《虚飾の檻 ~余命僅かな私は、私を憎む夫が隠した真実を追う~》全部章節:第 61 章 - 第 70 章

87 章節

第六十一話

「あの、すみません。先日そちらに伺った久我千影と申します。お聞きしたいことがあって……野上さんはいらっしゃいますか?」 翌日。 星見の丘へ電話をかけ、受付の職員にそう告げる。 『少々お待ちください』 そう返されてから、しばらく。 やがて保留音が途切れ、受話器の向こうから野上さんではない聞き覚えのある声が響いた。 『……また、あなたですか』 その第一声だけで、歓迎されていないことが嫌というほど伝わってくる。 『何度来られても困るのですが』 電話に出たのは、以前ここを訪れた際にも露骨に迷惑そうな態度を見せ、私を追い返した高坂施設長だった。 やっぱり、簡単には話を聞かせてもらえそうにない。 それでも、ここで引き下がるわけにはいかなかった。 「長居をするつもりはありません。少しだけ、確かめたいことがあるんです」 『その少しが迷惑だと言っているのがわからないんですか?』 冷たい声が返ってくる。 『以前も申し上げたはずです。児童の過去について詮索されても、こちらは何もお答えできません。お引き取りください』 「ですから、私は――」 「どうした?」 不意に背後から声をかけられ、振り返る。 そこに立っていたのは玲司だった。 ついさっきまで少し離れたところで仕事の電話をしていたはずなのに、いつの間にかこちらへ来ていたらしい。 私の様子がおかしいことに気づいたのか、眉間に僅かな皺を寄せている。 「……取り合ってもらえないの」 「貸せ」 「え?」 私が聞き返すより早く、玲司は私の手からスマートフォンを取った。 「ちょっと――」 止める間もなく、そのまま耳へ当てる。 「久我玲司だ」 一瞬、向こうが静まり返った。 『……久我、玲司様?』 先ほどまでの刺々しい声が嘘のように消える。 『これは……大変失礼いたしました』 あまりにも露骨な態度の変化に、私は呆れて玲司を見上げた。 けれど当の本人は、そんなことなど気にも留めていない。 「こっちも忙しい中で時間を作って行くんだ。無駄なやり取りをして、俺の時間まで浪費したくないのだが」 『は、はい。おっしゃる通りでございます』 どう考えても、さっきまで私と話していた人と同一人物とは思えない。 「今から行く。施設長室を空けて待っていろ」 『し
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第六十二話

星見の丘へ到着すると、私たちは待たされることもなく、すぐに応接室へと通された。 「そ、それで……本日は、いったいどのようなご用件でしょうか」 向かいのソファに腰を下ろした高坂施設長は、ひどく落ち着かない様子でそう切り出した。 額には薄っすらと汗が滲み、膝の上で組んだ指もせわしなく動いている。 この前ここを訪れた時、私を邪険に扱い、まともに話も聞かず追い返そうとした人物と同じだとは思えない。 理由は考えるまでもなかった。 ちらりと隣へ目を向ける。 玲司は足を組み、無表情のまま高坂施設長を見据えていた。 ただ座っているだけなのに、妙な威圧感がある。 久我家の人間が直接ここまで来たというだけで、高坂施設長にとっては十分すぎるほどの重圧なのだろう。 やがて玲司が、私へ視線を向けた。 話せ、ということらしい。 私は小さく息を吸う。 「ここにいた、白峰紗良さんについて聞きたいんです」 「白峰……紗良さん、ですか?」 「はい」 その名前を口にするだけで、胸の奥がざわついた。 玲司が妹のように大切にしていた少女。 そして私の双子の妹かもしれない人。 「紗良さんがこの施設へ来た時のこと。それから……」 一度言葉を切る。 自分の口で問いかけようとすると、急に現実味が増してきた。 「彼女と私が、本当に姉妹だったのかどうか。それを知りたいんです」 高坂施設長の眉がぴくりと動いた。 「あなたと……うちにいた児童が、姉妹だったかどうか?」 「はい。私も幼い頃、この星見の丘にいたそうなんです」 「そう……ですか」 高坂施設長は顎へ手を添え、何かを考えるように視線を落とした。 ほんの数秒の沈黙。 やがて顔を上げると、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。 「大変申し訳ありませんが、私がこちらに勤め始めたのは数年前なんです。ですから、それほど昔のこととなると、私にもわからないんですよ」 「記録はないのか?」 玲司が低い声で尋ねる。 「き、記録ですか……」 「ああ。施設へ預けられた時の記録くらい残っているだろう」 「さすがに何十年も前のものですからね……。ましてや、もうここを退所している方でしょう? 残っている可能性は低いかと」 曖昧な返答だった。 ない、とは断言しない。 けれど、
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第六十三話

