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待ち続けた先に君は のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

18 チャプター

第1話

結婚して4年。周防律人(すおう りつと)の口癖は、いつも「待って」だった。旅行に行きたいと言うと、彼は「プロジェクトが終わるまで待って」と言う。結婚記念日を祝いたいと言うと、「会議が終わるまで待って」と言う。実家に両親の顔を見に行きたいと言っても、「次の休みまで待って」と言う。しかも今日は、私・周防汐里(すおう しおり)の誕生日だった。半月も前から、夜に時間を空けられるか彼に確認していた。彼からは大丈夫だと返事をもらっていたので、私は午後をかけて彼の好きな料理を作り、帰りを待っていた。けれど、夕方6時から夜9時を過ぎても、彼が戻る気配はない。そのとき、テレビで今日のニュースが流れた。「周防グループ社長が、雨の中『初恋の人』をお迎えしています!2人に復縁疑惑が浮上!」聞き覚えのある名前に、反射的に顔を上げた。そこには、傘を差し出し、薄着の女をしっかりと抱き寄せている彼の姿があった。ビルからマイバッハまでは目と鼻の先だ。それでも彼は、彼女が濡れないように傘を大きく傾け、自分の肩をずぶ濡れにしていた。スマホがラインの通知音を鳴らした。律人からのメッセージだった。【用事があったんだ。すぐ帰る】今までもずっと待つのが当たり前だったし、いつものように食卓でじっと待ち続けるつもりだった。でも、ずぶ濡れになったスーツを見ていたら、もう待つのはやめようと、急に心が冷めた。私は1人でロウソクに火をつけ、誕生日の願い事をした。【これからの1年、私が幸せであるように】これは結婚してから4年で初めて、律人のことを願わなかった誕生日の願いだった。これまではいつも、律人と一生添い遂げられますようにと願っていたのに。今はただ、自分の幸せだけを考えていた。ロウソクを吹き消すと、ケーキにフォークを入れる。ブルーベリー味。律人が好きな味だ。自分の誕生日でさえ、全部彼の好みを優先してきた。口に入れた瞬間、どうしても馴染めない酸味が広がった。嫌いなものは、無理に好きになれるはずもない。ケーキも、彼自身も。いくら慣れようとしても無駄だったのだ。私はチケット予約サイトを開き、今夜、実家へ向かう最終の寝台列車を予約した。結婚してからは、一度も実家に帰っていない。帰りたいと言うたびに彼は「忙しい。時間
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第2話

律人から着信があった時、私はすでに列車に乗っていた。真夜中の微睡みの中、スマホの着信音に叩き起こされた。「……もしもし?」声が掠れてしまった。受話器の向こうは一瞬沈黙したのち、聞き慣れた彼の声がした。「家にいないのか?」ぼんやりしていた頭が一気に冴えた。スマホの画面を見ると、深夜2時を示していた。彼は相原千夏(あいはら ちなつ)を送り届けるだけで、深夜2時までかかったのか。この時、私は皮肉にもホッとしてしまった。彼を待ち続けるような愚かなことはせず、本当に良かったと。「うん。実家に向かう列車の中よ」「実家?どこの……」そこで律人は、私の言う「実家」が、あの冷え切った高級マンションのことではなく、私を産み育てた南部の地方にある実家だと気づいたらしい。「どうして急に。この前、話したばかりだろ?」彼の声は低く、戸惑いが隠せない様子だった。彼の言う「この前」とは、母から電話があった1ヶ月前のことだ。母は私に、律人を連れて実家へ誕生日のお祝いに来てほしいと、控えめに頼んできたのだ。両親はもう何年も、私の誕生日を祝えていないから、と。私が困らないように、律人が仕事で忙しいのなら構わない、無理にとは言わないからと言い添えて。だが、話の端々から寂しさが滲んでいた。私は泣きそうなのを堪えて、律人に、一緒に実家へ帰れないか尋ねた。彼はこめかみを押さえ、ひどく疲れた様子だった。「汐里、最近仕事が忙しすぎるんだ。落ち着いたら、実家に帰るのに付き合うから」彼の目の下の濃い隈を見て、それ以上は何も言えなかった。しかしその後、偶然SNSで千夏の投稿を見つけた。【忙しい中、無理して登山に付き合ってくれた彼に感謝!モヤモヤした気持ちが晴れた!】そこには、山頂で明るく笑う彼女の写真が添えられていた。画像の右下には、手首の一部が写り込んでいる。4年間毎日顔を合わせていた私は、それが律人の手であると即座にわかった。律人は、千夏が必要としている時なら、48時間ぶっ通しで働いた後でも時間を作って駆けつけるのだ。私に対しては、いつも「待たせる」ことしかしないのに。私は車窓の外を見た。闇夜の中で絶え間なく流れていく山影を眺めながら、静かにつぶやいた。「ただ、家に帰りたくなっただけ」いつ帰っても、
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第3話

