Mag-log in三十二歳の会社員・真琴は、恋人の悠斗と五年間同棲しながら、料理も家事も彼の世話もすべて引き受けてきた。 しかし、悠斗の「母親っぽい」という言葉に、彼に尽くすだけだった自分の人生が崩れていく。 家を出て新しい職場へ転職した真琴は、“誰かのため”ではなく“自分のため”に生きることを少しずつ覚えていく。 そんな彼女の前に現れたのは、無愛想だが静かに寄り添ってくれる年下のカメラマンだった――。
view more玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。
午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。 そう思って、すぐに頭を振る。 疲れてるんだよね、きっと。 今日は朝から会議があるって言ってたし。 私はしゃがみ込み、靴を揃え直した。 そのまま何気なく視線を上げる。 脱ぎっぱなしのパーカー。 ソファに置かれたコンビニの袋。 飲みかけのペットボトル。 たぶん、家を出るギリギリまでゲームしてたんだろうな。 苦笑しながらバッグを置く。 怒るほどのことじゃない。 恋人同士なんだから、これくらい普通だ。 ……普通。 そう思いながらスマホを確認すると、悠斗からLINEが届いていた。 『今日、飯いらない。飲み会』 送信時刻は一時間前。 私は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。 「そっか……」 声にすると、思ったより部屋が静かだった。 冷蔵庫を開ける。 下味をつけておいた鶏肉。 切っておいたキャベツ。 卵焼き用に溶いていた卵。 今日はちゃんと食べてほしかった。 ここ最近、悠斗はコンビニ飯ばかりだったから。 仕事が忙しいのは知ってる。 疲れて帰ってくるのも分かってる。 だからせめて、ご飯くらいはちゃんとしたものを食べてほしくて。 でも、そういうことを言うと悠斗は少し嫌そうな顔をする。 『真琴って、最近ちょっと母親っぽい』 前にそう言われたことがあった。 笑いながらだったし、悪気はなかったと思う。 だから私も笑った。 『なにそれ』 軽く返して、その場は終わった。 終わった、はずだった。 でも今でも時々、ふと思い出す。新しい部屋の夜は、知らない音がした。 上の階の足音。 遠くの道路を走る車。 廊下を誰かが歩く気配。 前の部屋でも、同じように生活音はあったはずなのに、ここでは全部が少し違って聞こえた。 私は床に敷いた布団の上に座り、スマホを見ていた。 千尋からメッセージが届いている。『無事?』 私は部屋の写真を一枚撮った。 段ボール。 薄い青のカーテン。 床に置いた白い器。 まだ何も整っていない部屋。『無事。段ボール王国』 すぐに返事が来た。『建国おめでとう』 思わず笑った。『初代女王として頑張る』『まず寝床を確保してください陛下』 笑いながら、目の奥が少し熱くなった。 こういう何でもないやりとりが、今はありがたい。 大丈夫かと深刻に聞かれるより、段ボール王国と笑ってもらえる方が、心が少し軽くなる。 佐伯さんからもメッセージが来ていた。『引っ越し、お疲れさま。今日は片づけより寝ること優先』 短い文章。 でも、佐伯さんらしかった。 私は返信する。『ありがとうございます。今日は最低限にします』 送信すると、すぐに既読がついた。『それでよし』 その四文字を見て、肩の力が抜けた。◇◇◇◇ 森下さんからは、夕方にメッセージが来ていた。『カーテン、つきましたか?』 私は少し迷って、窓辺の写真を送った。 薄い青のカーテン。 そのそばに置いたクラゲ。 森下さんからの返信は少し遅れて届いた。『すごく素敵です。静かだけど、冷たくないです』 同じ言葉。 それが嬉しかった。『ありがとう。気に入ってる』 そう打って、少し手が止まる。
