All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

家に戻ると、使用人が夕食を用意していた。食事を済ませた紗寧は、そのまま2階へ上がった。風呂から出たところで、スマホが震える。駿人からのメッセージだった。【義姉さん、荷物は届きましたか?】紗寧は、箱を階下に置いたままだったことを思い出した。駿人が何を送ってきたのか確かめようと、急いで取りに行く。包装を解く前に、またメッセージが届いた。【じゃあ、うまくいったら次の事業に貝原明文さんも噛ませて、利益を分配しますよ。それならどうです?】紗寧の目に、かすかな光が差した。貝原家の会社は、このところ経営が思わしくない。豊水の事業を頼りに持ちこたえるつもりだったが、豊水に問題が起きてからは、その計画も止まっている。駿人が貝原家に手を貸してくれるなら......【分かりました。やってみます】駿人はすぐに返信してきた。【やった!義姉さんならきっと頷けるって、信じてました!じゃあ、さっき教えたように蒼士さんに甘えてみてください。義姉さんにお願いされたら、きっと断れませんって!】「甘えて」という言葉を見て、紗寧は耳を赤くした。彼女は急いで階下へ行き、牛乳を温めて、蒼士の書斎へ持っていった。蒼士は仕事をしていた。顔を上げると、牛乳を手にした紗寧が入ってくる。「ずいぶん気が利くな」紗寧は頬を赤らめ、机にカップを置いた。「あの......温かいうちに飲んでください」「ありがとう」蒼士は牛乳を置いたら彼女は出ていくだろうと思った。だが、しばらくたっても紗寧はその場に立ったままだ。「何か用か?」「その......」蒼士は片眉を上げて彼女を見た。「ん?」紗寧は唇を結んでから尋ねる。「駿人さんが話していた専用の狩猟場って、北城にあるんですよね?」カップを持つ蒼士の手がわずかに止まり、口元がゆっくりと緩んだ。「ああ」「景色がいいですよね」「確かに」「室橋家の持ち物なんですよね?」「そうだ」紗寧は唇を噛んだ。「あの......」「行きたいのか?」紗寧は驚き、慌てて首を振った。「いえ......!ただ聞いてみただけです」蒼士の笑みが深くなる。「そうか」――これだけ?紗寧は続きを待ったが、蒼士は何も言わない。もどかしくて仕方がなかった。ここまで話
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第212話

「何してるんだ?」紗寧は全身をこわばらせ、慌てて黒い布を背中に隠した。「な......何でもありません」蒼士はすでにクローゼットへ入ってきていた。風呂から出たばかりで、髪はまだ濡れている。こめかみから落ちた水滴が眉、鼻筋を伝い、顎から開いたガウンの襟元へ滴って、胸を流れていった。白いガウンはゆったりと羽織られ、腰ひもは軽く結んであるだけだ。少し引っ張ればほどけそうだった。蒼士は片脚を軽く曲げてドア枠にもたれ、紗寧の顔を見て口元を緩める。「何を隠した?」「別に何も」紗寧は箱にふたをかぶせ、背後の引き出しに押し込んだ。慌てた動きは、見つかってはいけない物を隠す人そのものだった。蒼士は笑みを浮かべたまま、彼女へ歩み寄る。紗寧は反射的に後ずさりし、背中を棚にぶつけた。鈍い音がする。蒼士は目の前で足を止め、両腕を彼女の左右について逃げ道を塞いだ。体には触れていない。顔を伏せ、彼女の髪に鼻先を寄せて深く息を吸う。「紗寧」風呂上がりのけだるさを帯びた、低くかすれた声だった。「今日は様子がおかしいぞ?」紗寧の心臓が跳ねる。「そ......そんなことは――」「ある」蒼士は少し身を引いて彼女を見下ろした。視線が目元から、きゅっと結ばれた唇へ移る。「さっき牛乳を持ってきたときも、ずっと俺を見ていた。何か言いかけてはやめて、また言いかける。頭の中であれこれ考えてただろ」「......」「今度はこそこそ荷物を開けて、俺が来たら隠す。