All Chapters of 虚飾の檻 ~余命僅かな私は、私を憎む夫が隠した真実を追う~: Chapter 51 - Chapter 60

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第五十一話

『……何の用だ』 電話が繋がって聞こえてきた父の第一声は、実の娘に向けるものとは思えないほど冷たかった。 「実の娘から連絡があったのに、『何の用だ』はないんじゃない? お母さんがあのあとどうなったのか、気にならないわけ?」 『嫌味を言うためにかけてきたのなら切るぞ』 「切れば? その代わり、今から本社のロビーに行って、お父さんが妻と娘を捨てたって大声でわめき散らしてあげるけど」 しばらく沈黙があった。 やがて、電話の向こうから盛大なため息が聞こえてくる。 『……はぁ。いいから、本題に入れ』 「聞きたいことがあるの。今からそっちに行くから」 『待て。これから来客がある』 「じゃあ、いつならいいの? 私は今日にでも話を聞きたいんだけど」 『こちらから連絡する』 「ちょっと、お父さ――」 耳元で、無機質な電子音が鳴った。 一方的に通話を切られたスマホを、私はしばらく睨みつける。 「……相変わらず勝手なんだから」 文句を吐いたところで、切れた電話が繋がり直すわけでもない。 奏人先輩の会社を出た私は、そのまま父の会社へ向かうつもりだった。 けれど、こうして拒まれてしまえば行く当てもない。 だからといって家へ帰る気にもなれず、私は目的もなく街を歩いた。 夏の日差しを避けるようにビルの影を選びながら、ただ足の向くまま歩く。 街の中で雑多な音をぼんやりと聞き流しながら歩いているうちに、いつしか見覚えのある建物が目の前に現れていた。 「……ここ」 思わず足が止まった。 大きなガラス張りのエントランス、その奥に広がる吹き抜け。 クラシックコンサートやオペラだけでなく、企業の催しなどにも利用される複合文化施設だ。 メインホールのほかにも、小さな展示スペースやレストラン、カフェなどがいくつか入っている。 そしてここは、私と玲司が初めて出会った場所だった。 正確には。大人になった私たちが、再会した場所。 まだ私がヴァイオリニストとして舞台に立っていた頃。 このホールで演奏した私を、玲司は客席から見ていた。 「……なんで、こんなところに来ちゃったんだろ」 自分でもわからない。 だけど、気づけば足は自然とエントランスへ向かっていた。 今日は大きな催し物がないらしく建物の中にいるのは、
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第五十二話

玲司の表情から、一瞬で色が消えた。 「……なんだと? 正気か、お前」 玲司が立ち上がった。 先ほどまでの冷静さは消え、その声には明らかな焦りが滲んでいた。 「もちろん正気よ」 「ふざけるな!」 怒鳴り声がホール中に響き渡った。 「でも、そんなことにはならないと思ってる」 「……何?」 「私は信じてるもの」 胸元に手を置く。 「お母さんは身勝手だし、頑固だし、人に言えないことだってたくさん抱えてる。でも……自分の利益のためだけに、誰かを不幸にできる人じゃない」 玲司は何も言わない。 「それがたとえ――」 一度、息を呑む。 「私の命を救うためだったとしても」 玲司の目をまっすぐ見た。 「だから調べるの。お母さんが無実だって証明するためだけじゃない。私自身が真実から逃げないために。 奏人先輩だって、そのために協力してくれているだけよ」 私は僅かに顎を上げる。 「だから、もう邪魔しないで」 「邪魔だと?」 「そうよ。いちいち奏人先輩のことで絡んでこないで。誰と会おうと私の自由でしょう」 玲司の眉間に皺が寄る。 「お前は俺の妻だ」 「だから何?」 「夫の知らないところで、他の男とこそこそ会うことなど許さん」 「じゃあ堂々と会えばいいわけ?」 「そういう問題ではない」 「やましいことなんて何もないわ。あなたと一緒にしないで」 「……何?」 玲司の声が低くなる。 「香澄さんとは随分堂々と会ってたじゃない」 「それは――」 「私は奏人先輩に恋愛感情なんてない。向こうだって、今はそんなこと考えてないわ。ただ協力してくれているだけ」 そこで少し間を置く。 「少なくとも、妻がいるのに他の女との間に子供を作るようなことはしてない」 「……」 玲司の口が閉じた。 言い返せないのだろう。 少しだけ胸がすっとした。 「もういいでしょう。私、行くから」 席を立つ。 「待て」 「何?」 呼び止められ、振り返る。 玲司は少しの間、何かを迷うように私を見ていた。 それから、不意に通路側へ歩き出す。 何をするのかと思って見ていると、彼は最前列の端に置かれていた黒いケースを手に取った。 見覚えのある形。呼吸が止まった。 「それ……」 玲司が留め具を外す。
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第五十三話

