All Chapters of 八角さん、新婚ですから自制してください!: Chapter 221 - Chapter 230

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第221話

だから慎也は、やむを得ず蒼士を頼り、協力を求めたのだった。......そのころ、狩猟場では駿人と謙吾が大収穫を上げていた。ウサギが3匹、鹿が1頭、キツネが1匹。キツネの赤褐色の毛並みは、陽光を受けて絹のようにつやめいている。謙吾が尻尾をつかんで提げると、体がゆらゆらと揺れた。「見てよ、これ」駿人はウサギを地面に置き、手の汚れを払った。得意げな笑みが止まらない。「ウサギ3匹に鹿1頭、キツネ1匹。この猟場でも、かなりの成果だろ」珍しく謙吾も茶化さず、少しうなずいた。「確かにな。特に鹿は見事だった。一発で仕留めたからな」「だろ!」駿人は猟銃を肩に担ぎ、目を細めて笑った。「あの鹿、少なくとも百キロはあったぜ。それを俺が一発で仕留めたんだ。格好よかったのに、お前らに見せられなかったのが残念だよ」そう言いながら、山道へ目を向ける。蒼士と紗寧はまだ戻ってこない。駿人は目を細めて山を見上げたが、重なり合う木の梢と、ときどき飛ぶ鳥しか見えなかった。「蒼士さんたちは、まだ戻っていないのか?」スマホで時刻を確かめる。「もう帰ってきてもいいころだろ」謙吾は銃身を拭きながら、顔も上げずに答えた。「大物でも仕留めたんじゃないか」「大物?」駿人は鼻で笑う。「蒼士さんは義姉さんを連れてるんだぞ。獲物なんて獲れるわけないだろ。あの細い腕じゃ銃を持つのも大変だろう。俺の予想ではせいぜいウサギくらいだ」考えるほど自分の予想に自信が湧き、駿人は大きな岩に腰を下ろして脚を組んだ。ポケットからたばこを一本取り出し、口にくわえる。「賭けようぜ。蒼士さんたちは何も獲ってないはずだ」謙吾がようやく顔を上げた。「何を賭ける?」「カリナン賭けようぜ。お前のカリナン、前から欲しかったんだ」「いいよ」謙吾はあっさり答え、また銃を拭き始めた。駿人はたばこに火をつけ、深く吸い込む。「お前の負けは決まったな。蒼士さんは義姉さんを何より大事にしてるんだ。ウサギを狙うだけでも、噛まれないか心配するだろ。だから山奥まで連れていくはずがないって。たぶん外周を散歩して、景色でも眺めてたんじゃないか」そこで言葉を切り、意味ありげな笑みを浮かべて声を落とした。「......いや、景色を眺める暇もなかったかもな
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第222話

駿人がにやにやしながら近づいてきた。その目には、からかうような光が浮かんでいる。「義姉さん、今日の蒼士さんの腕前はいかがでした?」紗寧は二人が獲ってきた鹿をしゃがんで見ていた。顔を上げ、質問の意図が分からないままうなずく。「すごかったですよ。撃てば必ず当たっていました」駿人の笑みが深くなり、わざと語尾を伸ばした。「そりゃそうでしょう。蒼士さんはあの『銃』を二十年以上も大事に手入れしてきたんですからね」紗寧はきょとんとまばたきをし、まだうなずいている。「特に野外での『実弾演習』となれば、さぞ男らしさを――」言い終える前に、駿人は尻を思い切り蹴られた。前につんのめり、危うく顔から地面に倒れそうになる。何歩かよろめいて、ようやく踏みとどまった。「もう一度下ネタを言ったら、舌を引っこ抜くぞ」紗寧はそこでようやく意味に気づき、耳から首筋まで一気に赤くなった。謙吾も呆れた顔で駿人をにらむ。こいつがいつか殺されるとしたら、間違いなくその余計な口のせいだ。謙吾は慌てて間に入り、軽く咳払いをした。「あの......今日はなかなかの成果でしたよ。ウサギ3匹に鹿1頭、それからキツネも1匹。蒼士さん、お手柔らかにどうも。で、さっきの賭けは......」話し終える前に、紗寧がぱっと立ち上がった。「あの、私たち、おっきな熊を捕まえたんです......」尻をさすっていた駿人が目を見開く。「え?」「......大きな熊です!」紗寧は慌てて言い直し、耳を赤くした。駿人と謙吾は顔を見合わせ、同時に深緑のピックアップトラックへ目を向けた。荷台には確かに四角い鉄の檻が載っている。柵は子どもの手首ほども太かった。係員が上にかけられた緑の覆いを取る。檻の中には、黒く巨大な体が横たわっていた。毛並みは深々としてつややかに輝いている。頭は洗面器ほど大きく、前足は大人の男の手のひらより幅があった。どうやら麻酔銃で眠らされたらしい。大きな熊はぼんやりと口を開け、よだれを檻の底の鉄板にぽたぽた落としていた。凶暴そうなのに、どこか間の抜けた姿だ。「......嘘だろ」駿人は思わず悪態をつき、荷台の後ろへ回った。しゃがみ込んで、熊と顔を突き合わせる。熊があくびをし、鋭い牙がずらりと見えた。生臭い息が吹きかかる
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第223話