「あなたたちが双子の姉妹だということを示す、出生時の母子手帳もね。わざわざ丁寧に添えて、ここへ預けられたそうよ」 鷹宮麗華から聞かされた話が、頭の中でずっと繰り返されていた。 信じていいのかわからなかった。 あの人が私に真実を話している保証なんて、どこにもなかったから。 けれど今、その話がまったく別の人間の口から重ねられた。 白峰紗良は――。 玲司が家族として愛した少女は――。 本当に、私の双子の妹だった。 何か言わなければと思うのに、喉がひどく乾いて声が出ない。 野上さんはそんな私を気遣うように見つめていたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。「ただ……」 野上さんの顔から、それまで浮かんでいた穏やかな表情が消える。「あなたたち二人がここへ預けられた時のことで、一つ……今でも妙だと思っていることがあるの」「妙なこと?」 ようやく声を絞り出すと、野上さんはゆっくりとうなずいた。「当時の施設長だった榊原さんがね、二人を預かった時にはっきり言っていたそうなのよ。この子たちは里親には出さない、って」「……え?」「普通なら、家庭で暮らせる可能性がある子については里親や養子縁組の話が出ることもあるでしょう? もちろん事情によって違うけれど。でも、あなたたちについては最初からその選択肢を外すように言われていたらしいの」「誰にですか?」 玲司が間髪入れずに尋ねた。 野上さんは首を横に振る。「そこまでは私も知らないの。私が聞いていたのは、榊原さんがそう話していたということだけ」 胸の奥に、新たな疑問が生まれる。 里親には出さない。 それなのに――。「だから、千景さん。あなたが朝霧院長……美玲さんに引き取られると聞いた時は、私も驚いたわ」「……最初は、引き取らせるつもりがなかったのに?」「ええ。それも、あなた一人だけだったから」 ずきり、と胸の奥が痛んだ。 双子なのに私だけが星見の丘を出て、紗良さんはここに残された。「預けた人は……」 自分でも驚くほど掠れた声が出た。「私たちをここへ連れてきた人は、どんな人だったんですか? 私の本当の両親は……なんと言って、私たちをここに?」 もしかしたら。 本当の両親について、何か分かるかもしれない。 僅かな期待を込めて尋ねたけれど、野上さんは申し訳なさそうに眉
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第六十四話