最初に開けたのは、カーテンの箱だった。 引っ越し業者が帰ったあと、部屋は段ボールだらけで、何から手をつければいいのか分からなかった。 本。 食器。 服。 生活用品。 どれも必要だった。 でも、窓がそのままなのが落ち着かなかった。 夕方が近づいている。 このまま夜になったら、外から部屋の中が見えてしまう。 私は床に座り、カッターで箱を開けた。 中から、薄い青の布が出てくる。 店で見た時と同じ、少しくすんだ静かな色。 手で触れると、さらりとしていた。 森下さんが言った言葉を思い出す。 静かだけど、冷たくない感じ。 私はカーテンレールを見上げた。 踏み台代わりに、まだ空の段ボールを使う。 少し危ないかもしれないと思いながら、慎重にフックをかけた。 一枚目。 二枚目。 全部かけ終えて床に下りると、部屋の空気が少し変わっていた。 窓辺に、薄い青が揺れている。 それだけで、ここが少し私の部屋になった気がした。 私はカーテンを閉めたり、開けたりしてみた。 外の光がやわらかくなる。 白い壁に、淡い色が落ちる。「いい」 思わず声に出た。 誰も返事をしない。 でも、その声は寂しくなかった。 自分で選んだものを、自分で好きだと言えた。 それだけで、胸の奥がほんの少し満たされた。 次に、食器の箱を開けた。 白い器。 グレーのマグカップ。 小さな皿。 緩衝材をほどきながら、一つずつキッチンの棚に置いていく。 棚はまだがらんとしていた。 だからこそ、私が選んだ器の一つ一つがよく見えた。 以前の食器棚は、二人分の皿でいっぱいだった。 大きな皿。
新しい部屋の鍵は、思っていたより軽かった。 不動産屋で説明を受け、書類に何度も名前を書いて、鍵を受け取った。 金属の小さな束。 それが、これから私の生活を開けるものになる。 マンションの前に着くと、私は一度立ち止まった。 少し古い外壁。 小さなエントランス。 内見の日と同じ景色なのに、今日は違って見えた。 今日からここは、見に来た部屋ではなく、帰ってくる場所になる。 階段を上がり、三階の廊下を歩く。 部屋番号を確認する。 鍵穴に鍵を差し込んだ。 少し固い感触があった。 回すと、かちゃりと音がする。 ドアを開けた瞬間、何もない部屋の匂いがした。 空っぽの床。 白い壁。 窓から入る午後の光。 家具も荷物もない部屋は、内見の時より広く見えた。 私は靴を脱ぎ、ゆっくり中へ入った。「ただいま」 小さく言ってから、自分で少し笑った。 返事はない。 当たり前だ。 でも、その無音は前の部屋の無音とは違っていた。 誰かがいない寂しさではなく、これから何かを置ける静けさだった。 窓辺まで歩く。 カーテンのない窓から、光がまっすぐ床に落ちていた。 薄い色のフローリング。 小さなキッチン。 壁際のコンセント。 ここにテーブルを置く。 その横に椅子を二脚。 本棚は、あの壁の前。 ベッドは奥。 私は頭の中で、少しずつ家具を置いていった。 まだ何もないのに、部屋の中に生活の輪郭が浮かぶ。 朝、ここでカーテンを開ける。 夜、この窓の近くで本を読む。 休日、テーブルにコーヒーを置く。 千尋がケーキを持って来るかもしれない。 佐伯さんが「悪くないじゃ
引っ越し業者の人たちは、手際よく段ボールを運び出していった。 本。 食器。 服。 小物。 私が何日もかけて選んだものが、次々と部屋から消えていく。「こちらも運びますね」「お願いします」 返事をするたびに、部屋の中の景色が変わった。 壁際に積まれていた箱がなくなり、床が見える。 クローゼットの前が広くなる。 食器棚の一段が空になる。 ひとつ運ばれるごとに、私がここで暮らしていた痕跡が少しずつ薄くなっていく。 その光景を、私はリビングの端で見ていた。 悠斗は玄関側に立ち、業者さんに段差のことや駐車場所のことを説明していた。 必要なことだけを、落ち着いて話している。 時々こちらを見るけれど、何も言わない。 引き止める言葉も。 大丈夫かと何度も聞くことも。 なかった。 それがありがたくて、少し寂しかった。◇◇◇◇ 最後に、本と小物の箱が運ばれる番になった。 その中には、写真集と海のエッセイと、暮らしの本。 白い器。 グレーのマグカップ。 布袋に入れたクラゲのキーホルダー。「これは、割れ物も入ってるのでお願いします」 私が言うと、業者の人は頷いた。「承知しました」 箱が持ち上げられる。 ほんの一瞬、胸が痛んだ。 あの箱には、この数週間の私が入っている。 好きだと思えたもの。 忘れていたもの。 嬉しかったけれど苦しかったもの。 それらが、この部屋から出ていく。 悠斗もその箱を見ていた。 中身を全部知っているわけではない。 でも、クラゲが入っていることは分かっているはずだった。 箱が玄関の向こうへ消える。 悠斗は何も言わなかった
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。