All Chapters of 虚飾の檻 ~余命僅かな私は、私を憎む夫が隠した真実を追う~: Chapter 31 - Chapter 39

39 Chapters

第三十一話

 紫苑医科大学附属病院へ着くと、私は息を整える暇もないまま、病棟の看護師に案内された。  いつもなら最低限の説明をしてくれるはずの看護師が、今日は妙に口数が少ない。足早に廊下を進む横顔は硬く、こちらを気遣う余裕すらないように見えた。「あの、母に何かあったんですか?」 問いかけても、看護師は一瞬だけ私を振り返るだけだった。「まずは病室へお願いします」「でも……」「行けばすぐに分かります」 その言い方に、胸の奥がざわついた。  嫌な予感が、足元から這い上がってくる。  病室に近づくにつれて、廊下の奥から騒がしい声が聞こえてきた。  何かが倒れるような音や看護師たちの切迫した声。「離して! あの子は無事なの!? あの子はどこなの!」 そして――聞き間違えるはずのない、母の叫び声。  その声を聞いた瞬間、息が止まった。「お母さん……?」 私は看護師の制止も聞かず、病室へ駆け込むと室内はひどく荒れていた。  ベッド脇に置かれていた小物は床に散らばり、点滴スタンドは斜めに倒れかけている。シーツは乱れ、母は半身を起こしたまま、二人がかりの看護師に押さえられていた。「離して! あの子のところに行かないと……! あの子を守ってあげないと!」「美玲さん、落ち着いてください!」「危ないです、動かないで!」 母の目は大きく見開かれていた。  つい先日まで、意識すら戻らなかった母が、必死の形相で声を荒げている。  本来なら、目を覚ましてくれたことを喜ぶべきだった。  けれど、その姿はあまりにも痛々しくて、嬉しさよりも先に恐怖が込み上げた。「お母さん……!」 震える声で呼びかけると、母の動きがぴたりと止まった。  大きく見開かれた瞳が、ゆっくりと私を捉える。「……千景?」「うん。私だよ。ここにいる。大丈夫、私は無事だから」 足が震えていた。  それでも私は、母を怖がらせないように、できるだけゆっくり近づいた。  看護師たちが警戒する中、ベッドのそばに膝をつき、母の手をそっと握る。  その瞬間、張り詰めていた母の表情が、くしゃりと崩れた。「ああ……よかった……無事でよかった……」 母は力が抜けたように、私の手に縋りついた。「お母さん、大丈夫。私はここにいるよ」「だって……あんな連絡があったから……気が気じゃなくて……早く、
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第三十二話

 冷たい声に私は咄嗟に立ち上がる。「申し訳ありません。母はまだ混乱していて……」「混乱で済まされても困るんです」 黒崎看護師長は、私の言葉を遮るように言った。「点滴は抜きかける、備品は壊す、スタッフにも危険がある。こちらも他の患者様を抱えています。こんな状態が続くようなら、うちでは見られません」「そんな……」 母はようやく目を覚ましたばかりだ。 身体だって、まだ安定していない。 それなのに、まるで厄介者のように扱われている。「今すぐというわけにはいきません。せめて、状態が落ち着くまで待ってください」「待てません」 黒崎看護師長は即座に言い切った。「このままでは病棟の安全が確保できません。ご家族であるあなたに責任を持って対応していただきます」「責任って……母を退院させろということですか?」「そうです」 あまりにも平然とした返答に、喉が詰まった。「無理です。母はまだ治療が必要な状態です。さっきだって意識が戻ったばかりで、薬も使ったって……そんな状態で退院なんてできるわけありません」「では転院先をご自分で探してください」「今すぐにですか?」「こちらも限界です」「限界って……患者をそんなふうに追い出すんですか?」 思わず声が震えた。 黒崎看護師長の目が、冷たく細められる。「言葉を選んでください。こちらは病院として当然の対応をしているだけです」「当然……?」 胸の奥で、何かが切れそうになった。 母はずっとこの病院で働いてきた。 患者のために身を削って、誰よりもこの病院を支えてきた人だった。 その母が弱った途端に、こんなふうに切り捨てられる。 悔しさで目の奥が熱くなった。「お願いします。せめて、医師ともう一度話をさせてください。母の状態を確認してからでも遅くないはずです」「医師にはこちらから伝えます」「それなら、先生の判断を待ってください」「待っている間に、また暴れられては困るんです」「母は暴れたんじゃありません! 混乱していただけです!」 声を荒げた瞬間、黒崎看護師長の表情が一段と冷えた。「……ご家族まで感情的になられるなら、警備を呼びます」「警備って……」 まさか、と思う間もなく、彼女は近くの看護師に視線を送った。 数分もしないうちに、病室の前に警備員が二人現れた。 その光
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第三十三話