「なんで……」 自分でもわからない。 悲しいわけじゃない。 妹がいたことを知った。 けれど、その妹とはもう二度と会えない。 一緒に育つこともなかった。 姉妹だと知ることさえないまま、紗良さんは死んだ。「わからない……」 声が震えた。「私にも、わからないの」 止めようとした途端、涙はさらに溢れてきた。 ぎゅっと唇を噛む。 紗良さんとは、物心がついてから一度しか会っていない。 しかも、その時は姉妹だなんて知らなかった。 星見の丘で、玲司と一緒に私のヴァイオリンを聴いていた少女。 その記憶だって遥か昔のものだ。 今となっては顔も、声も、はっきりとは思い出せない。 だから今さら、玲司が妹のように大切にしていた紗良さんが、実は私の双子の妹でしたと言われたところで、何も思わないし何も感じない。 そのはずなのに。「…………」 どうして、こんなにも涙が出るのだろう。 もし、もっと早く知っていたら。 もし、私たちが引き離されていなかったら。 そんな『もしも』を考えたところで、どうしようもないことくらいわかっている。 それなのに次から次へと浮かんでくる。 同じ家で育っていたら。 一緒に学校へ通っていたら。 喧嘩をしたり、くだらないことで笑ったり。 双子なんだから、服を交換したりなんかもしたのだろうか。 想像したことすらなかった人生が、頭の中に勝手に形を作っていく。 そしてそのすべてが、もう絶対に手に入らないものなのだと気づくたびに、胸の奥が締めつけられた。「……っ」 手の甲で必死に涙を拭う。 こんなところを玲司に見られたくない。 そう思うのに、どうしても止まってくれない。 その時だった。 ぽすっ、と。 太腿の上に、何か軽いものが落ちた。「……え?」 視線を落とす。 そこにあったのは、紺色のハンカチだった。 見覚えがある。いや――見間違えるはずがない。 まだ玲司と婚約する前。 誕生日でも記念日でもない日に、仕事ばかりしている彼へ私が何となく贈ったものだった。『ハンカチくらいちゃんと持ちなさいよ』『余計なお世話だ』 そんなやり取りまで、不意に蘇ってくる。 もうとっくに捨てられていると思っていた。「……まだ、持ってたの?」 思わ
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第六十五話

嫌な予感がする。「黒い噂って……?」「児童相談所を通さない非正規の養子縁組。子供を引き取る見返りに、多額の寄付金が動いていたんじゃないかって話だ」「それって……」「言い方を選ばなければ、人身売買だ」「――っ」 背筋に冷たいものが走った。 奏人先輩はすぐに続ける。「もちろん、噂のすべてが事実だと決まったわけじゃない。警察も動いたが、決定的な証拠は出なかった。金の流れも追い切れず、事件として立件されたものもない」「じゃあ、榊原さんは……」「施設長だった以上、当然事情聴取は受けている」「罪には問われていないんですよね?」「ああ。榊原慧一郎本人が子供を売ったとか、金を受け取ったとか、そういう証拠は出てない。むしろ当時の記事を見る限り、本人は不正への関与を一貫して否定してる」「それなら……」「だが、気になることがある」 奏人先輩の指が、記事の一部分を叩く。「不自然な記録の欠落が多すぎる」「記録……?」「星見の丘に入所した児童のうち、何人かについて入所時の資料や退所理由が極端に少ない。誰が連れてきたのか。どういう経緯で引き取られたのか。そういう重要な部分だけが抜け落ちている」 心臓が嫌な音を立てる。「まさか……私と紗良も?」「まだ確認はできてない」 奏人先輩は慎重に答えた。「だが、話を聞く限り可能性はある」 この子たちは里親には出さない。 野上さんから聞いた言葉が蘇る。 そう言われて預けられたはずなのに、私はほどなくして母に引き取られた。 しかも、双子の紗良を残して。「でも……榊原さん自身が悪い人だったとは限らないんですよね?」「そこがややこしい」 奏人先輩は腕を組んだ。「調べれば調べるほど、榊原慧一郎という人物がどちら側にいたのかわからなくなる」「どちら側……?」「不正に関与していた人間なのか。それとも、不正を止めようとしていた人間なのか」「……どういうことですか?」「行政調査が入る少し前、彼が施設内部の記録を大量にコピーしていたという証言がある。その直後から、一部の職員と揉めるようになったらしい」「じゃあ、不正を調べていた……?」「可能性はある」 そこで奏人先輩は言葉を切った。「ただ、俺が気になっているのはもっと昔だ」「昔?」 新しい資料を一枚取り出す。「白峰紗良が亡くなった時のこ
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第六十六話

