落ちて亡くなられた時だって、目眩が原因だっていうお話だったし」 「でも、二人目の方はお元気だったわよ。それが、あのお薬が増えるにつれて、夜中に廊下をうわごとを言いながら歩き回られるようになって……最後は、ご自分でお部屋の窓から……」  メイドの言葉は、急に背後から現れた別の使用人の足音によって、断ち切られた。  二人は慌てて口をつぐみ、逃げるように応接室の方へと去っていった。  柱の陰で、
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第64話 花嫁たちの噂③

 美津子が「心を病んだ」「事故に遭った」とまとめていた事象の、いやにはっきりした輪郭。  彼女たちは、突発的な事故で消えたのではない。  もし噂が事実に近いなら、彼女たちは、この屋敷に呼ばれた主治医の『薬』と、美津子の静かな圧力によって、少しずつ「おかしくなった人」として扱われていったことになる。  それから、狂ってしまった人間の言葉を、誰も信じない。  彼女たちがどれほどこの屋敷の異常性を訴えても、外部の人間には「薬物による錯乱」か「被害妄想」としか映らない。完璧な隠れ蓑だ。  契約書の第六条。 『精神的失調、失踪、死亡により婚約継続困難となった場合』。  この免責事項は、単なる万が一の備えではないのかもしれない。少なくとも、精神的失調や事故という言葉で人を退場させるには、あまりに都合よくできている。  自分の足が、小刻みに震えているのがわかった。  このままここにいれば、いずれ私もあの主治医の診察を受けさせられ、口当たりの良いハーブティーかスープの中に『薬』を混ぜられる日が来る。  そして私が幻覚を見て取り乱せば、美津子は悲しげな顔をして「やはりこの子も、重圧に耐えられなかったのね」とため息をつくだけだ。  私は震える両膝に力を込め、柱の陰から抜け出した。  自室へと戻る階段を、一段飛ばしで駆け上がる。  証拠が要る。  噂話や使用人のささやきだけでは、この家に染みついた隠蔽の壁は崩せない。  客観的な記録。彼女たちがいつから薬を盛られ、いつこの屋敷から消されたのかという、明確な「日付」のデータ。  黒瀬が管理する入室記録のバインダーからは、その期間のページがごっそりと抜き取られていた。  けれど、人間が生活の痕跡を消し去ることなど、物理的に不可能だ。  私は自室の扉を閉め、背中を押し当てた。  この広大な私室。  ここは、過去に彼女たちも寝起きしていた部屋だ。  美津子の命令によって、壁紙も絨毯も新しくされ、家具の配置も変えられ、香水の残り香一滴すら完璧に漂白されている。  それでも、彼女たちが生きていた証、あるいは自分がおかしくなっていく恐怖の中で、必死に外界へ繋ぎ止めようとした痕跡が、必ずどこかに残っているはずだ。  私はソファのクッションを引っぺがし、その裏側の隙間を指で探った。  何もない。  壁に掛け
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第65話 花嫁たちの噂④

 重い木製の扉を開け、並んでいる真新しいドレスを両腕でかき分ける。  クローゼットの一番奥、ベニヤ板が張られた暗い壁面。  私はスマートフォンのライトを点灯させ、その平坦な木の表面を舐めるように照らし出した。  木目は綺麗だ。埃一つない。  けれど、私はその壁面に頬が触れるほど顔を近づけ、光の角度を斜めに変えてみた。  光の加減が変わった瞬間。  私の心臓が大きく跳ね上がった。  クローゼットの奥の、膝ほどの高さの壁面。  そこには、インクや鉛筆で書かれたものではない、何か鋭利なもの――硬貨の縁か、あるいは爪の先――で、木の表面を執拗に引っ掻いて刻み込まれた、無数の小さな傷跡があった。  清掃員が水拭きしたくらいでは消えない、木材の繊維を断ち切るほどの深い物理的な溝。  私はライトを口に咥え、震える指先でその傷跡の凹凸をなぞった。  ただの傷ではない。  それは、文字と数字の羅列だった。 『10/14 ねむれない』 『10/18 くすりがふえた』 『10/25 あたまがしろい くろせがみている』 『11/3 ドアがあかない』  指先から、冷たい氷の棘が血管を通って全身に広がっていくような感覚がした。  狂気に侵されていく頭で、自分がまだ正気を保っていることを証明するために、あるいは日付の感覚を失わないために、暗闇の中で必死に刻み込んだ血の滲むような記録。  最後の方の文字はひどく乱れ、意味を成さない直線の引っ掻き傷に変わっている。  それから、最も壁の隅に近い部分に、最後の日付が深く、えぐるように刻まれていた。 『11/12 あのこがきた もうおわり』  十一月十二日。  私はその数字の羅列から指を離し、床にへたり込んだ。  息が荒くなる。肺が空気を求めて激しく上下する。  黒瀬が隠し持っていた入室記録のバインダー。あの不自然に抜き取られていた空白のページが、いつからいつまでの期間だったのかは見ていない。  けれど、今、私は「日付」という確固たるデータを手に入れた。  これは、誰かが口頭で語った噂ではない。美津子が加工した筋書きでもない。  過去の死者が、この部屋の片隅に物理的に残した、完全な「一次情報」だ。  十一月十二日。この日付の前後で、この屋敷の外部、あるいは天野グループの内部で、何か『病気』や『事故
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第66話 水科家からの手紙①