 私を見下ろす玲司の冷たい瞳。 それを見た瞬間、胸の奥に嫌な確信が生まれた。 黒崎看護師長が、急に母を追い出そうとしたこと。 警備員まで呼んで、強引に荷物をまとめさせようとしたこと。 その裏に、この人がいるのではないか。 私と母を追い詰めるために、玲司が病院側へ圧力をかけたのではないか。 そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。 こんな人の前で、もう涙なんて見せたくない。 私は必死に込み上げるものを堪え、玲司の前へ進み出た。「……あなたの指示?」 病室の空気が凍りついた。 玲司は不快そうに眉をひそめる。「何?」「母を追い出すように、病院側へ指示したんですか」 自分でも驚くほど、声は震えていた。 怒りなのか。恐怖なのか。 それとも、まだどこかで信じたくないと思っているせいなのか、自分でもわからなかった。 玲司が口を開くより早く、背後に控えていた男が鋭い声を上げた。「何者だ、貴様。久我様に対して無礼極まりない!」 白衣ではなく、高そうなスーツを着た中年の男だった。 胸元の名札には、専務理事の肩書きが見えた。 彼は玲司の機嫌を窺うように一瞬だけ視線を向けてから、今度は私を睨みつけた。「久我様がどなたか分かっているのか。部外者が軽々しく口を利いていい相手ではないぞ!」「私は――」 妻です。 そう言いかけて、言葉が喉で止まった。 妻——その言葉が、あまりにも空々しく思えた。 戸籍上は、まだそうなのかもしれない。 けれど、この人は私を妻として扱ったことがあっただろうか。 苦しんでいる時も、助けを求めた時も、母のために頭を下げた時でさえ、玲司は私を見ようとしなかった。 それなのに、今さら妻だと名乗ることが、ひどく滑稽に思えた。 私は小さく笑った。 自分でも嫌になるほど、乾いた笑みだった。「久我さんにとっては……おそらく、仇のような存在でしょう」 専務理事が怪訝そうに眉を寄せる。 玲司は私の言葉には答えなかった。 その代わりに玲司はゆっくりと視線を外し、黒崎看護師長へ向き直った。「ここにいる患者を追い出そうとしたのは、お前か」 黒崎看護師長の顔から血の気が引いていく。「そ、それは……その、病棟の安全を考慮して……」「誰が理由を聞いた?」 玲司は感情のない目
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第三十四話

 床に散らばった小物を拾い、倒れかけていた点滴スタンドを看護師に直してもらい、乱れたシーツを整える。 ただそれだけのことなのに、身体はひどく重かった。 一人で考えていても答えは出ない。奏人先輩に相談しよう。 そう思い、私は母の眠る顔をもう一度確認してから、病室を出た。 廊下は先ほどの騒ぎが嘘のように静まり返っていた。 けれど、すれ違う看護師たちの視線はまだ落ち着かない。私を見ると、すぐに目を逸らす人もいれば、何か言いたげにこちらを見つめる人もいた。 私はその視線から逃げるように俯き、足早に廊下を進んだ。 心ここにあらずのまま角を曲がった瞬間――。「っ……」 誰かの胸に、強くぶつかった。 咄嗟に謝ろうとして顔を上げかけるけれど、その必要はなかった。 見上げるより先に、分かってしまったからだ。 冷たい空気を纏うような、独特なメンズ香水の香り。 昔は、その香りが近づくだけで胸が高鳴ったけど今はその逆で息が詰まる。「……玲司」 目の前に立っていたのは、玲司だった。 彼は私を見下ろしたまま、何も言わない。 その沈黙が、ひどく重かった。 二人きりになるのは避けたかった。 今の私は、玲司はいったい何を考えてるのかますます分からなくなってしまっていたからだ。 私の母を恨んでいる。私の母親が地獄へ落ちるところを見たい。 そんなことを言っておきながら、さっきの言動はそれとは真逆に思えた。 それでもどんな理由があったにせよ、母が追い出されるのを止め窮地を救ってくれたことは事実だ。 それだけは、認めなければならない。「……さっきは、ありがとう。お母さんのこと助けてくれたこと感謝してる」 そう告げて、私は玲司の横を通り過ぎようとした。 けれど次の瞬間、腕を掴まれた。「どこへ行く」 低い声が、耳元に落ちる。 振りほどく間もなく、背中が壁へ押しつけられた。「っ……!」 鈍い痛みに息が詰まる。 玲司は私の逃げ道を塞ぐように、片手を壁についた。 廊下の白い照明の下で、その瞳だけが凍りつくように冷たかった。「奏人のところか」「……離してください」「二度と近づくなと警告したはずだ」 その言葉に、胸の奥で何かが燃え上がった。 怖い。苦しい。 それでも、ここで黙っていたくなかった。
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第三十五話

