All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

芳美は2階から下りてきたが、美しく着飾った紗寧の華やかな姿を目にした瞬間、なぜか足を止めた。一瞬、別の誰かの面影が重なったような気がしたのだ。「お母さん?」芳美がその場に立ち尽くしているのを見て、紗寧がそっと呼びかけた。芳美は我に返ると、取り繕うように笑った。「......もう時間よ。ホテルへ向かいましょう」......会場は、港江屈指の最高級ホテルだった。八角家は宴会場のあるフロアをすべて貸し切っていた。ホテルのロビーには関係者以外、誰一人としていない。入口には黒いスーツ姿のボディーガードが十数人並び、全員が耳に無線イヤホンを装着して、警戒するように周囲へ目を配っていた。記念撮影用のフラワーウォールは、天井から花々が流れ落ちるように飾られており、贅を尽くした華やかさだった。空気には、かすかな花の香りが漂っている。紗寧を乗せた車が止まると、すぐにドアが開けられた。反射的に顔を上げると、笑みをたたえた黒い瞳と視線が重なる。車の外には、蒼士が立っていた。仕立てのよい黒のスーツに白いシャツを合わせ、蝶ネクタイも隙なく整えられている。その装いが、彫りの深い端正な顔立ちを、いっそう凛々しく冷ややかに見せていた。「ここで待ってたんですか?」昨夜見た甘く艶めいた夢を思い出してしまい、本物の蒼士を前にした紗寧の耳は、またも赤く染まった。蒼士は彼女の手を取り、低くかすれた声で答えた。「会いたかったから」「......からかわないでください」蒼士はわずかに口元を上げたが、それ以上は何も言わず、紗寧を連れて宴会場へ向かった。駿人は柱にもたれ、たばこを吸っていた。ひときわ派手なワインレッドのスーツを着て、色気のある目元を楽しそうに細めている。二人が近づいてくるのを見ると、たばこをそばの灰皿でもみ消し、にやにやしながら歩み寄ってきた。「咲良さん、今日はきれいですね。まるで天女が舞い降りてきたみたいだ。蒼士さんも幸せ者だなあ。今夜はあまり無理をさせないでくださいよ......」蒼士が横目で駿人を見た。ひどく淡々とした、何の感情も感じさせない眼差しだった。それでも駿人は背筋に寒気を覚え、すぐに両手を上げて降参する。「すいません。もう黙ります」口元のファスナーを閉める仕草をして後
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第182話

ホテルの入口から、長身の男が大股でこちらへ歩いてきた。隙なくスーツを着こなし、背筋はまっすぐ伸びている。端正な顔立ちは冷ややかで、全身から何もせずとも周囲を圧倒する威厳が漂っていた。駿人は目を輝かせ、慌てて手を振った。「兄さん!」彰馬はそばまで来ると、まず蒼士へ目を向け、軽くうなずいた。「結婚おめでとう」蒼士はわずかに口元を緩めた。「ありがとう」続いて、彰馬の視線が紗寧へ向けられた。紗寧はフラワーウォールの前に立っていた。サテンのマーメイドラインのウェディングドレスがほっそりとした体を包み、鎖骨の周りにあしらわれた真珠と細かなダイヤモンドが輝いて、白い肌をいっそう際立たせている。彰馬は彼女の顔をしばらく見つめ、わずかに眉を寄せた。――この顔は......兄が紗寧をじっと見ていることに気づき、駿人の胸に不安がよぎった。普段はあれほど落ち着いている兄が、いったいどうしたというのだ。相手は蒼士の妻だ。いつまでも見つめているのはまずいだろう。駿人がからかいの言葉を口にしようとしたとき、視界の端に、ここにいるはずのない人物が映った。その瞬間、彼の顔色が変わった。蒼士たちも駿人の異変に気づき、反射的に彼の視線を追う。ホテルの正面玄関から、大勢の一団が堂々と入ってくるところだった。先頭を歩く男は50歳前後。鍛えられた体で仕立てのよい黒いスーツを身にまとい、銀縁眼鏡をかけていた。