All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 191 - Chapter 200

236 Chapters

第191話

紗寧は自分の身体を見下ろした。鎖骨から下には赤い痕が点々と残り、無事なところがほとんどない。息をのみ、慌てて布団を引き寄せて身体を包む。耳まで熱くなった。昨夜の光景が、頭に浮かぶ。大きな窓の前に押しつけられ、熱を帯びた肌に冷たいガラスが触れた。背後から覆いかぶさるように身体を寄せてきた彼の吐息が、耳元にかかる。低く、抗いがたい声だった。「まだ俺がダメだと思うか?」紗寧は布団に顔を埋めた。このまま繭のように全身を包んでしまいたい。恥ずかしすぎる。しばらく布団の中にこもったあと、彼女はゆっくりとベッドを下りた。足がカーペットに触れた途端、膝から力が抜け、危うく倒れそうになる。慌ててベッド脇のテーブルにつかまり、身体を支えた。両脚から骨が抜けてしまったかのように力が入らず、歩くだけでも震える。紗寧は壁に手をつき、一歩ずつ浴室へ向かった。歩くたびに身体の奥がじんと重く疼き、昨夜の出来事を思い出させる。洗面台の前で鏡を見ると、映っているのが自分とは思えなかった。頬は赤く、唇は少し腫れ、目尻にも赤みが残っている。雨に濡れた花のように、妙に艶やかだった。いちばん困るのは首元だ。耳の下から鎖骨まで赤い痕がびっしりとついていて、隠しようがない。紗寧は下唇を噛み、水道の蛇口をひねった。両手ですくった冷たい水を顔に当てる。顎を伝ってしずくが落ちても、頬の熱は引かなかった。身支度を済ませると、ウォークインクローゼットを長いこと探し、ようやく白いタートルネックのニットを見つけた。襟はちょうど鎖骨まで隠してくれる。鏡の前で痕が見えないことを確かめてから、ゆっくりと階下へ下りた。蒼士はリビングのソファに座り、スマホで何かを見ていた。シャワーを浴びたばかりらしく、額にかかる短い髪のせいで、いつもの冷たく鋭い雰囲気が和らいでいる。どこか穏やかで、気だるげに見えた。足音を聞いて、彼が顔を上げる。目が合った瞬間、紗寧の耳がまた赤くなった。蒼士はわずかに口元を緩め、スマホを置いて彼女へ手を伸ばした。「こっちへ」紗寧は彼をにらみ、そちらへは行かずに食卓へ向かった。だが二歩進んだところで、また脚から力が抜ける。慌てて椅子の背につかまり、心の中で蒼士を散々罵った。蒼士が立ち上がって近づき、
Read more

第192話

紗寧の顔が一気に赤くなった。彼の胸に顔を埋め、くぐもった声で言う。「......うるさいです」蒼士は低く笑いながら彼女を食卓まで運び、椅子に座らせた。それから振り返り、朝ごはんを用意しに行く。その後の3日間、紗寧はどこへも出かけられなかった。出かけたくなかったわけではない。とても外へ出られる状態ではなかったのだ。蒼士は一見、物静かで禁欲的に見える。ところが一度彼女に触れることを覚えると、初めて恋を知った青年のように、際限がなかった。昼間はまだよかった。彼も多少は加減してくれる。だが夜になると別人のようになり、紗寧が泣いて許しを乞うまで、何度も彼女を求めた。1日目の夜、彼は「これで最後だ」と言って、約束を破った。2日目の夜は「今度こそ最後にする」と言い、また約束を破った。3日目の夜には、紗寧も学習していた。彼が何と言おうと信じるまいと決めたのだ。それなのに「本当にこれで最後だ」と言ったときの蒼士は、断れないほど真剣な顔をしていた。声は優しく、眼差しも深くて......紗寧は、また信じてしまった。そして、また騙された。4日目の朝、腰を押さえてベッドから起き上がった紗寧は、鏡に映る鎖骨の新しい痕を見て、深く息を吸った。噂というものは本当に当てにならない。当てにならないどころか、ひどい目に遭わされた。紗寧は、この先はもう、蒼士の「これで最後」という言葉を信じないと決めた。......その朝早く、貝原家の邸宅の呼び鈴が、けたたましく鳴り響いた。使用人が小走りで玄関へ向かう。ドアを少し開けた途端、外から勢いよく蹴り開けられた。明文と芳美は、ちょうど食堂で朝食を取っていた。物音に驚き、そろって顔を上げる。「お父さん!」咲良が、目を真っ赤にして駆け込んできた。マスカラが目の周りに黒くにじみ、見るからに憔悴している。「咲良?」明文はすぐに立ち上がった。その姿を見ると、心配でたまらなくなった。「どうしたんだ?何かあった?」咲良は父親の胸に飛び込み、息もつけないほど泣きじゃくった。「それは......海に別れを告げられたの......ううっ......」「別れた?」明文が何か言うより早く、隣にいた芳美が眉を寄せて尋ねた。「仲よくしていたのに、どうして急に?」咲良
Read more