まるで悪いことでもしてるみたいだ」一つひとつ挙げられたことは、どれもそのとおりだった。紗寧は後ろめたくなり、顔をそむける。「ただ......ちょっと見ていただけです」「ちょっと見てただけ?」蒼士は口元を上げたが、目は笑っていなかった。「何をそんなに熱心に見てたんだ?俺が入ってきたことにも気づかないくらいに」彼は紗寧の腰の横から手を伸ばし、背後の引き出しを開けた。紗寧は止めようとしたが、間に合わない。引き出しの中には、赤いベルベットの箱があった。ふたはきちんと閉まっておらず、黒い「ひも」がのぞいている。蒼士の視線が箱に留まった。手に取って中を見る。明るい照明の下では、黒い布の形がはっきり分かった。細いひもに薄いレース。隠すはずの
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第213話

紗寧は一瞬、きょとんとした。「......何を?」蒼士は黒いレースを彼女の手に押し込み、その手の甲に自分の手を重ねて、細い指を包んだ。「これ、着てみて」紗寧は耳の付け根から首筋、鎖骨まで一気に赤くなった。全身が熱い。「ほ、本気ですか?」「もちろん」蒼士は額を彼女の額に寄せた。吐息が交じり合い、温かな息が頬にかかる。「紗寧は、北城に行きたいんだろ?それを着てくれたら、連れて行ってあげる」紗寧の呼吸が乱れ、心臓が胸から飛び出しそうなほど速く打った。見上げると、くっきりとした顎の線と、わずかに動く喉仏が見える。蒼士はすぐそばにいた。まつ毛の形が見えるほど近く、体から漂う清々しいボディソープの香りまで分かった。返事をしないでいると、蒼士は少し身を引いた。「嫌ならいい」彼は彼女の頭を軽くなで、優しく笑った。「もともと行くつもりだった。普通に頼んでくれればよかったんだ。そんな凝ったことをしなくても」あまりに物分かりがよく、寛大な言い方だった。まるで理想の夫そのものだ。そう言われると、かえって自分のほうが意地を張っている気がしてくる。夫婦なのだ。もうあんなこともしている。相手のちょっとした好みに付き合うくらい......紗寧は唇を噛み、手の中の黒いレースをぎゅっと握った。「じゃ、じゃあ......先に外へ......」蒼士が片眉を上げる。「ん?」「着ますから」蚊の鳴くような声だった。「だから......先に出ていてください」蒼士はしばらく彼女を見つめ、ゆっくり笑みを浮かべた。「分かった」彼はクローゼットを出ていく。扉の前で一度立ち止まり、振り返って低い声で言った。「外で待ってる」扉が閉まり、クローゼットには紗寧だけが残された。手にした黒いレースを見下ろし、深呼吸する。もう一度、深く息を吸った。――着ればいい。怖がることなんてない。どうせ......もう見られたことがないわけじゃない。部屋着を脱ぎ、その「服」を広げた。服と呼ぶのさえ躊躇われるほどだ。細い黒のひもが交差し、間に薄いレースが数枚ついているだけ。レースはほとんど透けていた。身につけて姿見をのぞくと、また顔が熱くなる。これなら、着ないのと変わらないじゃない。紗寧は歯を食いし
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第214話

ガウンの帯がほどけ、白い絹地が肩から滑り落ちた。音もなく、足元に重なる。蒼士の呼吸が深くなる。視線が紗寧の鎖骨から、薄いレース越しに浮かぶ体の線をたどり、細い腰へと下りていった。喉仏が動き、指先がわずかに曲がる。背後のクローゼットから漏れる光が、廊下の絨毯に彼女の細い影を落としていた。紗寧は目を伏せて立っている。蝶の羽のように震えるまつ毛が、緊張と不安を隠しきれていなかった。「八角さん......」小さく呼ぶ声には、震えと恥じらいが混じっていた。そして、本人も気づいていない、わずかな期待も。蒼士が動いた。抑えていたものが一気にあふれ出したかのように、大股で彼女へ歩み寄る。紗寧が反応する前に、強く抱き寄せた。