レンズの奥にある優しげな目元は笑うように細められ、穏やかで人のよさそうな顔をしている。だが、その無害に見える柔和な姿こそが、その場にいた者たちの背筋を一斉に強張らせた。駿人は反射的に腰へ手を伸ばしたが、何もない。今日は結婚式に出席するため、武器を持ってきていなかったことを思い出した。小さく悪態をつき、謙吾のそばへ顔を寄せて、声を極限まで潜める。「あの古狸、当主に国外へ追放されたんじゃなかったのか?いつ戻ってきたんだ?何の情報も入ってこなかったが」謙吾も険しい顔をしていた。「分からない。こちらにも何も」二人は顔を見合わせた。互いの目に、同じ警戒の色が浮かんでいる。そして、岳の後ろにいる人物を確認すると、さらに胸が沈んだ。そこには豊水が立っていた。顔は真っ青で、目の下には濃い隈が広
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第183話

男の大きく温かな手のひらが、紗寧の耳をすっぽりと覆い、周囲の音を遮った。紗寧は一瞬きょとんとし、反射的に顔を上げる。蒼士が彼女を見下ろしていた。その目にはまだ冷たい光が残っていたが、紗寧へ向けられた黒い瞳は、氷雪が解けるように柔らかくなっている。「大丈夫だから......」指の隙間から届く声は、綿を一枚隔てているかのように、くぐもって聞こえた。「そんな『能なし』の戯言なんか、聞かなくていい」特に「能なし」という言葉を強調していた。駿人は一瞬呆気に取られたが、次の瞬間には吹き出してしまった。慌てて口元を手で覆ったものの、肩が激しく震えている。豊水の顔は、たちまち怒りで青ざめた。両手を固く握りしめ、今にも蒼士へ詰め寄ろうとする。「豊水」背後から、穏やかな声が響いた。大きな声ではなく、むしろ優しいとさえ言える口調だった。それでも豊水の動きは、突然停止させられたかのようにぴたりと止まった。彼はゆっくりと拳を下ろし、両脇へ垂らした。蒼士を憎々しげに睨みつけたものの、結局は不満を顔いっぱいに浮かべながら、岳の後ろへ引き下がる。その姿は、飼い主に首輪を引かれた凶暴な犬のようだった。牙をむき、唸り声を上げながらも、それ以上は一歩も前へ出られない。岳は手を上げ、蒼士の肩を軽く叩いた。優しげな目元を細め、穏やかな笑みを浮かべる。「蒼士、今日はめでたい日だ。彼の言うことなど、いちいち相手にするな」蒼士は答えなかった。ただ、自分が叩かれた肩へ視線を落とすと、わずかに眉を上げた。そして、何か汚いものでも払い落とすように、ゆっくりと肩を払った。岳はその仕草を見ても、笑顔を崩さなかった。やがて視線を、そばに立つ紗寧へ向ける。「こちらが蒼士の花嫁だね?なるほど、実に美しい。蒼士が誰にも見せたがらず、私に招待状すら送ってくれなかったのも納得だ」蒼士は淡々と答えた。「叔父さん、お世辞は結構です。そもそも、招待するつもりはありません」あまりにも率直で、一切の情けも容赦もない言葉だった。そばで聞いていた駿人は頭皮がしびれるような緊張を覚え、反射的に背筋を強張らせた。しかし、岳には怒った様子が少しもない。それどころか、さらに明るい笑みを浮かべた。「蒼士、そんな言い方をす
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第184話

「いつまで入口で立ち話をしているの?」そのとき、慶子に支えられた一穂が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。今にも衝突しそうだった張り詰めた空気が、一瞬で半分ほど和らいだ。岳は笑顔を崩さず、自然に敬意を示す。「母さん、いらしたのですね」一穂は彼を一瞥した。「岳、中まで支えておくれ」「はい」岳は笑みを深め、腰を低くかがめて、うやうやしく彼女を支えた。一穂は彼に支えられて数歩進み、宴会場の入口へ差しかかったところで、ゆっくりと口を開いた。「今回は、どれくらいここにいるつもり?」岳は心から嬉しそうに笑った。