第193話

芳美と明文は、また顔を見合わせた。二人とも、ますますわけが分からなくなった。金を貢がせるわけでも、身体目当てでもない。裕福な家の娘を狙う男たちとは、どうも様子が違う。ただ、海という男が本当に公爵の息子なら、なぜそんな名前をしていたのだろう。海。どこでも見かけるようなありふれた名前で、貴族とは結びつかない。かといって詐欺師なら、金も取らず、手も出さず、いったい何が目的なのか。しばらく黙っていた明文が尋ねた。「結婚相手が誰なのかは聞いたのか?」咲良の目から、また涙がこぼれた。「聞いたよ。会ったこともない人で、家が決めた相手なんだって。お父さん、私、彼を捜しに行く。こんなふうに別れるなんて嫌なの......」明文は眉をひそめた。「行ってどうする。家の決めた相手と結婚すると言っているのに、なぜわざわざ追いかけるんだ?」咲良は焦った。「家族に逆らえないだけで、私を好きじゃなくなったわけじゃないもの!」「だったら待ちなさい。彼が片をつけてから考えればいい」咲良は足を踏み鳴らした。「それじゃダメなの!ほかの人と結婚しちゃったらどうするの?取り戻しに行かないと!」騒ぐ娘に頭が痛くなり、明文はこめかみを揉んだ。「落ち着きなさい。とりあえず家で――」「嫌!今すぐ飛行機を予約して、彼に会いに行くわ!」明文の声が低くなった。「咲良!いい加減にしなさい!」怒鳴られた咲良は、呆然としたあと、さらに激しく泣き出した。「お父さんまで怒るの......ううっ......失恋したばかりなのに、そんなに怒らなくても......」芳美が慌てて間に入った。「ほら、泣かないで。お父さんは怒っているんじゃなくて、心配しているのよ。しばらく家にいて。ずっと会えなくて、寂しかったんだから」咲良はしゃくり上げるばかりで、何も答えない。芳美はその手を取り、上から下まで眺めた。「痩せたわね。向こうでちゃんと食べていなかったんでしょう?何か作らせるから、ちゃんと食べてね」咲良はようやく、しぶしぶうなずき、芳美と食堂へ向かった。だが二歩ほど進んだところで立ち止まり、明文を振り返る。「そうだ、お父さん。紗寧と蒼士の結婚式は、もう終わった?」「終わったよ。3日前にな」咲良はほっと息をついた。
Read more

