娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い のすべてのチャプター: チャプター 111 - チャプター 120

144 チャプター

全容、亡き母が見た闇

 湯呑みの立てた音の余韻が消えぬうちに、重蔵は目を閉じた。 長い息を吐き出す。今まで一度も見せたことのない、老いた男の素顔がそこにあった。俺は問い詰める言葉を飲み込み、ただ待った。三十年待った答えだ。あと数秒待つくらい、どうということもない。「……どうやら儂の負けのようだな」 掠れた声だった。「お前の母親が京都支社の帳簿を調べ始めたのは、もう三十年も前のことだ。白鷺の融資記録、黒川商会が動かす裏金——あの女は、ありとあらゆる不正の糸を一本残らず辿ってしまった」 重蔵は視線を庭へ向けたまま、続けた。「その糸の先にあったのが、本家の帳簿そのものだと気づいた時、あの女は本気で評議会に報告するつもりだった。三十年かけて儂が積み上げてきた地位も財産も、全部あの女一人の報告書一枚で灰になるところだった。財務チームが洗い出したという二百十億——あれは、ほんの入り口に過ぎん」 数字の大きさに、俺は奥歯を噛んだ。母が命を賭してまで暴こうとしたものの正体が、ようやく像を結んでいく。 子供の頃、京都支社から遅くまで戻らなかった母の背中を思い出す。あの背中は、この老人一人のために削られ続けていたのか……「だから、母の命を奪ったのか」 重蔵はゆっくりと頷いた。「白鷺の副頭取に融資の便宜を図ってやる代わりに、黒川に汚れ仕事を頼んだ。あの雨の晩、崖道でのことは……お前も既に映像で見ているだろう?」 淡々とした声だった。三十年前、一人の女の命を奪った男の声とは思えないほど、平静そのものだ。 積み上げてきた証拠の数々と、あの復元映像——崖に佇む重蔵の姿と車体の下で手を動かす清掃屋。すべての断片が、今ここで一本の線に繋がっていく。「なぜ、樹を絵里香に近づけた」 俺は問いを重ねた。母を消しただけでは、説明のつかないことがまだ残っている。「死んだ女の忘れ形見が、まだどこかで生きている——儂はそれが気掛かりでな。お前がこの街のどこに潜んでいるかまでは掴めなかったが、いずれ動き出すなら、金の匂いのする場所に必ず現れると踏んだ。黒川の駒を絵里香とかいう女の会社に潜り込ませておいたのも、その網の一つに過ぎん」「俺を待ち構えていた、ということか」「待っていたわけではない。網を張っていただけだ。かかったのがお前の元妻だったのは、儂にとっても些か出来すぎた偶然だったがな」 薄ら笑
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牙を折る音、最後の意地

 湯呑みを置いた音の余韻が消えぬうちに、懐のスマートフォンが着信を告げた。 画面に浮かんだ「楢崎」の三文字に、俺は直ぐに応答ボタンを押す。「——どうした」 返ってきたのは数十年、重蔵の影として汚れ仕事を担ってきた男の、これまで一度も聞いたことのない上ずった声だった。「隼人様。重蔵様は……今夜、儂を含めた身の回りの人間すべてを切り捨てるおつもりです。儂も、いずれ他の者と同じ末路をたどるだけかと」 茶室の空気は止まったままだ。目の前の重蔵は湯呑みを畳に置いたきり、こちらを見据えている。庭の池が雨上がりの闇を映し、灯りの輪だけが二人の間に淡く伸びていた。俺は端末を耳に押し当てたまま、老人から視線を外さなかった。「用件を言え」「数刻前、重蔵様が最後の指示を出されました。京都支社の会計監査原本と、お母上の貸金庫の写しを保管する法務部のデータセンター——そこへ外部から侵入させるつもりです。重蔵様と契約を交わした男が既に動いております」 その一言で点と点が繋がった。 評議会の廊下で一瞬だけ見えたあの人影。調査資料のどこにも名の挙がらなかった、その男こそ、重蔵が三十年間、一度も切らずに温存してきた最後の一枚——今、データセンターへ向かっているという仕掛け人の正体だ。「発動の合図は、もう送られているはずです」 俺は楢崎との通話を保留にしたまま、もう一方の手で法務部の警備責任者へ短い指示を打ち込んだ。『データセンターに侵入者一名。第三層の囮バックアップへ誘導。絶対に逃がすな』 指先だけを動かし、表情も視線も重蔵から外さない。手の内を、この場で悟らせてやる理由はなかった。 後で知ったことだが、そのころ侵入者は偽造した正規IDカードを使い、警備員の目を盗んで最深部のサーバー室へ辿り着いていたという。手にした端末を差し込み、消去プログラムを走らせようとした瞬間——床のパネルが轟音と共に跳ね上がり、待ち伏せていた警備班が四方から取り押さえた。抵抗する暇すら与えられなかったそうだ。 膝の上の端末が短く光り、法務部からの報告が文字になって浮かぶ。「侵入者確保。データは無傷です」 文面を一瞥し、俺は端末をしまうと、重蔵と正面から向き合った。「たった今、あんたがデータセンターに送り込んだ仕掛け人を確保した。母の貸金庫の写し、そして帳簿の原本には指一本触れさせていな
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断罪の刻、四つの影