「飯だ」 寝室のドアが開き、低い声が落ちてきた。 顔を上げると、そこには玲司が立っていた。 長身に仕立てのいいシャツ。 そこまではいつも通りだった。 けれど、その上に巻かれているエプロンだけが、どうしようもなく彼に似合っていなかった。 思わず、胸の奥が小さく揺れる。 昔も、こんな姿を見たことがあった。 付き合い始めたばかりの頃。 朝寝坊が好きな私を起こすために、玲司は不機嫌そうな顔で寝室へやって来た。『いつまで寝ているつもりだ』 そう言いながら、初めて作ったというスクランブルエッグを差し出してくれた。 少し焦げていて、味も薄かった。 それでも私が笑って「おいしい」と言うと、玲司はそっぽを向きながら、耳だけ赤くしていた。『……次は、もっと上手く作る』 あの頃の彼は、優しかった。 不器用で、言葉足らずで、それでも私のことを見てくれていた。 私が好きなものを覚えようとしてくれていた。 私が笑うだけで、ほんの少しだけ表情を和らげてくれた。 パタン、とドアが閉まる音で、私は現実に引き戻された。 胸に浮かんだ甘い記憶が、途端にひどく残酷なものへと変わる。 今さら、過去の思い出に浸ったところで何の意味もない。 あの頃の玲司は、もうどこにもいない。 今、彼がこうして甲斐甲斐しく動いているのは、きっと負い目があるからだ。 三日前、病院で黒崎元看護師長がナイフを突き出した時、私は何も考えず玲司の前に飛び出した。 刺されたのは自分だと思った。 けれど、次に感じたのは痛みではなく、玲司の腕に強く引き寄せられる感覚だった。 彼はあの一瞬で、すべてを察知していた。 護身術に長けている玲司は、私の身体を庇いながら黒崎の手首を弾き、ナイフを叩き落とした。 それでも完全には避けきれず、刃は彼の前腕を裂いた。 白い床に落ちていた血は、私のものではなかった。 玲司のものだった。 幸い、動脈は外れていた。 命に関わる怪我ではない。 けれど、包帯の巻かれた彼の腕を見るたびに、胸の奥が妙な痛み方をした。 あの時、私はたしかに玲司を庇おうとした。 自分でも理由は分からない。 もう愛していないはずなのに。 何度も傷つけられて、期待することすらやめたはずなのに。 それで
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第三十六話