腰に回した腕には、彼女を自分の中へ溶かしてしまいそうなほど力がこもっている。それでも細いひもには触れないよう気を配り、痛がらせまいとしていた。蒼士は顔を首筋に埋める。熱い吐息が敏感な肌にかかり、紗寧の体を小さく震わせた。「紗寧......」喉の奥から絞り出したような、ひどくかすれた声だった。紗寧は彼のガウンの背中を握りしめる。手の中で布に深いしわが寄った。「これで......いい?」腕の中から聞こえた声には、少し甘えるような響きがあった。蒼士は低く笑った。その振動が胸を通じて、彼女にも伝わる。「ああ」顔を上げ、両手で彼女の頬を包んだ。親指で赤くなった頬をそっとなでる。「約束するよ。君の行きたいところへ行くし、君のしたいことをする」視線が彼女の鎖骨にある小さなリボンで止まり、瞳の色が深くなった。「ただ、その前に......」額を寄せるように顔を近づけ、鼻先を触れ合わせる。息のかかる距離で、蒼士は彼女の耳に何かをささやいた。紗寧の顔が真っ赤になった。窓の外には、明るい月が出ていた。夜風にレースのカーテンが揺れ、隙間から差し込んだ月光が、床に銀白色の道をつくる。甘やかな夜が更けていった。......一方、八角家の本邸には、重苦しい空気が漂っていた。居間のカーテンは半分閉められ、午後の日差しを遮っている。広い室内は薄暗く、数個の壁灯だけが黄色い光を放っていた。一穂は上座に座っている。目の前のテーブルには、写真が何枚も並べられていた。隠し撮りさ
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第215話

身代わりの花嫁。その言葉が針のように一穂の胸に刺さり、じっとしていられなかった。結婚前、二人の相性を見てもらったときのことを思い出す。占い師は、貝原家の長女の命式が蒼士と最も相性がよく、夫の運を上げ、災いから守ってくれるとはっきり言った。慎重に選んだ末に、貝原咲良を選んだのだ。それなのに、実際に嫁いできたのは別人だった。その女の命式は蒼士と合うのか。夫の運を上げられるのか。災いから守れるのか。何一つ分からない。もし、あの偽物と蒼士の相性が悪かったら?もし、あの女の命が蒼士に災いをもたらすものだったら?もし......病気を治すための結婚が、かえって蒼士の命を縮めたら?胸を強くつかまれたように息が苦しくなった。一穂は目を閉じ、深く息を吸って、こみ上げる怒りを押し込めた。数日前の岳の様子を見たときから、何か企んでいるとは思っていた。貝原家のことに突然あれほど関心を示し、見舞いにまで出向いたのが不思議だったのだ。妙に親切で、普段の彼らしくなかった。狙いはこれだったのか。一穂の眉間のしわが深くなる。岳は考えが読めない男で、無駄なことは決してしない。彼女に身代わりの花嫁の件を気づかせたのも、怒る姿を見たいだけではないはずだ。きっと次の手を用意している。一穂は目を開け、テーブルに並ぶ写真を見た。紗寧の写真を一枚手に取り、数秒見つめてから裏返す。そこには小さな字で、こう記されていた。――加賀美紗寧、23歳。北城出身。母は貝原芳美。父の加賀美邦彦は、未成年者への性加害で懲役15年の判決を受けた。一穂の指に力が入り、写真の角が手のひらに食い込んで痛んだ。犯罪者の娘。孫の蒼士が、犯罪者の娘を妻にした。世間に知られたら、八角家の面目はどうなる?一穂は深く息を吸い、写真をテーブルに投げた。椅子の背にもたれ、目を閉じる。頭の中は混乱していた。――貝原家が憎かった。よくも身代わりなど立てて、蒼士の病を好転させるための結婚を台無しにしてくれたものだ。蒼士の命がかかっているのに、どうしてそんな真似ができた?だが、貝原家に手を出すわけにはいかない。大した家柄ではなくても、今は親戚だ。貝原家を攻撃したと知れれば、八角家の体面が傷つく。それに、身代わりの女はすでに嫁いできている
