All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

一穂は茶碗を置き、いっそう深く眉を寄せた。「蒼士は知っているのかい?」中年の男はうなずく。「蒼士様はすでに病院へ向かわれました。奥様もご一緒です」一穂はため息をついた。「結婚したばかりだというのに、こんなことになるなんてね。咲良もさぞ心配しているだろう。実の弟なんだから......」岳は茶碗を置いて立ち上がり、上着の前を整えた。「親戚のことですし、私が母さんの代わりにお見舞いに行きましょう」一穂は手を振った。「私も行くよ」岳は意外そうに母を見た。「でもお年ですし、病院は人も多くて落ち着きが――」「年寄りだからって、そこまで気を遣われるほど弱くはないよ」一穂が立ち上がると、岳はすぐに近づいて腕を支えた。「あの子は強情だからね。何かあったとしても、あなたには本当のことを話さないかもしれない。私が行けば、少しは支えになれるだろう」岳は笑顔でうなずいた。「母さんのおっしゃるとおりです。では、一緒に行きましょう」彼は横へ退いて母を先に通し、半歩後ろからついていった。その態度は、どこまでも控えめだった。一穂はゆっくりと、しかししっかりした足取りで歩く。銀髪が陽光を受けて光り、背筋はまっすぐに伸びていた。岳は目を伏せ、母の足元の少し後ろを見つめている。口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。穏やかで、何一つ怪しむところのない笑みだ。ただ、目の奥を何かが一瞬よぎった。その変化は、見逃してしまうほどわずかだった。......蒼士が集中治療室前にいるため、咲良は姿を見せるわけにいかなかった。そこで1階のロビーへ向かった。見回すと、隅にマッサージチェアが一列に並んでいる。業者によって設置された、スマホ決済対応の最新の有料マッサージチェアだった。しかし、席はどれも埋まっているものの、実際に料金を払って動かしている者はいなかった。咲良は作業員風の中年男性が座る一台を選び、QRコードを読み取って支払った。それを見た男性は慌てて立ち上がり、気まずそうに言った。「すみません......」咲良は返事もせず、ポケットティッシュで椅子をひととおり拭いてから腰を下ろした。しばらくスマホを見ていたが、やがてポケットにしまい、目を閉じて背もたれに寄りかかる。椅子が体にちょうどよく沿う。座ってい
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第202話

一穂と岳は、そのままエレベーターで上の階へ向かった。二人を見た蒼士が、わずかに眉を寄せる。「ばあさん?どうしてこちらに?」「あの子の容態は?」「まだ手術中です」一穂はため息をつき、紗寧の前へ歩み寄って手を握った。「咲良、きっと大丈夫よ。今は医療も進んでいるんだから、弟さんはきっと大丈夫」紗寧は目を伏せたまま、小さく答えた。「ありがとうございます、おばあさま」一穂はその手の甲を軽く叩き、芳美と明文にも親身になって言葉をかけた。二人の心がほぐれるほど、温かな言葉だった。「芳美さん」そのとき、それまで黙っていた岳が口を開いた。「たしか、もう一人娘さんがいらっしゃいましたよね?」芳美の笑顔が一瞬こわばる。答える前に、岳は思い出したように続けた。「ああ、次女の紗寧さんでしたね。姿が見えませんが......実の弟さんが大変なことになったのですから、お姉さんも心配でしょう」芳美は何度か唇を動かした。目に動揺が浮かんだが、すぐに押し隠す。「あの子は......地方にいて、すぐには戻れないんです」「そうでしたか。次女の方はどんなお仕事を?ずいぶんお忙しいんですね。結婚式にもいらっしゃらなかったようですし......」芳美はぎこちなく笑った。「ええ、仕事が忙しくて」二人のやり取りを聞き、一穂は気づかれないほどわずかに眉を寄せた。一瞬だけ芳美を見て、すぐに視線を外す。岳は口元に薄い笑みを浮かべ、さらに何か言おうとした。そのとき、手術室の扉が開いた。全員の視線が一斉にそちらへ向かう。執刀医が出てきて、マスクを外した。