 指先の爪の間には、まだかすかに黒い木の繊維が挟まっている気がした。  クローゼットの一番奥、暗闇に閉ざされたベニヤ板の壁。そこに狂気を振り払うように刻み込まれていた、無数の傷跡と『11/12 あのこがきた もうおわり』という文字。  ベッドの上で身を起こし、両手を目の前にかざす。  石鹸で何度も執拗に洗い流した肌は、朝のひやりとした空気の中で青白く透き通っていた。  過去の死者が物理的に残した、明確な日付。  あの数字の羅列を手に入れたことで、私の頭の中のボードには、ぼんやりとしていた美津子の『排除の仕組み』の輪郭が、太く黒い線で描かれ始めていた。  十一月十二日。  この日付の前後で、この屋敷の外部、あるいは天野グループの内部で、何か『病気』や『事故』として公式に処理された記録が必ず存在している。あの傷を刻んだ『彼女』の存在を、この世界から正式に消去するための手続きが。  ベッドサイドの時計を見る。午前七時半。  分厚い遮光カーテンの隙間から差し込む光が、今日もこの屋敷が狂いなく、決められた手順通りに一日を始めることを告げている。  私はシルクのガウンを羽織り、洗面台の氷水で顔を洗った。  タオルで水滴を拭き取り、鏡の中の自分を見つめる。  青ざめてはいるが、瞳の奥の光は濁っていない。自分が今、逃げ場の少ない密室の中にいることを、はっきりと自覚できている。  コン、コン。  八時ちょうど。正確無比なタイミングで、部屋の扉が二回叩かれた。 「……入ってちょうだい」  扉が音もなく開き、千尋が銀色のドーム型の蓋が載った朝食のワゴンを押して入ってきた。  彼女の視線は、昨日と同じように伏せられ、絨毯の模様だけを追っている。透が出した厳しい箝口令の通達は、まだ彼女たちの肩に重くのしかかっているようだ。 「おはようございます、凛花お嬢様。本日のご朝食をお持ちいたしました」  千尋は手際よくテーブルにクロスを広げ、カトラリーと皿をセットしていく。  ふと、私の視線がワゴンの下の段に止まった。  リネンナプキンの横に、ぽつんと一つ、白い長方形の紙の束が置かれている。 「千尋さん。それは?」  私が顎でしゃくると、千尋はハッとしたようにワゴンの下段に手を伸ばした。 「申し訳ございません。今朝、水科の当主様より……お嬢様宛に、お手紙
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第67話 水科家からの手紙②

