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第10話

Author: 明かり
一聖の胸の奥で、何かが軋んだ。それでも、ゆっくりと藍里の手を離した。

その手が離れた瞬間、藍里の胸に引き裂かれるような痛みが走った。

一聖はやはり、まだ自分を愛しているのだろう。そう、愛さずにはいられなかった。あれほど若い頃から、二人で深く愛し合ってきたのだから。

だが今は、夏奈子に心が傾いている。

だから、夏奈子のために自分の手を離したのだ。

黙って背を向け、藍里は静かに告げた。

「三日後、区役所で会いましょう」

三日後。

長年、雪など降らなかったこの街に、突然今年初めての雪が舞い始めた。

藍里は早起きして着替えを済ませ、薄くメイクをして、マフラーをしっかりと巻き、家を出た。

信号待ちをしながら、そっと手のひらを広げた。一枚の雪の結晶が、舞い降りてくる。冷たい感触が肌に触れた瞬間、古い記憶がよみがえった。

五年前、一聖と婚姻届を出しに行った日も、こんなふうに雪が降っていた。

あの頃の藍里は、幸せに胸を膨らませて一聖に飛びついた。

「ねえ、一聖、雪よ!一緒に雪を被って頭が真っ白になれば、白髪になるまで連れ添えるって外国の言い伝えがあるみたいよ。早く出てきて、一緒に雪を浴びよう!」

一聖はそんな迷信を信じてはいなかっただろう。それでも雪の中へ足を踏み入れ、二人で抱き合い、口づけを交わしてくれた。

共に雪を浴びれば、この先も添い遂げられる……

藍里はふいに全身を震わせ、我に返った。気づけば、頬は涙で濡れていた。

あの誓いは叶わなかった。この結婚生活は、とうとう終わりを迎えたのだ。もう二人で、白髪になるまで共にいることはない。

自嘲気味に微笑み、虚ろな足取りで横断歩道を渡り始めた。

彼女は気づいていなかった。

左側から、制御を失った車が猛スピードで突っ込んでくることに。

三秒後。

鈍い衝突音が響き、凄まじい衝撃が空気を切り裂いた。

藍里の体は宙に高く舞い上がり、そしてアスファルトに激しく叩きつけられた。

どれくらい時間が経ったのか、わからなかった。意識が体から抜け出していくように目の前は真っ暗なのに、聴覚だけが異常に研ぎ澄まされ、様々な音が流れ込んできた。

人々の悲鳴、ざわめき、救急車の甲高いサイレン……

やがて、その音たちも遠く遠くへと消えていった。

静まり返った意識の中で、走馬灯のように光景が次々と浮かんでは流れた。心の奥底に刻まれた、一番大切な記憶たちだった。

月明かりの下、照れて耳まで赤くして口づけてくれた一聖。

嵐の中を駆け抜け、街の半分を横断して花火を打ち上げてくれた一聖。

熱でうなされる藍里の傍らで、目を真っ赤にしたまま夜通し寄り添ってくれた一聖。

涙を流しながらきつく抱きしめ、絶対に裏切らないと誓ってくれた一聖。

どの記憶にも、一聖がいた。

最後に、五年前の夜に戻った。

全員の前で片膝をつき、こちらを見上げている一聖が見えた。

「藍里、俺と結婚してくれないか?」

五年前、藍里は嬉し涙とともに深く頷いた。

五年後の今、血に染まった手を伸ばし、泣きながらその手を掴もうとして……

いや。

もう、あなたとは結婚しない。

一聖、あなたを愛することは……こんなにも、痛すぎるから。

その瞬間、世界は完全な暗闇に呑み込まれた。

区役所の前。約束の時間が過ぎても、藍里は現れなかった。

一聖は薄く積もった雪を見つめながら、何を考えているのか、その瞳は暗く沈んでいた。

雪はどんどん強くなり、一聖の肩に降り積もっていく。眉をひそめてスマホを取り出した。

次の瞬間、先に着信が鳴った。

藍里からだろうと思い、ためらいなく通話ボタンを押した。

だが、電話の向こうから聞こえてきたのは、見知らぬ女性の声だった。

「あの、滝沢藍里様のご主人でいらっしゃいますか?」

胸の中に、静かな不安が広がった。低く答える。「……どなたですか」

一瞬の沈黙の後、その声が再び聞こえた。

「市内第一病院でございます。大変申し訳ないご連絡となりますが、滝沢藍里様は本日十二時八分、交通事故によりお亡くなりになりました。母子ともに、お助けすることができませんでした。つきましては、ご遺体の引き取りにお越しいただけますでしょうか」

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