顔には疲れが見えたが、その声は明るかった。「ひとまず命の危険を脱しています。後頭部の傷も処置しました。頭蓋骨に軽い亀裂はありますが、骨のずれはなく、再手術の必要もありません。あとは安静にして回復を待ちましょう」芳美は足の力が抜け、崩れ落ちそうになったところを明文に支えられた。「本当ですか?もう大丈夫なんですか?」「現時点では。ただ、後頭部の傷は慎重に経過を見る必要があります。最初の48時間が大切です。頭痛や吐き気、意識がはっきりしないなどの症状が出たら、すぐに医師へ知らせてください」医師の言葉に、その場の全員が安堵の息をついた。紗寧もようやく張り詰めていた
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第203話

書斎では、耀がすでに待っていた。「八角様、調べがつきました」蒼士は机の向こうの椅子にもたれ、長い脚を組んでいる。指先では、無意識に万年筆を回していた。「話せ」「九条瑞生の父親、九条東吾(くじょう とうご)は、3日前に八角岳と会っています。二人きりで1時間近く話していました」蒼士は冷笑し、万年筆を机に放った。硬い音が響く。颯が巻き込まれた今回の災難は、岳が裏から仕向けたものだった。「颯は何発殴られた?」耀は一瞬戸惑った。「後頭部を1発、背中を3発です。正確には病院の報告を待たないと......」「その必要はない」蒼士は言葉を遮った。「俺の叔父にも同じ目に遭わせろ。ただし、息だけは残しておけ。結婚したばかりで葬式を出すのは縁起が悪いからな」「......承知しました」「手を出したガキどもも、一人残らず責任を取らせろ。証拠をまとめて、少年院に送るべき奴は送れ。親たちにも遠慮はいらない。必要な処置を。それから、周囲にも伝えておけ。今後、颯に手を出した奴は、全員こいつらと同じ目に遭うと」「はい」......数日後、九条家は完全に没落した。ほかにも複数の名家が巻き込まれ、問題を起こした息子たちを、夜のうちに国外へ送り出した。同じころ、私邸を出たばかりの岳の車を、路地の両側から現れた2台の黒い車が挟み込んだ。黒ずくめの覆面姿の男が8人、鉄パイプを手に彼の車へ向かってくる。護衛たちは必死に応戦した。しかし相手は数が多く、腕も立つ。最後には襲撃者を退けたものの、岳も無傷では済まなかった。車の窓越しに誰かが振り下ろした鉄パイプが、後頭部を直撃したのだ。医師によれば、あと2センチ当たる場所がずれるか、もう少し力が強ければ、命が助かったかどうか分からなかったという。岳の部下たちは懸命に調べたが、襲撃したのが誰なのか、ついに突き止められなかった。だが、岳には分かっている。港江でここまで痕跡を残さずに事を運べるのは、自分の甥以外にいない。真っ向から戦うつもりか。いいだろう。受けて立ってやる。......数日間休んだあと、颯はようやく退院した。この年頃の子は、そう簡単にはへこたれない。頭に大けがを負ったというのに、数日もすると元気に動き回っていた。「お姉ちゃん、聞い
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第204話

紗寧は急いで立ち上がった。自分の目元に笑みが浮かんでいることにも気づかない。「どうしてここに......」蒼士は彼女の手を取った。「迎えに来た。帰ろう」「メッセージを送りましたよね?あとで運転手さんに送ってもらうって......」「待てなかった」「......」紗寧は耳を赤くして顔をそむけ、それ以上は何も言わなかった。颯はベッドにもたれて腕を組み、仲睦まじい二人をにやにやと眺めている。「行こう。下で横川が待ってる」蒼士は彼女の手の甲を指先でなでた。「好きな料理を作らせた。この前言ってた好きなカニ、今朝、航空便で取り寄せたんだ」「本当ですか?」紗寧の目が輝いた。颯は二人をからかうつもりだったのに、目の前で散々仲のよさを見せつけられ、すっかり胸焼けしそうになった。「颯、ちゃんと休んでね。私たちはもう帰るから」紗寧は枕元の棚からバッグを取った。「あちこち出歩かずに、お母さんの言うことを聞くんだよ」「はいはい。