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第216話

週末、北城の狩猟場。狩猟場は北城の最北端にある山間部に広がり、面積は数百ヘクタールに及ぶ。起伏のある山々を、青々とした木々が覆っていた。麓には、白壁と瓦屋根の上品な木造コテージが並んでいる。竹林の間にたたずみ、辺りには草木の爽やかな香りが漂っていた。駿人は早くから到着していた。深緑の狩猟服に乗馬ブーツ、腰のベルトには狩猟ナイフまで下げている。いかにも彼らしい、気合いの入った格好だ。「蒼士さん!咲良さん!」遠くから手を振り、楽しそうに笑う。「こっちこっち!」紗寧が車を降りると、駿人はすぐに近づき、親指を立てた。「さすがです!蒼士さんをここへ連れてこられるのは、義姉さんくらいですよ!」紗寧は顔色を変えなかったが、心の中では駿人を散々罵っていた。――全部、彼のせいだ。送ってきたあれは、ほとんど拷問道具ではないか。普段から蒼士には手を焼かされているのに、あれを着たせいで徹底的に振り回された。最後には声がかれ、声を上げることさえできなかった......「義姉さん?大丈夫ですか?顔がずいぶん赤いですけど......」「......暑いだけです」紗寧は歯の間から言葉を絞り出した。駿人は何も察せず、なおも彼女を褒め続ける。紗寧はどうにか笑顔をつくった。「何を話してる?」蒼士が紗寧の肩に腕を回し、自分の胸元へ引き寄せた。「い、いや、別に......」駿人は乾いた笑いを漏らし、山のほうを見やって話題を変える。「室橋も来るはずだよね。まだ姿が見えないな」謙吾が四輪駆動車から降り、伸びをした。「来なくても構わないだろ。この山は全部あいつのものなんだから、俺たちも好きに遊べばいい」二人の何気ない会話を聞き、紗寧は内心驚いていた。室橋家には力があっても、しきたりや制約も多いはずだと思っていた。だが、財力も八角家や有賀家に引けを取らないらしい。狩猟場は北城の郊外とはいえ、都の中心にも近い。土地が高いこの辺りで、数百ヘクタールもの山を所有している。室橋家の資産がどれほどか、想像もつかなかった。考え込んでいると、遠くから馬の蹄の音が近づいてきた。「お、噂をすれば」駿人は山道へ目を細め、笑いながら迎えに行く。紗寧もそちらを見た。山道の曲がり角から、全身が黒い馬に乗った男が現れた。馬は
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第217話

「......」駿人は謙吾を見た。少しは言い方を考えろよ。清景の視線が蒼士の向こうにいる紗寧へ向かう。「こちらは?」蒼士は自然に彼女の腰へ腕を回し、そばに引き寄せた。「妻の紗寧だ」紗寧の心臓が一拍、跳ねた。紗寧。貝原咲良ではない。蒼士が他人の前で彼女の本当の名前を口にしたのは、これが初めてだった。「室橋清景です」清景は穏やかに笑い、手を差し出した。「蒼士とは大学の同級生で」紗寧も手を伸ばして握手する。「初めまして」清景は一瞬だけ彼女の顔を見つめ、それから蒼士へ視線を戻した。「君は幸せ者だね」蒼士は口元を上げる。「ああ。いい妻をもらった」紗寧は耳を熱くし、こっそり彼をにらんだ。二人のやり取りを見て、清景が軽く笑う。蒼士は紗寧の肩を抱きながら尋ねた。「先月、また昇進したそうだな」清景は手を振った。「名ばかりの役職だよ。大したことじゃない。それより、君のチップ開発で進展があったって?」蒼士が片眉を上げる。「耳が早いな」「早いんじゃない。かなり気にかけてるんだ」清景は柔らかく笑った。「その計画が実現したら、国内の関連産業は勢力図が塗り替わるだろうな」蒼士は答えず、口元の笑みを少し深くした。「そうだ。今週末に合わせて、狩猟場には鹿やイノシシを何頭か、キツネも放してある。好きなものを狩ってくれ」清景はポケットから黒いカードを取り出し、蒼士に渡した。「入場制限は全部外してある。どの区域にも入れるし、銃器庫も自由に使っていい。