جميع فصول : الفصل -الفصل 20

39 فصول

第十一話

「……香澄?」「ああ。俺の娘だ」 耳の奥で、何かが鈍く鳴った。 香澄が娘だとこの人は確かにそう言った。「待って……ください。香澄って……鷹宮香澄、ですか?」 父は怪訝そうに私を見た。「そうだが」 呼吸が止まりそうになった。 香澄が父の、娘?「どういう……ことですか」 足元が、ぐらりと揺れた気がした。「香澄は、俺の再婚相手の連れ子だ。戸籍上は俺の娘になっている」 父は淡々と言ったそのことがどれほど残酷な事実なのか、分かっていないような声だった。 再婚相手。連れ子。戸籍上の娘。 一つ一つの言葉が、頭の中でばらばらに散っていく。「……じゃあ、あなたが母を捨てた相手は」「昔の話だ」 父は、面倒そうに言った。 昔の話――その一言で、母の苦しみも、私の寂しさも、すべて片づけられた。「今はそんなことを話している時間はない。香澄が困っている」 母が命の瀬戸際にいることよりも。実の娘である私が頭を下げていることよりも。 父にとって大事なのは、香澄だというのか?「待ってください……母の治療費は」「だから、また今度だと言っている」「今度じゃ間に合わないんです!」 思わず声が大きくなると、父の眉が不快そうに動く。「母は、今も病院で……!」「千景」 父の声が低くなる。その声だけで、子どもの頃の私は何度も黙らされた。 けれど今は、黙るわけにはいかなかった。「お願いします。少しでいいんです。今、必要なんです。母を助けるために――」「しつこい」 その一言で、体が固り父は秘書を呼ぶボタンを押した。「この子を下まで送れ」「お父さん……!」「その呼び方もやめろ」 父は私を見ずに言った。「今の俺には、守るべき家庭がある」 守るべき家庭。その中に、私も母もいない。 どこかで期待していた。実の娘が頭を下げれば。母の命がかかっていると知れば。 少しは、何かが揺らぐのではないかと。 でも、違った。 この人は最初から、私たちを選ぶつもりなんてなかった。 秘書が扉を開ける。私はまだ立ち尽くしていた。 父はもう、私を見ていない。 机の上には、さっきまで記入されかけていた小切手がある。 届きかけた救いが、香澄という名前一つで、あっさりと取り上げられた。「……どうして、みんな香澄を選ぶんですか」 玲司も。父も。私が
اقرأ المزيد

第一二話

聞き覚えのある甘い声に顔を上げると、私の正面に香澄が立っていた。 彼女は私の顔を見るなり、愉快そうに目を細める。「そんな顔して。お父様に追い返されたの?」「……あなたには関係ない」「あら、関係あるわよ。だって、あなたが惨めに泣きつく相手って、結局うちの家族なんだもの」 その言葉が、鋭い刃のように胸に刺さった。 父から、夫からの愛。 私が欲しくてたまらなかったものを、香澄はすべて当たり前のように持っている。「金の無心をする相手も選べないなんて、本当に惨めね」「……っ」「でも仕方ないか。あなたには、頼れる人なんて誰もいないものね」 怒りと悔しさが一気に込み上げ、視界がぐにゃりと歪む。 次の瞬間、鼻の奥が熱くなった。 ぽたり――と、足元の白い床に、赤い雫が落ちた。「……あ?」 自分でも間の抜けた声が漏れた。 慌てて鼻を押さえたけれど、血は指の隙間から滲み出していく。 まずい――まただ。 頭が割れるように痛く耳鳴りがする。 香澄の嘲笑う声が、耳障りなほどに頭に響いてくる。「ちょっと、大げさな演技しないでよ。そんなことで同情を引けると思って――」 言葉の途中で、世界が大きく傾いた。 膝から力が抜け、地面が近づいてくる。 ああ、倒れる―― そう思った瞬間、私の身体は誰かの腕に受け止められていた。 強く、けれど乱暴ではない力。 懐かしい温もり。 嫌でも覚えている香水の匂い。「……千景」 低い声が、耳元で落ち私はぼんやりと顔を上げる。 目の前にいる玲司は、眉をわずかに寄せていた。 いつもの冷たい無表情ではなく、血で汚れた私の指先、口元、そして青ざめた顔を見て、ほんの一瞬だけ、彼の瞳が揺れた気がした。「玲司……」 その瞳の奥に僅かに私を気遣うような、昔見た温もりを見た気がして胸の奥から何かが崩れた。 私は玲司のスーツの袖を掴んだ。 血で汚れてしまうことも気にできなかった。「お願い……母を助けて……」 声が震えみっともないほど、涙が滲む。「お金が必要なの。治療費を払わないと、母が……母が本当に……」 そこで言葉が途切れた。 死んでしまう――その言葉だけは、口にしたくなかった。 言ってしまえば、本当にそうなってしまう気がしたから。 だけど、私が母のことを口にした瞬間。
اقرأ المزيد

