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第二十一話

 退院の手続きを済ませるため、母が入院している病院を出た私は、自分が運び込まれた病院へ戻っていた。  勝手に病院を抜け出すような真似をして、病院側には迷惑をかけてしまった。  それに、奏人先輩にも。  せめて連絡の一つくらいは入れなければと思い、バッグの中からスマホを取り出す。「あ……電源が」 画面は真っ暗だった。  どうやら、いつの間にか充電が切れていたらしい。  私は大きく息を吐き、近くの椅子に腰を下ろし、背もたれに身体を預ける。  ぼんやりと天井を見上げたその瞬間、視界がぐらりと揺れた。「……っ」 急激な眩暈に襲われ、思わず目を閉じて俯く。  昨日から、あまりにもいろんなことがありすぎて身体も心も、もう限界に近かった。「朝霧、大丈夫か」 不意に聞こえた声に、私はゆっくりと顔を上げると目の前には、床に片膝をつき心配そうに私の顔を覗き込んでいる奏人先輩がいた。   「奏人先輩……どうしてここにいるんですか?」「どうしてって、あのまま本当に朝霧を放っておけるわけないだろ。ここで待ってれば、戻ってくると思ったんだよ」 奏人先輩の性格を考えれば、そうするのも当然かもしれない。  昔からこの人は、困っている人間を見て見ぬふりできる人ではなかった。  先輩の話では、私が病室からいなくなったことについても、看護師さんにきちんと説明してくれていたらしい。  また、迷惑をかけてしまった。  そう思うのに、不思議と罪悪感よりも安心感の方が大きかった。  それが少しだけ、怖かった。「ありがとうございます。……もう大丈夫です。退院の手続きをしに戻っただけなので」「退院の手続きって、お前、本当に大丈夫なのか?」 奏人先輩は眉を寄せた。  昨日倒れたばかりで、今もこうしてふらついているのだから当然の反応だった。  鏡を見なくても、自分の顔色がひどいことくらい分かっていた。  私はその顔を見られたくなくて、少しだけ視線を逸らす。「はい。行かないといけないところがあるので」 そう答えると、奏人先輩はしばらく無言で私を見つめていた。  やがて、大きくため息をつく。「……わかった。とりあえず手続きしてくる。朝霧はここで待ってろ」「え、でも――」「今のお前を一人で動かせれないだろ」 それだけ言うと、奏人先輩は私の返事を待たずに歩
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第二十二話

玲司から、身も凍りつくような視線を向けられる。 ――あの目だ。 彼は本来、独占欲が強く、執着深い男だった。 まだ婚約する前、何気なく奏人先輩の話題を出したことがある。 その瞬間、玲司の瞳の奥が、急激に冷え切った。 それまで私の前で、そんな露骨な負の感情を見せたことのなかった玲司の変化は、今でも忘れられないほど強く印象に残っている。 だから私は、奏人先輩だけではなく、今まで交流のあった男性たちとも自然に距離を置くようになった。 たとえ私を冷遇しているとしても。妻として扱っていないとしても。 それでも玲司は、自分の妻である私が、自分を拒絶した挙句、他の男と一緒にいることを許せないのだろう。 玲司はカフェの中に入ってくることなく、ガラス越しにこちらを睨んでいた。 その視線から逃げるように目を背け、私はテーブルの下でぎゅっと手を握りしめる。 爪が掌に食い込む痛みだけが、かろうじて私を現実に繋ぎ止めていた。 「あいつ……」 奏人先輩の、低く緊張を含んだ声が聞こえた。 顔を上げると、奏人先輩は今にも立ち上がり、玲司のもとへ向かっていきそうな様子だった。 ――いけない。 これ以上は、本当に奏人先輩が危ない。 玲司があの時見せた暗い感情。 それに今の玲司は、私の行動によってプライドをひどく傷つけられている。 そう考えた瞬間、胸の奥から冷たい不安がせり上がってきた。 やっぱり、奏人先輩を巻き込んではいけないと思った。 