All Chapters of 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜: Chapter 111 - Chapter 120

141 Chapters

111話 書店の午後

 土曜日の午後、私は書店へ向かった。 スマホのカレンダーには『書店か喫茶店』とだけ入れてある。 約束ではない。 誰かに会う予定でもない。 だから、行かなくても誰にも迷惑はかからない。 それでも朝から少しだけ楽しみだった。 洗濯物を干して、部屋に掃除機をかけて、残っていた段ボールをひとつ潰した。 そのたびに、今日の午後は書店に行くのだと思った。 誰かのための買い物ではない。 必要な手続きでもない。 私が私のために出かける予定。 その軽さが、まだ少し新鮮だった。◇◇◇◇ 書店の入口横の掲示板には、新しいチラシが増えていた。 手作り市の案内。 児童書フェア。 地域の読書会。 そして、前に見た『次回展示準備中』の紙はまだ貼られている。 朝倉さんの名前はない。 少しだけ残念だと思った。 でも、その残念さをすぐに消さなくてもいい気がした。 また会えるかもしれないと思っていた。 会えなくて、少し寂しい。 それだけのことだ。 私は掲示板の前で小さく頷いてから、店内に入った。 本棚の間は静かだった。 土曜の午後だからか、平日の夕方より客が多い。 親子連れ。 年配の女性。 文庫棚の前でじっと背表紙を見ている男性。 それぞれが、それぞれの本を探している。 私は料理本の棚を少し見てから、暮らしのエッセイの棚へ移動した。 一人暮らし。 小さな部屋。 毎日の食卓。 そういう言葉が表紙に並んでいる。 少し前の私なら、そんな本を手に取ることすらなかったかもしれない。 今の生活に必要だからではなく、今の生活を少し好きになりたいから読む。 そういう選び方があるのだと、最近になって知った。
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112話 入ってみる店

 書店を出たあと、私はまっすぐ帰らずに通りを歩いた。 紙袋の中には、買ったばかりのエッセイ。 店員さんから聞いた言葉が、まだ胸に残っている。 朝倉さんが、感想カードを喜んでいた。 写真を見た人の生活が入っている感想だと言っていた。 匿名だったのに。 それでも、その言葉は私の中へちゃんと届いた。 私は少しだけ顔が熱くなるのを感じながら、古い喫茶店の前で足を止めた。 前にも何度か通った店。 窓の中には、オレンジ色に近い灯り。 カウンター席に座る人。 奥のテーブルで本を読む人。 写真に写っていた店とは違う。 それでも、あの『帰り道の灯り』を思い出す場所だった。 入ってみたい。 今日は、その気持ちが前よりはっきりしていた。 誰かと一緒ではない。 一人で。 少し緊張する。 でも、一人で入ってみたい。 私はドアの前に立ち、深く息を吸ってから取っ手に手をかけた。 扉を開けると、小さなベルが鳴った。 店内にはコーヒーの香りが漂っている。 カウンターの奥にいた年配の女性が、こちらを見た。「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」 柔らかい声だった。 私は軽く会釈して、窓際の二人掛けの席に座った。 二人掛け。 けれど、今日は一人で使う。 前なら、少し申し訳ない気持ちになったかもしれない。 一人なのに二人席を使っていいのかな。 混んできたらどうしよう。 でも店内にはまだ余裕があった。 私はバッグを向かいの椅子に置いた。 空いた椅子に、自分の荷物を置く。 それだけのことが、少し自由に感じた。 メニューを開く。 ブレンドコーヒー。 紅茶。 チーズトースト。 プ
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113話 花をひとつ

 花屋はまだ開いていた。 店先には小さな鉢植えと、切り花のバケツが並んでいる。 赤いガーベラ。 白いカーネーション。 黄色い小花。 名前の分からない淡い紫の花。 私は店の前で少し立ち止まった。 花を買うのは、久しぶりだった。 以前も買ったことはある。 でも、それは誰かの誕生日や、職場への差し入れや、部屋をきれいに見せるためのものだった気がする。 今日は違う。 自分の部屋に置くため。 まだ段ボールの残る部屋に。 薄い青のカーテンのそばに。 私が帰る場所に、ひとつ色を足すため。「ご自宅用ですか?」 店員さんに声をかけられ、私は少しだけ戸惑った。 ご自宅。 その言葉が、胸の中で静かに響いた。「はい。自宅用です」 そう答えると、思っていたより自然だった。「一輪だけでも大丈夫ですか?」「もちろんです。どんな雰囲気がいいですか?」 雰囲気。 私は店先の花を見た。 華やかすぎるものは、今の部屋には少し照れくさい。 でも、寂しすぎるものも違う。 目に留まったのは、淡い黄色の小さな花だった。 名前は分からない。 けれど、窓辺に置いたら部屋が少し明るくなりそうだった。「これを一本」「はい。ミモザですね。季節のものではないですけど、今日は少し入ってきていて」「ミモザ」 名前を口にすると、少し嬉しくなる。「小さな花瓶に入れますか?」「あ……花瓶はまだなくて」「グラスでも大丈夫ですよ。短めに切りましょうか」「お願いします」 花屋の店員さんは慣れた手つきで茎を整え、小さな紙に包んでくれた。 黄色い花が、紙の隙間から少しだけ見えている。 私はそれを受け取った。
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114話 見せたいもの