返事も待たず、そのまま電話を切った。言葉にした瞬間、胸の奥で重くつかえていた岩のような塊が、すっと取り除かれた気がした。スマホの電源を落とし、横になった。列車の走る音が大きすぎて、寝返りを打ってもちっとも眠れない。「ごめんなさい。少し、いいですか」と、甘い声が上から聞こえてきた。見上げると、上段には18歳か19歳くらいの少女がいて、興味津々といった様子で私を覗き込んでいる。「さっき、離婚の話をされていて。盗み聞きするつもりじゃなかったんです。ただ、寝付けなくて」と、彼女は慌てて手を振って釈明した。彼女の瞳にある戸惑いは嘘ではないようだ。それどころか、奥の方には同情さえ滲んでいた。「私、大学でメディアを専攻しているんです。結婚をテーマにした課題に取り組んでいるのですが、差し支えなければ少しだけお話を聞かせていただけませんか?」カバンから学生証を取り出し、差し出した。そこには「安藤柚葉(あんどう ゆずは)」という名前が書かれていた。その期待に満ちた眼差しに、私はついインタビューを承諾した。寝台列車の個室には、私たち2人しかいなかったので、彼女はベッドを降りて私の向かい側に腰を下ろした。私の指にある指輪に気づき、彼女は驚きの声を上げた。「この指輪、4年前にサザビーズのオークションで謎の買い手が落札したってニュースで見ました!まさか、その買い手が……旦那さんだったんですか?大金を出して指輪をプレゼントしてくれるなんて、旦那さんはあなたのことを大切に思っているはずですよね。なのに、なぜ離婚なんて?」柚葉の純粋な疑問に、私は指輪を外し、静かに語り始めた。「この指輪……もともとは、私への贈り物ではなかったんです」私と律人は、住む世界がまったく違っていた。大学時代、彼は誰もが知る「周防グループ」の跡取りとして有名だった。雲の上の存在であると同時に秀才で、おまけにあのルックスだ。彼に憧れる女子は数えきれないほどいた。対して私は、地方の片田舎から自分の力だけで勉強して東都中央大学に入った、何の変哲もない学生。私と律人が出会ったのは、ある些細な出来事がきっかけだった。講義に遅れまいと教科書を抱えて歩いていた時、飛んできたバスケットボールが不意に私の肩を直撃した。その衝撃で教科書が散らばり、痛みで動けな
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第4話