いちゃつかないで早く行ってよ」紗寧は弟をひとにらみして、戸口へ向かった。廊下の角を曲がったとたん、蒼士が突然、彼女を横抱きにした。紗寧は驚いて彼の首にしがみつく。顔が一気に赤くなった。「何するんですか......見られちゃいます......」「見られて何が悪い?」蒼士は口元を上げた。「俺たちは正式な夫婦なんだ。誰にも文句は言わせない」紗寧は恥ずかしくて顔を上げられず、彼の肩に顔をうずめた。蒼士が紗寧を抱いて車に乗ると、咲良がようやくカーテンの陰から身を乗り出した。蒼士の後ろ姿をじっと見つめ、眉をひそめる。彼は重い病気で、もう長くない。そんな噂を、咲良はずっと聞かされていた。嫁いでも、まもなく未亡人になると思ったからこそ、あらゆる手を使って結婚から逃げたのだ。だが今、紗寧を抱いて颯爽と歩いていった男は、顔色もよく、落ち着き払っていた。病人には少しも見えない。咲良は唇を噛んだ。目には困惑と、抑えきれない悔しさが浮かぶ。どう見たって、死にかけの人には見えないじゃない。......車が邸宅に入るころには、もう暗くなっていた。玄関を入ると、料理のいい香りが漂ってくる。食卓には、湯気の立つ料理が並んでいた。紗寧は驚きと喜びの入り交じった顔
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第205話

紗寧の頭の中で、何かが弾けた。身を引こうとしたが、温かい大きな手にうなじを押さえられている。両手を蒼士の胸に当てて押しても、壁のように硬くてびくともしなかった。「......あの......ここは......だめです......」唇の間から漏れた声は途切れ途切れで、自分のものとは思えないほど弱々しい。蒼士はようやく唇を離し、額を彼女の額に寄せた。呼吸は少し荒く、親指はまだうなじの肌をゆっくりとなでている。「本当に?」紗寧は顔が真っ赤になった。息を整えながら彼の体を押す。「部屋に......戻りましょう......」恥ずかしさのあまり怒ったようになっている彼女を見て、蒼士はふっと笑った。首元に鼻先を寄せて深く息を吸う。低い笑い声が耳元に響いた。「部屋に戻ったら?」――この意地悪な人!分かっていて聞いているくせに。紗寧は顔を熱くして逃げようとしたが、大きな手で顔を戻された。「まだ答えてもらってない」彼女はにらみつけた。だが、潤んだ目には少しも迫力がなく、かえって彼を誘うように見える。「もう言わないでください......」隠れてしまいたいとでも言いたげな姿に、蒼士の目が深く沈んだ。彼は紗寧をひょいと横抱きにする。「何するんですか......!」驚いた紗寧は、とっさに彼の首に腕を回した。「奥さんの言うとおり、部屋に戻る」紗寧は胸元に顔をうずめた。耳が熱く、心臓が胸から飛び出しそうなほど速く打っている。蒼士は彼女を抱いたまま2階へ上がり、足で寝室のドアを押し開けた。身をかがめてベッドに下ろすと、紗寧の体は柔らかな寝具に沈み込む。「カーテン......」紗寧の声が震えた。「閉めない」蒼士は彼女の上に手をついて身をかがめ、低くかすれた声で言った。「こんなに綺麗な景色が見えるのに、もったいないだろ」月の光が窓から差し込み、壁に映った二人の影が重なって、どちらのものか分からなくなった。部屋には甘い空気が満ちていく。......数時間後。紗寧は浴槽の中でぐったりしていた。体を一度ばらばらにされて組み立て直されたようで、どこもかしこも痛む。肩まで湯に浸かり、湯気の中で浴槽の縁に寄りかかって目を閉じる。腕を上げる力さえ残っていなかった。蒼士は浴槽のそばに腰
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第206話