「蒼士の結婚式ですから、叔父として数日は滞在し、一緒にお祝いしようと思っています。式が終わったあとは母さんのそばでしばらく過ごし、少しでも親孝行をさせていただくつもりです」「親孝行?」一穂は一瞬足を止め、横目で彼を見たあと、再び歩き始めた。「その気持ちだけで十分よ。私はもう年だから、余計な騒ぎには耐えられないの。親孝行なら、これから先に取っておきなさい」岳は変わらぬ笑顔で答えた。「母さん、何をおっしゃるのですか。私は......」「岳」一穂が彼の言葉を遮った。「私があなたを呼び戻したのは、蒼士の結婚式に出席させるためだ。式を台なしにさせるためではない」岳の笑顔に、初めてわずかなひびが入った。しかし、それも一瞬で消える。彼は少し目を伏せた。「いえ、そんな。私にそんなことが――」「そのつもりがないのなら結構」一穂の声には、長い年月を重ねてきた者特有の重みがあった。「蒼士は幼い頃から苦労ばかりしてきた。両親を早くに亡くし、私もあの子には随分つらい思いをさせてしまった。ようやく結婚することになったんだ。誰にも邪魔はさせない」岳は恭しくうなずいた。「はい。母さんのおっしゃるとおりです」「あなたも、余計な思惑は早いうちに捨てなさい。八角家当主の座は、あなたが高望みしていいものではない」岳の手が、かすかに握られた。だが、すぐに力を抜く。顔を上げると、優しげな目を細め、一点の曇りもない誠実な笑顔を浮かべた。「いえ。当主の座など、私は一度も望んだことがありません。ただ、お祝いにあやかり、祝い酒を一杯いただきたくて戻ってきただけです」一穂は、その言葉の真偽を
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第185話

「わかりました......」蒼士が部屋を出ていくのを見届けると、紗寧は水を一口だけ飲んだ。自分が結婚するのは初めてだが、友人の結婚式には何度か出席したことがある。それでも、各テーブルへの挨拶回りに花嫁が一度も顔を出さない式など見たことがなかった。――八角家のしきたりは、ほかとは少し違うのだろうか。......控室には穏やかな時間が流れていたが、披露宴会場は大いに盛り上がっていた。蒼士は駿人と謙吾を伴い、招待客と乾杯していた。新郎の挨拶回りとはいえ、酒のほとんどを代わりに飲んでいたのは駿人と謙吾だった。事情を知らない者が会場へ迷い込めば、結婚したのはこの二人だと勘違いしかねないほどだ。「ずいぶん偉そうな花嫁ね。最初から最後まで一度も姿を見せず、新郎が友人二人を連れて挨拶回りだなんて、どういうつもりなのかしら」「本当よ。乾杯の席に花嫁が顔を出さない結婚式なんて初めてだわ。八角家も甘やかしすぎじゃない?」「しっ、声が大きいわよ。花嫁のご親族様が隣にいらっしゃるんだから」隣のテーブルに座る数人は、明文と芳美のいるほうへ顎をしゃくり、その目にかすかな軽蔑を浮かべた。明文は眉を寄せ、額に細かな汗をにじませていた。話している者たちは声をかなり潜めていたが、途切れ途切れに耳へ届く言葉が、彼の心を落ち着かなくさせる。明文は芳美をそっと見て、小声で言った。「芳美、紗寧の様子を見てきてくれ。挨拶に出るよう言うんだ。このままでは格好がつかない」芳美も険しい顔をしていた。唇を噛んでしばらく迷った末、立ち上がって控室へ向かった。控室は、宴会場脇の廊下の突き当たりにある。ドアは少し開いており、隙間から暖かな黄色い光が漏れていた。芳美がドアを押し開けると、紗寧はソファに座って果物を食べていた。ウェディングドレスの裾がカーペットの上へ広がり、咲き誇る白い花のように見える。「母さん?どうしたの?もう終わったの?」「何が終わったのよ」芳美は眉をひそめ、不機嫌そうに紗寧の前まで歩み寄った。「いつまでここに座っているつもり?外のお客様に挨拶もしないの?」紗寧はフルーツフォークを置いた。「八角さんが、私は出なくていいと言ったから」「出なくていいと言われたら、本当に出ないつもり?」芳美は声
