جميع فصول : الفصل -الفصل 30

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21.佳穂の花

朝の黒瀬本家は、静かだった。静かだが、眠っているわけではない。庭はすでに掃き清められ、石畳には水を打った跡が薄く残っている。奥の方からは、男たちの短い声が時折聞こえた。車の気配もある。けれど、それらは玄関先まで強く出てこないよう、どこかで抑えられているようだった。美緒は離れから本家へ向かいながら、その朝の空気を少しずつ覚え始めていた。最初は、ただ重いと思っていた。門をくぐるだけで背筋が伸びる。廊下を歩くだけで、自分の足音が大きすぎるように感じる。誰に会っても、どの深さで頭を下げればいいのか迷う。言葉にする前に一度飲み込み、動く前に周囲を見る。そういうことばかりが続いて、黒瀬の朝は息苦しいものだと思っていた。けれど、何日かを過ごすうちに、その重さの中にも整えられた静けさがあるのだと分かってきた。庭の砂利は、ただ掃かれているのではない。玄関の水打ちは、ただ清めるためだけではない。廊下に残る香の匂いも、茶器の置き方も、襖の開き具合も、どこかで誰かが場を乱さないように整えている。その朝、美緒が玄関先へ近づくと、いつもより少しだけ空気が違った。白檀の香りの奥に、青い葉の匂いが混じっていた。水を含んだ枝ものの匂い。切り口の瑞々しさ。三嶋洋服店でも、時折母が小さな花を店先に置くことはあった。けれど、それとは違う。もっと静かで、もっと背筋の伸びる匂いだった。美緒は玄関の手前で足を止めた。佳穂が花を活けていた。大きな花ではなかった。派手な色でもない。枝ものの深い緑に、白く淡い花が少しだけ添えられている。器は黒に近い深い色で、光を受けても艶めきすぎない。玄関の重さに沈み込むことなく、かといって浮き上がることもなく、そこにあった。佳穂の手元には、迷いがなかった。枝を切る音は小さい。花を入れる手つきも静かだった。多く入れすぎない。花の顔をこちらへ向けすぎない。余白を残し、枝の流れを生かす。正面から見て美しいだけではなく、門から入ってきた人、玄関に立つ人、廊下の奥へ進む人、それぞれの目線を考えているようだった。美緒は、しばらく声をかけ
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22.若奥さん

本家の朝は、いつもより少しだけ早く動き出していた。庭の砂利を掃く音が、まだ薄い光の中で聞こえる。石畳に水を打つ音。台所の奥で湯が沸く音。廊下を行き来する足音は普段より多く、けれど誰も大きな声は出さない。黒瀬本家の中で、小さな行事の支度が始まっているのだと、美緒にも分かった。大きな宴席ではない。内輪の集まりだった。古くから黒瀬と付き合いのある数人が顔を出し、二代目の祐一郎に挨拶をして、簡単な膳を囲む。外へ大きく見せる場ではないが、内側の人間にとっては軽く扱えない日だった。美緒は離れで身支度を整えながら、鏡の中の自分を見た。髪は低くまとめた。派手なものは身につけない。けれど、きちんとして見えるように襟元を整える。袖口の皺を指で伸ばし、帯の位置を確かめる。黒瀬へ来たばかりの頃なら、何を着ればいいかだけで迷っていた。今も迷わないわけではない。けれど、ただ綺麗に見える服ではなく、動きやすく、場を乱さず、本家の中で浮かないものを選ぶことだけは、少しずつ分かってきた。佳穂の花。梓の目。妻たちの名前。結衣の小さな笑み。それらを一つずつ思い出し、美緒は息を整えた。本家へ向かうと、台所にはすでに妻たちが集まっていた。湯気が立ち、茶器が並び、膳の数が確認されている。座布団は座敷へ運ばれ、菓子皿は布の上に置かれていた。若い妻たちは少し緊張した顔で動き、年長の妻たちは必要なところへ静かに手を出している。梓はその中心より少し横に立っていた。佳穂はさらに奥で、全体の空気を見ている。美緒は佳穂を見つけると、静かに頭を下げた。「お義母さま、こちらはこのままでよろしいですか」美緒が示したのは、玄関へ続く廊下の手前に置かれた小さな花器だった。前日に佳穂が整えていた花の横に、朝になって少しだけ葉の向きが変わっているように見えた。直した方がいいのか、それともそのままがよいのか、美緒にはまだ判断がつかなかった。佳穂は一度だけ見た。「そのままで」「はい」それだ
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52.夜の発信音