第194話

紗寧は頬を赤くしながら、頭に浮かんだ甘い光景を振り払った。それから階下へ向かう。ところが階段の踊り場を曲がったところで、蒼士の前に立ち、何かを低い声で報告している横川が見えた。ただ、その格好が......紗寧は足を止め、きょとんとしてまばたきをした。彼は今日は、ひときわ目を引くピンクのシャツを着ていた。髪は整髪料でセットし、襟元のボタンを二つ外している。どこかの御曹司のような装いだった。紗寧が知る横川は、春夏秋冬いつも暗い色のスーツ姿で、ネクタイまで黒か灰色か紺ばかり。こんなに派手な色を着ているところなど、一度も見たことがない。彼女は目をこすった。――見間違いではない。顔は確かにあの横川だ。階段のほうから物音がして、蒼士が振り返る。踊り場に呆然と立つ紗寧を見つけると、すぐに立ち上がって迎えに行き、細い腰を抱いた。「起きたのか?」紗寧はまだ混乱していて、蒼士の手が腰を親しげになでていることにも気づかない。「もう身体は痛くないだろう?」紗寧はようやく我に返り、顔を上げて彼をにらんだ。この数日、蒼士はどこからか塗り薬を手に入れ、毎晩寝る前に彼女へ塗ってくれていた。塗るだけならいい。だが、途中から必ず手つきがおかしくなり、指先があちこちへ伸びていく。そして結局、また彼女は散々振り回されるのだった。もっとも、薬は確かによく効いた。翌朝には身体の重さや疼きがかなり和らぎ、歩くときに脚も震えなくなっていた。だからといって、好き放題していいわけではない。「八角様、お車の準備ができました」玄関から声がした。紗寧がそちらを見ると、思わず固まった。――横川が二人?どういうこと?服装がまったく違っていなければ、目がおかしくなって二重に見えていると思っただろう。「おーい」蒼士は笑いながら紗寧の目の前で手を振り、ピンクのシャツを着た男を指差した。「こっちは横川海。耀の双子の弟だ。用事を済ませて戻ってきたばかりだ」「奥様、初めまして!」海はにっこり笑い、整った白い歯を見せた。紗寧はそこでようやく気づいた。顔はほとんど同じでも、二人の雰囲気はまるで違う。耀は無口で冷ややかで、近寄りがたい迫力がある。一方の海は目元が柔らかく、笑えば目が三日月のように細くなる。雑誌から抜け出してきた
Read more

第195話

天川は慣れた足取りで入ってきた。まるで自分の家のように、持っていたブリーフケースをソファへ放り出す。彼を見た紗寧の目が輝いた。「天川先生?」「ああ、貝......」言いかけた天川は、蒼士がわずかに目を細めたのを見て、ようやく気づいた。「あ、いや、八角さんに用があって。ほら、この前、貝原さんが八角さんを私に紹介してくれたでしょう?ははは......」紗寧は蒼士の体調を診に来たのだと思い、すぐに立ち上がった。「どうぞお座りください。お水をお持ちします」天川は慌てて手を振る。「いえいえ、大丈夫です。自分でやりますから」そう言うなり立ち上がり、迷いなく給湯室へ向かうと、落ち着いた手つきでお茶を淹れた。「......?」茶碗を持って出てきた彼を、紗寧が不思議そうに見つめる。その視線に気づき、天川は内心でしまったと思った。ここには、体が覚えてしまうほど何度も来ている。さっきは何も考えずに動いてしまった。「天川先生、以前にもいらしたことがあるんですか?」「ええと......前に八角さんと約束があって、何度か」「そうだったんですね」道理で自分の家のように勝手が分かるはずだ。「書斎で話そう」苦労して取り繕う天川を見かねたのか、蒼士が珍しく助け舟を出した。「わかりました」天川は何度もうなずき、蒼士の後について2階へ上がった。書斎のドアが閉まるなり、天川は額の冷や汗を拭った。「八角さん、昔彼女の治療のために、あなたが私を北城へ遣わしたことを、どうして貝原さんに話さないんです?長年あれほど想い続けてきたんでしょう?打ち明ければ、彼女はますますあなたを離れなくなるのに......」蒼士は机にもたれ、腕を組んだ。「それでは違う」彼が望んでいるのは、紗寧が自分の意志で彼を好きになることだ。恩義に縛られてでも、別の利害が絡んででもない。「それで、今日は何の用だ?」天川はポケットから封筒を取り出し、机に置いた。「諸富慎也が以前、八角さんに捜してほしいと頼んだ人物ですが、情報が見つかりました......」蒼士が封筒を開けると、中には黄ばんだ写真が一枚入っていた。写っている女性は角帽をかぶり、華やかな顔立ちで、希望に満ちた笑みを浮かべていた。その笑顔に、周りの景色まで明るく見え
Read more