私はステージへと上がり、客席へ振り返った。 広いホールに並ぶ無数の座席。 その中央、最前列に玲司たった一人が座っていた。 ヴァイオリニストとして活動していた頃、何度もこの舞台に立った。 本番はもちろん、リハーサルだってスタッフや関係者が何人も客席にいた。これほど観客の少ない演奏なんて、たぶん初めてだ。 なのにどうしてだろう。 今まで経験してきたどんな大舞台よりも、心臓がうるさかった。 静まり返ったホールのせいだろうか。 それとも――たった一人の観客が玲司だからだろうか。 考えるのが馬鹿らしくなって、私はヴァイオリンを肩に乗せる。 「何を弾けばいいの?」 問いかけると、玲司はすぐには答えなかった。 薄暗い客席から、じっとこちらを見つめている。 やがて僅かに視線を落とし、低い声で告げた。 「……《愛の挨拶》」 「え……」 思わず弓を持つ手が止まった。 よりによって、その曲だった。 エルガーの《愛の挨拶》。 幼い頃、母に連れられて訪れた児童養護施設――星見の丘。 そこで私が、子供たちの前で初めて弾いた曲。 そしてあの日、幼い玲司もそこにいた。 だけど玲司は、あの時ヴァイオリンを弾いていた少女が私だったということを覚えていなかったはずだ。 まして、大人になって再会してから、私は玲司の前で《愛の挨拶》を弾いたことなんて一度もない。 それなのに、どうして。 「……玲司」 呼びかけても、玲司は何も言わなかった。 私はその顔をじっと見つめる。 何を考えているのか分からない、冷たい瞳。 何度、その目に昔のような温もりが戻ることを期待しただろう。 何度、期待してそのたびに裏切られたことだろう。 もう玲司に期待しない。この人が私をどう思っていようと知ったことじゃないと、そう決めたはずなのに。 私がようやく玲司を見限ろうと思ったあとに、この男はほんの少しだけ、期待したくなるようなものを見せてくる。 今だってそうだ。どうして《愛の挨拶》なの? もしかして何か思い出したの? あの頃の私に、気づいたの? 「……ほんと、むかつく」 小さく呟く。 玲司には聞こえなかっただろう。 本当に、何なのだろう。この男は。 私を散々傷つけておいて。 何もか
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第五十四話