店を閉めたあとの作業場には、昼間の熱がまだ薄く残っていた。表の硝子戸はもう鍵をかけ、帳場の照明も落としている。奥の住居へつながる暖簾の向こうからは、母が食器を片づける音が時折聞こえた。店先の道路を車が通るたび、ヘッドライトの淡い光が曇り硝子を横切り、すぐに消える。外では、夜になっても蝉が鳴いていた。梅雨が明けたばかりの大阪の夜は、日が落ちてもなかなか涼しくならない。けれど、作業台の上へ落ちる手元灯の白い光の中では、時間だけが静かに細く流れているようだった。美緒は、預かった夏物のジャケットの袖口を裏返していた。薄い灰色の麻混の生地は、年配の常連客が毎年のように夏になると着る上着だった。表から見れば、目立った傷みはない。けれど、裏側の縫い目のひとつが緩み、細い糸がわずかに浮いている。このまま着続ければ、腕を通すたびに少しずつ引かれ、やがて裏地まで傷むだろう。美緒は針山のそばに並べた糸から、生地に最も近い色を選んだ。光の加減でわずかに色味の違う糸を二本、指先で引き出して比べる。灰にほんの少し青みを含んだ方を取り、針穴へ通した。以前なら、何も考えずにできていたことだった。糸を選び、布を整え、針を進める。仕上がったあと、直した跡を相手に意識させないようにする。服を着る人が、ほつれのあったことなど忘れて、いつものように腕を通せることが一番いい。黒瀬を出て店へ戻ったばかりの頃は、針を持つだけで指がこわばった。布を見ようとしても、黒いスーツの肩線が浮かんだ。袖丈を測ろうとすれば、長い腕を静かに下ろした迅の姿が思い出された。目の前の仕事へ集中したいのに、自分の手がどこで誰のために動いてきたのかを、嫌でも思い知らされた。それでも、三週間ほどが経ち、今は小さな直しなら一人で任されるようになっている。父も母も、無理に大きな仕事を渡してはこなかった。美緒が「やります」と言えるものから、静かに作業台へ置いてくれた。袖口のほつれ。裏地の浮き。ボタンの付け直し。裾の長さの確認。小さいから軽い仕事というわけではない。目の前の一着に必要な手を入れる。そのことだ
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23.青もみじの宴席

料亭の門をくぐった時、岩本由香はまず、庭の青さに目を留めた。五月の夜だった。昼間の熱はまだ石畳の奥に薄く残っていたが、庭を渡る風は涼しい。青もみじの葉が、座敷から漏れる灯りを受けて、暗がりの中で細かく揺れている。水を打った石の匂いと、奥から漂ってくる料理の出汁の香りが混じり、由香の袖に仕込んだ香水の甘さがそこへ少しだけ重なった。古い料亭だった。派手な金屏風や、客に分かりやすく見せつけるような豪奢さはない。けれど、玄関の框はよく磨かれ、仲居の所作に無駄がなく、廊下に掛けられた軸ひとつにも値打ちがあると分かる。安くはない。軽くもない。古いものを古いままにしているのではなく、古さを手入れして残している場所だった。由香は、そういう場所で見られることに慣れていた。髪はいつもより少し控えめに巻いた。着物は薄い藤色で、帯だけに光を持たせている。目立ちすぎれば品がない。沈みすぎれば意味がない。その加減は分かっているつもりだった。岩本組長の娘として、どの席に出ても恥をかかないよう育てられてきたし、人から視線を向けられることも、自分がどう見えるかを計算することも、由香にとっては特別なことではなかった。父の少し後ろを歩きながら、由香は座敷へ近づいた。襖の向こうから、男たちの低い声が聞こえる。笑い声もあるが、軽くはない。盃を交わす前から、空気の中に見えない線が引かれているようだった。黒瀬興業。大阪に古くから根を張る組だと聞いていた。岩本とは昔からの付き合いがある。父は何度もそう言っていた。黒瀬とは縁が深い。昔はいろいろあった。黒瀬も岩本には頭が上がらないところがある。由香は、その言葉の細かな意味までは知らなかった。何があったのか。どんな貸し借りが残っているのか。父が何を含ませて話していたのか。そこまで聞こうとしたこともない。ただ、父が黒瀬と対等に近い顔で話せることだけは知っていた。それで十分だった。襖が開かれた。座敷の中は、初夏の灯りに満ちていた。床の間には季節の花が控えめに活けられ、座卓には冷酒の硝子器が並んでいる。透明な器の内側に小さな水滴がつき、灯りを受けて
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24.仕立屋の娘