驚きよりも先に、彼が私のことを覚えていてくれたことに驚いた。以前、彼に助けてもらって以来、学校で顔を合わせることはあったけれど、挨拶をする程度の仲だった。その後彼が海外へ行ってしまい、もう会うことはないと思っていたから、きっと忘れているだろうと諦めていた。気づくと、心臓が痛いくらい激しく高鳴っていた。何がどうなってこうなったのかは分からない。でも、彼と結婚できるなんて、夢にも思っていなかった幸運だ。「はい」ヘアメイク中に、律人の本来の婚約者が式場から逃げ出したことを人づてに聞いた。彼女は【結婚して夢をあきらめたくない。海外に行って挑戦したい】と書き置きだけを残して姿を消したという。名門の周防家にとって、式の当日に花嫁がいなくなるなんて大失態。家としても許されるはずがない。私はただ、穴埋めとして選ばれただけの存在だった。それでも、私は結婚式の壇上に立つことを選んだ。指輪交換の時、本来の花嫁のために用意されていた指輪は、明らかに私の指には大きすぎた。律人は一瞬驚いた顔をしたが、私にこう約束した。「申し訳ない。式が終わったら、新しいものを買ってあげる」私は小さく、「大丈夫です」と答えた。そうして私は、私の指には合わない指輪をはめ、私を愛さない人と結婚したのだ。それから結婚生活は4年続き、私は4年待ち続けた。妻として相応しいジュエリーも、パーティー用のドレスも、高級なバッグも揃ったけれど……彼が約束してくれたはずの、私の指にぴったり合う新しい指輪が来ることは一度もなかった。「ええっ?ずっと旦那さんに片思いしてたんですか?しかも、花嫁に逃げられた彼のために式に出たなんて」私がこれまでの経緯を話し終えると、柚葉は怒りを隠しきれない様子だった。「旦那さん、ひどすぎますよ。新しく買ってくれるって言っておいて忘れっぱなしだなんて。あなたは彼のピンチを救ってあげたのに!」私は手のひらの中で輝く、今の自分には大きすぎる指輪を見つめた。わざと忘れているのか、それともかつての恋人である千夏が残したものだから手放せないのか、もう聞く気も起きない。視線を逸らし、私はそっとその指輪をポケットにしまった。4年間、サイズが合わないせいで落ちないように気を使うのも疲れた。もう、気にする必要もなくなった
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第5話

千夏が帰国したことを知ったのは、なんてことのない普通の日だった。私は律人と、夜に食事の約束をしていた。午後は特に予定がなかったから、早めに彼の会社へ行って、仕事が終わるのを待っていた。結局8時を過ぎても、律人は戻らなかった。約束の時間を大幅に過ぎていた。社長室は、ずっと閉まったままだった。秘書に尋ねると、午後から重要な客人が来ているのだという。周防グループのトップとして、取引先との面談があるのは珍しいことじゃない。私は気にせず、そのまま休憩室で彼を待ち続けた。秘書が何か言いたげな目をしていたことにも気づかずに。ようやく社長室のドアが開いたのは、夜の9時のことだった。中から出てきた「客人」を見た瞬間、心が少しずつ沈んでいった。千夏だった。彼女が戻ってきたのだ。律人はふと時計を見て、いつものようなすまなさそうな顔をした。「悪い、こんなに待たせてしまったな」律人は少し体を寄せると、彼女のことを紹介した。「千夏だよ、俺の……」律人は言葉を切り、「友達だよ」と付け足した。千夏はウェーブがかった髪をかき上げると、にっこり笑って私に手を差し出した。「はじめまして。汐里さん、ですよね?律人からお話は聞いています。ごめんなさい、律人とは2年ぶりで。つい話が弾んで、こんな時間まで。ずいぶんお待たせしてしまいました」私は律人の隣に立ち、明るく堂々と微笑んで挨拶するその女を見た。初めて気づいてしまった。「待つ」という時間が、これほど耐えがたいものだったなんて。結婚して1年あまり、いつも彼が終わるのを待ちに会社へ来ていた。でも毎回、私が居たのはあくまで休憩室だ。彼の社長室に足を踏み入れたことは一度もない。ましてや千夏のように、中で2人きりで過ごしたことなんて。律人はいつも言っていた。「仕事とプライベートは別物だ」と。社長室はあくまで仕事をするだけの場所だと。でもその時、思い知らされた。厳しいはずの律人のルールにも、例外はあるのだと。ただ、その例外に私は入っていないということだけだ。千夏は窓の外を眺め、嬉しそうに提案した。「律人、せっかくだから3人で食事に行かない?昔、私たちがよく行っていたイタリアンのお店にしましょうよ」律人は頷いた。「ああ」そう答え
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第6話