慌てて立ち上がろうとした瞬間、奏人先輩が私の腕を掴んだ。 「朝霧! 行かなくていい。俺が守ってやるから、ここにいろ!」 まっすぐな声だった。 迷いのないその瞳に、心が大きく揺さぶられる。 胸がいっぱいになって、せっかく固めたはずの決意が鈍りそうになる。 けれど、視界の端で、玲司の視線が私の腕を掴む奏人先輩の手へ落ちたのが分かった。 その瞬間、傾きかけた心が現実へ引き戻される。 駄目だ——このままでは、本当に奏人先輩まで傷つけてしまう。 「迷惑をかけたくないの」 「朝霧……」 私の表情を見た奏人先輩の手から、ほんのわずかに力が抜けた。 その隙に、私は彼の手から逃れるようにそっと腕を引く。 テーブルの上に代金を置き、その場を離れようとした時、一度だ
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第二十三話

「もう、あなたには関係ないでしょ?」 玲司の正面に立ち、私は睨みつけるように言い返した。 ギロリ、と玲司が私を睨み返してくる。 正直、怖かった。 その視線だけで、足がすくみそうになる。 けれど、ここで引いては駄目だ。 そう自分に言い聞かせ、震えそうになる唇を必死に噛みしめた。「関係ある。お前は俺の妻だ」「妻として扱ってこなかったくせに? 家庭を顧みることもしなかったあなたが、よくそんなことを言えるわね」 玲司の口から「妻」という言葉が出た瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。 もう、その言葉に縋れるほど、私の心は残っていない。 今まで散々、私のことを妻としてどころか、一人の人間としてさえまともに見ようとしなかったどころか、まるで自分の所有物のように扱ってきた。 期待しては裏切られ、信じようとしては踏みにじられてきた。 もう、うんざりだった。「いくら連絡しても繋がらなかった。お前の母親が入院したという病院も調べた。だが連絡した時には、もうそこにはいないと言われた」「それで、探し回っていたとでも言いたいの?」 自分でも驚くほど、冷たい声だった。「何? 今さら心配したとでも言うつもり?」 私の問いかけに、玲司は何も答えなかった。 ただ、先ほどまで感じていた圧が、ふっと薄れる。 ほんの一瞬だけ彼のものとは思えないほど弱々しい空気が、玲司の周りに滲んだ気がした。 相変わらず表情はほとんど動かない。 けれど、今目の前にいる玲司は、さっきまでガラス越しに私たちを睨んでいた男とは、どこか違って見えた。 その違和感に、胸がざわつく。「わ、私がいなくなったら、あなたは嬉しいはずでしょ!」 冷え切ったはずの感情が、わずかに揺らいだ。 それが嫌で、私は自分を守るように声を荒らげる。 玲司はわずかに目を伏せたあと、覇気のない声で皮肉を返してきた。「あの男に払わせるつもりか」「……何の話?」「母親の治療費だ。夫でも家族でもない、無関係な男にそこまでさせるつもりか」「それは……」 言葉に詰まる。 確かに奏人先輩は、手を差し伸べてくれた。 けれど、玲司の言う通り、彼に縋るのは間違っている。 分かっている。 分かっているからこそ、胸の奥が苦しくなった。「だから、あなたが救ってやるから、母を罵倒し
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第二十四話

【玲司side】 千景を呼び止めようとした、その瞬間だった。 スマホが鳴る。 画面に表示された名前は、香澄だった。『書類は渡した? サインさせたの?』 電話越しの香澄の声は、わずかに震えているように聞こえた。 俺は彼女を安心させるように、できるだけ平然と答える。「ああ。その場でサインさせた。明後日の午後に提出することになっている」 スピーカーの向こうで、香澄がほっと息を吐く音がした。 けれど、続いた声には隠しきれない苛立ちが滲んでいた。