جميع فصول : الفصل -الفصل 20

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11.仮縫いの白い線

数日後、三嶋洋服店の奥には、白い線の残る黒い布が掛けられていた。完成品ではない。裁断された布は、まだ仮の形をしている。肩、背中、袖口には白い仮縫い糸が走り、ところどころにチャコの淡い線が残っていた。布端はまだ処理されきっておらず、仕上がったスーツのような滑らかさはない。それでも、その布はもう、ただの布ではなかった。黒瀬迅の身体に合わせるために切られ、留められ、これから少しずつ形を決めていく一着だった。美緒は作業台の前で、仮縫い糸の端を確かめていた。針山、チャコ、メジャー、帳面。必要なものを順に並べる。前回と同じ作業のはずなのに、手元がいつもより少し慎重になっている。迅が来る。それはもう、初めての客を待つ緊張ではなかった。黒瀬興業の若頭が来るという名前の重さにも、多少は心の準備ができていた。けれど、別の緊張がある。前回、美緒は迅に言ってしまった。肩が張っていること。今のスーツの胴回りが少し余っていること。休めていないように見えること。仕事として必要な確認だった。父も止めなかった。迅も怒らなかった。それでも、後になってから、言いすぎたのではないかという不安が胸に残った。黒瀬の若頭に、初対面の仕立屋の娘が何を言ったのだろう。そう思うと、針を持つ指がわずかに止まる。父は仮縫いのスーツを人台に掛け、肩のあたりを見ていた。「今日は、肩と背中をよう見なあかんな」「うん」美緒は短く答えた。前回、自分が気づいた場所だった。だからこそ、目を逸らすわけにはいかない。けれど、また余計なことまで言ってしまいそうで怖かった。母は帳場で来客の準備をしている。湯呑みの位置を整え、予約帳を開き、店先の様子を一度だけ確かめた。母も何も言わないが、今日の空気を分かっているようだった。やがて、店の戸が開いた。黒瀬迅は、前回と同じように黒いスーツで現れた。店へ入ってきただけで、空気が少し重くなる。それは変わらない。けれど美緒は、前回ほど顔立ちに意識を奪われなかった。整った
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12.仕立て上がった一着

仕立て上がった黒いスーツは、店の奥で静かに吊るされていた。数日前まで残っていた白い仮縫い糸は、もうない。肩や背中に引かれていたチャコの線も消え、布端はきちんと処理されている。仮の線に支えられていた布は、ひとつの完成した形になっていた。美緒は、鏡のそばに掛けられたその一着を見ていた。黒い布は、派手な艶を持たない。光を受けても騒がず、深く沈みすぎもしない。手で触れれば、しっかりとした張りがあるのに、動きに逆らわない柔らかさもある。黒瀬の若頭が人前に出る時に着ても軽く見えず、かといって余計に威圧を飾ることもない。父が選び、裁ち、縫い上げた一着だった。美緒はその補助をしたにすぎない。だが、採寸の時に見た肩の張りも、仮縫いで引かれていた背中の糸も、袖口の落ち方も、ひとつずつこの形へ入っていると思うと、胸の奥が静かに緊張した。父は最終の確認をしていた。袖口を指で整え、襟元を見て、背中の縫い目に目を通す。何かを大げさに褒めることもなく、仕立て上がった一着へ淡々と向き合っている。「袖口、もう一回見とけ」父が言った。「うん」美緒は近づき、袖をそっと持ち上げた。縫い目に乱れはない。布の落ち方も自然だった。迅の右肩の張りを受け止めるため、肩まわりにはほんのわずかな逃げがある。だが、外から見て余っているようには見えない。背中は、腕を前へ出した時に突っ張らないよう、わずかに動きを持たせてある。数字だけでは作れないところだった。採寸で見た身体。仮縫いで引かれた糸。その時々の判断が、縫い目の奥に収まっている。美緒は指先で布を軽く整えた。この一着を、迅が着る。そう思っただけで、いつもより手が慎重になった。昼を少し過ぎた頃、店の戸が開いた。黒瀬迅は、前と同じように黒いスーツ姿で入ってきた。最初に来た時ほど、美緒はその気配に圧倒されなかった。もちろん、店の空気は少し重くなる。長身で、無駄のない立ち姿で、低い声を持つ男が入ってくれば、狭い仕立屋の空気は自然と変わる。けれど美緒は、もう
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13.また、頼む