律人と結婚して1年以上経ち、日常の中にはときどき温かい瞬間も増えてきた。料理の注文で同じメニューを同時に言って2人で笑い合ったり、食事会で羽織るスーツを彼が掛けてくれたり、朝の額への軽いキスだったり。そんな小さな出来事の積み重ねで、私は自分に言い聞かせていた。律人は、私に心を開き始めたんだって。すべては、あのイタリアンでの食事までの話。律人は千夏に何を食べたいか聞くこともせず、手慣れた様子で7、8品もの料理を次々と注文した。最後には忘れずに、こう付け加える。「アラビアータは、かなり辛めで」千夏は彼と向き合い、頬杖をついてじっと彼を見つめていた。店員が去った後、千夏は口元を少し緩めて微笑んだ。「私の好み、覚えていてくれたのね」律人はゆっくりとナプキンを整えていたが、その言葉に一瞬動きを止めた。しかしすぐに平然と返した。「汐里ともここへ来たことがある。どれもここの名物で、味が良かったから覚えていたんだ」彼は嘘をついた。彼が私とここへ来たのは、確かに一度だけ。注文した料理も、全く同じものだった。しかし、あの夜帰宅したあと、彼がひどい胃腸炎に苦しんでいたことを私ははっきり覚えている。彼は本来、辛いものなんて全く食べられない人だ。「そうなんだ……」千夏は尾を引くような声で言った。「あなた、昔は辛いのが苦手で、いつも私が食べているのを横で見ているだけだったのに。この1年で味覚が変わっちゃったのね」ちがう。その瞬間、私は悟った。律人は何一つ変わっていない。彼の心にある大切な人のことも、好みの味付けも。その後、何を食べても味がしなかった。千夏は、楽しげに海外での学生時代の話を律人に語っていた。私は隣で、まるで存在感のない傍観者のように、2人の青春の話を聞かされていた。たとえ今、律人の妻が私であっても。食後、私と律人を家まで送るため、運転手が迎えに来た。律人は、まず千夏を送り届けると提案した。彼女はそれを断り、1人で帰ると言った。律人はそれ以上強引に勧めなかった。ただ、車に乗り込んでからすぐには出発させなかった。彼は車内から、静かに通りに立つ千夏の姿を見つめ続けていた。千夏の前にタクシーが止まったのを確認すると、ようやく発進を指示し、シートにもたれて目を
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第7話

手術室から出てきた時、律人は私のベッドのそばから一歩も離れなかった。普段は几帳面な彼なのに、ネクタイは曲がり、真っ白なシャツには血の痕が点々と付着していた。いつも静かに私を見つめていたその瞳には、拭いきれない痛みが滲んでいた。彼はそっと目を閉じ、掠れた声で言った。「汐里、ごめん。お前だと気づかなかった」私は顔をそらし、初めて彼に応えなかった。丸7日間、私は一言も口を開かなかった。彼を恨んでいるのか?多分、そうかもしれない。彼があんなことをしなければ、私はあの子を失わずに済んだ。それ以上に、自分自身が憎かった。もっと早く妊娠に気づいていれば、彼を助けようなどとはしなかったのに。律人も罪悪感を抱いていたのだろう。仕事が一番だったはずの男が、毎日休まずに病院へ来て付き添ってくれた。それでも私は、口を閉ざしたままだった。ある日の深夜、夢を見た。二つ結びの小さな女の子が、駆けてきて私にしがみつく夢だ。「ママ、泣かないで。また帰ってくるからね」目が覚めると、枕が涙で濡れていた。翌日、律人が病室にやってきた時、私は7日ぶりに初めて口を開いた。「家に帰りたい」それ以降、私たちは互いに暗黙の了解で、あの子の話は一切しなくなった。私も、千夏のことを問い詰めることはなかった。何もかもが今まで通りであるかのように振る舞った。ただ一つ変わったのは、彼が「仕事で忙しい」「また今度」と口にする回数が、以前より少し減ったことだった。それでも、彼がそう口にするたび。私は無意識に千夏のSNSで彼の姿を探してしまうのだった。青春時代の愛と、夢の中でのあの子との約束を支えに、私は何年も耐えてきた。そして今日、いつものように約束を破られた。私に残された僅かな愛すらも、とうとう消え去ってしまった。あの子もきっと、こんな父親のもとには戻りたくなかったのだろう。だから、私は離れる決意をした。私の話を聞き終えた柚葉は、とっくに目を潤ませていた。「私……」柚葉は声を詰まらせ、どう慰めればいいか分からないようだった。「心配しないで。このインタビュー、私のすべてを懸けて書きますから。クズ男の元夫を絶対に後悔させてやるんだから!」私のために怒ってくれる姿を見て、私は微笑み、柚葉を抱きしめた
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第8話