『すぐに出せばいいものを……千景さん、この期に及んでまだ未練があるみたいね』 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に渦巻いていた靄が、ほんの少しだけ薄まった気がした。『息子があなたに会いたがっているわ』「ああ、わかった」 それだけ答えて、通話を切る。 俺は再び車を走らせた。 だが、何も考えずにハンドルを握っていたせいか、車は香澄が待つ家とは真逆の方向へ進んでいた。 昨日、香澄の演奏を聞いた時は、たしかに心が軽くなったはずだった。 なのに。 千景のことが、頭から離れなかった。 何度も彼女のスマホに電話をかけた。だが、繋がらない。 呼び出し音だけが虚しく響くたび、二年前の事故が脳裏に蘇った。 あの時、千景は事故に遭った。 そして、腹の中にいた子供は死んだ。 あの女の血を引く子など、望むはずがなかった。 そう思っていた。 死んだと聞いた時も、どこかで安堵したはずだった。 それなのに、それ以上に胸を抉ったのは、後悔と、深い悲しみだった。 その感情に、俺はひどく戸惑った。 事故の時、俺が真っ先に駆けつけたのは香澄だった。 千景のことも、腹の子のことも、どうなろうが構わないと思っていたからだ。 少なくとも、あの瞬間までは。 だが、全てを失ったあとの千景の顔を見た時、俺の中にあるはずのない感情が生まれた。 それからしばらく、事故の夢を見るようになった。 夢の中で、千景は何度も死んだ。 瓦礫の下で、血に濡れたまま、俺の名前すら呼ばずに息絶える。 千景と連絡が取れなかった昨夜、あの夢が現実になったのではないかと思った。 気づけば、夜通し彼女を探し回っていた。 まともに眠ることもできなかった。 朝になって一度家へ戻ると、香澄が
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第二十五話

 玲司からの振り込みを確認した私は、すぐに佐伯さんへ連絡を入れた。 立て替えてもらっていた母の入院費を返したいと伝えると、佐伯さんは「無理をしないで」と気遣ってくれた。けれど、これ以上甘えるわけにはいかなかった。 スマホでのやり取りを終え、私は小さく息を吐く。 ようやく、ほんの少しだけ息ができるようになった気がした。 けれど、休んでいる暇はない。 私はバッグの中から、佐伯さんにもらったメモを取り出す。そこに書かれていた住所を頼りに辿り着いた先で、足を止めた。 児童養護施設――星見の丘。 古びた門柱に刻まれたその名前を見た瞬間、胸の奥で何かが微かに揺れた。 ――やっぱり、ここだったんだ。 幼い頃、母に連れられて来たことがある場所。 当時のことはほとんど覚えていない。けれど、なぜか一つだけ、はっきりと記憶に残っているものがあった。 幼い兄妹の前で、バイオリンを弾いたこと。 それだけが、ぼんやりとした記憶の中で、今も色褪せずに残っていた。 正門を抜けると、玄関脇に小さなインターホンがあった。 私は一度ためらってから、ボタンを押す。『はい』 女性の声が聞こえた瞬間、私ははっとした。 ここまで来たものの、何をどう聞けばいいのか、自分の中で何も定まっていなかったのだ。 玲司の過去を知りたい。 母が憎まれている理由を知りたい。 ただそれだけで、私はここまで来てしまった。 自分の考えのなさに呆れながらも、私は慌てて口を開く。「突然申し訳ありません。私、紫苑医科大学附属病院の前院長、朝霧美玲の娘で、朝霧千景と申します。二十年ほど前、母に連れられてこちらへ慰問に伺ったことがありまして……その当時のことを少しお聞きできないかと思い、ご連絡もせずに伺ってしまいました」 インターホンの向こうで、相手が戸惑っている気配がした。 小さく誰かと話している声が聞こえる。 しばらくして、最初に応対した職員とは別の、落ち着いた女性の声が返ってきた。『正面玄関からお入りください。ご案内します』 言われるまま玄関へ向かうと、白髪の混じった髪を丁寧にまとめた女性が待っていた。 柔らかな目元に皺を寄せ、彼女は私を見て微笑む。「初めまして……いえ、お久しぶりです、と言った方がいいのかしら」「……お久しぶり、ですか?」