【玲司side】 確信があったわけじゃない。 ただ、ずっと胸の奥に引っかかっているものがあった。 気のせいだと何度も切り捨てようとした。 むしろ、そうであってほしかった。 星見の丘で、幼い俺と紗良の前でヴァイオリンを弾いた少女。 俺はずっと、あの少女が香澄だったのだと思っていた。 香澄自身がそう言ったからだ。 施設に残されていた記録。 そして、あいつがヴァイオリンを弾いていたこと。 偶然だと言ってしまえば、それまでだ。 だが、一度芽生えてしまった疑念は消えてくれなかった。 ――あの日、ヴァイオリンを弾いていた少女は、本当に香澄だったのか? もしかすると、あれは――千影だったんじゃないのか。 だから俺は確かめたくなった。 いや、本当は確かめたくなんかなかった。 違っていてほしかった。 千影にヴァイオリンを弾けと言ったあとも、何を弾かせるのか最後まで迷っていた。 他の曲なら意味がない。 あの日の少女かどうか確かめるなら、あの曲しかなかった。 それでも、口にする瞬間まで躊躇した。 もし、本当にそうだったら。 一度すべてを失い、裏切られたと思っていた俺の前に現れて、再び生きる理由を与えてくれたと思っていた香澄が――俺に嘘をついていたのだとしたら。 そして、俺が憎み続けた千影が――俺が何度も傷つけた女が。 ずっと昔に、俺を救っていた人間だったとしたら。 ステージの中央に立つ千影がヴァイオリンを構える。 弓が弦へ触れ、最初の一音が誰もいないホールへ響く。 俺は音楽に詳しいわけじゃない。 だが、そんな素人の俺でも分かるほど酷い演奏だった。 かつてプロとして舞台に立っていた人間の演奏とは思えない。 音はかすれ、ときおり震え、音程も何度となく外れる。 原因は、香澄に火傷を負わされ、白い包帯に覆われたあの左手。 指を弦へ押しつけるたび、千影の眉が僅かに歪む。 それでも千影は弾くことをやめなかった。 「……っ」 胸の奥がざわついた。 聞くに堪えないほど崩れた演奏のはずなのに。 なぜだ? どうして俺は耳を塞ぐことができない? どうして目を逸らせない? 弓が弦を擦り、旋律が流れていく。 音が積み重なるたびに、胸の奥に沈んでいた古い記憶が浮
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第五十五話

  玲司がホールを去ったあと、私は一人、舞台の上に取り残されていた。 静まり返った客席を見つめながら、張り詰めていた息をゆっくりと吐き出す。 正直に言えば――ほっとしていた。 私の演奏を聴いて、玲司が何を思ったのか。 何を感じたのか。 それを聞くのが、怖かった。 あの曲を弾いたことで、玲司は気づいたのかもしれない。 星見の丘で、幼い彼と紗良さんの前でヴァイオリンを弾いた少女が、私だったのだと。 それを知った玲司の中で、何かが変わったのだろうか。「…………」 私は無意識に、自分のお腹へ手を添えていた。 そこにはもう、何もない。 それでも時々、こうして触れてしまう。 もしもっと早く、玲司が知っていたら。 あの頃、星見の丘で出会っていた少女が私だったと知っていたら。 私に向ける感情も、少しは違っていたのだろうか。 そして、私のお腹にいたあの子に向ける感情も。 もしかしたら、あんなことにはならなかったのかもしれない。 私たちの運命そのものが、大きく変わっていたのかもしれない。「……やめよう」 小さく呟き、首を横に振る。 そんなことを考えても仕方がない。 どれだけ考えたところで、過去は変わらない。 玲司との間にできた溝も。失った命も。私に残された時間も。 すべて、もう起きてしまったことなのだから。 視線を落とすと、私の手には玲司が置いていったヴァイオリンがあった。 そのネックを握る手に、自然と力がこもる。 変えられない過去に縋るよりも、今やるべきことがある。 私たちをここまで振り回してきたもの。 私たちの悲劇の始まりとなった――紗良さんの事故。 あの日、いったい何があったのか。 どうして紗良さんは亡くなったのか。 母は、本当に玲司が思っているようなことをしたのか。 その裏に何があったのか私は知らなければならない。 たとえ、その先にどんな真実が待っていたとしても。 今まで以上に、そう強く思った。 『このあと三十分後に本社へ来い』 父からそんな連絡が届いたのは、ホールを出て間もなくのことだった。 三十分後って。 人の都合なんてまるで考えていない。 相変わらず勝手な人だと思いながらも、私は朝霧ファーマトレードの本社へ向かった。 こ
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第五十六話

