All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話

「どこにいるのかと聞いている」「外だ。取引先と商談をしている」電話の向こうでしばらく沈黙が流れ、父親の声がさらに低くなった。「理人が私と母さん、それに詩帆を連れて港江へ来ている。お前も今すぐ来なさい」真洋は電話を切り、目を閉じた。柏家の息子は、真洋一人ではない。弟の柏理人(かしわ まさと)がいる。ワールド・エンターテインメントに問題が起きて以来、父親は突然、理人に柏グループの中核事業を任せ始めた。その意味は、考えるまでもなかった。真洋は目を開け、血に染まった自分の手を見下ろした。手の甲にある傷口からは、今も血がにじみ出ている。血は指の間を伝って地面へ滴り落ち、小さな暗赤色の染みを作った。真洋はゆっくりと拳を握りしめた。傷口が圧迫され、骨身に染みるような痛みが走ったが、眉一つ動かさない。すでに八角家の全権を握っている蒼士と比べれば、自分はあまりにも力不足だ。紗寧を蒼士から取り戻す方法を考えなければならない。そのためにも、まずは柏家の後継者としての地位を確固たるものにする必要がある。「真洋さん、これからどこへ?」「ホテルだ。両親が来ている」真洋はシートの背にもたれ、深く息を吐いた。「向こうの用事を片づけてから、紗寧に会いに行く」......その頃、邸宅の玄関前では――紗寧が階段にしゃがみ込んでいた。足元には黒が寝そべり、尻尾を気まぐれに揺らしている。紗寧はゆったりとした白いTシャツを着て、髪を無造作に後ろで結んでいた。滑らかな額と白いうなじがわずかにのぞき、首筋にはまだ艶めいた赤い痕が残っている。車が入ってくる音を聞いて顔を上げると、その目がぱっと輝いた。立ち上がり、車のほうへ歩み寄る。黒は彼女よりも早く駆け出し、止まったばかりの車の周囲を二度ほど回った。尻尾がちぎれんばかりに勢いよく振っている。「お帰りなさい」蒼士がドアを開けて車を降りると、紗寧は笑顔で近づいた。だが、二歩ほど進んだところで足を止める。蒼士の手の甲には真っ赤な血がついており、色白の肌の上でひどく目立っていた。「怪我をしたんですか?」蒼士は手の甲へ目を落とした。おそらく先ほど、どこかで擦ったのだろう。「大したことはない」紗寧は彼を睨むと、その手を取って家
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第172話

蒼士の表情が一瞬だけ固まった。だが、その変化はすぐに消える。彼はわずかに眉を上げ、口元に笑みを浮かべた。「どうした?俺がさっきどこへ行っていたのか、忘れたのか?」紗寧は一瞬きょとんとしたが、すぐに気づいた。――そうだった。蒼士が先ほど向かったのは八角家の本邸だ。当然、彩未にも会ったはずだった。ならば、彼女の本当の名前を知っていても不思議ではない。加賀美紗寧であろうと、貝原紗寧であろうと――どちらにしても、咲良ではない。紗寧は目を伏せ、無意識に指を丸めた。「その......気にならないんですか?」どう言い繕っても、貝原家が蒼士を騙したことに変わりはない。紗寧は別人の名を名乗って、蒼士と結婚したのだ。厄払いのための縁組という話が本当かどうかはともかく、蒼士の命に関わるとされていたことだ。紗寧が知るかぎり、港江の名家には今でも占いや縁起を重んじる者が多い。少なくとも一穂は信じていた。そうでなければ、厄を払うために結婚させようとはしなかったはずだ。ところが、実際に嫁いできたのは別人だった。それでも厄払いの意味はあるのだろうか。蒼士は怖くないのだろうか。紗寧の考えを見抜いたかのように、蒼士はその手を取り、指を絡めた。乾いて温かな手のひらが、彼女の少し冷えた指を包み込む。親指で手の甲を優しく撫でながら、静かに告げた。「俺はむしろ、貝原家が咲良の代わりに君を寄こしてくれたことを喜んでいる」紗寧の心臓が大きく跳ねた。