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第二十六話

 何とかタクシーを捕まえ、病院へと戻った。  急いで走ったせいなのか、それとも病気のせいなのか、自分でもわからない。胸は痛いほど大きく上下し、喉の奥がひりついていた。  案内された病室の扉を開けると、そこには頭に包帯を巻いた奏人先輩が眠っていた。「かな……っ」 思わず名前を呼びかけそうになり、慌てて唇を噛む。  大きな声を出してはいけない。そう自分に言い聞かせながら、私はそばにいた看護師へと視線を向けた。「あの……成瀬さんの容体は、どうなんですか?」「命に別状はありません。事故の際に頭を打たれているので、念のため検査と経過観察のために入院していただいています」「そう、ですか……」 その言葉に、張り詰めていた胸の奥が少しだけ緩む。「通報された方によると、成瀬さんは意識を失う直前に、朝霧さんのお名前を呼ばれていたそうです」「先輩が……私の名前を……」 胸の奥がきゅっと痛んだ。  その時、病室の扉が開き、白衣を羽織った医師が入ってきた。「朝霧さんですね。成瀬さんの彼女さんですか?」「彼女——」 思いもしなかった言葉に、心臓が小さく跳ねる。  ほとんど無意識に、右手で左手を覆っていた。けれど、そこにもう指輪はない。  何をしているのだろう。そんな自分が、ひどく滑稽に思えた。「いえ……古い知人です」「そうですか」 医師は一度、看護師と視線を交わしてから、私に向き直った。「ご家族ではないとのことですので、詳しい検査結果まではお話しできません。ただ、現時点で命に関わる状態ではありません。意識を失うほど強く頭を打っているため、二十四時間ほどは経過を見た方がいいでしょう」「……はい。目が覚めたら、本人にも伝えます」 私は大きく息を吐いた。  命に別状はない。  その事実だけで、膝から力が抜けそうになるほど安堵した。  けれど、その安堵は長く続かなかった。「それと、事故の詳しい状況については警察から説明があると思いますが……」 医師が、少しだけ表情を曇らせる。「成瀬さんは、歩道に急に突っ込んできたトラックを避けようとして、頭を強く打ったようです」「え……?」 胸の奥が、ひやりと冷えた。「現場を見ていた方の話では、かなり危険な運転だったそうです。運転手はその場から逃走しており、警察が行方を追っていると聞いています」 そ
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第二十七話

 香澄の突然の問いかけの意図が、私にはまったくわからなかった。「……一体、何? どういうこと?」『とぼけないで。玲司さん、離婚届は明後日の午後に出すって言っていたわ』「ええ。急に突きつけられて驚いたけど、サインはしたわ」『それなのに、さっき電話で急に言い出したのよ。離婚届はやっぱり出さないって』 香澄の言葉に、頭が追いつかなかった。 玲司が離婚届を出さない? どうして、今さら。「……それ、本当にどういうこと?」『こっちが聞きたいわよ! あなたが玲司さんに何か吹き込んだんでしょ? そうじゃなきゃ、急に考えを変えるなんておかしいじゃない!』 責め立てるような香澄の声に、胸の奥で怒りがじわじわと熱を持ち始める。 けれど、ここで感情に任せて言い返しても何もわからない。 私は息を吸い、できるだけ冷静に問い返した。「待って。そもそも離婚届にサインしろと言い出したのは玲司よ。それが、母の治療費を払う条件だって言われたの。離婚しないなら、その条件はどうなるの?」『私が知るわけないでしょ!』 香澄の声が、さらに尖った。『金、金、金って……千景さん、本当に意地汚いのね。それ以外に言うことはないわけ? 他人に縋って、みっともないと思わないの? 親の育て方が悪かったのかしら』 その瞬間、頭の中で何かが切れた。 私のことなら、まだいい。 けれど、母を貶すことだけは許せなかった。「……他人?」 低く返した私の声に、香澄が一瞬黙る。