第196話

紗寧は客間のソファに座り、温かいお茶を手にしていた。だが、視線は何度も2階へ向かう。天川が上がってから、もう30分近い。蒼士と何を話しているのだろう。お茶を一口飲む。ちょうどいい温度で、口に含むと少し苦いが、あとからじんわりと甘みが広がった。蒼士がいつも飲んでいる岩茶だ。本当は、このお茶はあまり好きではない。味が濃く、最初は渋い。甘みが出るまで時間がかかるので、飲み慣れない人には苦く感じる。けれど、蒼士は好きだ。何度か付き合って飲むうちに、紗寧も少しずつ味が分かるようになっていた。そのとき、スマホが鳴った。画面には颯の名前が表示されている。「お姉ちゃん、結婚おめでとう」電話に出ると、いつもの気楽な声が聞こえてきた。紗寧は口元をほころばせた。「ありがとう」「あのさ......蒼士に意地悪されてないよな?」「心配しないで。優しくしてもらってるよ」紗寧は笑った。「まだ子どもなんだから、そんなことまで心配しなくていいの」「誰が子どもだよ。俺、もう15だぞ!」颯は不満そうにつぶやいた。「お姉ちゃんが嫌な思いしてないか、心配してるんだよ。咲良のやつ、前から八角さんは重い病気で長くないとか、縁起の悪いことばっかり言ってただろ。だから......」「そんなの、ただの噂だよ」「ならよかった」颯はほっと息をついた。「もしあいつにいじめられたら言えよ。俺が代わりに一発殴ってやる」紗寧は思わず笑った。「勝てるの?」「......勝てなくても殴る」「もう、私のことはいいから。学校はどう?もう慣れた?」電話の向こうが一瞬、静かになった。「い、いい感じだよ。俺を誰だと思ってんの?どこへ行ったって人気者なんだから、うまくやれないわけないだろ」「本当に?」「本当だって。だからもう余計な心配しないで、自分のこと考えなよ」何かおかしい。紗寧がさらに尋ねようとしたとき、颯が話題を変えた。「そうだ、お姉ちゃん。咲良が帰ってきたぞ」紗寧は息をのみ、スマホを握る指に力が入った。颯は構わず話し続ける。「男に振られたんだって。前に、相手は公爵の息子だとか言ってたけどさ。3歳児だって信じないような話だろ。そんなことに騙されるなんて、あいつもどうかしてるよな」紗寧は指の関節が白くなるほ
Read more

第197話

電話を切ると、紗寧は玄関へ駆け出した。二歩ほど走ったところで、スリッパのままだと気づいて引き返す。靴に履き替えたものの、慌てているせいで、靴ひもは二度結び直してもうまく結べなかった。「何があった」聞き慣れた低い声が背後からした。顔を上げると、蒼士が階段を足早に下りてくるところだった。シャツの襟元は開いたままで、上着も着ていない。物音を聞いて急いで出てきたのだろう。後ろには、険しい顔をした天川もいた。紗寧は目を赤くし、震える声で言った。「颯が......学校で殴られていたんです。電話はまだつながっていて、向こうでは今も暴行が続いています。もう通報しましたが......」蒼士はそばに来ると、かがんで彼女の靴ひもを結んだ。それから手を取り、冷えきった指を乾いた温かな手のひらで包む。「俺も一緒に行く」......車が私立ポール高等学校の前に着いたときには、すでに救急車が来ていた。颯は顔を血で染め、担架に横たわっていた。制服も血が染み込み、紺色の生地が黒に近い紫色に変わっている。目は閉じたままで、唇には血の気がまるでなかった。救急隊員が後頭部をガーゼで押さえていたが、ガーゼはたちまち赤く染まる。指の隙間からあふれた血が手首を伝って白いシーツに落ち、暗い赤の染みをいくつも広げていた。紗寧は、その場で足の力が抜けた。背後から伸びてきた蒼士の腕が腰をしっかり支え、彼女を抱き寄せる。「颯?颯......!」担架の上の颯は動かず、顔も青白いままだった。救急車のドアが閉まり、再びサイレンが鳴り響く。赤と青の回転灯が、空気を切り裂くように明滅した。蒼士はすぐに紗寧を車に乗せ、救急車を追って病院へ向かった。後頭部を殴られた傷だったため、颯は病院に着くなり手術室へ運ばれた。紗寧は廊下の長椅子に座り、冷たい指を組んで膝の上に置いた。目はまだ赤かったが、もう泣いてはいない。手術室の扉の上では、「手術中」の赤いランプがついている。時間が一秒ずつ過ぎていく。その一秒一秒が引き延ばされたように長かった。廊下の奥から、慌ただしい足音が聞こえてきた。明文が険しい顔で大股に歩いてくる。後ろには、目を赤くした芳美が続いていた。手には、涙で濡れたティッシュを握りしめている。「紗寧!」芳美は足早に駆け寄り、紗寧の手を
Read more