「紗寧だったから、嬉しかった」その瞬間、紗寧の呼吸が乱れた。自分の鼓動がはっきりと聞こえる。一度、また一度と、速く、強く、今にも胸から飛び出しそうだった。蒼士と一緒に過ごし始めて、まだ十数日しか経っていない。長い人生から見れば、取るに足りないほど短い時間だ。だが、そのわずか十数日の間に、紗寧はこれまでの二十数年間で一度も味わったことのないものを知った。彼女だって、感情のない人間ではない。胸がときめくこともある。心を奪われることもある。抗えないほど、誰かに惹かれてしまうこともある。紗寧は自分へ言い聞かせるように心の中で言い訳した。蒼士のように容姿端麗で裕福なうえ、優しい男を前にして、心が動かない女性などいるだろうか。
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第173話

そのとき、スマホが突然震えた。紗寧は助かったとばかりに蒼士の腕の中から抜け出し、急いでスマホを手に取った。着信表示を確認すると、蒼士へ口元に指を当てて静かにするよう合図する。そして深く息を吸い、通話ボタンをスライドしてスマホを耳に当てた。「もしもし、お母さん?」「紗寧。今、大丈夫?」紗寧は蒼士をちらりと見た。彼はソファの背にもたれ、彼女を見つめている。その口元には、意味ありげな笑みが残っていた。「ええ」電話の向こうで一瞬、沈黙が流れた。芳美はさらに声を潜めた。「八角さんは近くにいない?」「......いないよ」紗寧は仕方なく嘘をついた。耳がますます熱くなる。蒼士の口元に浮かぶ笑みが、さらに深くなった。立ち上がって紗寧の頭を撫でると、そのままキッチンのほうへ歩いていく。紗寧はほっと息をつき、手で顔を扇いだ。だが、頬の熱は少しも引かなかった。「ちょっと聞いてほしいことがあるの」スピーカーから聞こえる芳美の声は、どこか重々しかった。「さっき、知らない人から電話がかかってきて、訳の分からないことをいろいろ言われたの」「どんなこと?」「私たちは八角蒼士に騙されているって。西区の事業で問題を起こしたのも彼で、自分で仕組んでおきながら救世主のふりをしているんだって......」紗寧は眉をひそめた。「誰から?そんなでたらめを言うなんて」「分からないわ。名乗らなかったから」芳美はそこで一度、言葉を切った。「私もでたらめだと思ってるのよ。ほら、西区の事業は全部八角さんのおかげでしょう?彼がいなかったら、貝原家が危機を乗り越えられるはずもなかったもの。そうだ、紗寧......」話題を変えるように、芳美が続ける。「八角豊水さんと連絡は取れる?明文に事業を紹介するって約束してくれていたのに、今日は何度かけても電話に出ないのよ」紗寧は唇を引き結んだ。「お母さん、豊水さんは警察に身柄を拘束されたの。明文さんには、今のうちに手を引くよう伝えて。巻き込まれたら大変だから」「え!?警察に拘束されたの?いったい何があったの?」「詳しいことは、私にも分からないの」電話の向こうで数秒の沈黙が流れ、芳美は深いため息をついた。「紗寧、お母さんも言いたくはないけれどね。八
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第174話

芳美の目がぱっと輝き、慌てて近寄った。「咲良が?何て言ってるの?今どこにいるの?元気にしてる?」明文は落ち着くよう手で制し、再びスマホを耳へ当てた。「咲良、芳美もここにいる。少しくらい話しなさい」電話の向こうから、苛立った咲良の声が聞こえてきた。「スピーカーにしないでよ。あの人とは話したくない」明文は芳美をちらりと見て、気まずそうにスピーカーを切った。芳美の笑顔が一瞬こわばる。だが、すぐに何事もなかったかのような表情へ戻り、そばへ寄って耳を澄ませた。「咲良、ちゃんと食べてる?その男にひどいことをされてない?」咲良はその問いには答えず、単刀直入に尋ねた。「お父さん、紗寧と八角蒼士はいつ結婚式を挙げるの?そろそろ帰りたいんだけど」「月末だ。