「まだ離婚していないなら、玲司と私は夫婦よ。妻である私が困っている時に、夫が手を差し伸べるのはそんなにおかしなこと? 赤の他人で部外者の香澄さんが口を挟む方が、よほど筋違いじゃない?」『玲司さんは、あなたのことなんて何とも思ってないわ! 玲司さんが愛しているのは私よ!』「ええ、そうでしょうね」 自分でも驚くほど冷たい声が出た。「妻がいながら浮気をして、悪びれもせず、むしろ私の方を邪魔者みたいに扱うろくでなしだもの。だから、離婚して捨ててあげようと思ったのよ」『なっ……』「人の夫を平然と奪おうとするあなたには、お似合いの男かもしれないわね」 言葉が止まらなかった。 ずっと押し殺してきたものが、濁流のように胸の奥から溢れてくる。「そんな男、もういらない。欲しいなら、どうぞ持っていって」 電話口
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第二十八話

 玲司はリビングのソファに座っていた。 灯りの落とされた部屋の中で、組んだ足の上に肘を置き、じっとこちらを見据えている。その姿は、まるで私が戻ってくることなど最初からわかっていたかのようだった。 私を見るなり、玲司は冷たい目を細める。「先にシャワーを浴びてこい」「……話があるんじゃなかったの」「匂うぞ。そのまま俺の部屋に来るな」 その言葉に、一瞬、息が詰まった。 数日間、まともに眠ることも、食べることもできていなかった。母のこと、奏人先輩のこと、玲司のこと。次から次へと押し寄せる出来事に追われ、身なりを整える余裕などどこにもなかった。 それを突きつけられた途端、自分がひどく惨めな存在に思えて、羞恥で頬が熱くなる。 何か言い返そうとしたけれど、声は出なかった。 私は唇を噛みしめ、玲司に背を向けた。 浴室に入ると、熱いシャワーが頭から降り注いだ。 肌に張りついていた疲労が流されていくような気がしたのは、ほんの一瞬だけだった。目を閉じれば、すぐに考えたくもないことが頭の中を埋め尽くしていく。 なぜ玲司は、離婚届を出さないと言い出したのか。 なぜ今さら、私をこの家に呼び戻したのか。 奏人先輩の事故に、本当に玲司は関係しているのか。 考えれば考えるほど、胸の奥が冷えていく。 あの人なら、そんなことはしない。 そう信じたい気持ちは、まだどこかに残っていた。 けれど、今の玲司なら何をしてもおかしくないと思ってしまう自分もいた。 その事実が、何よりも苦しかった。 シャワーを浴び終え、髪を乾かし、最低限の身なりを整える。鏡に映った自分の顔は青白く、目の下には薄い影が落ちていた。 それでも、さっきよりはましに見えた。 私は深く息を吸い、玲司の部屋へ向かった。 かつて、そこは夫婦の寝室だった。 同じベッドで眠り、同じ朝を迎えた場所。 玲司が私の髪に触れ、愛していると囁いてくれた夜もあった。熱を持った指先も、低く甘い声も、あの頃の私は全部を信じていた。 けれど、ある日突然、玲司は部屋を分けると言った。 理由は告げなかった。 縋るように伸ばした私の手を、彼は冷たく振り払った。 その記憶が胸を掠める。 けれど、不思議と痛みは鋭くなかった。 ただ水面に落ちた小石のように、胸
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第二十九話

「離婚したところで、お前は解放された気になるだけだろう」 玲司の声は低かった。 感情を押し殺しているようでいて、その奥にどうしようもない苛立ちが滲んでいる。「そんなこと、許すと思うのか?」 見下ろされながら、私は唇を噛みしめた。 この人は、何を言っているのだろう。 離婚を突きつけたのは玲司だ。 私を妻として扱わず、傷つけ続けたのも玲司だ。 それなのに今になって、逃がさないと言う。「……どうして、そこまで私たちを憎むの?」 問いかけた声は、自分でも驚くほど掠れていた。 玲司は一瞬だけ目を細め、それから冷たく笑った。「お前が知る必要はない。どうしても知りたいなら自分の母親にでも聞くんだな」「私は何も知らない。