جميع فصول : الفصل -الفصل 40

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30.言わない女たち

雨は、何日も黒瀬本家の屋根を濡らしていた。強く降るわけではない。けれど、朝になっても昼になっても、細い糸のように降り続ける。庭の石畳は乾く間もなく黒く沈み、植え込みの葉は水を含んで重そうに揺れていた。廊下には湿った木の匂いが残り、台所の布巾も、いつもより乾きが遅い。美緒は、本家の台所で茶器を拭いていた。白い布巾で湯呑みの縁をなぞり、水気を確かめてから棚へ戻す。手元はいつもと同じ動きだった。けれど、台所に流れる空気はいつもと違っていた。声が低い。妻たちの声も、男たちの足音も、どこか雨音に押し込められているようだった。廊下の向こうで電話が鳴る。すぐに誰かが取り、声を落として話し始める。美緒がそちらへ視線を向けると、その声はさらに低くなり、やがて廊下の奥へ消えた。露骨に避けられているわけではない。若い衆は美緒に頭を下げる。妻たちも、これまで通り声をかけてくれる。梓は必要な仕事を渡してくれるし、佳穂も美緒を遠ざけるようなことはしない。それなのに、何かが美緒の前で閉じる。話題の輪が、近づいた瞬間だけほどける。声が止まる。すぐに別の話へ変わる。天気のこと、湿気で乾きにくい洗濯物のこと、玄関の花が傷みやすいこと。どれも日常の話だった。けれど、その前に何が話されていたのかだけが、美緒には届かない。湯呑みを棚へ戻すと、控えの間の方から妻たちの声が聞こえた。美緒は盆を持ち、そちらへ向かった。襖の手前まで来た時、聞こえていた声が一瞬だけ途切れた。ほんのわずかな間だった。だが、美緒には分かった。中にいた誰かが、美緒の足音に気づいたのだ。襖を開けると、数人の妻たちが座っていた。結衣もいる。千鶴も、美代も、真由もいた。表情は穏やかだった。誰も美緒を拒んでいるわけではない。むしろ、皆少しだけ丁寧に美緒を迎えた。「美緒さん、お茶をありがとうございます」結衣が小さく言った。「ううん」美緒は茶器を置きながら、座敷の空気を見た。先ほどまで、何か別の話をしていたのだろう。菓子皿の位置、膝の上に置かれた
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31.不動明王の背

雨は、夜になっても細く降り続いていた。離れの窓には、昼間から残った湿気が白く曇っている。庭の木々は濡れた葉を重たそうに伏せ、石畳は黒く沈んでいた。軒先から落ちる水滴の音が、一定の間を置いて畳の静けさへ染み込んでいく。美緒は台所で、最後の器を拭いていた。布巾は替えたばかりなのに、指先にはもう湿り気が移る。梅雨の雨は、何もかもを少しずつ重くする。茶碗の縁も、戸棚の木も、畳も、着物の裾も、目に見えない水を含んでいるようだった。迅は、今夜も遅かった。本家から戻ったあと、ほとんど食べず、短い電話を二度受けた。美緒の前では取らなかった。廊下へ出て、低い声で話し、戻ってくるたびに目元の影が濃くなる。美緒はそれを見ていた。何も聞かなかった。聞けば、また閉じる。そう分かってしまってから、美緒は言葉を選ぶようになった。選びすぎて、結局何も言えなくなることも増えた。温かい汁物を出す。乾いた布を置く。濡れた靴のそばに新聞紙を用意する。迅が自分で使えるように、必要なものだけを少し離れた場所へ置く。気遣いは、まだある。けれど、手は伸ばさない。以前なら当たり前に触れられたものへ、触れられなくなっていた。美緒は器を棚へ戻し、台所の灯りを少し落とした。雨音がそのぶん近くなる。居間の方では、迅が風呂へ向かった気配がした。襖の向こうで足音がして、やがて湯を使う音が聞こえる。その音を聞きながら、美緒は立ち尽くした。夫婦なのに、互いの間に音だけがある。湯の音。雨の音。電話の震える音。閉まる扉の音。肝心な言葉だけが、ずっとない。美緒は濡れた布巾を掛け替えた。手を拭き、居間へ戻る。迅の上着は、今夜も太いハンガーに掛けられていた。肩の形は大きく崩れていない。けれど、湿気が少し残っている。手を添えて直したいと思った。思っただけで、触れなかった。風呂場の方で、戸が開く音がした。美緒は思わず顔を上げた。迅が戻ってきた。髪
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32.弥勒を選ぶ