あと1週間だ。戻ってくるのか?それはよかった」「うん。海も連れて帰る」明文は眉をひそめた。「その男はいったい何者なんだ?これだけ長く一緒にいるのに、顔すらまともに見せようとしないなんて。本当にまともな人間なのか?」咲良は得意げに答えた。「海は公爵家の御曹司よ。身分の高い人なんだから、勝手なことを言わないで」明文は鼻を鳴らした。「公爵家の御曹司?詐欺師じゃないのか?」「お父さん!」咲良の声が大きくなった。「海は私にすごく優しいの。会ったこともないくせに、そんなふうに決めつけるなんてひどいよ!」明文はため息をついた。「分かった、分かった。もう言わない。紗寧の結婚式が終わったら、その男を連れて帰ってきなさい」「もちろんよ!私が選んだ人はあの八角蒼士にも負けてないって、そのとき見せてあげる!」咲良はそこで言葉を切り、ふと思い出したように尋ねた。「そうだ、お父さん。八角蒼士はもう長くないんでしょう?ちゃんと紗寧をなだめておいてよ。今さら嫌だなんて言い出さないようにね」明文は何か言おうと口を開いたが、結局その言葉を呑み込んだ。これまで何度か蒼士に会ったことはあるが、死期が迫っているようには到底見えなかった。だが、ここまで来た以上、もう計画を進めるしかない。何しろ咲良は、今やその素性も分からない男に夢中だ。八角家との縁組どころか、厄払いのために結婚することなど、到底受け入れないだろう。「安心して、ちゃんと分かってる」
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第175話

紗寧は蒼士を睨み、椅子を引いて腰を下ろした。「八角さんのせいでしょう」蒼士は低く笑い、用意してあった朝食のプレートを彼女の前へ滑らせた。「今日は会社へ行くのか?」「はい。今日は有賀さんの収録があるので、私が現場を見ていないと」「横川に送らせる」「大丈夫です。自分で運転できますから」「足がまだ治りきっていないだろう」「靴を履けば分かりません」「アクセルやブレーキを踏むには、足に力を入れる必要がある」紗寧は言葉に詰まった。それでも何か言おうとしたが、蒼士はすでに玄関のほうへ顔を向けていた。「横川、車を出せ」「......かしこまりました」紗寧は口を開いたものの、結局それ以上は反論しなかった。黒い高級車は邸宅を出ると、朝の通勤ラッシュに混じって走っていった。スタービルが近づいたところで、紗寧は上体を起こし、運転席の背もたれを軽く叩いた。「横川さん、次の交差点で止めてください」横川はバックミラー越しに彼女を見た。「奥様、八角様から会社の玄関までお送りするよう申しつけられております」「大丈夫です。交差点で降りますから」紗寧は慌てて手を振った。「この車から降りるところを同僚に見られたら、また変な噂を立てられてしまいます」横川は一秒ほど黙ったあと、前方の交差点で路肩へ車を止めた。紗寧はすぐにドアを開けて車を降り、彼へ手を振った。「もう行ってください。運転には気をつけてくださいね」横川は紗寧がスタービル前の広場へ入っていくのを見届け、車を出そうとした。そのとき、視界の端に異様な動きを捉えた。向かい車線を走っていたシルバーグレーの乗用車が、突然激しく加速したのだ。タイヤが路面をこすり、耳をつんざくような音を立てる。車は紗寧に向かって、一直線に突っ込んでいった。横川の瞳が大きく見開かれた。即座にアクセルを踏み込む。黒い高級車は、怒り狂った黒豹のように飛び出した。そしてシルバーグレーの車と紗寧の間へ、横から割って入る。相手の運転手は慌ててハンドルを切った。タイヤが激しい音を上げ、路面に何本もの黒い痕を残す。二台の車はぎりぎりですれ違った。金属同士がこすれる音が聞こえるほど、わずかな距離だった。シルバーグレーの車は止まることなく、アクセ
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第176話