受け取りの手続きが終わる頃には、店の外の光が少し傾き始めていた。三嶋洋服店のガラス戸の向こうを、仕事帰りらしい人影が通り過ぎていく。大通りから一本入った裏通りにも、夕方の気配はゆっくり流れ込んでいた。遠くの車の音、誰かが店先で自転車を止める音、古いビルの壁に反射する淡い光。店の中には、布とアイロンの匂いが残っていた。迅は、新しく仕立て上がった黒いスーツをそのまま着ていた。以前着てきたスーツは、母が丁寧に畳み、持ち帰り用に整えている。迅の付き添いの男がそれを受け取るために控えていたが、迅自身は鏡の前から戸口の方へ移るまで、新しい一着を脱ごうとはしなかった。美緒はそれを見て、胸の奥が少しだけ緩んだ。持って帰るだけではない。着て帰る。それは、三嶋洋服店で仕立てた一着を、迅が自分の身体のものとして受け入れたように見えた。もちろん、それはただの仕事上の納品で、客が仕立てた服を着て帰ることは珍しいことではない。それでも美緒には、その黒い布が迅の肩に自然に落ちていることが、ひどく静かに嬉しかった。父は最後の確認を終え、迅に向かって軽く頭を下げた。「何かありましたら、お持ちください」迅は短く頷いた。「ああ。世話になった」「こちらこそ」父の返事は淡々としていた。相手が黒瀬興業の若頭でも、仕立て上がった一着を納める職人の声は変わらない。その変わらなさが、三嶋洋服店らしかった。母は帳場で控えを整えている。紙の音が小さくして、鉛筆が置かれる。店は受け取りを終え、次の仕事へ戻ろうとしていた。美緒も、本来なら袖口の確認を終えれば下がるだけだった。仕事は済んだ。採寸し、仮縫いをし、仕立て上がった一着を迅が着た。肩も背中も大きな直しはなく、袖口も収まっている。職人の娘としての美緒の役目も、ここで一度終わるはずだった。迅は黒瀬の若頭で、美緒は仕立屋の娘。普通なら、これで終わりだった。迅が戸口へ向かう。新しい黒いスーツの背中が、夕方の光の方へ動く。歩
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14.黒瀬の隣

季節が、少しだけ進んでいた。三嶋洋服店の棚には、夏へ向かう薄手の布と、秋口にも使える落ち着いた生地が並び始めていた。夕方になると、大通りのざわめきは少し遠くなり、裏通りの店先には、古いビルの影が長く落ちる。黒瀬迅は、あれから何度か店に来た。長居をすることはなかった。新しい一着の相談。袖口の微調整。会合に合わせた生地選び。用件はいつもきちんとあった。必要なことだけを短く話し、父の説明を黙って聞き、母に礼を言って帰っていく。それだけなら、少し目立つ客にすぎなかった。けれど、美緒には分かっていた。迅は、初めの頃ほど美緒の視線を避けなくなった。肩を見ることも、袖口を見ることも、背中の布の落ち方を確かめることも、黙って受け入れるようになった。時には、鏡の前で立ったまま、低い声で言うこともあった。「今日はどうや」そのたびに、美緒は一瞬だけ困った。どう、と言われても、仕事として言うべきことと、言わなくていいことの境目は今も難しい。肩が少し楽そうな日もあれば、目元の影が濃い日もある。袖口に触れる仕草が増えている日もあれば、前より呼吸が深く見える日もある。美緒は、必要なことだけを選んで言うようになった。「今日は肩より、首元が少し詰まって見えます」「袖口はこのままで大丈夫やと思います」「少しお疲れですか。布の落ち方が、前より硬いです」言ってから、踏み込みすぎたかもしれないと思う日もあった。けれど迅は怒らなかった。ただ黙って聞き、時々、ほんのわずかに口元を緩めた。その変化が、美緒には不思議だった。最初に店へ入ってきた時、迅は黒いスーツごと空気を重くする人だった。美形で、怖くて、近づきにくい人だった。今も、そういう人であることは変わらない。けれど、それだけではなくなっていた。父も母も、その変化には気づいていたと思う。母は、迅の来店日が近づくと、美緒がいつもより早く帳面を整えることを知っていた。父は何も言わなかったが、迅の身体の癖を話す時、美緒の言葉を以前
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15.離れに入る日