律人は、高給で雇ったこの優秀な秘書に対して初めて不快感を覚えた。あろうことか、自分に対してふざけた真似をするとは。彼は指先で規則正しくデスクを叩いた。これは彼が苛立っている時の癖だ。「小林さん、ここは会社だぞ」健二は泣き出しそうな顔をしていた。健二も分かっていた。だが、この茶封筒には紛れもなく離婚届が入っている。健二は唾を飲み込み、覚悟を決めて再び言った。「申し訳ありません周防社長。しかし……中身は間違いなく離婚届なのです」律人の動きが止まった。その表情には、珍しく戸惑いが見えた。離婚届?汐里が海鳴市から送ってきた荷物が離婚届だと?そんなはずがあるか。汐里は自分を愛しているはずだ。2人の間に不和などない。一度帰りが遅かっただけで、離婚など考えるわけがない。そこまで考えて、律人は自然と寄せていた眉間のしわを緩めた。彼は再び手元の書類に目を落とし、平静を装う。「何かの間違いだろう。これは俺宛てではないはずだ」健二は茶封筒の差出人欄を見た。海鳴市とある。間違いなければ、奥様の実家がある街だ。健二は慎重に中の離婚届を少し引き出し、署名欄に目を走らせた。そこには、周防汐里という名前が丁寧に記されていた。健二は心の中で、今日の自分の運の悪さを嘆いた。単なる届け物の受け取り係のつもりが、まさか社長夫妻の離婚話を知ってしまうとは。周防社長の反応から見て、まだ何も知らないようだ。しかし優秀な秘書として、事の次第を伝える義務がある。健二は離婚届を取り出し、震える手でデスクの上に置いた。「周防社長、どうかご自身で確かめてください」なぜか、律人の胸中に言いようのない不快感がこみ上げた。彼は傍らに置かれた薄い書類へと視線を向ける。本来、健二のおかしな行動を確認しようと思っただけだった。しかし視線が離婚届の署名欄に触れた途端、そこに記された【周防汐里】の文字が飛び込んできた!瞬間、全身が凍りついたかのように硬直する。この2日間眠れていないせいで幻覚を見ているのかと思い、一度目を閉じた。再び目を開けても、汐里のサインが書かれたその紙は、静かにそこに置かれたままだった。ようやく彼は悟った。健二は冗談など言っていなかった。海鳴市から届いたこれは、紛れもな
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第9話