雨は、三嶋洋服店の古いガラス戸にも、細い筋を作っていた。船場の大通りから少し外れた裏通りは、昼間だというのに薄暗い。人の足音は濡れた舗道に吸われ、車の音もいつもより鈍く聞こえる。店先の庇から落ちる雨粒が、一定の間隔で小さく跳ねていた。美緒は、傘の雫を払って店へ入った。戸を開けた瞬間、布と糊とアイロンの匂いがした。湿気を含んだ空気の中でも、その匂いだけは変わらない。幼い頃から知っている匂いだった。黒瀬本家の白檀や煙草の気配とは違う。離れの畳と雨の匂いとも違う。美緒が育った場所の匂いだった。「ただいま」そう言ってから、少しだけ不思議な気持ちになった。ここはもう、美緒の暮らす家ではない。けれど、ただいまと言えば、母はいつも顔を上げてくれる。今日も、帳場にいた母が顔を上げた。「おかえり。雨、大丈夫やった?」「うん。そんなに強くないから」美緒は傘をたたみ、店の隅の傘立てへ入れた。奥の作業台では、隆文が古い上着を広げていた。濃い茶色の上着だった。長く着込まれた布は柔らかくなり、袖口には持ち主の癖が出ている。肩の芯は少し落ち、裏地の一部は擦れて薄くなっていた。美緒は自然にその上着へ目を留めた。「直し?」隆文は布から目を離さずに答えた。「古いお客さんのや。長いこと着てはる」母が帳場から言った。「もう新しいのを作った方がええんと違いますかって言うたんやけどね。これが着やすいから、できるだけ直してほしいって」美緒は作業台のそばへ近づいた。上着は、たしかに傷んでいた。表地はまだ使える。けれど、裏地は擦れている。ポケットの縁も少し弱っている。肩の芯は湿気もあって沈み気味で、以前の形へそのまま戻すのは難しそうだった。「直せそう?」美緒が聞くと、隆文は上着の内側を静かに返した。「直せるところと、替えなあかんところがある」その言い方が、父らしかった。壊れているから捨てる、とは言わない。
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33.彫師の部屋

雨は、昼を過ぎてもやまなかった。離れの窓ガラスには細かな水滴がつき、外の庭は薄い灰色に沈んでいる。木々の葉は濡れて色を濃くし、石畳にはいくつもの小さな水たまりができていた。軒先から落ちる雨粒の音が、途切れず耳に届く。美緒は、鏡の前に立っていた。帯を直すためではない。髪を整えるためでもない。ただ、背中を意識していた。鏡に映る自分の正面は、いつもと変わらない。黒瀬の家に入る前より少し落ち着いた着物。控えめにまとめた髪。疲れを隠すように整えた顔。けれど、美緒の意識は、鏡に映らない背中へ向いていた。そこにはまだ、何もない。迅の背中には、不動明王がある。炎を背負い、迷いを断ち、守るために立つ仏。あの背中を見た夜から、美緒の中で何かが静かに動き始めていた。迅と同じ火を背負いたいわけではない。迅の不動明王と並ぶ飾りがほしいわけでもない。けれど、自分の背中にも、何かが必要だと思った。守られるだけではなく、逃げないために。黒瀬の中で、三嶋の娘としてではなく、迅に守られる妻としてだけでもなく、自分の足で立つために。美緒は、そっと自分の背中へ手を回した。指先が布越しに背中へ触れる。そこには、ただ自分の体温があるだけだった。何も刻まれていない。何も背負っていない。だが、その空白が、今はひどく重く感じられた。弥勒菩薩。その名が、胸の奥で静かに響く。壊れたものを終わりにしない仏。遠い未来へ救いをつなぐ仏。火で断つのではなく、時間の先に待つものを置く存在。それが、今の美緒には自分の立ち方に近いものに思えた。考えているだけでは、何も変わらない。そのことも、もう分かっていた。美緒は鏡から離れた。離れを出ると、渡り廊下の木の床は湿った光を帯びていた。雨は細かく、横から吹き込むほどではない。けれど、足元には薄い水の気配がある。梓に言われた言葉を思い出す。雨の日は、足元に気をつけてください。それはただの注意であり、同時に、
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34.背中に刻むもの

