「お答えいたしかねます。凛花お嬢様、今すぐご自室へお戻りください」 「もし、戻らないと言ったら?」 私は顎を上げ、彼に向かって一歩だけ足を踏み出した。 「力尽くで、私をここから引きずり出すつもり?」 黒瀬は動かなかった。 ただ、彼の瞳の奥にある「澱み」が、深海のように濃く暗く沈んでいくのを、私は見た。 「……必要とあらば」 ひどく低い、擦れた声だった。 「あそこへ入る前に、私が止めます。……必要なら、力ずくでも」 空気が、凍りついた。 温室の息苦しい熱気の中で、彼から放たれる冷気だけが、私の首筋に冷たい刃を突きつけている。 彼は本気だ。 これ以上進めば、彼は本当に物理的な手段を使ってでも私を止める。 けれど、その強烈な殺気にも似た気迫の裏側で、彼の握りしめられた両手がかすかに震えているのを私は見逃さなかった。 怒りではない。 彼がこれほどまでに私を止めるのは、美津子の命令を守るためだけじゃない。 これ以上進めば、私が過去の彼女たちと同じように、取り返しのつかない形で「消される」ことを知っているからだ。 彼は私を止めることで、私を生かそうとしている。透が今朝、強引な通達で私を守ろうとしたのと同じように。 「……わかったわ」 私は深く息を吐き出し、両手を身体の脇に下ろした。 「今日は、これ以上進むのはやめておくわ」 黒瀬の肩から、ほんのかすかに、本当にコンマ数ミリだけ、こわばりが抜けたのがわかった。 「賢明なご判断でございます、凛花お嬢様。……では、ご案内いたします」 黒瀬が半身をずらし、出口への道を空ける。 私は彼の方へと歩き出し、すれ違いざまに、もう一度だけ背後の焼けた扉を振り返った。 そのとき。 私の目は、薄暗がりの中で、ある「決定的な違和感」を捉え、頭に焼き付けた。 黒く炭化し、熱で歪んだ木製の扉。 けれど、その扉に取り付けられている真鍮の「錠前」と「蝶番(ちょうつがい)の金具」だけが。 異常なほど新しく、輝いていたのだ。 古い焼け跡であるにもかかわらず、その金具の表面には、金属用のヤスリか何かで削られたような、細かい無数の傷が新しい光を放っている。 火事の後に、錠前だけが付け替えられた? いや、違う。 広報の仕事で、改ざんされた書類を何度も見て
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