第十三話

私を冷遇し人を人としてみない夫。私から夫を奪いまるで自分こそが本当の妻だと言うように私の隣に立つ女。 そんな相手に土下座をして懇願するのは吐き気がするほどの屈辱だった。 けれど、もうそんなものに構っていられなかった。 母を助けられるなら、私は何だってする。 たとえこどれほど惨めな姿を晒すことになっても。 玲司はしばらく無言で私を見ていたけど、やがて胸元の内ポケットに手を入れ、小切手を取り出す。 その瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。 助かる――母を助けられるかもしれない。 震える手を必死に抑えながら、私は息を殺して玲司の動きを見守る。 玲司はペンを走らせ、迷いなく金額を書き込み、その紙片が私の目の前に差し出される。 そこには、母の治療費には十分すぎる額が記載されていた。 玲司は小切手を指先で弄びながら、冷たい瞳で私を見下ろしていた。「……土下座だけじゃ足りないな」 香澄が隣で口元に手を当て、愉快そうに笑っている。 玲司は小切手をひらりと揺らした。「土下座しながら、自分の母親は、人間の屑だと言え」 その一言に、背筋が凍った。「……玲司」「患者を裏切り、医者としての責任を放棄した最低の女。医者失格の人間の屑だと、自分の口で認めろ」 頭の中が真っ白になった。 さっきまで感じていた屈辱も、恐怖も、悲しみも、その瞬間すべて消えた。 代わりに込み上げてきたのは、焼けつくような怒りだった。「……取り消して」 自分でも驚くほど低い声が出て玲司の眉がわずかに動く。「何?」「今の言葉を、取り消して」 違う――母は、そんな人じゃない。 誰よりも患者のことを考え、病院のために身を削り、私のためにすべてを失っても、それでも誰かを恨むことさえしなかった人だ。 母の手は、いつも温かかった。 母の背中は、いつもまっすぐだった。 あの人が、医者失格なんて、そんな言葉を向けられていい人じゃない。「言えないのか」 玲司は薄く笑った。「なら、この小切手は渡せない」 その瞬間、私の中で何かが切れた。 身体がふらつき、鼻の奥にはまだ鈍い痛みが残っていた。 けれど、それでも私は玲司から目を逸らさなかった。「あなたが私を嫌いなら、それでいい」 今ここで冷静さを失えばせっかく母を助けるチャンスを失う。 そう頭では理解していても
اقرأ المزيد