「…………」 まったく想像していなかった人物の登場に、私は言葉を失った。 「千影。挨拶くらいしたらどうだ」 父の咎めるような声に、ようやく我に返る。 「……久我千影です」 自分の夫の浮気相手の母親。 そして、父が私と母を捨てて選んだ女。 そんな相手に頭を下げなければならないことが、どうにも腑に落ちなかった。 「一度、会ってお話をしてみたかったの」 私の胸の内を知ってか知らずか、鷹宮麗華は余裕の笑みを絶やさない。 むしろ、私がどんな反応を示すのか楽しんでいるように、唇の端をさらに持ち上げた。 「さあ、立ち話もなんですし、座ってくださいな」 ゆっくりと近づいてくると、ソファへ手を向けて席を促してくる。 ふわりと、甘い香水の匂いが鼻をついた。 この部屋に入った時から漂っていた香り。 どうやら、その主は彼女だったらしい。 まるで自分こそがこの部屋の主人だと言わんばかりの態度が、余計に鼻についた。 促されるままソファへ腰を下ろす。 その向かい側に、父と鷹宮麗華が並んで座った。 「……いったい、私に何の用ですか?」 警戒を隠さず問いかけると、鷹宮麗華はどこか愉快そうに目を細めた。 「そんな怖い顔をなさらないで。言ったでしょう? 少しお話がしたいだけよ」 「話?」 「ええ」 一度、鷹宮麗華の視線が父へ向く。 父は苦虫を噛み潰したような表情で黙っていた。 その態度に、嫌な予感が胸の奥で膨らんでいく。 彼女は再び私を見ると、微笑みを崩さないまま言った。 「あなたの出自についてよ」 心臓が、大きく跳ねた。 「……私の?」 「麗華」 低い声で父が遮る。 「その話はするな」 「あら。どうして?」 「関係のないことだ」 「関係ない?」 鷹宮麗華がくすりと笑う。 「この子はその真実を知るために、わざわざあなたのところまで来たんじゃないの?」 「……何を言ってるんですか?」 二人を交互に見る。 父は露骨に目を逸らした。 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。 「お父さん」 「…………」 「私に何を隠してるの?」 「お前には関係ないと言っている」 「私の出自の話なんでしょう!? だったら関係ないわけないじゃない!」 思わず声を荒らげるけど父は答えない。
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第五十七話

「…………え?」 脳裏に、あの写真の少女の笑顔が浮かんだ。 玲司がずっと家族として愛していた少女。 玲司が、私の母に殺されたのだと信じていた少女。 そして――私の命を救うための手術の裏で、命を落とした少女。 あの子が――。 「妹……?」 声にならないほど小さな言葉が、震える唇から零れ落ちた。 「いきなりこんなことを聞かされて、戸惑うでしょうね。でも、事実よ」 鷹宮麗華は眉をわずかに歪め、痛ましげな表情を浮かべる。 けれど、それすらもどこか演技がかって見えて仕方がなかった。 「幼い頃、まだ赤ん坊だったあなたたち姉妹は、二人そろって星見の丘に預けられたそうよ。ご両親は事故で亡くなったと聞いているわ」 「私たちの……両親が……」 また新しい事実が頭の中へ押し込まれ、理解が追いつかない。 それでも鷹宮麗華は、こちらが飲み込むのを待つことなく言葉を続けた。 「そして、その少しあと。子供を産めない身体になっていた美玲さんが、あなたを引き取ったの」 「……どうして?」 「え?」 「どうして、私だけなんですか?」 気づけば身を乗り出していた。 「双子だったんでしょう? どうして私だけが引き取られて、紗良さんは施設に残されたんですか?」 もし二人が姉妹だったのなら。 もし同じ場所で生まれ、同じ場所へ預けられたのなら。 どうして人生は、そこで二つに分かれたのだろう。 「さあ。それは私にもわからないわ」 鷹宮麗華はあっさりと答えた。 「それこそ、当時あなたを迎えた本人たちに聞かないと」 その視線が父へ向けられる。 私も、ゆっくりと父を見た。 「……お父さん」 しばらく黙っていた父は、観念したように重く息を吐いた。 「当時、美玲はまだ研修医だった。俺も仕事に追われていた。乳児を二人同時に育てる余裕などなかった」 「だから……一人だけ?」 「ああ」 「私を選んだ理由は?」 父の表情が僅かに強張る。 「……お前を選んだのは美玲だ」 「どうして私だったの?」 「知らん」 「知らないって……」 「本当に知らないんだ。美玲がお前を引き取りたいと言った。俺はそれに同意しただけだ」 あまりにも淡々とした言葉だった。 それだけで、私と紗良さんの人生が分かれたというの? そんな
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第五十八話