 翌朝、目が覚めて最初に見たのは、窓辺のミモザだった。 薄い青のカーテンの前で、黄色い小さな花が静かに揺れている。 昨日、花屋で買った一本。 グラスに挿しただけの簡単な花。 それでも、部屋の空気は少し違って見えた。 まだ段ボールは残っている。 本棚に入りきらない本もある。 洗濯物を畳む場所も、まだ決まったとは言えない。 でも、窓辺に花がある。 それだけで、未完成の部屋に小さな明かりが増えたようだった。 私は布団から起き上がり、カーテンを少し開ける。 朝の光が入って、ミモザの黄色がふわりと明るくなった。「おはよう」 小さく言ってから、少し笑う。 花に挨拶するなんて、前の私なら照れくさくてできなかったかもしれない。 でも、ここには私しかいない。 誰かに聞かれて笑われる心配もない。 そう思うと、少し気楽だった。◇◇◇◇ 朝食は、ヨーグルトとトースト。 グレーのマグカップには温かい紅茶。 丸いテーブルに座ると、窓辺のミモザが視界の端に入る。 それだけで、いつもの朝食が少しだけ丁寧なものに見えた。 写真を撮りたい。 そう思った。 スマホを手に取って、窓辺に向ける。 薄い青のカーテン。 クラゲのキーホルダー。 透明なグラスに挿したミモザ。 画面の中に、小さな私の部屋が収まった。 撮った写真を見る。 きれい、というより、好きだった。 私は少し迷ってから、森下さんに送った。『昨日、自分用に花を買いました』 すぐには返事が来ない。 日曜日の朝だから、まだ寝ているかもしれない。 私はスマホを置いて、トーストをかじった。 花を買ったことを、誰かに見せたいと思った。 そのことが、少し不思
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115話 花瓶を買いな

 月曜日の昼休み、私は佐伯さんにスマホの写真を見せた。 薄い青のカーテン。 窓辺のクラゲ。 グラスに挿したミモザ。 佐伯さんは画面を見て、しばらく黙った。「……いいじゃん」「本当ですか」「うん。いい」 いつもより少しだけ柔らかい声だった。「でも」「でも?」「花瓶を買いな」 予想通りの言葉に、私は笑ってしまった。「やっぱり言うと思いました」「グラスでも悪くないけど、せっかくなら花瓶があると楽しいよ」「花瓶って、どんなのがいいんでしょう」「知らない」「知らないんですか」「私も毎回適当に買ってる。でも、適当に買ったものが案外残る」 佐伯さんはアイスコーヒーを飲んだ。「高いやつじゃなくていい。小さいのでいいから、自分の部屋に合うのを探してみれば」 自分の部屋に合うもの。 その言葉だけで、少し胸が弾んだ。 カーテンを選んだ時。 テーブルと椅子を選んだ時。 料理本を選んだ時。 私は少しずつ、自分の部屋に置くものを選んできた。 そこに、花瓶が増える。 たったそれだけなのに、次の休日が少し楽しみになる。「佐伯さんは、花買いますか?」「たまにね。疲れてる時ほど買う」「疲れてる時ほど?」「そう。部屋が荒れてても、花だけあると、まあ人間の暮らしではあるなって思えるから」 佐伯さんらしい言い方に、私はまた笑った。「私、昨日それに近いこと思いました」「でしょ」「完璧な部屋になったから花を置くんじゃなくて、途中だから置いてもいいのかなって」 佐伯さんは満足そうに頷いた。「いいね。ちゃんと暮らしてる」◇◇◇◇ 昼食を食べながら、私は週末のことを少し話した。
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116話 花瓶を探す日