何度か呼び出し音が鳴った末、ようやく電話がつながった。スピーカーから、不機嫌そうな女の声が聞こえてくる。「どうなったの?」「申し訳ありません。しくじりました......」「一年も刑務所にいたせいで、頭まで鈍ったの?女一人始末できないなんて。1年前と同じように車ではねればいいだけでしょう。そんなことまで私に教えさせるつもり?」電話の向こうで、数秒間の沈黙が流れた。「申し訳ありません......もう一度、機会をうかがいます」詩帆は冷たく鼻を鳴らした。「次もしくじったら、二度と私の前に現れないで!」「お嬢様......」「そう呼ばないで。あなたにそんな資格はないわ」詩帆は嫌悪もあらわに言い放った。「あのとき、あなたの父親さえいなければ、私の両親は死なずに済んだ。私だって孤児にはならなかった!大和田家は私に借りがあるのよ!あなたの命も私のもの。生きろと言えば生き、死ねと言えば死ぬの!」「はい、おっしゃる通りです......お嬢様」「もういいわ。ほかに用がないなら切るわ」「お嬢様、もう一つ......」大和田城介(おおわだ じょうすけ)は慌てて口を開いた。「刑務所で、加賀美という男と知り合いました。幼い少女への性的暴行で、懲役15年を言い渡された男ですが......」詩帆は眉をひそめた。「それが私と何の関係があるの?」「そいつは刑務所で、いつも一枚の写真を見ながら......自慰をしていたんです。偶然その写真を見たことがあるんですが、写っていた少女が貝原紗寧によく似ていました。それで探りを入れてみたら、写真の少女は自分の娘で、名前は加賀美紗寧、今は23歳だと言っていました。貝原紗寧の年齢とも一致します......」加賀美紗寧。詩帆の指先に、わずかに力がこもった。この世に、そんな偶然があるだろうか。「その男は今どこに?」「北城にいると聞いています......」「今すぐ向かって。見つけたら、ただちに私へ連絡しなさい」「分かりました」電話を切ると、詩帆はソファの背にもたれて目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、嫌悪に満ちた真洋の眼差しばかりだった。昔の彼は、あんなふうではなかった。確かに1年前、彼女が城介に命じて紗寧を車ではねさせたあと、真洋は一族の掟に従って彼女を厳しく
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第177話

男の後ろには、殺気をまとった屈強なボディーガードが数人つき従っていた。そのせいで、かえって彼の穏やかで人のよさそうな顔立ちが際立って見えた。「お......叔父さん......?」「動かなくていい。怪我をしているんだろう」八角岳(ほずみ がく)は足早に歩み寄り、心配そうに豊水の腕を支えた。「傷はまだ痛むか?」豊水の背中に、冷たい汗がにじんだ。「い......いえ、もう痛みません」後ろにいたボディーガードがすぐに椅子を運び、ベッドのそばへ置いた。岳は椅子に腰を下ろすと、脚を組んでくつろいだ姿勢を取り、豊水の全身を一通り眺めた。「具合はどうだ?」「ご心配いただき、ありがとうございます。もうほとんど治っています。じきに退院できます」豊水は慌てて姿勢を正し、笑顔を作った。「ここを出たら、蒼士の野郎を必ず八つ裂きにしてやります」岳は笑みを浮かべ、彼の肩を軽く叩いた。「まあ、そう焦るな」力は強くなく、むしろ優しいとさえ言えるほどだった。それでも、豊水の肩は目に見えて大きくすくんだ。岳は手を引き、椅子の背にもたれた。穏やかな眼差しを豊水へ向ける。「今日は、お前にいくつか聞きたいことがあって来たんだ。質問が済んだらすぐに帰る。休みの邪魔はしないよ」豊水は慌ててうなずいた。「何でも聞いてください。知っていることは何でも」岳は満足そうにうなずいた。彼は知的で優雅な印象を与える、涼やかな目元をしていた。笑えば朗らかで、笑っていなくても優しく親しみやすく見える。