好きなだけ楽しんでくれ」そばで聞いていた駿人は、目を丸くした。――制限を全部外した?室橋家の狩猟場には10回以上来ているが、いつも入れる区域も時間も決まっていた。銃器を使うには事前に届け出が必要で、許可が下りるまで3日かかる。それが蒼士が来た途端、すべて自由とは。扱いが違いすぎないか?「助かる」蒼士はカードを受け取り、何気なくポケットに入れた。清景は手を振る。「私に遠慮はいらないよ。じゃあ、楽しんでくれ。私は用事があるから先に行く」黒い馬のもとへ歩いていき、鮮やかな動きでまたがった。「清景」手綱を引き、蒼士を振り返る。「今夜、酒を用意させておく。あとで一杯どうだ?」「いい
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第218話

けれど紗寧には、生まれる前からの許嫁という話が、自分を律して礼節を守る清景の雰囲気に、妙に似合う気がした。「それで?」駿人はため息をついた。「その諸富家の長女が行方不明になったんですよ。十数年前、まだほんの子供だったころに。何年も捜したけど見つからなくて、清景はずっと独り身のまま、その人が戻ってくるのを待ってる」謙吾が続ける。「これだけ年月がたったんだ。もう生きていない可能性もあるだろうな......」「そうなんだよ。清景が何を思って待ち続けてるのかは分からないけど、十数年間、ほかの女性と付き合った気配すらない」蒼士のそばで話を聞いていた紗寧は、なぜか胸が少し痛んだ。「その諸富家の方は......もう見つからないんでしょうか?」駿人は首を振る。「難しいでしょうね。十数年前、諸富家は北城をくまなく捜しても見つけられなかったんです。そのあと全国を捜し回っても駄目でした。今なら顔も変わっているし、名前だって変えているかもしれません。目の前にいても気づけるかどうか......さて、彼の恋物語はこのくらいにしましょう。今日は狩りに来たんです。恋愛相談会じゃありませんからね」駿人は笑った。「さあ、道具を選びに行きましょう」室橋家の銃器庫は、山の麓に建つ独立した建物だった。分厚い灰色の石壁に小さな窓が並び、小さな砦のように見える。入り口には黒い制服を着た警備員が二人立っていた。腰の膨らみから、銃を携帯しているのが分かる。清景が前もって伝えていたのだろう。警備員たちは蒼士を見ると、何も尋ねず重い鉄の扉を開いた。中は想像していたより、ずっと広かった。三方の壁には、さまざまな猟銃が掛けられている。昔ながらの二連散弾銃から現代の半自動式ライフルまで、初心者向けの軽いものから、熟練者でなければ扱えない大口径のものまで揃っていた。中央のガラスケースには骨董品の猟銃も数丁並んでいる。銃身には細かな彫刻が施され、名高い銃職人の仕事と分かった。駿人は入るなり半自動式ライフルの列へ向かい、一丁を手に取って重さを確かめた。すぐに戻して別の銃を取る。その手慣れた様子は、まるで日用品でも選んでいるかのようだった。「これはいいな。握りやすいし、反動もちょうどいい」構えて狙いを定め、撃つまねをする。そばで弾を選んでいた
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第219話

紗寧は蒼士の説明を一通り聞いた。分かったような気もするが、実際にできるかどうかは怪しい。戸惑いを見抜いたのか、蒼士は口元を緩めた。「大丈夫だ。一度やってみれば覚える」駿人と謙吾はもう準備を終え、銃を一丁ずつ背負い、腰には弾薬袋を下げていた。「蒼士さん、組み分けはどうする?」蒼士は紗寧をちらりと見た。「有賀は小笠原と組め。俺たちは二人で行く」「......」駿人は黙り込んだ。――まあ、そうだよな。最初から分かっていたことだ。せっかく奥さんを連れてきたのに、自分と組むはずがない。「分かった。じゃあ俺と謙吾はもう行くよ。山で会おう」駿人は銃を背負い、謙吾の肩を叩いた。「行くぞ。俺の腕を見せてやる」「キジも仕留められないくせに。