座敷の熱が、廊下まで薄く流れていた。宴席はいったん大きな山を越え、盃を交わす声も、最初の頃より少し低くなっている。冷酒の硝子器には細かな水滴がつき、座卓の上で淡く光っていた。開け放たれた縁側の向こうには、青もみじの庭がある。葉を揺らす夜風はまだ涼しいのに、座敷に残る酒と料理の匂いを含んだ空気には、どこか湿りがあった。美緒は茶器を下げるため、佳穂のそばを少し離れた。こういう席では、動きすぎてもいけない。だが、動かなすぎても場が止まる。誰が席を立つか。誰が控えに回るか。どの器を先に下げ、どの器を残すか。ひとつひとつは小さなことでも、間違えれば座敷の流れがわずかに乱れる。佳穂から教わったことは、まだ身体に染み込みきっているとは言えない。それでも、美緒は以前ほど、足元ばかりを見なくなっていた。祐一郎の盃が空く前に、仲居が動けるよう位置を空ける。迅が父親と短く言葉を交わす時には、視線を向けすぎない。岩本組長が古い付き合いを口にした時、座敷の空気がほんの少し変わったことにも気づいた。そして、もうひとつ。岩本由香の視線にも、気づいていた。迅を見る目。美緒を見る目。その二つは、まるで違っていた。迅を見る時の由香の目には、隠しきれない熱があった。興味というには近く、好意というには少し硬い。相手を知りたいというより、その隣に立つ自分を想像しているような目だった。美緒へ向けられる目は、もっと冷静だった。上から下まで測る。装い、髪、手元、立ち方、迅との距離。値踏みする目だった。美緒は、その視線に気づきながらも、表情には出さなかった。岩本の娘がどんなつもりで自分を見ているのか、まだ分からない。ただ、華やかな人だと思った。黒瀬の席には少し香りが強く、少し色が鮮やかで、場の奥へ静かに溶けるよりも、自分を見せることに慣れている女。敵だとは思わなかった。けれど、落ち着かない存在だった。茶器を盆に載せ、廊下へ出る。座敷から一歩離れると、青葉の匂いが濃くなった。庭の灯りに照らされた青もみじが、夜風に揺れている。控え
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25.古い恩

五月の半ばを過ぎると、庭の緑は一段濃くなった。黒瀬本家の客間には、障子越しの白い光が差していた。昼の光は明るい。けれど、畳の上に落ちるその色はどこか平たく、庭から入る空気には、初夏の湿りがかすかに混じっている。客間の奥には、冷たい茶が置かれていた。茶器の表面には細かな水滴がつき、卓の上に小さな輪を残している。まだ梅雨ではない。雨の匂いもない。それでも、空気の中には少しずつ重さが増えていた。迅は、祐一郎の右手側に座っていた。黒いスーツは、三嶋洋服店で仕立てたものだった。初夏の白い光を受けても、布は浮かず、深い黒のまま迅の肩に収まっている。袖口も乱れていない。だが、迅の内側だけは、朝から少しも落ち着いていなかった。岩本組長が来る。表向きは、先日の宴席の礼だった。それだけなら、祐一郎が受け、迅が同席するだけで済む。古い付き合いのある相手を、本家の客間で迎える。それ自体は珍しいことではない。だが、迅には、ただの礼では済まないことが分かっていた。あの夜の料亭。青もみじの庭。冷酒の硝子器。岩本由香の視線。そして、岩本組長が口にした言葉。若いもん同士。あの一言が、迅の中にまだ残っていた。由香が自分を見る目に、迅は気づいていた。女に見られることそのものは、珍しくない。興味、値踏み、好奇心、怖さ、媚び。そのどれも、これまで向けられてきた。だが、由香の目は少し違った。自分を見ているようで、その背後にある黒瀬を見ていた。迅という男ではなく、若頭という立場を見ていた。その隣に立てば自分がどう見えるかを、先に考えている目だった。迅は、そういう目を好まなかった。もっと不快だったのは、その由香が美緒を見た時の目だった。あの女は、美緒を測っていた。仕立屋の娘。黒瀬の席にいるには控えめな女。そう決めつけるような視線だった。美緒が何を積み上げてここにいるのか、由香は知らない。佳穂に教わり
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26.迅の拒絶