車の窓の外で、大阪の街が少しずつ色を変えていた。三嶋洋服店のある大通りから少し外れた裏通りを出た時には、見慣れた看板や古いビルの壁がまだ近くにあった。布地の匂い、アイロンの熱、古いミシンの音。そういうものに囲まれて育った美緒には、店の周辺の空気は身体に馴染んだものだった。けれど、車が進むにつれて、その馴染んだ空気が少しずつ遠ざかっていく。同じ大阪市内なのに、向かう先には別の重さがあった。美緒は膝の上で手を重ねていた。指先には自然と力が入っている。白い指が、自分でも気づかないうちに重なった手の甲を押さえていた。結婚式は終わった。今日から、美緒は黒瀬迅の妻として、黒瀬本家の敷地内にある離れで暮らす。その事実は、何度も胸の中で繰り返していた。三嶋美緒ではなく、黒瀬美緒になる。迅の隣に立つ。自分で選んだ道だった。それなのに、車が本家へ近づくほど、喉の奥が少しずつ狭くなっていく。隣に座る迅は、いつものように言葉が少なかった。黒いスーツを着ている。美緒が見慣れた、三嶋洋服店で仕立てた一着だった。肩の線は自然で、袖口もきれいに収まっている。けれど、今日の迅の横顔には、普段とは違う硬さがあった。美緒だけが緊張しているわけではないのかもしれない。そう思って、すぐに打ち消した。迅は黒瀬の若頭で、この場所に生まれた人だ。美緒とは違う。これから入っていく世界は、彼にとっては帰る場所なのだ。「緊張してるんか」低い声が落ちた。美緒ははっとして、迅を見た。迅は前を向いたままだった。けれど、美緒の指先に力が入っていることには気づいていたのだろう。美緒は少し笑おうとした。「……少しだけ」少しではなかった。けれど、怖いとそのまま言うのは違う気がした。自分は迅の妻になると決めた。黒瀬の隣に立ちたいと答えた。ならば、最初の日から不安ばかりを顔に出すわけにはいかない。迅は短く息を吐いた。「無理に慣れようとせんでええ」美緒はその言葉を胸の中で受け
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16.離れの夜

夜になっても、本家の灯りはまだ消えていなかった。離れの窓から庭を挟んだ向こうを見ると、障子越しの明かりが淡く浮かんでいる。昼間には緊張で見えなかった庭木の影が、夜の中で静かに揺れていた。風が枝先を撫でるたび、葉の擦れる音がかすかに届く。遠くでは車の扉が閉まる音がして、男たちの低い声が短く交わされたあと、またすぐに沈黙へ戻った。黒瀬の家は、夜になっても完全には眠らないのだと思った。三嶋洋服店の夜とは違う。実家では、店を閉めればミシンの音も客の声も止まり、布とアイロンの匂いだけが残った。父が奥で道具を片づけ、母が帳場の灯りを落とし、美緒は二階へ上がる。その静けさは、終わった一日の静けさだった。けれど、ここは違う。離れの中は静かでも、外には黒瀬の呼吸がある。誰かが起きていて、誰かが動いていて、どこかで低い声が交わされている。昼間、佳穂に言われた言葉が、まだ胸の奥に残っていた。分からないことは、分からないまま動かんこと。美緒は荷物の包みをほどきながら、何度もその言葉を思い出していた。新しい箪笥の引き出しを開け、衣類を一枚ずつ入れる。下着や寝間着は奥に、普段着は手前に。化粧道具は台所の棚ではなく、寝室の隅に置いた小さな台の上へ。裁縫箱は、いつでも手に取れるように、居間の端に置こうかと迷った。手を動かしていないと、落ち着かなかった。今日、自分は黒瀬本家の門をくぐった。佳穂に迎えられ、本家の玄関に立ち、離れに入った。迅の妻として、この場所で暮らすことになった。そのすべてが、まだ身体の中に入りきっていない。美緒は衣類を畳み直した。すでに畳んであるものなのに、角を揃えずにはいられない。布に触れていると、少しだけ呼吸が整った。布は裏切らない。引けば張るし、撫でれば目が揃う。身体に合わせれば形を変える。人の気持ちや家の空気より、ずっと分かりやすかった。背後で、迅の足音がした。「今日はもうええ」美緒は振り返った。迅は居間の入口に立っていた。上着は脱いでいる。白いシャツの襟元は少し緩められ、昼間よりも肩
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17.佳穂の茶