「貝原家のお嬢さんに飲ませるよう渡した薬は、もう使ったのか?」豊水は口を開いたが、その声はかすかに震えていた。「そ、それは......まだ方法を考えているところで......」――パシン!豊水の頬に、平手打ちが飛んだ。顔を横へ弾かれた彼は大きくよろめき、危うくベッドから転げ落ちそうになる。豊水は頬を押さえた。耳の奥で激しい耳鳴りが響き、口元からは一筋の血がにじんでいる。岳は立ち上がると、悠然と上着を脱ぎ、後ろに控えていたボディーガードへ渡した。それから袖をまくり、引き締まった前腕をのぞかせる。豊水の襟元をつかむと、その体を丸ごと吊り上げた。「豊水も知恵がついたようだな。とうとう私の言葉まで聞き流すようになっ
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第178話

「俺が用意した品を数えていたのか?」紗寧がぼんやりしていると、温かな胸が背中に触れた。蒼士の腕が後ろから回り、彼女の体をすっぽりと抱き込む。「これ、全部八角さんが用意したんですか?」蒼士は彼女の頭に顎を乗せた。「ああ。気に入ったか?」「どれも高価すぎます」「そうか?」蒼士の低く艶のある声が、耳元に響く。「適当に選んでくれ。気に入らないなら、別のものを用意させる」紗寧は慌てて首を横に振った。「気に入らないわけではなくて......」そこで言葉を切り、蒼士の腕の中で振り返ると、彼を見上げた。「あの、私たちは契約結婚で、期間も1年だけですよね。ここまで盛大にしていただく必要は......」蒼士はわずかに口元を緩めた。「もらえるものは、素直にもらっておけ。お金なら余るほどあるから気にしなくていい」「......」紗寧は唇を引き結んだ。それについては、嫌というほど実感している。先ほど何げなく一つの箱を開けてみると、中にはスイス銀行が発行した金地金の保管証書が入っていた。金の保有量を示す単位に「トン」が使われることもあるのだと、彼女は生まれて初めて知った。いよいよ明日は結婚式だ。港江のしきたりでは、挙式の前日に新郎新婦が顔を合わせることはできない。そのため、紗寧は今日、貝原家の邸宅へ戻り、一晩泊まることになっていた。けれど、この婚礼の品々を持っていくつもりはなかった。まず、芳美のことを信用できない。母の性格からして、一度でもこれらを貝原家へ持ち込めば、二度と外へ持ち出せなくなるだろう。それに、そもそも蒼士との結婚は1年限りの契約だ。形だけの儀式のために、これらを本当の嫁入り道具として持っていく必要はない。いずれすべて、蒼士へ返すことになるのだから。蒼士はソファの肘掛けにもたれ、一つずつ化粧箱を2階へ運んでいく彼女を見つめていた。「持っていかないのか?」「高価なものばかりなので、なくしたら大変ですから」蒼士は低く笑った。「なくしたら、また買えばいい」「......」紗寧が再び2階へ向かおうとすると、蒼士は立ち上がって彼女の細い腰を抱き寄せた。頭に顎を乗せ、くぐもった声で尋ねる。「今夜はここにいてくれないか?」「だめです。しきたりは守ら
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第179話

芳美は紗寧の腕を引き、家の中へ入りながらぶつぶつとこぼした。「どうして、もう少し引き止めなかったの?明文も私も、まだ話したいことがあったのに」「これからいくらでも話す機会はあるでしょう。明日が結婚式なんだから、きっと忙しいんだよ」芳美は手を振り、それ以上この話を続けようとはしなかった。「もういいわ。それより、明文は長いことあなたの手料理を食べていないの。キッチンを手伝って、夕食を何品か作ってちょうだい」紗寧の足が止まった。蒼士の邸宅で十数日暮らしている間、彼女は家事を何一つしていなかった。使用人だけでも十数人おり、身の回りのことはすべて整えてくれた。水を飲もうとすれば手元まで運んでくれるほどで、彼女が自分で何かをする必要などなかった。