「義姉さん、以前に銃を撃ったことは?」紗寧は首を横に振った。「実は、今日が初めてです」駿人はしばらく黙り、蒼士に顔を向けた。「蒼士さん......義姉さんって、すげえな」隣で謙吾が呆れたように目をむいた。「ほかに言い方はないのか?」「なんだよ、どこが悪いって言うんだよ。短くて、思ったことがそのまま伝わるだろ」皆が笑い合っていると、蒼士のスマホが震えた。取り出して画面を見ると、清景からのメッセージだった。【酒は用意できた。そっちが済んだら、食事に来てくれ】蒼士はスマホをポケットに戻し、紗寧の肩を抱いた。「行こう。清景が食事を用意してくれている」駿人はピックアップトラックの荷台から飛び降り、手の埃を払った。「ああ。ちょうど腹が減ってたところだ」......山の麓にある木造のレストランは、思っていた以上に風情があった。壁一面の大きなガラス窓の向こうには山並みが広がる。夕日が尾根の向こうへ沈みかけ、空を鮮やかな橙色に染めていた。室内に差し込む光まで、暖かく柔らかい。清景はワインセラーの前で酒を選んでいた。足音を聞いて振り向き、かすかに笑う。「来たね。座って」手にしたボトルを軽く掲げた。「ボルドーとブルゴーニュ、どちらがいい?」蒼士は椅子を引いて先に紗寧を座らせ、自分も隣に腰を下ろした。「ボルドーで」清景はうなずき、セラーからもう一本取り出して、そばの給仕に渡した。「デキャンタージュしてくれ」それから食卓へ歩み寄り、蒼士の正面に座る。駿人と謙吾も席に着いた。給仕は順にワインを注ぐと、音もなく脇へ下がった。「そうだ、今日はもう一人来る予定だ」蒼士が片眉を上げる。「誰だ?」「来れば分かるよ」その言葉が終わるや否や、扉が開いた。全員が思わずそちらを見る。入り口に一人の男が立っていた。濃い灰色のコートの下に黒いタートルネック。鋭く整った顎の線が、いっそう際立っている。彫りの深い目元に高い鼻筋、引き結ばれた薄い唇。怒っているわけでもないのに、人を圧するような冷たい気配をまとっていた。一目見れば忘れられない顔立ちだ。諸富慎也だった。「八角さん、お久しぶりです」「諸富さんか」蒼士は椅子の背にもたれ、唇の端をわずかに上げた。だが目
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第224話