【玲司side】 さすがに、これ以上仕事を放置するわけにはいかなかった。 ここ数日、私用で会社を空けることが多かった。そのしわ寄せが、当然のように俺のデスクへ積み上がっている。 決裁を待つ書類。確認が必要な契約書。各部署から上がってきた報告。 朝からそれらを片っ端から処理しているというのに、頭の中から離れないものがあった。 ――千影と、紗良が双子だった。 書類をめくる手が、わずかに止まる。 星見の丘で聞かされた話。 幼い頃、千影と紗良は二人揃って施設へ預けられていた。 残されていた記録によれば、二人は同じ日に生まれた双子の姉妹。 まだ完全に信じたわけじゃない。 施設に残されていた資料だけでなく、こちらでも改めて調べる必要がある。 俺自身が納得できるだけの証拠を集めるつもりだった。 だがあの野上という職員、わざわざそんな嘘をつく理由があるとも思えない。 おそらく、本当なのだろう。 胸の奥に重たいものが沈んでいく。 星見の丘から帰る車の中。 隣に座っていた千影は、泣いていた。 声を上げるわけでもなく、ただ静かに。 自分でもなぜ涙が出るのかわからないとでもいうように、頬を伝う涙を何度も拭っていた。 その姿が、頭から離れない。 俺はずっと千影を、朝霧美玲の娘として見てきた。 紗良を見殺しにし、俺から家族を奪った女。 その娘として生まれ、何も知らずに幸福を享受してきた人間。 だから憎み傷つけても構わないと思った。 紗良が奪われた苦しみを、少しでも味わえばいいと。 だが――もし。 千影自身もまた、俺と同じだったとしたら。 血を分けた家族を知らぬ間に奪われて。 大人たちの事情に振り回され、自分とは何の関係もないところで人生を歪められていたのだとしたら。 俺は――。 「……くそ」 無意識に漏れた声に気づき、眉間を押さえる。 考えるな今は仕事中だ。 目の前のことに集中しろ。 そう言い聞かせ、再び資料へ目を落とす。 数字を確認し、修正箇所を指摘する。 次の案件へ移り、契約内容を読み込む。 部下から上がってきた企画書にも短時間で目を通し、判断を下していく。 仕事そのものは、いつも通りこなせてしまう。 こんなときばかりは、自分の業
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第六十七話

 星見の丘の前施設長――榊原慧一郎。 彼が、紫苑医科大学附属病院に何度も出入りしていたらしい。 奏人先輩からその話を聞いたあと、私は家へ戻り、玲司の帰りを待っていた。 榊原元施設長と、紫苑医科大学附属病院。 別々だったはずの点が、少しずつ一本の線で繋がり始めているような気がする。 だからこそ、確かめたかったけれど、私一人で病院へ行ったところで、まともに話を聞いてもらえるとは思えなかった。 以前、黒崎看護師長がお母さんを病院から追い出そうとしたときのことを思い出す。 あのとき、玲司が現れた途端に周囲の空気が変わった。 医師も職員も、玲司の言葉を無視できない様子だった。 久我家の力なのか。それとも、玲司自身が病院と何かしら深い繋がりを持っているのか。 私にはわからない。 玲司に頼めば、榊原元施設長が病院で誰と会っていたのか、何のために出入りしていたのかを調べられるかもしれない。 そう考えたところで、不意に胸の奥がじくりと痛んだ。 玲司が、どんな仕事をしているのか。 会社でどんな立場にいるのか。 普段、どんな人間たちと関わり、何を背負って生きているのか。 私はほとんど何も知らない。 曲がりなりにも、私は彼の妻なのに。「……私、何も知らないんだ」 口に出した途端、その事実が急に重みを増した。 だからといって、玲司が私にしてきたことが許されるわけじゃない。 母への憎しみを私にぶつけたことも。 私を侮辱したことも。 妊娠していた私を冷遇して、結果として子どもを失ったことも。 全部許せない。 たぶん、この先も簡単に許すことなんてできない。 だけど――。 それとは別に私は本当に、玲司の妻として彼を見ていただろうか。 妻として家にいて。 求められることをこなして。 玲司が帰ってくれば食事を用意して、隣で笑って。 それで夫婦をやれているつもりになっていなかっただろうか。 玲司が何に悩み、何を怖がっているのか。 どうして時折、あんなにも苦しそうな顔をしていたのか。 私は、一度でもちゃんと知ろうとしただろうか。「……全然、駄目だったな」 ぽつりと声が零れた。 自嘲するように笑おうとして、できなかった。 きっと私たちは、もうやり直せない。 一度壊れ
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第六十八話