それなのに貝原家へ帰ってきた途端、また家族全員の食事を作らなければならない。以前は、それをおかしいと思ったことなど一度もなかった。長年貝原家で暮らすうちに、すっかり慣れてしまっていたのだ。芳美に何かをするよう言われれば、言われたとおりにする。それをつらいとも、理不尽だとも思わなかった。しかし今、八角家での暮らしと比べてしまうと、胸の奥がひどく重苦しくなった。「何をぼんやりしているの?早く行きなさい」芳美はすでに背を向け、使用人たちへ指示を出していた。「咲良が数日後に帰ってくるから、あの子の部屋をきれいに片づけておいて。シーツも布団も、全部新しいものに替えるのよ」使用人たちは返事をして2階へ上がっていった。「それから、あの棚も。隅にまだ埃が残っているじゃない。見えないの?」芳美は忙しなく使用人たちを指図していたが、振り返って紗寧がまだ同じ場所に立っているのを見ると、眉をひそめた。「紗寧?ぼーっとしてないで、早くキッチンへ。それから、2階にある咲良の部屋の棚は高くて私では手が届かないから、あとであなたが拭いておいて」「母さん、何をさせようとしてるんだよ」そのとき、見かねた颯が眉をひそめた。「お姉ちゃんは明日結婚するんだぞ。高いところに上らせて、もし落ちたらどうするんだよ?」「落ちるわけないでしょう。ついでに棚を拭いてもらうだけよ」芳美は不満そうに呟いた。「それでもだめだ」そう言うと、颯は紗寧の手首をつかんだ。「行こう、お姉ちゃん。俺の
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第180話

紗寧の顔は、今にも血が滴りそうなほど真っ赤になっていた。シーツを強く握りしめ、しばらくしてようやく、歯の隙間から絞り出すように答える。「......明日は結婚式があるんですよ」蒼士はわずかに口元を上げ、瞳に浮かぶ笑みをいっそう深くした。「つまり、明日の夜はいいのか?」紗寧はそのまま通話を切った。――この人は、もう......彼女は布団を頭までかぶり、真っ赤になった耳の先だけをのぞかせた。本当に意地が悪い。蒼士からの電話に散々振り回されたせいか、ビデオ通話を切ったあと、紗寧はかえって眠くなってきた。ただ、眠りに落ちる直前まで、先ほどバスルームにいた蒼士の姿が、ぼんやりと頭から離れなかった。あれこれ考えているうちに、いつしか眠りに落ちた。どれほど時間がたったのか分からない。突然、何かを叩くような音で目を覚ました。反射的に目を開けると、蒼士が窓を押し開け、部屋の中へ飛び込んでくるところだった。紗寧は慌てて起き上がった。「え、ほ、八角さん?ど、どうやってここまで上がってきたんですか?」「塀を越えてきた」「......」紗寧は布団をめくってベッドから下り、窓辺へ歩み寄って下をのぞき込んだ。彼女の部屋は2階にあり、地面までは5メートルもある。まさか、何の道具も使わず、素手でここまでよじ登ってきたのだろうか。「無茶しすぎです。こんな夜中に寝ないで、何をしに来たんですか?もし落ちたら......」蒼士は紗寧の細い腰を抱き寄せ、意味ありげに口元を緩めた。「まだ答えを聞いていないから」紗寧はあきれすぎて、思わず笑ってしまった。「こんな夜中に、わざわざそれを聞くために来たんですか?」「ああ」蒼士は大真面目な顔でうなずいた。熱い吐息が、彼女の顔に降りかかる。「意地悪こと、してもいいか?」そこで紗寧はようやく、二人の距離があまりにも近いことに気づいた。互いの体が隙間なく密着している。蒼士の胸は燃えるように熱く、何枚もの衣服を隔てているにもかかわらず、彼女の体まで溶かしてしまいそうだった。紗寧はなぜか喉が渇き、これ以上彼と密着していたくなくて、胸元に両手を当てた。「ま、まず離してください......」蒼士は額を彼女の額へ重ね、惑わせるような声で囁いた。
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