律人は無意識に左手の薬指に目をやった。それは、自分の結婚指輪だった。だが、汐里の指輪はもう主を失っていた。彼は結婚指輪を離婚届の上に置き、茫然とそれを眺めていた。頭の中は混乱し、納得できない思いや焦燥感が入り乱れ……何よりも言いようのない焦りが胸を締め付けた。なぜ自分と汐里が、こうも離婚という結論に至ってしまったのか分からない。この4年間、2人の仲はずっと良好だったのではないか?それにしても、彼女の去り際はあまりにも断固としていた。顔を見せて話すことさえ、拒絶されてしまった。海鳴市に戻り、送りつけてきたのはたった1枚の離婚届と、冷え切った指輪だけだった。幼い頃から周防グループの跡継ぎとして決められていた律人にとっては、欲しいものは何でも手に入る人生だった。ほんの一瞥をするだけで、望むものはすべて目の前に運ばれてきたのだ。周防グループの正式な社長になってからは、物事はすべて自分の思い通りだった。しかし二度だけ、制御を超えたことがあった。どちらも、汐里に関することだ。一度目は、4年前の結婚式の日。千夏が式当日に逃げ出したとき、律人は汐里に自分と結婚してくれないかと尋ねた。二度目は、今日だ。汐里が離婚を切り出したことを知ったことだ。コンコン、コン。ノックの音に、現実に引き戻される。律人が言葉を返す間もなく、その人物はドアを開けて入ってきた。千夏だった。帰国してからというもの、時折こうして会社に会いに来る。最初だけは秘書の健二が案内したが、それ以降はノックをしたと思ったら許可も待たずに自分の家のように入り込み、椅子を引いて座り込むのだ。以前は、特に気に留めなかった。どうせ頻繁に来るわけでもないし、仕事の邪魔にもなっていなかったのでそのままにしておいた。だが今日は、なぜか強い不快感を覚えた。汐里のことを思い浮かべたからだ。汐里は、律人が会社に来ると、いつも静かに休憩室で終わるのを待っていてくれた。律人が社長室で働いていることを分かっており、仕事の妨げになるようなことは決してしなかった。それなのに千夏は、そうした気遣いを一度も見せたことがない。今は仕事中ではなかったからいいものの、もし会議中や重要な商談中だったとしたら?同じように何の配慮もなく入ってくるの
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第10話

結婚の際、律人は汐里に自分と結婚する意思があるか尋ねた。汐里は、自分の口ではっきりと承諾した。それなのに、なぜ今になって汐里から離婚を切り出せるのだろうか。律人は自分でも気づかないうちに、心に小さなトゲを感じていた。千夏は呆気にとられた。離婚はしないとでも言うのか?まさか、律人が汐里を好きになったとでも?いや。そんなはずはない。ここ2年、自分がメッセージを送れば、どんなに遅い時間でも疲れていても、律人はすぐに駆けつけてくれていたから。2年前、帰国した初日に泥酔した男をわざと自分につきまとわせ、律人の中での自分の立場を試した時だってそうだ。その結果には大満足していた。律人はあの頃と同じように、必死で自分をかばってくれただけでなく、偶然にも汐里を流産させる結果を招いたのだから。そのすべてが、律人の心には今も自分がいるという証拠のはずだったのに、どうして今さら汐里などという女を愛したりするのだろう。きっと、汐里が無言で離婚届に判を押したことが、彼にとってただ単に腑に落ちないだけのことだ。4年も一緒にいれば、ただのペットだって情がわくのだ。人間ならなおさらだろう。そう考え、千夏は落ち着きを取り戻した。彼女は、それ以上説得もしなかった。汐里がすでに書類を出した以上、自分が律人に本当の心に気づかせるチャンスはいくらでもあるのだから。その時、デスクの上でまばゆい光を放つ指輪に目が留まった。確かあれは、律人がサザビーズで結婚指輪として手に入れたものだったはず。「律人、この指輪まだ持っていたのね」千夏は心を弾ませて指輪を手に取り、迷わず薬指にはめた。指輪はぴったりと千夏の指に収まった。彼女は右手を上げ、得意げにそれを眺めた。「本当にかわいい。身につけられないまま去るなんて、本当に悔しかった。残っていてよかったわ」律人は千夏が指輪をはめているのを見て、少し苛立ちを感じ、取り戻そうとした。しかしその直後、彼女の言葉を聞いてその場に凍りついた。汐里がこの4年間身につけていたのは、律人が千夏のために用意したものだったのか?4年前のあの式の風景が、急にフラッシュバックした。指輪をはめた際、汐里の指には少し大きいように見えたことを覚えている。あの時自分は、後で買い直してやると約
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