雨は、細い糸のように降っていた。黒瀬本家の玄関先には、濡れた傘が何本か並んでいる。石畳は朝から一度も乾かず、庭の青葉は雨を含んで色を深くしていた。廊下の木の匂いにも、畳の匂いにも、湿気が入り込んでいる。美緒は、傘を手にして玄関へ向かった。行き先は、誰にも告げていない。告げるつもりもなかった。ただ、離れを出る前に、鏡の前で一度だけ自分の背中を意識した。そこにはまだ何もない。けれど、何もないままではいられないところまで、もう来ていた。迅の背中には不動明王がある。黒瀬を背負い、守るために火の中へ立つ男の覚悟がある。では、自分は。そう問い続けた末に、美緒は弥勒菩薩を選んだ。迅に見せるためではない。迅に選ばれるためでもない。守られるだけの妻ではなく、自分の意思で黒瀬に立つために。玄関先で草履を履こうとした時、奥から佳穂が姿を見せた。美緒は顔を上げた。佳穂は、何も尋ねなかった。どこへ行くのかとも、今日なのかとも、やめなさいとも言わなかった。ただ、美緒の背筋を静かに見た。雨の日の薄い光の中で、その視線だけがまっすぐだった。「雨が強くなる前に戻りなさい」それだけだった。美緒は深く頭を下げた。「はい」許可ではない。見送りでもない。けれど、その短いやり取りで十分だった。佳穂は止めない。美緒も、もう許しを求めてはいない。傘を開くと、雨粒が布を細かく叩いた。美緒は一度だけ本家の奥へ視線を向けた。迅の姿はない。どこかで黒瀬の用に入っているのだろう。低い男たちの声が、廊下のさらに奥から雨音に混じって聞こえた。美緒は、その声の方へは行かなかった。玄関を出た。古い路地は、前に来た時よりも暗く見えた。表通りの明るさから一歩入るだけで、音が変わる。車の音は遠くなり、濡れた石畳に落ちる雨音と、軒先から垂れる雫の音だけが近くなる
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35.知らない背中

雨がやんだと思ったのは、ほんの一時間ほどだった。夜になる頃には、また細い雨が降り始めていた。離れの窓ガラスには湿気が白く残り、庭の石畳は黒く濡れている。軒先から落ちる雫の音が、畳の上まで静かに届いていた。美緒は、鏡の前に立っていた。灯りは落としてある。明るすぎると、自分の顔色まで見えてしまう気がした。薄い光の中で、鏡に映る自分はいつもと変わらないように見える。髪は崩れていない。襟元も乱れていない。着物の合わせも、外から見ればいつも通りだった。けれど、背中だけが違っていた。そこには、未完成の線がある。蓮の輪郭。肩甲骨を越える細い熱。弥勒菩薩の目元へ向かう、まだ形になりきらない筋。鏡越しに見ようと思えば、少しは見られるのかもしれない。だが、美緒は身体をひねらなかった。見れば、自分が本当に戻れない場所へ足を踏み入れたのだと、もっとはっきり分かってしまう。見なくても、分かっている。衣擦れだけで、背中が熱を持つ。深く息を吸うと、肩甲骨のあたりが引きつる。腕を上げようとすると、皮膚の奥で細い痛みが動く。そのすべてが、そこに線があることを教えていた。美緒は、そっと息を吐いた。痛みは、後悔ではなかった。誰かに見せるための痛みでもない。迅に気づいてもらうためのものでもない。自分が選び、自分が背負うと決めたものだった。それでも、誰にも知られていない痛みは、思ったより孤独だった。美緒は鏡から離れ、台所へ向かった。いつも通りにしなければならない。迅が帰ってくる前に、茶を淹れる支度をする。食器を整える。湿気を逃がすために窓を少し開け、けれど雨が吹き込まないよう角度を見る。迅が濡れて戻った時のために、玄関脇には太いハンガーと乾いた布を置いておく。そうした小さな支度を、いつも通りに。だが、身体は正直だった。急須を取るために腕を伸ばした瞬間、背中に鋭い熱が走った。美緒は思わず動きを止める。息を吸い込む前に、ゆっくり
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36.門の外の朝