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第186話

芳美の笑顔が、そのまま顔に張りついた。「いえ、そういう意味ではなく......私はただ......」「お義母さんは、そんなに皆さんと乾杯したいのですね」蒼士は彼女の言葉を遮った。口調は相変わらず淡々としている。「それなら、代わりにお願いしてもよろしいですか?」芳美は呆気に取られた。「先ほどご自分でおっしゃったとおり、挨拶しながら、注がれたお酒は一気飲むのはどうです?ちびちび飲んでいたら、失礼だと思われるのでしょう?」そこで言葉を切り、紗寧の手首にまだ残っている赤い痕へ目を落とした。「すべて、お義母さんのおっしゃる礼儀どおりにしていただけます?」芳美の顔から、瞬く間に血の気が引いた。唇を何度か震わせ、何か言おうとした。しかし、蒼士の黒い瞳と目が合った瞬間、口にしかけた言葉がすべて喉の奥につかえてしまう。芳美は泣き顔よりもひどい笑みを、無理やり浮かべた。「ええ......わかりました。今行きますから......」彼女の背後で控室のドアが閉まり、外の喧騒が遮られた。紗寧は反射的に後を追おうとしたが、蒼士に腰を抱かれ、すぐに引き戻された。「何をするんですか?」蒼士は紗寧の手首へ目を落とした。赤い痕はすでにほとんど消え、薄い跡が残っているだけだった。「痛い?」紗寧は首を横に振り、顔を上げて彼を見つめた。澄んだ瞳の中に、蒼士の姿が映っている。「母は、昔からああいう人なんです......でも、あんなふうに脅したら、今夜は眠れなくなってしまいますよ」蒼士は低く笑い、親指で彼女の手首を優しく撫でた。「眠れないくらいでちょうどいい。何杯か多めに飲めば、すぐに眠れるだろう」紗寧は言葉に詰まり、思わず口元を緩めた。――この人は......根に持つタイプらしい。......披露宴の後半、芳美はグラスを手に、次々と客と乾杯した。もともと酒にはそれほど強くない。普段は家で、年末年始や祝い事のときにワインを二杯ほど飲む程度だった。今夜使われているグラスは小さかったが、客の数が多い。会場を半分ほど回ったところで、とうとう耐えられなくなった。胃の中が激しくひっくり返り、芳美は突然口元を押さえ、よろめきながら化粧室へ駆け込んだ。背後でドアが閉まる。彼女は洗面台に覆い
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第187話

「人の心配より、自分の心配をしろ!何が心からの祝福だ、この一生独身!」「このっ!お前もだろ!」二人が罵り合う声を背に、黒いマイバッハは車の流れへ合流した。車内に座る紗寧の耳は、いつの間にか赤くなっていた。車がゆっくりと邸宅へ入っていくにつれ、心臓の鼓動はますます速くなり、今にも胸を突き破りそうになる。当初は、結婚式を終えたからといって、何かが変わるとは思っていなかった。それなのに、先ほど駿人が口にした酔った勢いの戯言が、頭から離れない。――自分と蒼士があんなことを?なぜか、昨夜見た夢が脳裏によみがえった。正直に言えば、紗寧は蒼士をそれほど拒んではいなかった。スキンシップ恐怖症を抱えているにもかかわらず、蒼士に触れられることには、それほど抵抗を感じない。それどころか......密かに期待したことさえあった。もし、本当に誰か一人を受け入れるのなら――相手が蒼士なら、それも悪くないような気がする。あれこれ考えているうちに、車が突然止まった。紗寧は反射的に窓の外を見る。そこでようやく、すでに家に到着していたことに気づいた。黒が犬小屋から勢いよく飛び出し、車の周りを二周した。嬉しそうに尻尾を振っていたが、すぐに横川が素早く首輪をつかみ、そのまま引き離していった。蒼士が先に車を降り、紗寧の手を取って屋敷の中へ向かう。使用人たちはすでに気を利かせて姿を消していた。