第十四話

足元が消えた瞬間、全身が冷たく強張った。 落ちる――。 きゅっと目を閉じた次の瞬間、ドサッ、と鈍い衝撃が身体を包み込んだ。「……っ!」 痛みを覚悟していたのに、床に叩きつけられる感覚はなかった。 恐る恐る目を開けると、すぐ目の前に奏人先輩の顔があった。 彼は私の肩を抱き込むようにして、階段の下で私の身体を受け止めてくれていた。「奏人先輩……どうして……?」「どうしてって、あのな……急にいなくなったら普通心配するだろ」「……ごめんなさい」 少しだけ私を責めるような声だった。 けれど、玲司から向けられてきた冷たさとは違う。 胸の奥を抉るような痛みではなく、叱りながらも、そっと寄り添ってくれるような温かさがあった。 奏人先輩は私の身体を支えながら、ゆっくりと起こしてくれる。 そして、階段の上を見上げた。 その瞬間、先ほどまでの優しげな表情が消えた。 学生時代に見せていた穏やかな顔でも、病院で私を気遣ってくれた顔でもない。 低く怒りを押し殺した、険しい表情だった。 私もつられて視線を上げる。 階段の上では、玲司が目を大きく見開き、小さく口を開けていた。 普段、感情を顔に出さない彼にしては珍しいほど、はっきりとした動揺だった。 まるで、自分でも何が起きたのか理解できていないように。 ――気のせいだろうか。その瞳に、ほんの一瞬、掠めるような恐怖と安堵が混ざり合ったのが見えた。 だけどそれも束の間、次の瞬間には、彼の動揺の奥底から、静かでどす黒い憤りが湧き上がってくるのを感じた。 でもなぜだろうか、その感情の向き先が私ではなく奏人先輩に向かっている気がするのは? その背後――玲司からは見えない位置で、香澄が口元を歪めてこちらを見下ろしていた。 その笑みを見た瞬間、背筋に冷たいものが走る。「あんた、久我玲司か?」 奏人先輩が低い声で言った。「そうだが。いきなり初対面の人間を呼び捨てにするとは、礼儀がなっていないな」「自分の妻が助けを求めてるのに手も差し伸べず、他の女と浮気してるような奴に、払う礼儀なんてあるかよ」「なんだと?」 玲司と奏人先輩の視線がぶつかった。 空気が一気に張り詰める。 その間に、香澄が慌てたように一歩前へ出た。「まあまあ、何か誤解があるの。千景さんが勝手に足を滑らせただけで――」「あんた、
اقرأ المزيد

第十五話

玲司が突きつけてきた選択――。 差し出された小切手。その背後から、香澄がそっと顔を覗かせた。「千景さん。お母様を助けたいんでしょう? これを受け取ってください」 まるで自分が玲司の妻であるかのように。 玲司の差し出したものが、自分のものでもあるかのように。 その勝ち誇った微笑みが、ひどく目障りだった。「朝霧、こんなやつらの――」「奏人先輩」 私は声に力を込め、奏人先輩の言葉を遮った。 そして、私の腕を掴んでいた彼の手を、そっと退ける。 拒絶するのではなく、彼を安心させるために。「私は大丈夫ですから。先に帰っていてください」「だが……」 奏人先輩は、今にも泣き出しそうな顔で私を見つめていた。 大学以来、久しぶりに再会しただけの後輩を、ここまで心配してくれる。 その優しさが胸に沁みて、こんな状況なのに、少しだけ泣き笑いしそうになった。 昔から変わらず、まっすぐな奏人先輩。 そして、まるで別人のように私を憎む玲司。 同じ男の人なのに、どうしてこんなにも違うのだろうか?「私は、久我玲司の妻なので」 病院で、奏人先輩に告げた言葉。 あの時は、拒絶するためだった。 現実から目を逸らすために、苦し紛れに絞り出した言葉だった。 けれど今は違う。 私はまっすぐ奏人先輩の目をみて言葉を告げた。 自分の意思でその言葉を選んだのだ。「……わかった」 奏人先輩は苦しそうに息を吐くと、懐からメモとペンを取り出した。 素早くペンを走らせ、それを私に差し出してきた。「俺の連絡先だ。何かあったら、必ず連絡してくれ」 どこまでも私を気遣ってくれる彼の優しさに、思わず甘えたくなってしまう。 今の私には、その優しさがあまりにも温かかった。 ——もう少しだけ頼らせてほしい。 そんな弱い気持ちが胸の奥から顔を覗かせる。 だけど、そんな想いを胸の内から振り払う。 これ以上、奏人先輩を巻き込むわけにはいかない。 これは私と玲司の問題だ。 夫婦として向き合わなければならない問題で、本来なら先輩には何の関係もない。 だから私は、その想いごと押し込めるようにメモを握り締めた。「はい。ありがとうございます」 奏人先輩は何かを言おうとして口を開いたけれど、その言葉を飲み込むように静かに閉じる。 そして小さく息
اقرأ المزيد