門の外に立った時、美緒はすぐには歩き出せなかった。雨は上がっていた。けれど、空は白く濁ったままだった。低い雲が大阪の朝を押さえつけるように広がり、路面には夜の雨がまだ残っている。アスファルトは黒く濡れ、車が通るたび、薄く水を弾いた音がした。背後には、黒瀬本家の門がある。もう振り返らなかった。振り返れば、門の内側に続く石畳が見えるかもしれない。庭の青葉が見えるかもしれない。離れの屋根が、ほんの少しだけ見えるかもしれない。佳穂が整えていた玄関の花も、白檀の匂いも、低く交わされる男たちの声も、迅の黒いスーツの気配も、まだそこにあるのかもしれない。けれど、それらはもう門の向こうだった。門一枚の向こうに、ついさっきまで自分のいた場所がある。黒瀬美緒として立とうとした場所。若奥さんと呼ばれた場所。迅の隣にいようとした場所。美緒は、鞄の持ち手を握りしめた。荷物は少なかった。黒瀬の家で使っていたものは、ほとんど置いてきた。離れに馴染んだ小物も、黒瀬の空気をまとった着物も、若奥さんとしての日々を思い出させるものも、持ち出さなかった。持ち出せなかったのではない。持って出れば、自分がまだ黒瀬にしがみついているような気がした。それでも、何も持たなかったわけではない。鞄の底には、布包みが入っている。針。糸。メジャー。小さな裁ちばさみ。指ぬき。何度も手に馴染ませてきた道具。迅から与えられたものではない。黒瀬の家で持たされたものでもない。三嶋洋服店の娘として、美緒がずっと使ってきたものだった。美緒は、鞄の上からその硬さを確かめるように指を押し当てた。裁ちばさみの小さな重みが、布越しに手へ返ってくる。その感触だけが、今の美緒をかろうじて現実につなぎ止めていた。目の前では、大阪の朝が動いていた。通勤する人たちが、傘を畳んだまま足早に歩いて
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37.三嶋へ戻る

引き戸を開けた瞬間、店の匂いが胸いっぱいに入ってきた。湿気を含んだ布の匂い。古い木棚の匂い。アイロンの熱が、雨上がりの重い空気の中にじっと残っている匂い。黒瀬本家の白檀でも、煙草でも、濡れた石畳でもない。ここには、布と仕事の匂いがあった。幼い頃から何度も吸い込んできた、自分の身体の奥に染み込んでいる匂いだった。「美緒?」帳場の奥から、母の声がした。その呼び方に、美緒は一瞬、足を止めた。美緒。ただの、美緒。黒瀬で呼ばれていた「美緒さん」でも、「若奥さん」でもない。誰かの妻としての距離も、家の中での立場も含まない、幼い頃からずっと呼ばれてきた名前だった。その一言が、胸の奥に深く入った。黒瀬で得た呼び名が、身体から一枚ずつ剥がれていくようだった。母は帳場の伝票から顔を上げたまま、しばらく動かなかった。美緒の顔を見て、持っている鞄を見て、それからもう一度、美緒の顔を見た。何かを察したのだろう。母の表情が、ほんの少しだけ固まった。「……ただいま」美緒は、やっと声を出した。その一言は、普通の帰省の言葉ではなかった。買い物帰りでも、顔を見せに来たわけでもない。帰る場所を失った人間が、最後に残った場所へ戻ってくる言葉だった。母はゆっくり立ち上がった。「どうしたの。顔、真っ白やないの」「大丈夫」そう言おうとして、言葉が喉の奥で止まった。大丈夫ではなかった。けれど、そう言わなければ、立っていられない気がした。店の奥では、隆文が裁ち台の前にいた。濃い色の布を広げ、アイロンを当てる準備をしていたところだった。手元には、直し途中の上着がある。肩の線を確かめるために、布を押さえたまま、美緒を見ていた。隆文はすぐには何も言わなかった。美緒の姿を見ていた。荷物の少なさ。黒瀬から戻ってきたにして
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38.黒瀬ではない名前