広い屋敷の中には、二人の足音と息遣いだけが静かに響いている。蒼士は階段の前で足を止め、紗寧へ向き直った。紗寧は彼を見上げる。この角度からは、くっきりとした顎の線と、わずかに動く喉仏がよく見えた。「疲れたか?」「いえ」「腹は減っていないか?」紗寧は再び首を横に振った。「いえ......」蒼士はそれ以上何も尋ねず、瞬きすらせずに彼女を見つめた。紗寧は居心地の悪さを覚え、何か話そうと口を開きかけた。しかしその前に、蒼士が腰をかがめ、彼女の体を横抱きにした。「あっ......」紗寧は小さく声を上げ、反射的に彼の首へ腕を回した。「何をするんですか?」「抱いて2階へ連れていく」「自分で歩けます」「今日はだめだ」蒼士は紗寧を抱いたまま、階段を上っていく。その足取りは驚くほど安定
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第188話

紗寧は、今すぐ床に穴を掘って入ってしまいたい気分だった。「そ、そんなこと......思っていません......」蒼士は、半分までボタンを外していたシャツを片手で脱ぎ捨てた。均整の取れた筋肉質な体が、露わになる。彼は紗寧の手を握り、低くかすれた声で言った。「まあ、君がそこまで欲しいと言うのなら、俺も応えてやれないわけではないが......」紗寧は顔を真っ赤にし、彼の手から自分の手を引き抜いた。心臓が早鐘のように激しく打っている。蒼士のほうを見ることができず、視線の置き場もなく、頭の中は完全に混乱していた。自分が望んでいるとは、どういう意味だろう。本当は、蒼士のほうが......紗寧は唇を噛み、口元まで出かかった言葉を呑み込んだ。蒼士が一歩近づく。紗寧は慌てて彼を押し返そうとしたが、胸に触れた瞬間、火傷でもしたかのように手を引っ込めた。肌から伝わった熱に、腕の半分まで痺れたような感覚になる。「お、お風呂に入るんでしょう?早く行ってください......」蚊の鳴くような小さな声だった。顔はますます下を向き、今にも布団の中へ埋まってしまいそうだ。蒼士は動かなかった。ただ、その場で紗寧を見つめている。視線が彼女の顔からゆっくりと下り、鎖骨をなぞり、細い腰を通り過ぎ、ベッドに広がるドレスの裾へ落ちた。決して露骨な眼差しではない。むしろ、抑制が利いているとさえ言えた。しかし、その抑えられた視線こそが、むき出しの欲望よりも激しく彼女の胸を高鳴らせた。紗寧は全身が落ち着かなくなった。衣服は何一つ乱れず、きちんと身に着けている。それなのに、すべての装いを見透かされ、激しい鼓動まで隠せなくなったような恥ずかしさを覚えた。紗寧は手を伸ばし、彼の目元を遮ろうとした。「み、見ないでください......」蒼士は低く笑った。胸の奥から響く、熱を帯びた低い笑い声だった。まるで小さな槌で、何度も紗寧の胸を叩いているかのように響く。蒼士は腰をかがめ、彼女の両脇へ腕をついた。紗寧の全身を自分の下に閉じ込めるような体勢だったが、実際にはどこにも触れていない。紗寧の呼吸は、一瞬で乱れた。蒼士の吐息が頬を撫でる。温かく熱を帯び、かすかにウッディな香りがした。後ろへ逃げ
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第189話

蒼士の呼吸が、突然重くなった。喉仏が大きく上下する。紗寧には、彼の鼓動が急激に速くなったことが分かった。激しい鼓動が掌へ伝わってくる。自分の心臓よりも、さらに速かった。「自分が何をしているのか、分かっているのか?」蒼士の声は、ひどくかすれていた。紗寧は何も答えなかった。それでも、首に回した腕を離そうとはしない。目を伏せた彼女のまつ毛が、蝶の羽ばたきのように小さく震えている。その震えが、胸の内の緊張と動揺を隠しきれずに物語っていた。蒼士は深く息を吸った。何か重大な決断を下すかのように、目を閉じる。そして再び目を開けたとき、その瞳に残っていた自制は、跡形もなく砕け散っていた。