五月の終わりの光は、明るすぎるほどだった。黒瀬本家の庭には若葉が濃く茂り、石畳に落ちる影も、以前よりはっきりしている。陽射しは初夏のものだった。障子越しに応接間へ差し込む白い光は、畳の目をくっきりと浮かび上がらせていた。それなのに、部屋の空気は冷えていた。冷房のせいではない。卓の上に置かれた冷たい茶器に、水滴が浮いている。その水滴がゆっくりと膨らみ、器の側面を伝って落ちる。薄い音も立てないまま、卓の上に小さな湿りを残した。迅は、その水滴を見ていた。黒いスーツの袖口は乱れていない。背筋も伸ばしている。外から見れば、いつもと変わらない黒瀬の若頭だったはずだ。だが、内側ではすでに警戒が張りつめていた。岩本組長が、再び本家へ来る。前回は、宴席の礼と昔話だった。昔の恩。古い縁。若いもん同士。言葉はどれも柔らかく、表面だけを見ればただの世間話に見えた。だが、迅には分かっていた。岩本は、由香の名を黒瀬の客間へ置いていった。そして今日は、その名をさらに一歩、こちらへ近づけに来る。祐一郎は、迅の正面より少し上座に座っていた。表情は穏やかだった。白い光の中で、顔色は悪く見えない。だが、迅は父の疲れを見逃さなかった。岩本とのやり取りは、ただの付き合いでは済まない。古い恩義を口にされるだけで、こちらは礼を失わないよう気を配らなければならない。怒りだけで切れる相手ではない。それが、この話の厄介なところだった。襖の向こうで足音が止まった。控えていた長谷川が低く告げる。「岩本さんがお見えです」祐一郎が頷いた。「通してくれ」襖が開く。岩本組長は、前回と同じような笑みを浮かべて入ってきた。柔らかい笑みだった。声も親しげで、腰も低い。だが、その目は少しも緩んでいない。「黒瀬さん、今日もお時間をいただきまして」「かまいません。お越しいただき、ありがとうございます」祐一郎の声は穏やかだった。迅は軽く頭を下げ
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27.三嶋洋服店の名

大阪市内の空は、朝から低く曇っていた。まだ雨は降っていない。けれど、降りそうで降らない湿気だけが、通りの隙間に溜まっているような日だった。船場の大通りから少し外れた裏通りにも、その重さは入り込んでいた。通りを行く人の傘はまだ閉じられていたが、誰もが一度は空を見上げてから、店先を通り過ぎていく。三嶋洋服店のガラス戸は、いつも通り静かに開いていた。店の中には、布と糊とアイロンの匂いがこもっている。湿気を吸った布地は、晴れた日のようには軽く動かない。作業台に広げられた生地も、指で撫でると、わずかに重さを持って返ってくる。美緒の父である隆文は、奥の作業台で黙ってアイロンを当てていた。アイロンの熱が布へ沈み、白い蒸気が細く立つ。曇った外光の中で、その蒸気はすぐにほどけ、店の古い木棚の匂いに混じった。隆文の手つきはいつもと変わらない。湿気で布が扱いにくい日でも、慌てることはない。布の癖を見て、熱を当てる場所を決め、力を入れすぎずに目を整えていく。帳場では、母が伝票を揃えていた。紙も湿気を吸って、ほんの少し波打っている。母はそれを指先で押さえ、名前と日付を確かめながら、いつものように丁寧に並べ直していた。美緒は、棚に戻す布地見本を抱えていた。黒瀬へ嫁いでからも、時折こうして三嶋洋服店へ顔を出す。長くはいられない。けれど、父母の顔を見ること、布に触れること、店の匂いを吸うことは、美緒にとって呼吸を整えるような時間だった。黒瀬本家で覚えることは多い。佳穂の所作。梓の目。妻たちの名前。茶を出す順番。聞こえても聞かなかった顔をすること。気づいたことをすぐ口にしないこと。自分が正しいと思っていた気遣いが、いつも正しいとは限らないこと。そのすべてを思い出すと、背筋は自然に伸びる。けれど三嶋洋服店に戻ると、身体の奥に染み込んだ別の感覚が戻ってくる。布の厚みを見る。肩の傾きを見る。客の声の間を聞く。ここは、黒瀬美緒になる前の三嶋美緒が育った場所だった。「湿気、強いな」隆文がアイロンを置きながら言った。「うん。布、重いね」美
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28.閉じた背中