慎也は遠回しな言い方をせず、単刀直入に切り出した。「先日、八角さんにお願いした調査ですが、何か分かりましたか?」やはり古見夕貴のことか。蒼士は内心で納得したが、顔には少しも出さなかった。「まだ何も」慎也は明らかに落胆した様子を見せた。「手がかりもないんですか?」蒼士はワイングラスを持ち上げ、一口飲んだ。声は淡々としている。「港江を一通り調べさせたが、探している人物は見つからなかった。その人が港江にいるのは確かなのか?」「確かです」蒼士は小さく笑ったが、その目は笑っていなかった。「何を根拠に?十数年も経っている。顔も名前も変わっているかもしれないのに、なぜ港江にいると言い切れる?」慎也は唇を引き結んだ。「それは気にしないでください。八角さんは探すことだけに専念してくれればいい」蒼士は数秒間、彼を見つめてから、ふっと笑った。「諸富さん、協力するなら情報を共有してもらわないと困るよ。情報源すら教えてくれないで、どうやって探せと?港江はそれほど広くないが、一人の人間が身を隠すには十分だ。街中を探し回れと言うなら、せめて手がかりくらいは欲しい」慎也はまっすぐに視線を返した。「情報源ならお教えできません」「なら、ほかを当たってくれ。その頼みは引き受けられない」二人の視線がぶつかる。どちらも譲る気はなかった。空気が凍りついたように張り詰め、息苦しささえ感じられた。見かねた清景が、慌てて間に入る。「まあ、二人とも落ち着いて。せっかく集まったんだ。これくらいのことで仲違いするのはやめよう」彼はグラスを持ち上げ、蒼士に向けた。「蒼士、慎也も焦っているんだ。長年探し続けて、ようやく手がかりが見つかったからね。言い方がきつくなったことは、気にしないでくれ」蒼士はグラスを手に取らず、椅子の背にもたれたまま、かすかに口元を上げた。「何年か会わないうちに、君もこんな芝居をするようになったのか、清景」清景の笑顔がわずかにこわばる。「慎也が今日ここに来たのは、本当に通りがかったからか?君と事前に打ち合わせていたじゃなくて?」レストランは静まり返った。清景は唇を動かしたものの、結局何も言わなかった。「清景に席を設けてもらったのは私です。来ると決めたのも私なので、彼を責めないでくだ
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第225話

清景は唇を引き結んだが、反論はせず、ため息をついた。「......それで、これからどうするつもりだ?」「もちろん探し続けるよ。ただ、もうあいつの手は借りない」清景は目を見張った。「蒼士と決裂する気か?」「決裂というほどの仲でもない。以前、港江で彼を頼ったのは、土地勘もつてもなく、ほかに手がなかったからだ。それに、港江の八角家には彼以外にも人がいる......」「兄の豊水を頼るのか?」清景は眉をひそめた。「でも、蒼士に下半身を潰されて、以前ほどの力はないと聞いたが......」「八角家に、もう一人いるだろう。あの年寄りのホモが」「......」清景は口を開きかけたが、結局何も言わなかった。――そうか。八角家について詳しく調べたことのない彼でも、蒼士とその叔父、岳が犬猿の仲だということは知っている。慎也が岳の側につくのは、蒼士にとって吉と出るのか凶と出るのか。清景はため息をつき、扉を開けてレストランへ戻った。扉が閉まると、廊下には慎也一人が残された。彼はすぐには立ち去らず、壁にもたれて煙草に火をつけた。深く吸い込むと、立ちのぼる煙が横顔をぼかす。腕を上げ、手首に結んだ赤い組み紐を見つめた。どれほどそうしていたのか。やがて燃え尽きかけた煙草をもみ消し、大股で駐車場へ向かった。......清景がレストランに戻ったとき、その顔にはいつもの穏やかで落ち着いた表情が戻っていた。蒼士の正面に座り、グラスを掲げる。「すまない、蒼士。今日は悪かった。君に隠しておくべきじゃなかった」蒼士は椅子の背にもたれたまま彼を見て、グラスを合わせた。「いいんだ。諸富さんに頼まれた件は、もともと断るつもりだった。今日はっきり伝えられて、こちらもすっきりしたよ」ワインを一口飲み、かすかに笑う。「むしろ、こういう場を作ってくれた清景に感謝しないとな」「......」清景はグラスを置き、こめかみを揉んだ。この二人、どちらも抜け目なく、芝居までうまい。間に挟まれた自分だけが、両方に都合よく使われていたことにも気づかなかった。「もういい。食べよう」清景はナイフとフォークを手に取り、ステーキを一切れ口に運んだ。二度ほど噛んだが、まるで味がしない。蒼士を見上げると、さっき廊下で慎也
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第226話