第十六話

 玲司の瞳が、にわかに収縮する。彼は一瞬だけ言葉を失い、その顔からは、いつも張り付いている傲慢なほどの従容さが完全に消え失せていた。 張り詰めた静寂が満ちる空気の中、彼はただ、床に散らばった小切手の破片を見つめている。 ――だけどそれも、ほんの刹那のことだった。 彼は再び冷ややかな視線を私へ戻すと、その口元を嘲るように歪めた。 まるで、私の浅ましい本心などすべて見抜いていると言わんばかりに。「……今度は、何のパフォーマンスだ?」 思わず笑ってしまいそうになる。 私が金欲しさに行動する浅ましい女で、自分が手を差し伸べなければ何もできない哀れな存在。 玲司はずっとそう思っていたのだろう。だからこそ、今の私の行動が理解でず、飼い犬に噛まれたような気分なのかもしれない。 香澄へ視線を向けると、一瞬だけ眉間に皺が寄ったが、すぐにいつもの微笑みに戻った。 薄っぺらい作り物の笑顔。 こんなものに騙されて親友だと思っていた過去の自分に腹が立つ。「千景さん。あんなふうに言われて混乱されたのは分かります」 甘ったるい声に鳥肌が立った。「お母様のことを悪く言われて感情的になるお気持ちは分かります。でも、一時の感情に流されては駄目です」 香澄はバッグからキャッシュカードを取り出した。「これを使ってください。今はお母様の命が最優先です」 丁寧な仕草で差し出されたカード。 その瞬間、母の顔が浮かんだ。 小さい頃、熱を出した私を背負って病院へ連れて行ってくれた背中。 運動会の日、誰よりも大きな声で応援してくれたこと。 父がいなくなっても、一人で私を育ててくれたこと。 私の世界には、いつだって母がいた。 だから助けたい。 何をしてでも助けたい。 そう願っているはずなのに――。 香澄が私の腕を掴み、耳元で囁いた。「意地張るんじゃないわよ」 吐息が耳にかかり、頭から足先まで不快感が体に広がる。「お金がないと治療できないんでしょ? 碌でもない人間でもあなたの母親でしょ? 助けたいんなら受け取りなさい」 ぞっとするほど冷たい声だった。 香澄はすぐに身体を離し、再び優しい笑みを浮かべる。「さあ、千景さん」 そう。 お金がなければ母は治療を受けられない。 父は頼れない。 今の私に、この状況を覆せる力はな
اقرأ المزيد

第一七話

【玲司side】 自分に背を向けて離れていく千景を、ただ見送ることしかできなかった。  俺はただ、静かに目を伏せる  あんな屑のような母親を慕い、偽りの理想で塗り固めた母親像を、いつまでも本物だと信じて疑わない哀れな女。  そんな女が喉から手が出るほど必要な金を、目の前で破り捨てた。  そうだ。あの女は、かつてはそういう女だった。 一歩引いた場所から周囲を立てる。  波風を立てないよう、誰よりもうまく立ち回る。  けれど、その芯まで誰かに明け渡すことはない。  普段は穏やかに微笑みながら、決して譲れないものの前では、驚くほど真っ直ぐな目をする。 その落差に興味を持ち、その人柄に惹かれた。  そして、時折見せる屈託のない笑顔に、心を奪われた。 かつては、本気で愛し、永遠を信じた相手だった。 あの汚らわしい女の娘だと知るまでは――。 不意に、千景が成瀬とかいう男に支えられていた光景が脳裏をよぎる。  倒れかけた千景の身体を、あの男が抱きとめていた。  声をかけられた瞬間、千景はわずかに表情を緩め安心しきっているように見えた。 それが妙に鮮明に焼きついて頭から離れず、胸の奥に吐き気にも似た感情が込み上げてくる。  得体の知れない不快感だった。  熱を持った泥のようなものが、胸の中心でじわじわと広がっていく。 これは嫉妬か。  いや、違う。そんなはずがない。「玲司さん」 その声に、はっと意識が引き戻された。  顔を上げると、香澄が心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。「顔色が悪いけど、大丈夫?」 眉を八の字に寄せ、香澄がそっと俺の頬に触れる。  指先は少しひんやりとしていた。  その冷たさが、胸の奥にこびりついた不快な熱を少しずつ鎮めていく。「あなたは手を差し伸べようとしただけなのに。あんな態度で拒まれたら、戸惑うのも無理はないわ」 そう言って、香澄は俺の手をそっと握った。「千景さんも、お母様のことで心穏やかではなかったのだと思う。でも、それでも悪いのは彼女よ。玲司さんは悪くないわ」「ああ……そうだな」 俯き気味に返事をする。  香澄の言葉で、不快な熱は確かに和らいだ。  だが、胸の奥に残った吐き気のような感情までは消えてくれない。 なぜか、素直に頷くことができなかった。  そんな俺の迷いを断ち切るよう
اقرأ المزيد