1週間の休暇を終え、紗寧はようやく出社した。まだ消えきっていない鎖骨の下の痕を隠すため、白いタートルネックのニットを選ぶ。上から淡いブルーのジャケットを羽織り、髪を低い位置で一つに結ぶと、すっきりと仕事のできる印象になった。結婚祝いのお返しに、同僚一人ひとりに配るお菓子も持ってきた。樋口はそれを見た途端、目を丸くした。「結婚したんですか!?」紗寧は笑ってうなずく。「はい。少し前に式を挙げたんです」樋口は菓子の箱を何度もひっくり返して眺め、信じられないという顔をした。「まだ若いのに、もう結婚しちゃったんですか?こんな幸運な旦那さん、いったい誰なんです?」紗寧は思わず笑った。「大げさですよ」「まさか!」樋口は指を折って数え始めた。「貝原さんの容姿もスタイルもオーラも、芸能界に入ってもトップを狙えるレベルですよ?もっといろんな世界を見て、素敵な男性を何人か知ってから、ゆっくり選べばよかったのに......」「でも、もう選びましたから」「......」樋口はため息をついたが、すぐに目を輝かせた。「そうだ、噂を聞きました?うちの社長様、あの八角家の蒼士さんも結婚したそうですよ」紗寧の心臓が一拍、跳ねた。「この前、社員全員にお祝い金が出たでしょう?貝原さんの分は私が受け取って、席の引き出しに入れてあります。八角グループの傘下企業全員に配られたらしいし......総額は少なくとも数億円だそうですよ!」樋口は感心したように声を上げる。「八角さんって太っ腹ですよね。奥さんも幸せ者です。港江じゅうの女性が羨ましがってるんじゃないですか?」紗寧は後ろめたくなって目を伏せ、何も言えなかった。樋口の言う、みんなに羨ましがられている奥さんは、ほかならぬ自分なのだ。「あ、それから......」樋口は急に何かを思い出したように、興奮気味に続けた。「音楽部門の名和さんがもうすぐディレクターに昇格するらしいですよ」紗寧は少し考えた。「......名和副ディレクターのことですか?」「そうそう、あの人です」樋口は声をひそめる。「噂では、あの人が伝説のROSEらしいんです」紗寧はわずかに眉を寄せた。「ROSE?」「え、知らないんですか?この前、SNSのトレンドに上がっていた
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第207話

「今見たばかり?そんな嘘、誰が信じるのよ!」名和は冷笑した。「どうして音楽ディレクターの座があなたに回ってくるわけ?入社してまだ数日しかないでしょう?実績があるというの?!」隣にいた樋口は冷や汗をかきながら、紗寧の袖をそっと引いた。名和と言い争わないほうがいい、と目で訴える。紗寧は樋口の手を軽く叩き、立ち上がった。「それを決めたのは会社です。納得できないなら、人事部に申し立ててください」「申し立て?私ができないとでも?!」名和の声が一段高くなる。「あなたがコネで入社したことくらい知ってるわ!そんな人が音楽ディレクターになれるなんて、笑わせないで!」見かねた同僚が、小声で口を挟んだ。「名和さん、もうやめましょう。前にそういう噂を広めた島崎さんはもう――」「私を島崎と一緒にしないで!」名和は勢いよく振り返り、その同僚をにらみつけた。「私は彼女とは違うわ!」そう言って向き直ると、顎を上げ、尊大な目で紗寧を見た。「私はこの業界で十数年やってきた。作品も、経験も、評判もある。もうはっきり言うわ。私がROSEよ!私の編曲の腕は業界でも認められてる。そんなあなたには何があるの?私と張り合えると思ってる?」廊下が一瞬で静まり返った。――ROSE。その名が音楽業界でどれほど大きいか、誰もが知っている。数々の大ヒット曲を編曲してきた人物だ。もし名和名和が本当にROSEなら、紗寧が音楽ディレクターの座に就いても、周囲は納得しないだろう。紗寧は名和を見つめ、ふっと笑った。「名和さんがROSE、ですか」名和はいっそう顎を上げた。「文句でもあるの?」紗寧は名和の前へ歩み寄った。紗寧のほうが頭半分ほど背が高く、見下ろす形になる。その声は淡々としていた。「では、ROSEという名前を使い始めた理由を教えてください」名和の目が一瞬揺れたが、すぐに平静を取り戻す。「若いころに編曲をしていたときの名前よ。素性を明かしたくなかったから、ずっとその名前を使っていたの」「では、ROSEが最初の曲を仕上げたのは、どの街の、どのレコーディングスタジオですか?」名和は唇を動かしたが、視線が泳ぎ始めた。「まさか、ご自分のデビュー作を作った場所も覚えていないんですか?」「そ、それは.....