朝は、離れの外から届く音で始まった。庭を掃く箒の音。石畳を誰かが歩く硬い足音。遠くで車のエンジンが低くかかり、すぐに抑えられる。男たちの声は短く、必要なことだけを交わしているようだった。言葉までは聞き取れないのに、その低さだけで、ここが三嶋洋服店の朝ではないことが分かる。美緒は布団の中で目を開けた。見慣れない天井だった。昨夜、この部屋で眠ったのだと気づくまで、ほんの少し時間がかかった。離れの寝室。黒瀬本家の敷地内にある、迅と自分の住まい。隣には、すでに迅はいなかった。布団の片側に残るわずかな温もりだけが、彼がそこにいたことを教えている。美緒はその気配を見つめ、昨夜のことを思い出しかけて、頬が熱くなった。迅の手の熱。低い声。背中に刻まれた不動明王。怖さだけではないと、自分の手で触れたあの背中。離れは、まだ完全に自分の場所ではない。けれど昨夜、ここは少しだけ、迅と自分の場所になった。そう思った直後、窓の外で低い声が聞こえた。美緒はゆっくり息を吸った。二人の場所であっても、ここは黒瀬の内側だ。その事実は、朝になると改めて輪郭を持った。本家の気配は、夜よりずっと近い。人が動き、車が出入りし、どこかで茶の支度をする湯気の気配まである。畳と木の匂いの中に、かすかに白檀と煙草の残り香が混じっていた。美緒は起き上がった。鏡の前に座り、髪を丁寧にまとめる。昨日よりも少し落ち着いた色の服を選んだ。派手ではない。けれど、だらしなくも見えないもの。襟元を整え、袖口を確かめる。指先が布の端をなぞると、少しだけ心が静まった。昨日、佳穂に言われた言葉が胸に戻る。分からないことは、分からないまま動かんこと。美緒は、小さく頷いた。何をすればいいのか、まだ分からない。だからこそ、勝手に動かない。まずは佳穂のところへ行く。聞く。見る。覚える。それが今日、自分にできる最初のことだった。離れを出ると、朝の空気はひんやりとしていた。庭には薄い光が差している。石畳の端に水を打った跡が残り、植
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18.藤堂梓の目

昼下がりの本家は、朝とは違う音を持っていた。午前中に聞こえていた男たちの足音や車の出入りは少し落ち着き、廊下には日差しが長く伸びている。庭の木々は風に揺れ、障子越しの光が畳の上へ薄く落ちていた。朝の張りつめた空気が完全に消えたわけではない。けれど、家の奥へ進むほど、別の種類の気配が濃くなっていく。女たちの声だった。低く抑えた笑い声。茶器が触れる小さな音。布が畳を擦る音。男たちの場とは違い、柔らかい。けれど、ただくつろいでいるだけの声ではなかった。美緒は佳穂の少し後ろを歩きながら、その違いを肌で感じていた。数日前から、佳穂について本家の所作を学び始めている。茶の出し方、客間での立ち位置、男たちの会話に入らない距離。どれも、三嶋洋服店で身につけてきた感覚とは少しずつ違っていた。気づくことと、口に出すことは違う。佳穂にそう言われた時の声が、まだ胸に残っている。あれ以来、美緒は何かに気づいても、すぐには動かないようにしていた。顔色の悪い人を見ても、廊下で聞こえた言葉が気になっても、まず場を見る。誰がそこにいて、誰の面子があり、どこまで自分が入っていいのかを考える。それでも、まだ難しかった。気づいた手を止めるのは、何も気づかないよりずっと難しい。佳穂は廊下の角を曲がる前に、少しだけ足を止めた。「今日は、妻たちの集まりがあります」「はい」美緒は返事をしたものの、胸の奥に緊張が走った。本家での動きだけでも、まだ覚えきれていない。佳穂の前で失礼のないように立つだけで精いっぱいなのに、今度は黒瀬の妻たちの前に出る。佳穂は、美緒の緊張を見抜いたように言った。「そこでは、私を見るだけでは足りません。女たちの流れを見なさい」「女たちの流れ……」思わず繰り返すと、佳穂は静かに頷いた。「行けば分かります」それ以上、説明はなかった。美緒は息を整えた。男たちの場には男たちの序列がある。それは少しずつ感じ
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19.言わない気遣い