 私は便箋を開き、父の震えるような字の列に視線を落とした。 『凛花へ。  天野家での生活には、もう慣れた頃だろうか。  昨日、美津子様より、大変ご丁寧なお手紙と、天野家からの第一回の融資実行の通知を受け取った。長年の我が家の負債が肩代わりされ、これで水科の家名を守り抜くことができる。お前には苦労をかけるが、すべてはお前が天野家に入ってくれたおかげだ。父として、安堵している』  冒頭の数行を読んだだけで、胃の奥に冷たい鉛のような重さを感じた。  安堵している。  父は私がこの異常な屋敷でどのような空気を吸い、何を強いられているのか、想像する気すら少しもない。ただ、自分の首を絞めていた借金という縄が外されたことだけに狂喜し、私という小切手の換金が無事に完了したことを喜んでいる。  視線を次の段落へと滑らせる。 『ただ、美津子様のお手紙には、お前の様子について少し気がかりなことが書かれていた。  環境の変化のせいか、お前が夜な夜な一人で泣いており、少し精神的に不安定になっているようだと。美津子様は「当家で責任を持って、凛花さんのお心が休まるようお預かりいたします」と仰ってくださっている。  凛花。お前は天野家という巨大な船に乗せていただいた身だ。  決して出しゃばらず、美津子様の御心に沿うように努めなさい。少しの寂しさや不安は、我慢して飲み込むのだ。  お前が波風を立てて、万が一にもこの縁談に傷がつくようなことがあれば、水科家は終わる。  お前は水科の娘として、大人しく、耐え忍ぶことだけを考えなさい』  便箋を持つ手がガタガタと小刻みに震え始めた。  息が止まりそうになる。  手紙の文面を追うごとに、私の周囲の空気が急速に薄くなっていくような錯覚がした。  美津子は。  あの女は、あのサロンで招待客たちに「凛花は毎晩泣いている」という嘘の筋書きを植え付けただけでは飽き足らず、すでに水科家にまで、その筋書きを「公式な事実」として送り込んでいたのだ。  完璧な、外堀の埋め方。  これで、もし私が「助けてほしい」「この屋敷は異常だ」と実家にSOSの手紙を送ったとしても。  父は私の言葉など一文字も信じないだろう。 『ああ、美津子様の仰っていた通り、重圧で心を病んでしまったのだな』と処理し、むしろ天野家の機嫌を損ねないために、私からの手
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第68話 水科家からの手紙③

 同じだ。 前世で勤めていたあの会社も、この水科家も。 父の『大人しく耐え忍べ』という言葉は、課長の『話を複雑にしないでくれ』とまったく同じ重さで、私の首を絞めにかかっている。 家は、私を守らない。 親でさえ、自分の保身と面子のために、娘が精神的に殺されていくのを見て見ぬふりをする。 視界が、真っ赤な怒りで明滅した。 便箋を強く握り込みすぎて、紙がクシャッと無惨な音を立てて折れ曲がる。 このまま、私が主治医の得体の知れない薬を飲まされ、幻覚を見て窓から飛び降りたとしても。 父はきっと、私の葬儀の席でハンカチを顔に当てながら、「娘は心が弱かったのです」と美津子に頭を下げるのだろう。 そして、契約書の第六条――『死亡により婚約継続困難となった場合、甲は水科家への債務弁済請求権を放棄する』という免責事項によって、水科家の借金は帳消しになる。 全員が、私の死によって救われるのだ。 私というたった一人の人間が、この屋敷のからくりの中で消費されることによって。「……ふざけないで」 掠れた、けれど低い声が、私の唇を突いて出た。 私は、折れ曲がった便箋をテーブルの上に乱暴に叩きつけた。 カチャリとティーカップが音を立て、琥珀色の紅茶がソーサーに数滴こぼれる。 膝の震えは、すでに止まっていた。 絶望で鈍っていた感覚が、怒りによって少しずつ熱を取り戻していく。 私は、誰かのために消費される小切手ではない。 家を守るために用意された、便利な人柱でもない。 退路がないなら、それでいい。実家という安全地帯など、最初から存在しなかったのだとわかっただけだ。 私は立ち上がり、クローゼットへと向かった。 靴箱の裏から革張りのメモ帳を引きずり出し、ペンを握る。 ペンの軸を握る指先には、確かな熱が通っていた。『記録日 朝。水科の父より手紙』『内容:第一回の融資実行の報告。美津子からの「凛花は毎晩泣いている」という事前通達を事実として受け入れている』『父からの要求
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第69話 生き延びるだけでは足りない①