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第208話

紗寧が音楽ディレクターに任命されたのは午前中だった。その日の午後には、彼女がROSEだという話がスターエンターテインメント中に広まっていた。社内の誰もが、同じ名前を話題にしている。――ROSE。数々のヒット曲を編曲してきた、国内の音楽界で最も謎めいた音楽プロデューサー。その正体が、入社してまだ1か月もたたない新人マネージャーだったとは。「あの貝原咲良はただ者じゃないと思ってたよ!有賀祐輔がやけに彼女の言うことを聞くから、急に丸くなったのかと思ってたんだけど......最初から正体を知ってたのかな?」「名和さんは大恥をかいたね。会社のみんなの前でROSEを名乗ったら、本人が出てきたなんてね......」羨む声も、妬む声も、ただ面白がる声も、あちこちから聞こえた。いずれにせよ、紗寧が音楽ディレクターに就くことに、もう異を唱える者はいなかった。名和はその日の午後に辞表を提出し、人事部も引き止めなかった。スターエンタメにはもう居場所がない。追い出されるより、自分から辞めたほうが体面を保てると、彼女も分かっていた。紗寧は大きな窓の前に立ち、名和の後ろ姿が街角に消えるのを見届けた。それから席に戻る。名和に対して、特に悪い感情はなかった。職場ではそれぞれが実力で競い合う。負けたなら結果を受け入れるだけで、それ以上言うことはない。少なくとも名和は、正面から挑んできた。陰で卑怯な手を使った島崎華澄より、ずっとましだ。紗寧は椅子にもたれ、複雑な気持ちになった。ROSEという名前は、この1年、隠してきた。聴力を失った日から、その名前は一度も使っていない。それが今日、思いがけない形で明らかになった。本当は公表するつもりなどなかった。けれど名和にあれほど詰め寄られて、自分の名前を騙られたまま、その実績まで奪われるわけにはいかない。そんなことを考えていると、スマホが震えた。駿人からの電話だった。「義姉さん、おめでとうございます!音楽ディレクターに昇進されたそうですね!」紗寧は苦笑した。駿人にまで伝わるとは、ずいぶん早い。「ありがとうございます......有賀さん、わざわざお祝いを言うために電話をくれたんですか?」「まさか」電話の向こうで駿人が笑う。「実は義姉さんにちょっとお願いが......