「……また、見張っていたの?」 玲司を見据えながら、私は問いかけた。 けれど、玲司はそれには答えなかった。 否定することも、言い訳することもなく、まるで私の言葉など聞こえなかったかのように口を開く。 「何度も言わせるな。あの男と関わるなと、お前は――」 「俺の妻という自覚を持て、って言いたいの?」 先回りして言葉を奪う。 玲司は一瞬だけ眉を寄せたものの、すぐに冷たい表情へ戻った。 「そうだ」 「……どの口が言うの?」 思わず乾いた笑いが零れた。 「自分は夫としての自覚なんて、まったくないくせに」 吐き捨てるように言った、その瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。 私たちは夫婦だ。 少なくとも、戸籍の上では。 なのに私は夫のことを何も知らない。 玲司だって、きっと私のことなど何も知らない。 いつから、こんな関係になってしまったのだろう。 「それは、お前が――」 玲司が何かを言いかける。 「……?」 けれど、その言葉が続くことはなかった。 一瞬だけ、玲司の顔が歪んだからだ。 怒っているようには見えなかった。 むしろ痛みに耐えているような表情だった。 けれど、それもほんの一瞬のこと。 すぐにいつもの無表情へ戻ると、玲司は黙ったまま私を睨みつけてきた。 ……なによ。 まるで、私のほうが悪いことをしたみたいじゃない。 そんな顔をされる理由なんてない。 私がどれだけ傷つけられてきたと思っているの。 香澄とのことだってそうだ。 私たちの子どもを失ったときだって――。 それなのに今さら、妻としての自覚を持てだなんて。 「と、とにかく」 これ以上この話を続けても仕方がない。 私は無理やり話を打ち切った。 「奏人先輩には協力してもらっているだけ。あなたが考えているようなことは何もないわ。 あなたと違って、やましいことなんて何一つない」 わざと棘を込めて言い切った。 玲司の眉がわずかに動く。 それでも、私は目を逸らさなかった。 たとえ私が、妻としての務めをきちんと果たせていなかったとしても。 玲司が望むような妻ではなかったとしても、そこだけは違う。 私は一度だって、この人を裏切るようなことはしなかった。 結婚してから
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第六十九話