翌朝も、空は白く曇っていた。雨はまだ落ちていない。けれど、店先の通りには湿った風が流れ、庇の端には昨夜の雫がいくつか残っている。アスファルトは乾ききらず、通りを行く自転車のタイヤが薄い水の跡を引いていった。三嶋洋服店の中には、いつもの匂いがあった。湿気を吸った布の匂い。古い木棚の匂い。帳場の紙の匂い。それから、アイロンの熱。奥の部屋でほとんど眠れないまま朝を迎えた美緒は、布団の上でしばらく天井を見ていた。目を閉じれば、黒瀬本家の門のことが浮かぶ。離れの畳、雨音、迅の背中、差し出した鍵、書いた名前。考えまいとしても、考えてしまう。奥の部屋は、懐かしいはずだった。学生時代に使っていた本が少し残っていて、棚の上には古い裁縫箱があり、壁の隅には昔貼っていた小さな跡もある。けれど、そこに横になっている自分は、昔の三嶋美緒ではなかった。背中には、未完成の弥勒菩薩の熱がある。衣擦れのたびに、細い痛みが走る。深く息を吸えば、肩甲骨のあたりが引きつる。昨日、母に肩へ触れられた瞬間の痛みを思い出し、美緒はそっと身体を起こした。じっとしていると、黒瀬のことばかり考えてしまう。それがいちばん苦しかった。美緒は身支度を整え、奥の部屋を出た。店先では、もう隆文が裁ち台の前に立っていた。布を広げ、端を指で押さえながら、湿気で少し重くなった生地の癖を見ている。母は帳場で伝票を揃えていた。紙の端がわずかに波打ち、母はそれを指で軽く押さえながら日付を確かめている。二人とも、美緒に気づいた。先に声をかけたのは母だった。「今日は休んでてええよ」美緒は首を横に振った。「少しだけ。じっとしてる方が、しんどい」母は言い返しかけた。唇が少し動く。けれど、言葉にはしなかった。ここで止めれば、美緒がさらに居場所をなくすと分かってくれたのかもしれない。隆文は、手元の布から目を離さずに言った。
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39.古い礼状

雨の日の午後は、店の音が少なくなる。通りを歩く人の足音は濡れた舗道に吸われ、車の音も遠く聞こえた。三嶋洋服店の硝子戸には細い雨粒がつき、外の景色を少しだけぼやかしている。客足は昼過ぎから途切れていた。こんな日は、急ぎの仮縫いでもない限り、客も無理に出てこない。店の中では、湿気を避けるために薄い布地を少し奥へ入れていた。棚の前に立つと、布がいつもより重く感じられる。指で端を持ち上げても、晴れた日のように軽く返ってこない。空気そのものが水を含んで、布にも紙にも、人の身体にもまとわりついているようだった。美緒は帳場の横に立ち、古い納品控えを揃えていた。本格的に針を持つには、まだ少し早い。そう自分でも分かっていた。背中の未完成の弥勒菩薩は、日によって熱の出方が違う。朝は平気だと思っても、少し腕を伸ばすだけで肩甲骨のあたりが引きつることがある。湿気のせいなのか、傷がまだ身体に馴染んでいないせいなのかは分からない。けれど、奥の部屋にいるよりは、店先にいた方が息ができた。布の匂いがある。紙の音がある。父が奥で布を確かめる気配があり、母が帳場で伝票を揃える音がある。黒瀬のことだけを考え続けずに済む。母は、帳場の下の引き出しから古い仕事帳を何冊か取り出していた。「古い控え、少し整理しようと思って」表紙は少し色褪せていた。角が擦れ、背の部分には手で何度も開かれた跡がある。湿気のせいで紙の端がわずかに波打っていた。美緒は頷いた。「手伝う」母は一瞬、心配そうに美緒を見た。「無理せんでええよ」「見てるだけでも、落ち着くから」母はそれ以上、止めなかった。美緒が何かに触れていたいのだと、分かってくれたのかもしれない。何もせずに座っていると、考えたくないことばかりが浮かんでくる。黒瀬の門、離れの鍵、迅の背中、紙の上で書き換えた名前。そういうものが、湿った空気の中で何度も戻ってくる。美緒は仕事帳を一冊、そっと開いた。そこには、三嶋洋
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