【玲司side】 千影から逃げるように会場をあとにした俺は、その足で香澄のもとへ向かった。 俺と香澄――そして、生まれてくる子どもと三人で暮らすために用意したマンション。 少し前までなら、ここへ帰ってくることに何の疑問も抱かなかった。 それが俺の選んだ未来なのだと、そう信じていた。 玄関の扉を開ける。 「お帰りなさい、玲司さん。今日は早いのね」 リビングへ入ると、香澄がいつもの笑顔で迎えてきた。 普段なら、その顔を見るだけで張り詰めていたものが少しは緩んだ。 だが、今日は違う。 自分でもわかるほど、表情が強張っていた。 「……玲司さん?」 香澄の笑みが消える。 眉を八の字にして、不安げに俺を見上げた。 「どうしたの?」 「話がある」 短く告げると、俺の声から何かを感じ取ったのだろう。 香澄の表情もすぐに真剣なものへ変わった。 「ええ。とりあえず座って。コーヒーでも淹れるわ」 促されるまま、ダイニングテーブルの椅子へ腰を下ろす。 しばらくして、香澄が二つのカップを持って戻ってきた。 俺の前にはコーヒー、自分の前には紅茶。 深く煎った豆の苦い香りに、紅茶の柔らかな甘い香りが重なる。 本来なら落ち着くはずのその匂いが、今の俺にはひどく場違いに感じられた。 香澄が向かいの席につく。 「それで、話って?」 俺は一度だけ息を吸った。 回りくどく聞くつもりはなかった。 「あの日――」 香澄の目をまっすぐ見る。 「幼い頃、星見の丘で俺と紗良の前でヴァイオリンを弾いてくれたのは……お前じゃなかったのか?」 「…………」 ほんの一瞬だった。 香澄の目が、大きく見開かれた。 だが、それだけだった。 すぐに視線を落とすと、彼女は紅茶のカップを手に取り、静かに一口飲む。 そして、カップをソーサーへ戻した。 「……そうよ」 囁くような声だった。 「本当は、私じゃないわ」 「――っ」 あまりにもあっさりとした告白だった。 頭の中で、その言葉を理解するまでに数秒かかった。 それほどまでに、香澄は事もなげに認めたのだ。 「なぜ……」 声が震える。 「なぜ、そんな嘘をついた!」 気づけば、テーブルを叩いて立ち上がっていた。 カップの中のコ
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第五十九話