第198話

手術室のランプは、まだついたままだった。廊下には息が詰まりそうな空気が漂い、消毒液の匂いが不安をいっそう強くする。紗寧は長椅子に座り、膝の上で両手を固く組んでいた。爪が手の甲に食い込み、三日月形の赤い跡をいくつも残している。目は真っ赤だったが、もう泣いてはいない。唇を固く結んだ姿は、限界まで張り詰めた糸のようで、今にも切れてしまいそうだった。蒼士は彼女の前にしゃがみ、両手で顔を包む。親指で目尻に残った涙の跡をそっと拭った。「紗寧、こっちを見て」紗寧の焦点の合わない目が、少し遅れて彼の顔を捉えた。その目には血が走り、不安のせいか瞳孔もわずかに開いている。ひどく心細そうだった。「彼は大丈夫だ」蒼士は落ち着いた低い声で続けた。「私立ポール高等学校のすぐ近くに、港江で一番の私立病院がある。救急車も10分とかからずに到着したし、救急隊員の処置も早かった。きっと大丈夫だ」紗寧はうなずいたが、何も言わず、ただ彼の手を強く握った。その指は氷のように冷たい。蒼士は彼女の手を両手で包み、自分の体温で少しずつ温めた。しばらく隣に座って付き添い、紗寧の呼吸が落ち着いてきたところで、蒼士は立ち上がった。「電話をしてくる。すぐ戻る」紗寧はうなずき、彼の手を離した。蒼士は廊下の突き当たりまで歩き、非常階段の扉を開けた。階段室は静まり返っていた。非常口の誘導灯が青白い光を放ち、彼の横顔を刃物で削ったように冷たく照らしている。耀も後に続いた。背後で扉が閉まり、廊下の物音が遠ざかる。蒼士は眉を寄せた。もう冷たい表情を隠す必要はなかった。「一体何があった」「殴ったのは5人で、全員、私立ポール高等学校の生徒です。中心になっていたのは九条瑞生(くじょう みずき)という17歳の少年で、九条家の一人息子です。九条家は港江で生薬を扱う事業を営んでいて、規模もそれなりに大きく、うちとも取引があります。財界の頂点にいるほどではありませんが、名の通った家です」耀は一度言葉を切った。「凶器は椅子の脚で、後頭部を殴っています。かなり強い力なので、頭蓋骨が折れている可能性が......」蒼士の目が暗く沈んだ。「理由は?」耀は唇を結んだ。「貝原颯が入学した初日から、連中は彼をいじめていたそうです。それまでは無視するな
Read more