 その週の土曜日、私は花瓶を探しに出かけた。 朝から洗濯をして、部屋に掃除機をかけて、ミモザの水を替えた。 花は少し元気をなくしていたけれど、まだ黄色い小さな粒が窓辺に残っている。 透明なグラスに挿したそれを見ながら、私は佐伯さんの言葉を思い出した。 花瓶を買いな。 花瓶監査するから。 監査という言葉は少し物騒なのに、思い出すと笑ってしまう。 でも、佐伯さんの言う通りだと思った。 花を買ったのなら、それを置く場所を少し整えてもいい。 完璧な部屋を作るためではなく、今の生活に似合うものをひとつ増やすために。 私はスマホで近所の雑貨店を調べた。 駅の反対側に、小さな生活道具の店があるらしい。 口コミには、器とガラス小物が多いと書かれている。 私はバッグに財布とスマホと、小さなエコバッグを入れた。 誰かと待ち合わせているわけではない。 それでも、今日はちゃんと予定がある。 私の部屋に合う花瓶を探す日。◇◇◇◇ 駅の反対側へ歩くのは初めてだった。 いつもの書店や喫茶店とは違う方向。 細い道を抜けると、古いマンションの一階に小さな店があった。 木の看板に、控えめな文字で店名が書かれている。 中に入ると、陶器の皿やカップ、ガラスの小瓶、小さな布ものが並んでいた。 大きな店ではない。 でも、ひとつひとつの置き方が丁寧で、見るだけで少し楽しい。 私は棚の前に立ち、花瓶を探した。 丸いもの。 細長いもの。 透明なもの。 白い陶器のもの。 淡い緑色の小さな瓶。 どれも素敵で、逆に迷ってしまう。 前なら、無難なものを選んだかもしれない。 どんな部屋にも合うもの。 失敗しないもの。 誰かに変だと言われないもの。 でも今
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117話 偶然の前で

 朝倉さんは、手に持っていた紙の束を少し上げた。「次の展示の打ち合わせで来ていました」「あ、これ」 私は掲示板のチラシを指した。「さっき見ました」「もう貼ってありましたか」「はい。来月なんですね」「はい。今度は器の作家さんと一緒にやる展示です」「器と写真」「暮らしの中の道具と、それが置かれている時間みたいなものを撮れたらと思っていて」 朝倉さんの言葉を聞きながら、私は紙袋を持つ手に少し力が入った。 花瓶。 今日買ったばかりの、薄い水色の花瓶。 暮らしの中の道具。 その言葉が、あまりにも今の私の手元と重なったから。「藤崎さんは、お買い物ですか?」「はい。花瓶を買ってきました」 言ってから、少しだけ照れた。 わざわざ話すほどのことではないかもしれない。 でも、朝倉さんは興味深そうに目を細めた。「いいですね」「まだ花瓶を持っていなくて。グラスに花を挿していたら、職場の先輩に花瓶を買いなって言われて」「素敵な先輩ですね」「花瓶監査するそうです」「監査」 朝倉さんが小さく笑った。 その笑い方が少しだけ普通の人らしくて、私は肩の力が抜けた。「厳しそうですね」「たぶん厳しいです」「どんな花瓶を選んだんですか」「薄い水色の、小さいものです。カーテンの色に合いそうで」「カーテン」「はい。薄い青のカーテンをつけたんです」 そこまで話して、私は少し驚いた。 自分の部屋の話を、自然にしている。 前なら、こんなふうに自分の選んだものを人に話すことに、もっと緊張していた気がする。 でも朝倉さんは、私の話を大げさに受け止めるでもなく、軽く流すでもなく、ただ聞いてくれた。「その花瓶、似合いそうですね。その部屋に
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118話 置き場所を決める