コンコンコン!返事はない。城介はもう何度か扉を叩いたが、やはり物音ひとつしなかった。眉をひそめ、ポケットから針金を取り出して鍵穴に差し込み、何度か動かす。カチャリと音がして、鍵が開いた。扉を押して中へ入る。部屋は6畳ほどしかなく、シングルベッドと机、椅子が一つずつ置かれていた。隅にはプラスチックの洗面器がいくつかと、魔法瓶が無造作に置かれている。窓には新聞紙が貼られ、光はほとんど入らない。濃い煙草の臭いに汗と足の臭いが混ざり、思わず顔をしかめるほどだった。ベッドには男が一人、横になっていた。50歳前後の痩せた男だ。髪はぼさぼさで、無精ひげを生やし、洗いざらして色褪せたタンクトップ姿で、いびきをかいている。枕元の棚には半分ほど残った焼酎の瓶と、空き瓶が数本。床には落花生の殻と吸い殻が散らばっていた。城介は近づき、ベッドの脚を蹴った。「加賀美邦彦」男は反応しない。城介は先ほどより強く、もう一度蹴った。「加賀美邦彦!」ようやく男が身じろぎし、寝返りを打って目を開けた。濁った目が動き、しばらくして城介の顔に焦点が合う。「だ......誰だ......?」「大和田だ。刑務所で知り合っただろ。忘れたのか?」邦彦は一瞬きょとんとした後、ベッドに手をついて起き上がった。目をこすり、城介の顔をよく見て、ようやく口を開けて笑う。「ああ、大和田か!今日はどうして?」「顔を見に来た」城介はポケットから煙草の箱を取り出し、一本抜いて差し出した。邦彦は受け取ってくわえると、枕元の棚からライターを探し出して火をつけた。深く吸い込み、満足そうに目を細める。「お前も義理堅いな」煙を吐き、城介の姿を眺めた。「最近はどうだ?」「まあまあだな」城介は向かいの椅子に腰を下ろし、脚を組んだ。「あんたは?」邦彦は灰を落とし、鼻で笑った。「その日暮らしさ」城介は答えず、ただ彼を見ていた。邦彦はさらに何口か吸ってから、吸い殻を床に投げ捨て、足で踏み消した。「今日は、ただ昔話をしに来たわけじゃねえんだろ?」城介はようやく口を開いた。「うちのお嬢様が、あんたに会いたがってる」「お嬢様?」邦彦は眉をひそめた。「誰のことだ?」「誰かは気にしなくていい。とにかく、あん
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第227話

薄暗い明かりの下で、その笑顔はどこか不気味に歪んで見えた。――「紗寧。パパが会いに来たぞ」......狩猟場には、広く名の知れた天空のプールがあった。山の斜面に建つ邸宅の三方が、床から天井までの大きなガラス窓になっている。窓の向こうには、幾重にも連なる山々の影が広がっていた。狩猟場全体を見渡せる、息をのむほど美しい眺めだった。その広大な、緩やかに曲がりくねったプールを、たくましい人影が勢いよく泳いでいた。水面が大きく波立ち、しぶきが飛び散る。力強い腕を素早く前へ伸ばし、あっという間に中央まで泳ぎ着いた。「そこで何してる?入っておいで」蒼士は、バスタオルを羽織ってプールの縁からおそるおそるのぞき込む紗寧を見て、口元を緩めた。「泳げないのか?」紗寧は頬を少し赤らめ、こくりとうなずいた。北城で育ち、あんな両親のもとで暮らしてきたのだ。水泳を習うような余裕など、あるはずもなかった。揺らめく水の光の中、蒼士がプール脇の階段を一段ずつ上がってくる。手すりに掛けてあったタオルを取り、無造作に肩へ掛けた。髪は濡れ、白い肌をした長身は無駄なく引き締まっている。なめらかに連なる筋肉の線は、まるで彫像のようだった。肌を伝う水をざっと拭うだけで、彼は紗寧のそばへ歩いてきた。「習ってみるか?簡単だ。俺が教える」紗寧はバスタオルにくるまったまま、つま先を伸ばして水に触れ、驚いた顔をした。「あれ、水が温かい......」蒼士がかすかに笑う。「ああ、温水プールだからな」紗寧はしゃがみ込み、水の中に手を差し入れた。温かな水が指先を包み、絹のようになめらかに流れていく。蒼士はプールの壁にもたれ、両腕を縁に載せていた。鎖骨から滴る水が胸の筋肉のくぼみを伝い、水面の下へ消える。「入ってみるか?」紗寧はためらい、無意識にバスタオルの端を握り締めた。「私......水が怖いんです」「大丈夫だ。俺がいる」蒼士が手を差し伸べる。その指の間から水滴が落ちた。紗寧は下唇をかみ、ゆっくりとタオルをほどいた。白いバスタオルが肩から滑り落ち、足元に重なる。身につけていたのは、くすんだピンクの水着だった。控えめなデザインで、襟ぐりはさほど高くなく、スカートの裾は脚の付け根まで。それでも、彼女の美しい体の線は隠し
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第228話