 準備を終えたあと、私は屋敷の外へ出た。 黒い車の運転席側に立った玲司が、無言でキーを開ける。 ——今日、すべてを教えてやる。 そう告げてきた玲司の言葉が頭から離れず、心臓が嫌な音を立てている。 私は助手席に乗り込み、震える手でシートベルトを掴んだ。 けれど、金具がうまく差し込めない。 カチリ、と鳴るはずの音が鳴らず、何度も手元が滑る。「……」 焦れば焦るほど、指先に力が入らなくなった。 シートベルトは私を嘲笑うように何度も外れた。 その時、玲司が無言で身を乗り出してきた。「え……」 低い体温を纏ったような彼の気配が、一気に近づく。 玲司の腕が、私の身体の前を横切る。 彼の袖口から、ほのかに香水の匂いがした。 心臓が、嫌になるほど大きく跳ねる。 彼の指先が、私の手元に触れそうな距離を通り過ぎる。 包帯を巻いた前腕が視界に入った。 三日前、私を庇って傷を負った腕。 その白い包帯が、胸の奥に生々しい痛みを残す。 玲司の横顔はすぐそこにあった。 少しでも顔を動かせば、頬が触れてしまいそうな距離。 息をすることさえ、許されないような気がした。 ——カチリ。 シートベルトが締まる音が、やけに大きく響いた。 玲司は何事もなかったように身を離す。 ただそれだけだった。 なのに、私の鼓動は先ほどまでの嫌な音ではなくなっていた。「……ありがとう」 かろうじてそう呟くと、玲司は何も答えずに車を発進させた。 車は静かに屋敷の門を抜け、窓の外の景色が流れていく。 車内に会話はなく玲司は前を見たまま、淡々とハンドルを握っている。 その横顔は冷たく整っていて、何を考えているのかまるで読めない。 沈黙に耐えかねたわけではないだろう。 不意に、玲司がカーラジオのスイッチを入れた。 流れてきたのは、明るい音楽ではなかった。 淡々としたニュースの報道音声だった。『三日前、紫苑医科大学附属病院で発生した傷害事件について、逮捕されていた元看護師長の黒崎真知子容疑者が、昨夜、留置施設内で死亡していたことが分かりました。警察は自殺とみて詳しい経緯を調べています』 息が止まった。 黒崎看護師長。 あの人が、死んだ。 頭の中で言葉の意味がうまく繋がらない。 けれど、
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第三十七話

「一体……どういうこと?」  玲司の言葉をうまく理解できず、私はかすれた声で問い返した。 久我家に妹などいなかったはずだ。 玲司はすぐには答えず、墓石に刻まれた名前を見つめた。「白峰紗良。血の繋がりはない。だが、俺にとっては本当の妹のような存在だった」「紗良……」 玲司がそう呼んだ少女の写真へ、もう一度視線を落とす。 何度見ても、そこに写っているのは幼い頃の私にしか見えなかった。 丸みを帯びた頬も、大きな瞳も、笑ったときにわずかに下がる眉尻も。 他人の空似というには、あまりにも似すぎている。 玲司の話を聞かなければならない。そう思うのに、私は写真から目を離せなかった。「俺は久我家の会長――あのクソ親父が、外の女に産ませた子供だ」 吐き捨てるような声に、私は顔を上げる。「母親が死んだ後、星見の丘へ預けられた。その頃の俺は、久我ではなく水瀬を名乗っていた」「水瀬……玲司」 施設で見つけた絵。 その裏に記されていた、少年の名前。 彼なのではと感じていたそれを、玲司本人の口から突きつけられる。 胸の奥で、散らばっていた欠片が音を立てて繋がった。「やっぱり、あの絵を描いたのは……」「お前……星の丘に行ったのか? そうだ、あの絵を描いてのは俺だ」 玲司は短く答えると、目を伏せた。「紗良とは、星見の丘で出会った。あいつも俺も、大切なものを失っていた。だからなのかもしれない。気づけばいつも一緒にいた」 硬かった玲司の声が、ほんの少しだけ和らぐ。「泣きたいときも、腹が立ったときも、紗良の前でだけは取り繕わずにいられた。あいつは俺を兄と呼び、俺も……本当の妹だと思っていた」 その横顔は、私の知らない玲司のものだった。 冷たくも、傲慢でもなく失ったものを今も大切に抱えている、一人の少年のように見えた。 けれど、その穏やかさは長くは続かなかった。 玲司の口元が歪む。「それなのに、あの男は突然俺を久我家へ引き取った。何年も存在を認めず放置していたくせに、跡取りが必要になった途端にな」 玲司は鼻で笑った。 だけど、その声音に滲んでいたのは嘲りではなく、消えきらない憎悪だった。「久我の人間として生きるなら、それまでの自分はすべて捨てろと言われた。名前も、暮らしも、星見の丘での記憶も。そして、紗良との関係も
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第三十八話