 部屋に帰ると、私はまず花瓶を紙袋から出した。 薄い水色の小さな花瓶。 店で見た時より、部屋の光の中では少し柔らかく見える。 私は窓辺に置いてみた。 薄い青のカーテンの前。 クラゲのキーホルダーの隣。 そこに置くと、花瓶は思ったより自然に馴染んだ。「……いい」 小さく呟く。 誰かに見せる前に、まず自分でそう思えた。 グラスに挿していたミモザをそっと抜き、茎を少し切る。 水を入れた花瓶に挿すと、黄色い小さな花がふわりと広がった。 水色の花瓶と、黄色い花。 薄い青のカーテン。 淡い水色のクラゲ。 窓辺に並ぶそれらを見ていると、胸の奥が静かに満たされていく。 完璧な部屋ではない。 でも、私が選んだものが少しずつ増えている。 そのことが、何より嬉しかった。 スマホを手に取り、写真を撮った。 角度を変えて、もう一枚。 花瓶がよく見えるように、クラゲが少しだけ写るように。 撮った写真を見て、私は少し迷った。 佐伯さんに送る。 森下さんにも送る。 千尋にも、きっと見せたい。 でも、その前に、私は写真をしばらく自分だけで眺めた。 誰かに褒めてもらう前から、私はこれが好きだと思っている。 その順番を、間違えたくなかった。 しばらくしてから、まず佐伯さんに送った。『花瓶監査お願いします』 すぐに既読がついた。『合格』 短い。 あまりにも短い。 続けてもう一通来る。『ただし花瓶の下に何か敷くとさらに良し』 私は笑った。『厳しい』『監査なので』 次に森下さんへ送る。『花瓶買いました』 森下さんからは、少し長めの返事が来た。
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119話 花瓶のある朝

 花瓶を買ってから、朝の景色が少し変わった。 目が覚めてカーテンを開ける。 薄い青の布が左右に寄る。 窓辺に置いた水色の花瓶に、朝の光が当たる。 ミモザは少しずつ小さく乾き始めていたけれど、それでも黄色い花は部屋の中でやわらかく浮かんでいた。 クラゲのキーホルダーは、その隣で静かに揺れている。 水色と黄色。 過去と今日。 そう言葉にすると少し大げさだけれど、私の部屋にはその両方が並んでいた。 私はキッチンで水を汲み、花瓶の水を替える。 茎の先を少し切る。 花屋さんに言われたことを思い出しながら、丁寧に戻す。 前なら、こういう手間を面倒だと思ったかもしれない。 花を飾るなら、ちゃんと世話をしなければいけない。 できないなら買わない方がいい。 そんなふうに考えて、始める前から自分を止めていた。 でも今は、少し違う。 できる範囲でいい。 花がしおれたら、それはそれで終わりまで見ればいい。 完璧に保つことだけが、大切にすることではないのかもしれない。◇ 朝食はトーストと目玉焼きにした。 料理本に、卵は弱火で焼くと失敗しにくいと書いてあったので試してみる。 黄身は少し端に寄った。 白身もきれいな丸にはならなかった。 それでも、前より焦げていない。 白い器にヨーグルトを入れ、グレーのマグカップに紅茶を注ぐ。 丸いテーブルに並べると、ちゃんと一人分の朝食に見えた。 向かいの椅子には、昨日読みかけのエッセイが置いてある。 空席ではなく、途中の本の場所。 私は「いただきます」と手を合わせた。 目玉焼きに少し醤油をかける。 食べながら、窓辺の花瓶を見る。 朝の光の中では、夜よりも水色が淡く見える。 この部屋に似合う。 そう思う。
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120話 来客の準備

 森下さんが来ることが決まってから、私は少しそわそわしていた。 来週の土曜日。 午後。 お菓子は森下さんが持ってきてくれるらしい。 私はお茶を用意すればいい。 それだけのことなのに、頭の中では部屋の片づけリストが勝手に増えていく。 段ボールを全部潰す。 床を拭く。 台所を磨く。 洗面所も見られるかもしれない。 トイレも掃除しなければ。 クッションカバーは洗うべきか。 そこまで考えて、私は丸いテーブルに突っ伏した。「……やりすぎ」 誰もいない部屋で呟く。 森下さんは、ホテルのチェック係ではない。 花瓶監査見習いではあるかもしれないけれど、それも冗談だ。 私は部屋を見回した。 薄い青のカーテン。 窓辺のクラゲとミモザ。 水色の花瓶。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 壁際に残った段ボールが二つ。 床に積んだ本が少し。 完璧ではない。 でも、暮らしている部屋だ。 森下さんに見せたいと思ったのは、この部屋が完璧になったからではない。 私がここで暮らしていることを、見てもらいたいと思ったからだ。◇ 私はノートを開いて、やることを書き出した。『床に出ている本を箱か棚へ』『テーブルを拭く』『お茶を買う』『無理に全部やらない』 最後の一行に、丸をつける。 無理に全部やらない。 これが一番大事かもしれない。 以前の私なら、人を呼ぶ前に完璧にしようとした。 料理も多めに用意して、相手の好き嫌いを気にして、掃除も念入りにして、当日には疲れた顔で笑っていたかもしれない。 楽しいはずの来客を、自分で義務に変えていた。 でも、今回はそうしたくない。
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