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第209話

「甘えるなんて、私には......」「じゃあ、俺が教えますよ」駿人はすっかり乗り気になり、電話の向こうで声を作った。「あなたぁ、私も行きたいですぅ~」「......」紗寧は手を滑らせ、危うくスマホを落としかけた。駿人の声はますます甘ったるくなり、語尾を長く伸ばす。「あなたぁ、優しいですもんねぇ。お願い、連れていってくださいよぉ~」紗寧は笑いが止まらず、何度も首を振った。「無理です、そんなの......」駿人はやれやれと言いたげに息をつく。「仕方ありませんね。じゃあ、ちょっとしたものを用意します。今夜、蒼士さんを口説くときに使ってみてください。きっと効果抜群ですよ」「何をですか?」駿人は答えをはぐらかした。「あとで届けさせますから。見ればわかりますよ」その言葉が終わるやいなや、ドアをノックする音がした。紗寧はきょとんとする。――もう届いたの?急いで電話を切り、ドアを開けると、その場で固まった。蒼士が口元にかすかな笑みを浮かべ、からかうような目で立っていた。「え、八角さん?どうしてここに......」紗寧は思わず窓の外に目をやり、見つかるのを恐れるように慌ててドアを閉めた。「奥さんを迎えに来た」蒼士は室内に入るなり、ごく自然に彼女の腰へ腕を回した。「なにこそこそしてるんだ?浮気でもしてるみたいだな」紗寧は赤くなって彼をにらみ、腰に回された腕を押しのけようとした。声をできるだけ小さくする。「あの、ここは会社ですよ」蒼士は離すどころか、いっそう強く抱き寄せた。腰に添えた手の親指で、そっと肌の上をなぞる。「会社だから何だ?」彼は顔を寄せ、彼女の髪に鼻先を触れさせた。低く響く声で続ける。「自分の会社で、自分の妻を抱くのも駄目なのか?」紗寧は言葉に詰まった。頬が熱くなるばかりで、にらみ返すことしかできない。蒼士は照れて怒る彼女を見て、小さく喉を鳴らした。赤くなった耳から白い首筋へと視線を滑らせ、タートルネックに隠れたところで止める。「そういえば......」声が少し低くなり、その語尾には意味ありげな響きがあった。紗寧は戸惑ってまばたきをする。「なに?」蒼士はかがんで耳元に口を寄せた。息が敏感な耳に触れ、彼女の体がぞくりと震える。「
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第210話

「有賀駿人さんです」蒼士が片眉を上げた。「有賀が?何の用だ?」「私から誘ってほしいそうです。北城の狩猟場へ、みんなで狩りに行こうって」蒼士は彼女の顔を少し見つめ、口元を緩めた。「君は?行きたい?」紗寧は慌てて首を振る。「そういうのには、興味がないので......」そう答えたものの、本当は少しだけ心が動いていた。本物の狩猟場は見たことがない。テレビや小説の中にしか出てこない場所が、どんなところなのか知りたかった。それに、名家の御曹司たちが普段どんなふうに遊んでいるのかも、見てみたい。けれど、行くわけにはいかない。この数日、蒼士が息をつく暇もないほど忙しいことは、そばで見ていて分かっていた。夜、彼女が眠るときにはまだ書斎にいて、朝、目が覚めるころにはもう会社へ出ている。これ以上、負担をかけたくなかった。蒼士は気持ちを見透かしたように腕に力を込め、彼女を抱き寄せる。「君が行きたいと言うなら仕事を少し調整して、何日か一緒に遊びに行こう」紗寧は驚き、すぐに首を振った。「いえ......!大丈夫です。お仕事を優先してください」「警察向けの精密機器に大口の発注が入って、責任者としてずっと見ておく必要があったんだが、忙しいところはもう乗り切った。残りは細かい調整だけだから、ほかの者に任せられる」一度言葉を切り、彼女を見下ろす。「それで、行きたいか?」紗寧は唇を噛んだが、やはり首を振った。「本当に興味がないんです」蒼士は二秒ほど彼女を見つめ、ふっと笑った。「分かった。じゃあ、行くのはやめよう」言い終えた途端、ドアがノックされた。「貝原さん、お届け物です」紗寧は蒼士の腕の中から跳ねるように離れ、慌てて服と髪を整えた。親密にしていたと気づかれそうなところがないか確かめ、深呼吸してからドアを開ける。制服姿の配達員が、手のひらほどの小箱を持って立っていた。赤いベルベットに包まれた、ずいぶん凝った箱だ。「貝原咲良様ですね。受け取りのサインをお願いします」紗寧は荷物を受け取り、急いでサインをすると、ばたんとドアを閉めた。扉に背中を預けたまま、胸が激しく鳴っている。蒼士はソファの背にもたれ、長い脚を組んで、からかうような笑みを浮かべていた。「それは?」「何でもありません」
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