今日はウサギを一匹でも獲れたら、お前の勝ちでいいぞ」「お前......見てろよ!今日こそ勝ってやるよ!」「まずはキジでも仕留めてから言え!」言い合いながら山道を登っていく二人は、まもなく木々の間に消えた。山風が吹き、葉がさわさわと鳴る。紗寧は蒼士のそばに立ち、ブローニングの猟銃を肩にかけていた。細い肩に銃のベルトが食い込み、銃がいっそう大きく見える。「重い?」蒼士はベルトの位置を直し、重さが片側にかからないようにした。「大丈夫です」蒼士は笑い、結局その銃を自分で背負った。二人は林の中の小道を登っていく。蒼士は半歩先を歩き、ときどき振り返って、紗寧がついてきているか確かめた。「足元に気をつけて。石に苔が生えてるから滑る」「はい」「上にも枝がある。顔に当たらないように」「分かりました」数歩進んだところで、蒼士がふと立ち止まり、彼女を振り返った。紗寧は不思議そうに見る。「どうしたんですか?」蒼士は口元を上げた。「君は本当に素直だな」紗寧の耳が少し熱くなる。「......からかわないでください」蒼士は低く笑った。だが、すぐに足を止めて耳を澄まし、少しかがんで前方を指さす。「あそこを見て」紗寧が指の先を追う。少し離れた茂みの陰に、灰褐色の野ウサギがうずくまっていた。長い耳をぴんと立て、警戒した様子で頭を動かしている。「見えるか?」蒼士が耳元でささやき、吐息がかかった。紗寧は小さくうなずく。「銃を
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第220話

蒼士は野ウサギがいたほうを見て、口元を緩めた。「ああ、当たったよ」紗寧の目がぱっと輝く。瞳の中に、細かな宝石を散らしたようだった。「本当ですか?」「ああ」蒼士は手を伸ばし、彼女の頭をなでた。「さすが俺の奥さんだ。初めてで命中させるなんて、きっと名射手になれる」「......」褒められて紗寧は頬を赤らめたが、目にはまたやってみたいという気持ちが浮かんでいた。狩りの面白さを知り始めたらしい。蒼士の笑みが深くなる。「気に入った?じゃああとで、もっと大きな獲物を狙いに行こうか」......同じころ、北城市中心部にある諸富グループの本社ビル。最上階の社長室で、諸富慎也は冷めきったコーヒーを手に、大きな窓の前に立っていた。窓の外には高層ビルが並び、道路には車の流れが絶えない。北城の賑わいを見渡せる場所だった。だが、彼はその景色を見ていない。視線は遠くの一点に向いたまま、何かを考えていた。背後の机でスマホの画面が一度光り、すぐに暗くなる。慎也は振り返ってスマホを取り、新しいメッセージを見た。清景からだった。【蒼士が来た。今、私のところにいる】慎也はコーヒーカップを置いた。親指を画面の上で一瞬止めてから、清景に電話をかける。呼び出し音が一度鳴っただけで、つながった。「もしもし」「段取りを頼む。蒼士に会いたい」清景は少し黙った。「今夜、食事に誘ってある。あとで時間と場所を送るから、君も来るといい」「分かった」慎也が電話を切ろうとすると、清景が呼び止めた。「前から聞きたかったことがある」「何だ?」「どうして蒼士に本当のことを話さない?夕貴さんの身元を直接伝えたほうが......」数秒の沈黙のあと、慎也の声が聞こえた。言葉を慎重に選んでいるようだった。「清景、俺は蒼士の人柄は信用している。だが、あの資料を前にしても欲を出さないとは信じきれない」清景は何も言わなかった。「レーザージャイロの完全な技術資料は、今、世界に一つしかない。手に入れた者は、今後20年にわたる技術的な優位を握ることになる。蒼士はチップを手がけているし、警察向けの精密機器も主力事業だ。レーザージャイロは彼の事業と深く関わる。興味を持たないはずがないだろう?」清景はため息をついた。
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