第十八話

【玲司side】 久我の名を与えられる前。 実父に存在すら知られないまま、俺は妹と二人、孤児院で肩を寄せ合って生きていた。 冬は隙間風がひどく、夏は汗と埃の匂いがこもる古い施設だった。 まともな服も、十分な食事もない。 誰かに守られているという実感もない。 そこでは、弱い者から奪われ、声の小さい者から踏みつけられるのが当たり前だった。 妹は身体が弱く、いつも俺の背中に隠れるようにして、小さな手で服の裾を握っていた。 だから俺は、何があっても妹だけは守らなければならないと思っていた。 ある日、俺たちは年上の連中に囲まれた。 理由などなかった。目つきが気に入らない。すかしていて、偉そうにしている。 そんなくだらない言葉と一緒に、肩を突き飛ばされ、背中を蹴られた。 俺は妹を背に庇いながら、ただ歯を食いしばっていた。 泣けば余計に面白がられる。 助けを求めても、誰も来ない。 だから、黙って耐えるしかなかった。 その時だった。「やめなさい」 凛とした声が、庭の空気を切り裂いた。 振り返ると、そこに一人の少女が柔らかな髪に陽の光を受け、腕には小さなヴァイオリンケースを抱えて立っていた。 俺たちと同じくらいの年頃なのに、その少女は不思議なほど堂々としており、年上の男子たちに囲まれても一歩も引かなかった。 それどころか、男子の一人が手を伸ばした瞬間、大人しくお淑やかに見えた彼女は、突然ヴァイオリンケースを振り上げ、その膝に叩きつけた。「この子たちが私のヴァイオリンを盗もうとしている! 誰か来て!」 突然、少女は大声でそう叫んだ。 その声に、周囲の大人たちが駆け寄ってくる。 さっきまで威勢のよかった連中は、あっという間に少女から引き離され、別室へと連れて行かれた。 後から思えば、彼女は施設への慰問に来ていた子どもの一人だったのだろう。 だが、その時の俺には、そんなことを考える余裕などなかった。 少女は、怯えて座り込んでいた妹に手を差し伸べ、優しく助け起こしてくれた。 俺は、彼女の高価そうなヴァイオリンが壊れていないか心配になったけれど彼女は、いたずらっぽく微笑んで言った。「大丈夫。実はこれ、中身は空っぽだよ」 俺たちを助けに飛び出す前に、大切なヴァイオリンは近くの花壇へ隠して
اقرأ المزيد