紗良さんが、私の双子の妹だった。 その信じ難い事実を聞かされたあと、私は熱を出し、数日間を家で過ごしていた。 本当なら、すぐにでも調べなければならないことは山ほどあった。 それでも、心も身体も疲れ切っていた私は、すぐに行動へ移せるほどの気力を残していなかった。 ――今だけは休んでもいい。 誰に対する言い訳なのか、自分でもわからない。 それでも、そう言い聞かせて布団の中で過ごした数日間は、思えば久しぶりに何もせず身体を休められた時間だった。 熱もようやく下がり、身体の怠さも少しずつ抜けてきている。 けれど、その間玲司がこの家へ帰ってくることは、一度もなかった。 広すぎる屋敷で顔を合わせるのは、長年ここに仕えている年配の使用と、もう一人だけ。 「千景様。もうお加減はよろしいのでしょうか?」 午後、私の部屋を訪れた藤崎さんが、心配そうに尋ねてきた。 玲司の秘書である藤崎さんは、この数日、一日に一度は必ず私の様子を見に来てくれている。 「ええ。もう大丈夫よ。熱も下がったし……痛みの方も、だいぶ良くなってきたわ」 まだ完全とは言えない左手へ視線を落とす。 火傷を負った直後に比べれば、痛みはずいぶんとましになっていた。 少なくとも、何もしていないのにズキズキと疼いて眠れない、というほどではない。 「そうですか。ですが、無理はなさらないでください」 「ありがとう」 そう答えてから、少し迷った末に尋ねた。 「それで……玲司は?」 藤崎さんの表情が、わずかに曇る。 「……本日も、お戻りにはならないそうです」 「そう」 自分でも驚くほど、あっさりした声が出た。 「わかったわ」 たぶん、それでいい。 今の私も、玲司と顔を合わせたところで、どんな顔をすればいいのかわからないのだから。 あの人は、私の方に原因があるのだと言わんばかりに香澄さんと関係を持ち彼女との間に、子どもまで作った。 何度傷つけられても、どこかで期待していた自分が馬鹿だったのだ。 もう愛想は尽きた。玲司との関係をやり直したいなんて思っていない。 昔みたいに愛してほしいとも思わない。 そのはずなのに。脳裏に浮かんだのは、あのホールでの玲司の姿だった。 私が《愛の挨拶》を弾いたあと玲司は、明らかに動揺していた
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第六十話

リビングには、何とも言えない空気が漂っていた。 玲司が家に戻ってくるなり、私たちはそのままリビングへ向かい、広いダイニングテーブルを挟んで向かい合うように腰を下ろした。 テーブルの上には、淹れたばかりのコーヒーが二つ。 白いカップからはまだ細い湯気が立ち上っている。 席についてから、それほど時間は経っていないはずだった。 それなのに、やけに長く感じる。 これまでなら、玲司が放つ刺々しい空気に身構えていた。 何を言われるのか。 今度はどんな言葉で傷つけられるのか。 そんな緊張ばかりだった。 けれど、今は違う。 玲司から以前のような威圧感は感じなかった。 だからといって、穏やかになったわけでもない。 ただお互いに、どう接すればいいのかわからない。 それが、妙な居心地の悪さとなって私たちの間に横たわっていた。 私はコーヒーカップへ視線を落とす。 玲司もこちらを見ようとはせず、黙ったまま腕を組んでいる。 やがて、その沈黙に耐えかねたように玲司が口を開いた。 「それで、話とはなんだ。お前と違って、こっちは忙しいんだ」 相変わらずの嫌味な言い方に、思わずこめかみが引きつった。 どうせ、このあと香澄のところに行くつもりなんでしょ。 喉まで出かかった言葉を、どうにか飲み込む。 今は玲司と喧嘩をするために呼び戻したわけじゃない。 「玲司」 「なんだ」 「紗良さんの……幼い頃のこと、どれくらい知ってる?」 玲司の眉が、わずかに動いた。 「幼い頃?」 「家族のこととか。星見の丘に来る前のこと」 「……急になんだ。それを聞いてどうする?」 「知ってるのかどうかを聞いてるの」 少し強めに言うと、玲司は不快そうに目を細めた。 けれど、今回は言い返してこなかった。 「知らない」 「本当に?」 「ああ。紗良から聞いたことはない。というより紗良自身、何も知らなかったはずだ」 玲司の視線が、どこか遠くへ向けられる。 「物心がつく前から星見の丘にいた。本人から聞いた話じゃ、赤ん坊の頃に施設へ預けられたらしい。それより前の記憶なんてあるわけがない」 「……そう」 「家族の話をしたこともあるが、親の顔も名前も知らないと言っていた。施設の職員から聞かされていたのも、両親はもういな
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