第199話

蒼士は言葉を切り、耀を見た。黒い瞳には、少しの温かみもない。「貝原颯が無事なら、それでいい。だが、もしものことがあれば......」口元にわずかな笑みが浮かぶ。だが、その目は笑っていなかった。「あいつもあの世へ送ってやる。道中、寂しくないようにな」耀は背筋が冷え、すぐにうなずいた。「......承知しました。すぐに手配します」立ち去ろうとした耀を、蒼士が呼び止める。「待て。天川を呼んで、手術室に入らせろ」耀は少し驚いた。「八角様、この病院には港江でも最高の外科医が......」「それでもだ」蒼士の声は静かだった。「手術室に身内がいないと、安心できない」耀はすぐに意図を察した。「承知しました」耀が去るのを見届けてから、蒼士は非常階段を出た。紗寧はまだ廊下の長椅子に座っていた。姿勢も、彼が離れたときのままだ。蒼士は隣に腰を下ろし、肩に腕を回して自分のほうへ引き寄せた。紗寧の体が一瞬こわばる。だが、やがて力を抜き、彼の肩に寄りかかって目を閉じた。まつ毛はまだ、蝶の羽のように小さく震えている。蒼士は何も言わず、腕に少しだけ力を込めて彼女を抱いた。廊下は静まり返り、手術室からかすかに聞こえる機器の音と、時折ナースステーションで鳴る電話の音だけが響いていた。一秒、また一秒と時間が過ぎる。その一秒一秒が、ひどく長く感じられた。......一方、耀はエレベーターの前で下りのボタンを押した。扉が開き、中へ入る。扉が閉まる瞬間、廊下の角から誰かが姿を現し、こちらをうかがったのが視界の端に映った。耀はわずかに眉を寄せたが、気には留めなかった。そのまま地下駐車場へ下りる。駐車場は薄暗く、数本の蛍光灯が青白い光を放っている。フロア全体に、冷え冷えとした空気が漂っていた。車のそばで運転席のドアを開けたとき、背後に妙な気配を感じた。耀は動きを止め、横目で後ろを見る。エレベーターのほうから、誰かが歩いてきていた。少し急いだ足取りで、高いヒールが床を打つ音が、がらんとした駐車場にやけに鋭く響く。その人物は十歩ほど距離を空けたまま、つかず離れず、こそこそと後をついてきた。耀は眉をひそめる。――尾行か?それにしても下手すぎる。気づいてほしいとでも言いたげだ。耀は
Read more

第200話

咲良は、まつ毛に涙を残したまま立ち尽くした。目の前の顔を、改めてじっと見る。眉も目元も海とそっくりだ。高い鼻筋も、顎の輪郭も、寸分違わない。だが、雰囲気はまるで違う。――海は優しく、明るい。一方、目の前の男は氷のように冷たく、全身から人を寄せつけない気配を漂わせている。とりわけ、その目。黒く深い瞳には温かみがなく、こちらを見ても、まるで物を見ているように何の感情も浮かばなかった。咲良は半歩下がった。興奮していた顔が、気まずそうな表情に変わる。「ごめんなさい......顔が似ていたので......」耀は答えず、車のドアを開けた。咲良はその場に立ったまま、黒いマイバッハが駐車場の出口へ消えていくのを見送った。――どうして、あんなに似た人がいるのだろう。海が一人っ子だと言っていなければ、生き別れた双子の兄弟かと思ったはずだ。しばらくそこに立っていた咲良は、ようやくエレベーターへ向かった。二歩ほど進んでから足を止め、もう一度、駐車場の出口を振り返る。そして首を振り、視線を戻した。――もういい。それより、颯の様子を見に行こう。父親が同じ弟なのだ。子どものころからあまり好きではなかったが、こんなときくらいは顔を見せておくべきだろう。......同じころ、八角家の本邸では。午後の日差しが彫刻の施された木窓から差し込み、カリン材の床に細かな光の斑点を落としていた。裏庭の花壇では、数株の高価な花を咲かせている。そのほのかな香りに庭から漂う金木犀の香りが混ざり、心地よい空気をつくっていた。一穂は廊下の籐椅子に座り、茶碗を手にしていた。向かいに座る岳は、くつろいだ姿勢ながらも、母への礼を欠かさない。「この茶葉は今年摘んだばかりのものです。ぜひ飲んでみてください」一穂は茶碗を持ち上げ、香りを確かめてから一口飲み、かすかにうなずいた。「悪くないね」岳は笑みを浮かべ、自分の茶碗にも注いだ。二人はそのまま、とりとめのない世間話を続けた。茶の香りが立ち上り、花の影が揺れる。穏やかな午後のひとときに見えた。だが、その静けさの下では、互いの腹を探り合っていた。一穂は時折、見定めるような目を岳へ向けては、何事もなかったように視線を戻す。岳はずっとにこやかなままだ。その視線に気づ
Read more
PREV
1
...
1819202122
...
24
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status