第十九話

 病院へ戻るまでの道のりを、私はほとんど覚えていなかった。 ただ、気づいた時には、私は病院の自動扉の前に立っていた。 夜の病院は、昼間とはまるで違って人の気配は薄く、白い照明だけが冷たく廊下を照らしている。消毒液の匂いが鼻の奥を刺し、遠くから聞こえる機械音が、母の命を数えている音のように聞こえて、胸の奥に不安を募らせていく。 一歩踏み出すたびに、足が鉛のように重くなり、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。 それでも、母のところへ行かなければ。 そう自分に言い聞かせながら、私は震える足を無理やり前へ進めた。 集中治療室の前まで辿り着くと、ガラス越しに母の姿が見えた。 白いベッドに横たわり、細い腕には点滴の管が繋がれ、呼吸に合わせて胸元がかすかに上下している。 規則正しく響く機械の電子音を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと潰れた。「お母さん……」 声に出したつもりだったけれど、唇がかすかに震えただけで、音にはならなかった。 母は何も知らないのだ。 母を侮辱されることに耐えられず、治療に必要なお金を——小切手を破り捨てたことを。 眠っている母を、私はガラスに額を寄せるようにして見つめた。 あの時、私は間違っていないと思った。 だけど――。 目の前で眠る母を見た瞬間、その正しさが足元から崩れていくような気がした。 正しいことをしたからといって、母が助からなければ、何の意味があるのだろう。 母の名誉を守ったつもりで、私は母の命を危険に晒しただけではないのか。 私の誇りなんて、ただのくだらない意地だったのではないか。 玲司の言う通りにして、母を罵る言葉を口にしてでもあの小切手を受け取っていれば。 少なくとも、母の治療は続けられたかもしれない。 そこまで考えてもなお、私は自分の選択を完全には悔やめなかった。 そんな自分が、たまらなく嫌だった。 「ごめんなさい……」 気づけば、私はガラスの前で小さく呟いていた。「ごめんなさい、お母さん……私……」 その先の言葉は、喉の奥で詰まった。 視界が滲み、胸が苦しい。 息を吸っているはずなのに、肺に空気が入ってこない。 身体の奥から、すっと熱が引いていく感覚がした。 壁に手をつこうとしたけれど、指先に力が入らず、足元がぐらりと傾き、床
اقرأ المزيد

第二十話

 ひとしきり胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出し、少しだけ落ち着きを取り戻した私は、今さらながら、佐伯さんの前で全てをさらけ出してしまったことが恥ずかしくなった。 その恥ずかしさから逃げるように、私はこれまでのことを考えていた。 玲司は、母を激しく恨んでいる。 かつて、優しく穏やかに私へ寄り添ってくれていた玲司の姿と、今の冷酷で憎悪に満ちた玲司の姿が、どうしても結びつかなかった。 けれど、そこでふと気づく。 玲司が私を冷遇し始め、母のことを悪く言うようになった時期。 佐伯さんが病院を辞め、そして母が院長の座を退いた時期。 その全てが、三年前だったこが偶然だとは思えなかった。 太ももの上に置いた手に、自然と力が入る。「佐伯さん……この病院を辞めてから、何をされていたんですか? そもそも、どうして病院を辞めたんですか?」「特に、これといって何かをしていたわけじゃないわ。病院を辞めたのも……色々な理由があったからよ」 佐伯さんは、いつものように穏やかに微笑みながら言葉を濁した。 けれど、答える前に、その瞳の奥がわずかに揺れ、一瞬だけ私から視線を逸らしたのを見逃せなかった。「佐伯さん。何か知っているのなら、教えてください」「何のことかしら。私は何も知らないわ。ごめんなさいね」 佐伯さんは申し訳なさそうに眉を下げた。 その表情の奥に、ほんの僅かな痛みが浮かんだような気がした。「本当に、何も知らないんですか?」 私は膝の上で拳を握りしめる。「佐伯さんが急に病院を辞めた時期と、母が院長を辞めた時期。それから、夫の態度が急に変わって、母を恨むような言葉を口にするようになった時期が同じなんです。私には、それがただの偶然だとは思えないんです」「千景さん……」「私、母が人から恨まれるようなことをしたなんて思えないんです。でも、母のことを聞ける人はもうほとんどいなくて……今の私が頼れるのは、佐伯さんしかいないんです。幼い頃から私のことも、母のことも気にかけてくれていた佐伯さんにしか」 佐伯さんは、黙ったまま私の目をじっと見つめていた。 医療機器の電子音が、やけに大きく耳に響く。 やがて、佐伯さんは小さく息を吐き、困ったように微笑んだ。「ごめんなさい。やっぱり、私からは何も言えないわ。あなたの旦那さんのことも、私は知ら
اقرأ المزيد
السابق
1234
امسح الكود للقراءة على التطبيق
DMCA.com Protection Status