母も、今は意識が戻らない。聞けるわけないでしょう!」「残念だったな」 玲司の瞳が、氷のように冷たくなる。「なら、何も知らないまま苦しめ。理不尽に踏みにじられる痛みを、お前たち親子も味わえばいい」 胸の奥が、怒りで震えた。「……最低」「俺を恨めばいい」 玲司は淡々と言った。「その恨みが足りないなら、母親にも向けろ」「何よそれ……私がいなくなれば、満足じゃないの?」「そんなことで満足すわけがないだろう」 その言葉に、息が止まった。 意味がわからなかった。 母が何をしたというのか。 私たち親子が、玲司に何をしたというのか。 なぜ、あなたはこんな人間になってしまったの? 問いただそうとした瞬間、玲司は私の手首を掴んだまま、ゆっくりと身を屈めた。 逃げ場を塞ぐように、影が落ちる。「離婚は認めない。お前は俺の妻のままだ」「妻なんて言葉、都合のいい時だけ使わないで」「都合がいい?」 玲司の口元が歪む。「そうだな。お前にとっても都合がいいはずだ。母親の治療費が必要なんだろう?」 玲司の指先が、私の服の襟元に触れた。 ぞくりと背筋が冷える。 かつては、その手に触れられるだけで胸が高鳴った。 けれど今は違う。 恐怖と嫌悪と、言いようのない虚しさだけが込み上げる。「拒むなら、俺の持つものすべてを使って、お前じゃなく母親を追い詰める」 玲司の声が、耳元に落ちる。「生きている方が苦しいと思うくらいにな」 目の奥が熱くなった。 涙が滲む。 悔しかった。 怖かった
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第三十話

自室に戻ると、私はすぐにボストンバッグを引っ張り出した。 必要最低限の衣類、通帳、印鑑、母の病院関係の書類。それから、自分の治療に関する書類もまとめて詰め込んでいく。 ひとつひとつバッグに入れるたび、まるで自分がこの家から少しずつ切り離されていくような気がした。 玲司は、家は今まで通り使えばいいと言った。 けれど、その言葉に素直に従う気にはなれなかった。 ここはもう、私の居場所ではない。 そう思うのに、今の私には行く当てもなかった。 母の入院費も、自分の治療費も、すべて玲司の金に縛られている。意地だけで飛び出して、母まで危険に晒すわけにはいかない。 悩んだ末にできたのは、いつでも出ていけるように身支度だけ整えておくことだった。 詰め終えたボストンバッグを、何かあった時、すぐに掴んで出られるように。クローゼットの手前に隠す。 それだけのことなのに、胸がひどく苦しかった。 すべてを終えると、どっと疲れが押し寄せてきた。 久しぶりに自分のベッドに横になる。 安心したわけではなかったけれど張り詰めていた糸が切れたように、意識が深いところへ落ちていった。 翌朝、私は朝一番で病院へ向かった。 白い廊下を歩きながら、何度も胸の前で手を握りしめる。奏人先輩は目を覚ましているのだろうか。容体は悪化していないだろうか。 不安を抱えたまま病室の扉を開けると、ベッドの上にいた奏人先輩がこちらを見た。 頭にはまだ包帯が巻かれていて顔色も決して良いとは言えない。 それでも、私を見るなり、奏人先輩はバツが悪そうに笑った。「心配かけたな」 その一言だけで、胸の奥で心地よい温もりが広がる。 こんな時でさえ、奏人先輩は自分の怪我より、私に心配をかけたことを気にしている。 その優しさが、泣きたくなるほどありがたかった。「本当に……無事でよかったです」 掠れた声でそう言うと、奏人先輩は少しだけ表情を引き締めた。「昨日、朝霧から玲司の話を聞いたあと、少しだけ調べていたんだ」「調べていたって……こんな時に? 今は自分の身体のことを一番に労ってください」 奏人先輩は苦笑いを浮かべた。「朝霧に言われても説得力ないな。それに大したことはしていない。知り合いに連絡しただけだ」 そう言いながらも、奏人先輩の目は真剣だっ
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