雨は、夕方から途切れずに降っていた。強い雨ではない。窓を叩くほどではなく、庭の木々を揺らすほどでもない。ただ細く、長く、同じ調子で降り続いている。離れの窓ガラスには湿気が薄くつき、外の景色は少し曇って見えた。美緒は台所の布巾に触れた。昼に干したはずなのに、まだどこか湿っている。指で摘むと、布の奥に重さが残っていた。梅雨入り前の雨は、空気そのものをゆっくり濡らしていく。畳も、木の柱も、台所の戸棚も、いつもより呼吸が鈍くなっているようだった。離れの中は静かだった。けれど、外の本家はまだ動いている。雨音の向こうから、車の扉が閉まる音がした。遠くで男たちの低い声が短く交わされ、すぐに消える。夜になっても、黒瀬の家は完全には眠らない。美緒は、時計を見た。迅の帰りは、また遅かった。このところ、ずっとそうだった。帰りが遅くなり、帰ってきても口数が少ない。疲れているのは分かる。黒瀬の仕事が軽いものではないことも、少しずつ知ってきた。だから、何でもかんでも聞いてはいけないのだと自分に言い聞かせていた。けれど、最近の迅は、ただ忙しいだけではなかった。肩の張り方が違う。目元の疲れが深い。帰ってきた時の息が、少し浅い。美緒には、それが見えてしまう。三嶋洋服店にいた頃から、人の身体に出るものを見てきた。客が何も言わなくても、肩が上がっていれば緊張していると分かる。袖口の擦れで鞄の持ち方が分かる。背中の皺で、立ち方や疲れ方が分かる。迅のことなら、なおさらだった。美緒は台所の火を弱め、温めていた汁物の鍋に蓋をした。遅く帰ってきても食べられるように、重すぎないものにしてある。けれど、最近の迅は食事もあまり進まない。外の雨音が、少しだけ強くなった。その時、玄関の方で気配がした。美緒はすぐに顔を上げた。鍵の音。濡れた革靴が土間に触れる音。傘の雫が落ちる音。「おかえり」美緒は廊下へ出た。迅が、玄関に立っていた。黒いスーツ
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29.雨の離れ

雨は、朝になってもやんでいなかった。離れの窓ガラスには、薄く湿気がついている。庭の木々は濡れた葉を重そうに垂らし、石畳は夜から一度も乾かないままだった。軒先から落ちる雨粒の音が、同じ間隔で続いている。強くはない。けれど、やむ気配のない雨だった。美緒は台所で布巾を広げ直した。昨夜から掛けていたものなのに、まだどこか湿っている。指で摘むと、布の奥に水気が残っていた。梅雨に入ったばかりの雨は、ものを濡らすだけではない。空気ごと重くして、畳や木や布の中へゆっくり染み込んでいく。箪笥の引き出しを少し開けると、奥にも湿った匂いがこもっていた。美緒は小さく息をつき、窓をほんの少しだけ開けた。雨の音が近くなる。外から入る空気も湿っていたが、閉め切っているよりはいい。風が動けば、布も少しは楽になる。迅の服を掛けている場所にも目をやった。以前なら、何も考えずに手を伸ばしていただろう。肩の形を見て、湿気の入り方を見て、少し位置をずらしたり、乾いた布で押さえたりしていた。迅も、それを当たり前のように受け入れていた。けれど今は、手が止まる。あの雨の夜、迅は美緒の手を避けた。濡れているから触らなくていい、と言った。気遣いのようにも聞こえた。けれど、美緒には分かってしまった。あれは布を濡らしたくないからではない。自分に触れられたくなかったのだ。仕立屋の娘として布を見る手も、妻として疲れた肩に近づく手も、あの瞬間、少しだけ退けられた。その感覚が、指先にまだ残っている。美緒は迅の上着には触れず、近くに置いていた乾いた布だけを畳み直した。食卓には、朝の茶碗が残っていた。迅は、ほとんど食べずに本家へ出ていった。ご飯は半分ほど残っている。味噌汁も、汁椀の底が少し見える程度にしか減っていなかった。箸はきちんと揃えられている。それだけに、食べようとして食べられなかったのだと分かる。美緒は椀を持ち上げた。迅が食欲をなくす時は、決まって肩に力が入っている。言葉が短くなる。眠れていないのに、平気な顔をする。そういう癖を、美緒はもう知っていた。
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