蒼士の言葉の意味はよく分からなかったが、今にも自分を丸呑みにしそうな飢えた狼のような顔を見れば、ろくなことを考えていないのは分かった。「......からかわないでください」彼の胸に手を当てて押し返し、頬を赤らめたままプールの縁にしゃがむ。まずつま先を入れて水温を確かめ、それからゆっくりと水の中へ滑り込んだ。水が腰まで届き、四方から伝わる温かさが体を包む。紗寧は壁に背をつけ、両手で縁をぎゅっとつかんだ。全身が弦のように張り詰めている。「力を抜いて」蒼士が泳いできて彼女の前に立ち、両手で腰を支えた。「緊張しなくていい。水が体を浮かせてくれる」紗寧は深呼吸をし、ゆっくりと片手を離した。体がぐらりと揺れ、慌ててまた縁をつかむ。心臓がどきどきと速くなった。「まずは浮いてみよう」紗寧はおそるおそる手を離し、体を水に預けた。すると、確かに体が浮かび上がる。二度ほど水をかいてみると、なかなか面白かった。「気をつけろ......」蒼士は反射的に近づき、彼女を引き戻そうとした。紗寧はすぐに彼をにらんだ。「来ないでください。自分でできます」蒼士は腕を組んで水に浮かび、困ったように笑った。それでも、近すぎず遠すぎない距離を保ってついていく。紗寧は、自分には水泳の才能があるのではないかと思い始めていた。水に入ったばかりなのに、もう浮けるようになったのだ。得意になって水をかいていると......――あれ?ずいぶん遠くまで流されている気がする。「八角......八角さん......!」慌てて水の中でもがき、水を飲み込んだ。その瞬間、力強い腕にすくい上げられる。背中に温かい胸が触れた。彼の腕が腰に回り、体を水から引き上げてくれる。紗寧は二度ほど咳き込み、口に入った水を吐き出してから、大きく息をついた。蒼士が彼女の肩に顎を載せる。耳元に響く低くかすれた声には、笑いが混じっていた。「まだ強がるか?」紗寧は耳を赤くした。「......ちょっと試してみたかっただけです」「何を?自分が溺れるかどうかをか?」「......」蒼士は低く笑い、彼女の体を回して向き合わせた。両手で顔を包み、赤くなった頬を親指でそっと撫でる。「俺が教える。ゆっくりやろう」彼は根気よく教えた。まずは基本の息継
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第229話