【玲司side】 紗良と初めて言葉を交わした日のことは、今でも覚えている。 星見の丘へ預けられて間もない頃、俺は施設の裏庭にある古びたベンチに、一人で座っていた。 ここでは誰も信用するつもりはなかった。 そんなふうに思っていた俺の隣へ、紗良は何の断りもなく腰を下ろした。「これ、半分あげる」 差し出されたのは、小さな袋に入ったビスケットだった。「いらない」「でも、お腹鳴ってるよ」「鳴ってない」「鳴ったよ。ぐうって」 紗良はそう言って笑うと、ビスケットを二つに割った。 力加減を間違えたのか、片方は大きく、もう片方は随分と小さかった。 紗良はそれが当然だと言うように、大きい方を俺へ差し出した。「こっち、お兄ちゃんの分」「俺はお前の兄貴じゃない」「私より大きいから、お兄ちゃんでいいの」 勝手なことを言う奴だと思った。 それなのに、差し出されたビスケットを拒むことはできなかった。 口に入れると、ひどく甘かった。 それから紗良は、何かにつけて俺の後をついて回るようになった。 眠れない夜には、職員に見つからないよう廊下を抜け出し、俺の布団へ潜り込んできた。「また怖い夢を見たのか」「見てないよ」「なら戻れ」「お兄ちゃんが怖い夢を見そうだったから来たの」 紗良はそう言い張り、布団の中で俺の手を握った。 その温もりがある間だけは、母を失った夜のことを思い出さずに眠ることができた。 紗良が年上の子供たちに囲まれていたこともあった。 大人しくて言い返せない紗良は、配られたばかりの菓子を奪われそうになっていた。 気づけば俺は、相手の胸倉を掴んでいた。 殴られ、地面に倒されても、紗良の前から退かなかった。 騒ぎを聞きつけた職員が来る頃には、俺の頬は腫れ、手のひらから血が滲んでいた。「お兄ちゃんの馬鹿」 医務室から包帯を持ち出してきた紗良は、泣きながら俺の手に巻きつけた。 包帯は緩く、結び目も不格好で、少し指を動かしただけで解けそうだった。「下手くそだな」「うるさい。お兄ちゃんが怪我するから悪いんだよ」「お前が何も言い返さないからだろ」「だって、お兄ちゃんが助けてくれると思ったから」 あまりにも真っ直ぐに言われて、俺は何も返せなかった。 血の繋がりなんて関係なく。紗良にとって俺は
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第三十九話

 玲司の言葉が、胸の奥深くへ突き刺さった。 息ができず、目の前にいる玲司の顔も、墓石に刻まれた名前も、すべてが滲んでいく。「私が……紗良さんを……?」 ようやく絞り出した声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。 事故に遭ったことは覚えている。激しい衝撃と、全身を焼くような痛み。 目を開けたときには、真っ白な病室の天井があった。 けれど、その裏側で一人の少女が命を落としていたなんて、知るはずもなかった。「三年前、俺は紫苑医科大学附属病院に残されていた内部資料を調べた。正式な手術記録だけじゃない。変更前の予定表や看護記録、当直医が残した報告書までだ」 玲司が私へ視線を戻す。「朝霧美玲は、娘であるお前の命を救うことを選んだ。紗良の命と引き換えにな」 視界がぐらりと揺れる。 倒れそうになり、私は墓石へ手をついた。 冷たい石の感触が、掌から身体の奥まで伝わってくる。「突然、執刀医が変更されたことで現場は混乱する。手術の手順も人員も組み直さなければならなかっただろうから引き継ぎにも時間がかる」 玲司は吐き捨てるように言う。「そこまでのことは記録なんてされたないが、容易に想像がつく。それで紗良の手術は遅くなった」 玲司は、手のひらから血でも出るんじゃないかと思うほど拳を握りしめた。「ようやく手術を始めたときには、紗良の容体はさらに悪化していた。大量出血を止めることができず、手術中に死んだ」「そんな……」 お母さんが私の命を救おうとしたことを、責めることなどできなかった。 けれど、その結果として紗良さんが死んだのだとすれば、私は何を思えばいいのだろう。「病院は、紗良の死を事故による損傷が激しく、救命が困難だったためだと処理した」「それは、嘘だったの?」「紗良の怪我が重かったことは事実だ。美玲が執刀していれば、必ず助かったとも言い切れない」 玲司の言葉に、わずかに息を吐く。 けれど、安堵することなど許されなかった。「だが、助かる可能性はあった」 玲司は低く言い切った。「その可能性を奪ったのは、突然の担当変更と、それによって生じた手術の遅れだ」 胸が締めつけられる。「正式な記録には、美玲が紗良の手術に関わる予定だったことは残されていない。執刀医の欄には、実際に手術を担当した医師の名前しかなかった」「
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