「逆に聞くけど」 私は玲司をまっすぐ見返した。 「私が奏人先輩と会わないって約束したら、あなたも香澄とは二度と会わないって誓えるわけ?」 「それとこれとは話が違う」 返事はほとんど間を置かずに返ってきた。 「紫苑医科大学病院のことなら俺が調べてやる。だから、お前はあの男と会う必要はないと言っているんだ」 「……そう」 やっぱり。 予想していた答えだった。 わかっていたはずなのに、胸の奥に小さな棘が刺さったような痛みが走る。 「だったら、調べものはしなくてもいいわ」 「何?」 「大学病院のことも、榊原さんのことも、あなたは調べなくていい。その代わり、私は奏人先輩とはもう会わない」 そこで一度言葉を切る。 「だからあなたも、香澄とはもう会わないで」 「…………」 玲司の眉間に深い皺が刻まれた。 どうせ、そんな約束できるわけがない。 わかっていて突きつけた条件だった。 「……なんだと?」 低い声が落ちる。 けれど、それ以上の言葉は続かなかった。 玲司は黙り込み、鋭い目で私を睨みつけている。 そんな態度に、呆れが込み上げた。 「相手に何かを要求するなら、自分も同じ条件を受け入れなさいよ」 「……」 「私には奏人先輩に会うな。でも、自分は香澄に会う。そんな都合のいい話が通ると思ってるの?」 「香澄とあの男は――」 「違わないわ」 言い訳を遮る。 「少なくとも、私にとっては同じよ」 玲司が息を呑んだ。 「自分のことは棚に上げて私にだけ要求するなんて勝手すぎるわ」 「……千景」 「それができないなら、余計な口を出さないで」 吐き捨てるように言って、玲司に背を向ける。 これ以上話していても無駄だ。 そう思い、リビングを出ようとした。 「待て」 背中に玲司の声が飛んでくる。 私は足を止めた。 「……なによ」 振り返らないまま答える。 「榊原が紫苑医科大学病院に何をしに行っていたのか、俺が調べる」 「だから、それなら奏人先輩に会わないっていう話は――」 「もういい」 「……え?」 思わず振り返った。 玲司は不機嫌そうに眉を寄せたまま、私を見ていた。 「成瀬奏人に会うなとは言わない」 「……どういうつもり?」 ついさっきまで、あれほど会う
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第七十話

玲司が家を出ていってから、数時間が経っていた。 窓の外はすっかり暗くなっている。 私はリビングのソファに腰掛けながら、スマートフォンを耳に当てていた。 『――それで、もうひとつわかったことがある』 電話の向こうから聞こえてくる奏人先輩の声に、自然と背筋が伸びる。 「何ですか?」 『白峰紗良が事故に遭った日のことだ』 「……紗良さんが?」 胸の奥が僅かにざわついた。 『白峰紗良はバス停付近で事故に巻き込まれている。そのとき暴走したバスが歩道へ乗り上げて、バス停に突っ込んだ』 その事故によって紗良さんは重傷を負い、紫苑医科大学附属病院へ搬送された。 そこで、奏人先輩はそこで一度言葉を切った。 『そのバスを運転していた人間がわかった』 「誰なんですか?」 『黒崎浩介』 「……黒崎?」 聞き覚えのある名字に、思わず聞き返す。 『そうだ』 奏人先輩の声が僅かに低くなった。 『黒崎看護師長の夫――黒崎文隆。その実の父親だ』 「……え?」 言葉が出なかった。 黒崎文隆。自殺する当日、祖父の会社――朝霧ファーマトレードを訪れていた男。 その父親が。 「紗良さんを……事故に遭わせた人?」 『結果だけ見ればそうなる。ただ、この事故は少し複雑なんだ』 「複雑って……?」 『当時、黒崎浩介が勤めていたバス会社では、かなり無茶な勤務が常態化していたらしい』 私は黙って先を待つ。 『連続勤務に、短すぎる休息時間。運転手が体調不良を訴えても、簡単には休ませてもらえなかったという証言も残っている』 「そんな……」 『そして黒崎浩介には心臓の持病があった』 「心臓……?」 『事故当日、運転中に急性の心臓発作を起こした可能性が高いと判断されている』 私は無意識にスマートフォンを握る手に力を込めた。 『意識を失った黒崎はそのまま車両を制御できなくなった。バスは車道を逸れて、バス停へ突っ込んだ』 「……乗客は?」 『いなかった。営業所へ戻る途中の回送車だったらしい』 「じゃあ……」 『被害に遭ったのは、バス停にいた人間だけだ』 その中に。 紗良さんがいた。 そして――。 「……私も、そこにいたんですよね」 『ああ』 奏人先輩の返事は短かった。 二人が同じ場所にいて、同じ事故に
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