蒼士は答えず、腕に少し力を込め、彼女をさらに引き寄せた。二人の間には、わずかな隙間もない。薄い水着越しに、彼の体温と鼓動がはっきりと伝わってくる。落ち着いた、力強い鼓動。その一つひとつに、彼女の胸まで震えた。「は......離してください」彼は顔を近づけ、彼女の鼻先に自分の鼻先を重ねた。吐息が交わり、温かな息が頬をくすぐる。「泳ぎを教えたのに、まだ授業料をもらってない」紗寧の耳が熱くなった。「授業料......?」蒼士はかすかに口元を上げた。緊張で引き結ばれた彼女の唇を見つめる目が、次第に熱を帯びていく。「キスして」紗寧の顔が一気に赤くなった。「か......からかわないでください」「からかってない」低い声で彼は続けた。「これでも一応、君の先生だ。教えてもらったら、恩返しくらいしないとな......」「そんなの、おかしいです!」紗寧は唇をかんだ。とんでもない相手に教えを請うてしまった気がする。「言うことを聞かない生徒だな。どんなお仕置きにしようかな......」今いるのはプールの真ん中だ。逃げようにも逃げられない。少しためらってから、彼女は頬を染めたまま、素早く彼の唇に口づけ、すぐに顔を離した。蒼士が片眉を上げる。「それだけ?」「じゃあ、どうしろって言うんですか......」「前に教えただろう?ほら、ちゃんと覚えたか、見せてもらおう......」「......」蒼士は断る隙も与えず、顔を近づけて唇を重ねた。紗寧は息が苦しくなり、彼の肩をぎゅっとつかんだ。爪が肌に食い込み、薄い三日月形の痕をいくつも残す。どれほど経ったのか、ようやく蒼士が唇を離した。紗寧は大きく息をついた。頬は真っ赤に染まり、唇はしっとりと濡れている。恥ずかしさと腹立たしさに、蒼士をにらんだ。「八角さん......」「俺がどうした?」紗寧はもう一度彼をにらみ、背を向けて泳ぎ去ろうとした。だが、一度水をかいただけで、後ろから引き戻されてしまう。「まだ授業は終わってない」「もう習いません!」「だめだ」耳元で声が響き、熱い吐息がかかった。「俺はまだ教え足りない。今度は別の泳ぎ方を教えてやるよ......」紗寧の耳は、血がにじみそうなほど赤くなった。蒼士は
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第230話

「習うなら、ちゃんと授業料を払うこと」蒼士は彼女を自分のほうへ向かせ、背後のプールの壁に両手をついた。その腕の間に、彼女をすっぽりと閉じ込める。水はちょうど二人の胸元まで届いていた。揺らめく水面に天井の明かりが映り込み、無数の金色のかけらとなって流れていく。蒼士は彼女を見下ろした。赤く染まった頬から、水に濡れた水着の胸元へ。そして、呼吸に合わせてかすかに上下する......紗寧はその視線に落ち着かなくなり、口を開きかけた。そのとき、椅子に置かれていた蒼士のスマホが震えた。「電話......」これ以上何かされてはたまらないと、紗寧は慌てて電話に出るよう促した。蒼士はプールの階段を上がり、竹製の椅子に腰を下ろして電話を取った。「もしもし、叔母さん......」次の瞬間、その表情が一気に険しくなった。「え?ばあさんが?」......一方、北城では。真洋は北城に戻って以来、別人のようになっていた。以前は会員制ラウンジで酒を飲み、友人とカードゲームに興じることもあったが、今はすべてやめている。毎朝7時半には会社へ行き、夜11時になってようやく帰る。週末すら休まなかった。ワールド・エンターテインメントは、もう終わりだった。松田銘の一件は瞬く間に広まり、投資家は資金を引き揚げ、取引先は契約を解除し、所属タレントも次々と移籍した。株価は底まで落ち、立て直す余地すらなかった。真洋は思い切ってその会社を手放し、すべての力を柏グループに注いだ。最上階にある社長室で、真洋は椅子の背にもたれていた。目の下には濃い隈ができ、顎には青々とした無精ひげが浮いている。1週間以上も残業続きで、体はひと回り痩せていた。頬骨が目立ち、スーツにも余りが出ている。「社長」秘書がブラックコーヒーを手に入ってきた。「コーヒーをお持ちしました」「置いておいてくれ」秘書は机にカップを置いた。少しためらった末、口を開く。「社長、鈴江様がまたお見えです。1時間以上、下でお待ちになっています。お会いしたいと......」「帰ってもらえ」「そう申し上げたのですが、お帰りにならなくて......」「なら、警備員に連れ出してもらえ」秘書は何か言いかけたが、それ以上は口にせず、部屋を出ていった。真洋はコーヒー
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