蒼士に唇を重ねられた瞬間、紗寧の頭の中が激しく痺れた。これまでの触れるだけの口づけとは違う。今度の口づけは深く、激しかった。長い間押し殺してきた渇望と恋しさが込められ、まるで彼女を自分の中にまで溶け込ませようとしているかのようだった。紗寧は息もできないほど激しく唇を奪われた。両手を蒼士の胸に当てたものの、少しも押し返せない。「八角さん......」何か言おうと口を開いたが、すぐに再び唇を塞がれた。逃れようとしても、蒼士の腕が鉄の輪のように腰を抱き締めており、抜け出すことなどできなかった。思考が、少しずつ曖昧になっていく。温かな湯の中へ沈んでいるように、全身から力が抜けていった。腰に触れる蒼士の手は、燃えるように熱かった。薄いウェディングドレスの生地越しにも、その熱が肌を焼きそうなほど伝わってくる。やがて、部屋の明かりが消えた。カーテンの隙間から月明かりが差し込み、床に銀白色の道を描く。シーツがかすかな音を立て、寝具が乱れて重なっていった。窓の外には濃い月明かりが満ち、部屋の中には甘く熱い夜が広がっていた――......いつ蒼士に抱かれてバスルームへ運ばれたのか、紗寧はもう覚えていなかった。体は綿のように力が抜け、腕を上げることさえできない。紗寧は浴槽の中で小さくなっていた。温かい湯が肩まで満ち、立ちこめる湯気が視界をぼやけさせている。蒼士は浴槽の縁に腰を下ろし、タオルで彼女の髪を拭いていた。その手つきは、とても優しくゆっくりとしている。紗寧はこっそり
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第190話

紗寧が状況を理解するより早く、体は大きな窓へ押しつけられていた。目の前には、浅水区画の夜景が広がっている。きらびやかな夜景ではなかった。辺りは暗い。海面は漆黒に染まり、遠くでいくつかの船灯だけが明滅している。まるで、墨色のビロードに散らばった細かなダイヤモンドのようだった。月明かりが大きな窓から流れ込み、紗寧の全身を銀白色の光で包んだ。頬が冷たいガラスに触れ、吐息が薄い水蒸気となって窓を曇らせる。ガラスには二人の影が映っていた。乱れ、絡み合い、ぼんやりと輪郭を失った影が――「八角さん......」やめてほしいと言おうとした。しかし口から漏れた声は、思いがけず甘く震えていた。......数時間後。紗寧は布団の中へすっぽりと隠れ、赤くなった耳の先だけをのぞかせていた。蒼士はベッドのヘッドボードにもたれている。指には一本のたばこを挟んでいたが、火はつけていなかった。顔を横へ向け、布団からわずかに見える彼女の耳を眺める。蒼士は口元を緩め、手を伸ばして布団を少し引き下げた。紗寧の顔が現れる。茹でダコのように真っ赤だった。「何をするんですか」紗寧は彼を睨んだ。泣いたあとの声は、まだかすれている。先ほどは、あれほど必死に頼んだのに......「蒼士さん」も、「あなた」も、どれほど恥ずかしい呼び方でも、すべて言うとおりにした。それなのに、彼は最後まで容赦してくれなかった。本当にひどい人だ。ひどすぎる。この男は「かわいい」「きれいだよ」と低くかすれた声で何度も囁き、優しく宥めるくせに――決してやめてはくれなかった。蒼士は低く笑った。「息苦しくなるといけないからな」紗寧は頭がぼんやりとして、もう何もしたくなかった。今はただ眠りたい。蒼士は返事を待っていたが、しばらくたっても反応がない。体を起こして様子を見ると、紗寧はすでに眠りに落ちていた。黒く長いまつ毛が静かに伏せられ、羽を休める二羽の黒い蝶のようだった。蒼士はわずかに唇を緩め、後ろから彼女を抱き締めた。腕を腰へ回し、体ごと自分の胸の中へ包み込む。紗寧は寝ぼけたように小さく声を漏らした。蒼士の胸元へ頬をすり寄せ、楽な姿勢を見つけると、そのまま深い眠りに落ちていった。蒼士
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