妻たちの集まりに入る時の緊張は、最初の日ほど強くはなくなっていた。けれど、消えたわけではない。本家の座敷へ向かう廊下を歩きながら、美緒は手元の盆を持ち直した。湯呑みの底が盆の上でわずかに鳴る。その小さな音にも、以前より敏感になっている。茶器の音を大きく立てないこと。襖の開け閉めに気をつけること。話の流れを遮らないこと。誰が誰に気を配っているのか、まず見ること。佳穂に教わった言葉と、梓に言われた言葉が、歩くたびに胸の中で重なっていた。気づくことと、口に出すことは違う。まずは、見ることです。美緒は、その二つを何度も思い出していた。三嶋洋服店にいた頃、人を見ることは、自然な仕事の一部だった。客の袖口、肩の高さ、背中の張り、声の調子。少しでも違和感があれば、どうすれば楽になるかを考える。服を仕立てるというのは、布だけでなく、その人の身体と毎日に向き合うことだった。けれど黒瀬では、その目をそのまま使うことはできない。誰かの疲れに気づいても、皆の前で言えば、その人の面子を傷つけることがある。助けようとした手が、場を乱すこともある。そう知ってから、美緒は自分の視線を少し慎重に扱うようになっていた。今日の座敷には、前よりも少し多く妻たちが集まっていた。行事の準備について話し合う日だった。季節の挨拶に使う品、料理屋への手配、本家へ出入りする人数、若い妻たちが手伝う場所。表向きは穏やかな相談の場だったが、誰が何を受け持つか、誰がどこまで口を出すかで、場の空気は細かく動いている。佳穂は上座に近い位置で静かに全体を見ていた。梓は少し下座寄りに座り、妻たちの流れを実務的に整えている。誰が発言しすぎているか。若い妻の返事が遅れていないか。菓子皿がどこで止まっているか。美緒にはまだ追いきれない細かなことを、梓は声を荒げずに見ていた。美緒はその少し後ろで、茶を運び、空いた湯呑みを下げ、座布団の位置を直していた。輪の中心にはいない。けれど、外側で見ているだけでもない。
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20.妻たちの名前

森下結衣の件から、いくつかの集まりを挟むうちに、美緒は妻たちの座敷へ入る時の息の整え方を少し覚えた。緊張がなくなったわけではない。襖の向こうから女たちの声が聞こえると、今でも肩の奥に小さな力が入る。茶器の触れ合う音、菓子皿を置く音、衣擦れ、控えめな笑い声。男たちの低い声とは違う柔らかさがあるのに、その中には別の緊張があった。誰が話すか。誰が聞くか。誰が手を出し、誰が待つか。同じ笑い声でも、場を和ませるためのものと、誰かの失言を静かに受け流すためのものでは、わずかに響きが違う。美緒はまだ、その違いを完全には読み取れない。けれど、少なくとも、何も考えずにその輪へ入っていい場所ではないことだけは分かるようになっていた。座敷の入口で、美緒は盆を持ち直した。以前なら、茶碗を落とさないように、音を立てないように、それだけで精いっぱいだった。今は、そこに座る人たちの顔と名前を思い浮かべる。長谷川千鶴。古参舎弟頭の妻で、年配の妻たちの中でも自然に場を受け止める人。声は柔らかいが、若い妻が迷うと一番先に視線を向ける。久我佐知子。若頭補佐の妻。手際がよく、台所仕事では梓に次いで動きが早い。けれど、子どもの話になると少し表情が硬くなることがある。坂下美代。金庫番の妻。帳場のような細かい仕事が得意で、数を間違えない。人前では口数が少ないが、道具の置き方には強いこだわりがある。そして、森下結衣。若い構成員の妻。まだ場に慣れていない。だが、前より少しだけ、美緒に目を向けてくれるようになった。美緒はその名前を、声に出さずに胸の中でなぞった。聞き回って覚えたのではない。会話の端から拾った。誰かが呼んだ声から拾った。茶碗を受け取る時の返事から拾った。台所で布巾を畳む手元や、座敷で誰に先に視線を向けるかから、その人の立場を少しずつ結びつけていった。三嶋洋服店にいた頃、客の身体を覚えるのは自然なことだった。この人は右肩が少し下がる。この人は鞄を左で持つ
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