 最後に残ったトーストの欠片を、冷たくなった紅茶で胃へと流し込む。 パサパサとしたパンが喉をこすり、飲み込むたびにほのかな痛みが走った。それでも、私は皿の上を空にし、ナプキンで口元を拭った。 コン、コン。 控えめなノックの後、千尋がワゴンを下げるために部屋へ入ってきた。「……お食事、お済みでいらっしゃいますね」 彼女は空になった皿を見て、かすかに安堵したような息を漏らした。 美津子が作った「毎晩泣いて食事も喉を通らない娘」という筋書きに反して、私が完食していることへの戸惑い。そして、食べ残しという余計な異常を報告しなくて済んだことへの安堵。 使用人である彼女たちにとって、この屋敷で最も恐ろしいのは、決められた日課に波風が立つことだ。「ごちそうさま。とても美味しかったわ」 私は、血色の悪さを隠すように整えた微笑みを千尋に向けた。 彼女は深く頭を下げ、逃げるようにワゴンを押して退室していく。 カチャリと扉が閉まる音。 その音が遠ざかるのを待ってから、私はすぐに立ち上がり、部屋の奥の巨大なクローゼットへ向かった。 重い木製の扉を引き開け、並んだドレスの群れをかき分ける。 一番奥の、光の届かない暗がり。 ひやりとした床に膝をつき、ベニヤ板の壁面に彫り込まれた無数の傷跡を、もう一度指先でなぞった。『11/12 あのこがきた もうおわり』 過去の死者が、正気を失いかける中で必死に書き残した日付。 私は靴箱の裏から革張りのメモ帳を引き出し、この数日間に書き留めた情報の断片を、一つずつ並べ直した。 第一の点。 婚約契約書の第六条。私が精神的失調、失踪、死亡に至った場合、水科家の借金は帳消しになる。これは、婚約者が「退場」しても天野家も水科家も困らないための仕組みだ。 第二の点。 書庫の入室記録の不自然な空白と、極端に摩耗した一本の鍵。誰かが過去の花嫁たちの存在を、屋敷の公式記録から消そうとしている。 第三の点。 給湯室で聞いたメイドたちの噂。『あのお薬』が増えるにつ
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第70話 生き延びるだけでは足りない②

 天野家には、傷がつかない。  私はメモ帳を握る手に力を込めた。革の表紙がギリッと小さな音を立てる。  前世の教室の記憶が、ふいに脳裏をよぎった。  ――少し我慢して、おとなしくしていれば、みんなすぐ飽きるから。  担任の神崎は、そう言って私を黙らせた。  私はその言葉を信じて、波風を立てずに息を潜めることだけを生存戦略だと思い込んだ。  結果はどうだったか。  私は非常階段のひやりとした鉄の手すりを越え、名もない赤ん坊として短い二度目の生を終えた。  黙って耐えるだけでは、生き延びたことにならない。  ただ、壊される順番を待っているだけだ。  胸の奥に残っていた古い教えが、そこでようやく剥がれた。  ここでも同じだ。  美津子の作った筋書きに乗り、ただこの屋敷で生き延びようと息を潜めているだけでは、絶対に足りない。  おとなしくしていれば、いずれ主治医が呼ばれる。  スープや紅茶の中に薬が混ぜられ、私の思考は泥のように濁っていくだろう。  それから、私が幻覚を見て取り乱せば、使用人たちは「やはり奥様のおっしゃる通りだった」と納得し、私はあの「誰も座らない席」に続く女として処理される。 「……冗談じゃない」  暗いクローゼットの中で、私は低く呟いた。  そのとき、透の顔が脳裏に浮かんだ。  信じるな、と私を突き放した声。  噂を止めたくせに、天野家の体面を守っただけだと言い張った横顔。  この人は、私を傷つけている。  けれど、少なくとも、私を死なせたい人ではないのかもしれない。  そう思ってしまう自分が、悔しかった。  だからこそ、透に縋ってはいけない。  彼が何を隠しているのかも、どこまで美津子に縛られているのかも、まだわからない。彼の優しさだけを信じて目を閉じれば、それはまた、誰かの言葉に自分の命を預けることになる。  透を疑いたいわけじゃない。  むしろ、彼が言えずに飲み込んでいるものを知るためにも、私は外の目が必要だった。  彼の言葉の通り、口にした人間だけを追っても、この家の筋書きには届かない。  誰が最初に形を与え、誰に聞かせるために整えたのか。そこまで辿らなければ、また私は切り取られる。  調査しなければならない。  過去の花嫁たちに何があったのか。あの温室の火災が誰の人生を狂わせたのか。
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