 京都地方裁判所、傍聴人用の控室。窓の外に押し寄せた報道陣の数だけで、今日という日の重みが分かった。カメラの放列と、開廷を待つ人だかりの熱気が、分厚いガラス越しにも伝わってくる。 隣に座る凜がタブレットの画面をこちらへ向ける。「兄さん、三件の判決公判、開廷時刻が出揃いました。黒川、樹、白鷺銀行前副頭取——奇しくも今日、この裁判所の別々の法廷で、同時進行します」「重蔵の勾留質問と寸分違わず同じ日か」 三十年かけて張り巡らされてきた腐敗が、たった一日ですべて表に引きずり出される。母がこの日を見たら、何と言っただろうか。そんな益体もない想像が頭の隅をよぎった。「開廷まで、あと十分です」 凜の声に頷き、俺は控室を出た。               *** 一〇二号法廷。 被告人席に座る黒川龍臣は頬がこけ、かつての恰幅の良さは見る影もない。裏社会の頂点に君臨していた男の面影は、もはやどこにもなかった。「主文、被告人を懲役十八年に処する」 裁判長の声が響いた瞬間、傍聴席がどよめいた。詐欺、組織的資金洗浄、そして殺人教唆——検察が積み上げてきた証拠のすべてが、そのまま量刑に反映された結果だった。「所詮、駒の一つに過ぎない」 かつて尋問室で繰り返していたはずのその言葉を、黒川はもう口にしなかった。項垂れたまま、両脇の刑務官に腕を取られ、法廷を後にしていく。地元商工会長として築き上げた表の顔も、裏社会の頂点に君臨した顔も、今この瞬間、まとめて剥がれ落ちた。傍聴席の記者たちが、一斉にペンを走らせる音だけが法廷に残った。               *** 一〇五号法廷。 宝生樹は傍聴席の一角に座る一人の女性から、視線を逸らし続けていた。三年前、彼が食い潰したアパレルブランドの元経営者だった。「被告人を懲役十二年に処する。あわせて、被害者らへの損害賠償を命じる」 判決を聞いた樹の唇が震える。かつて取調室で「取引したい」と持ちかけてきた男に、もう切れるカードは一枚も残されていなかった。 四人の被害者のうち、証言に立った最後の一人は、法廷を出る際にこう漏らしたという。「あの人が誰かを踏み台にできる時代は、もう終わったんですね」 連行される間際、樹は傍聴席へ視線を投げたが、女性は目を伏せるだけで何も言わなかった。彼女の中の決着はついていたからだ。  
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全容公表、そして新たな影

 一条グループ本社ビル、大会見場。 朝から詰めかけた報道陣は、これまで俺が経験してきたどの会見よりも数が多かった。テレビカメラの放列、フラッシュの絶え間ない明滅——この一夜で、日本中の目がこの壇上に注がれることになる。 隣に立つ凜の横顔に緊張の色はない。数か月前、たった一枚の証拠で本家の重鎮たちから追い詰められていた女とは思えないほど、その背筋はまっすぐに伸びていた。「一条グループ会長、一条隼人と申します」 マイクの前に立ち、俺は一礼した。フラッシュの光が一斉に弾ける。「本日は、当グループの内部で長年にわたり隠蔽されてきた不正の全容、そして今後の新体制について、包み隠さずご報告いたします」 俺は淡々と語り始めた。 京都支社の帳簿を追い続けた母の死が単なる事故ではなく、白鷺銀行・黒川商会、そして一条本家の重鎮であった一条重蔵による殺人教唆の結果であったこと。数十年にわたる資金洗浄の構造、そして、重蔵自身が三十年かけて本家の資産を私的に抜き取ってきた事実—— 用意してきた資料を一枚ずつ画面に映しながら、俺は言葉を選ばず、すべてを晒した。 会見場がどよめく。地域経済の名門として持て囃されてきた一族の裏側が、これほどまでに腐り果てていたという事実に、記者たちの手元のペンが止まらなくなっていく。「関係者はすべて、法の裁きを受けました。黒川龍臣、宝生樹、白鷺銀行前副頭取に実刑判決、そして重蔵の身柄は正式に検察の管理下にあります」 淡々と告げた一言に、会場の空気がわずかに緩んだ。糾弾すべき相手がすでに裁かれていると知り、記者たちの視線から刃が抜けていくのが分かった。 質疑応答の時間になり、前方の記者が手を挙げた。「一条会長。ご自身の家族が加害者側にいたという事実を、なぜここまで包み隠さず公表されたのですか」「隠して守れるものなど、どこにもないからです。膿を出し切らなければ、次の代の結衣に同じ闇を背負わせることになる」 その一言に、会場のざわめきが一段と落ち着いた。糾弾の空気だったはずの場が、いつの間にか、静かな敬意へと変わっていくのを俺は肌で感じ取った。「そして、新体制について」 俺は隣に立つ凜へ視線を送った。「これまで代理責任者として一条地方支社を支え続けてきた一条凜を、本日をもって副会長に任命します。今後、彼女は名実ともに、一条グループの
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招かれざる客、田舎の分家

 評議会からの招待状は、あの日以来、書斎の引き出しに入れたままだった。『三日後、指定の場所へ出頭されたし』 差出人も所在も定かでない紙切れ一枚に、俺の予定を書き換えさせる道理はない。結衣の誕生日を最優先にすると決めた日から、もう何を差し出されても揺らぐつもりはなかった。 ひと月が経った、土曜の昼下がり。 ペントハウスのリビングには、色とりどりの風船と、結衣が自分で選んだという苺の飾りがついたケーキが並んでいた。「パパ、見て! 凜お姉ちゃんと一緒に作ったの!」 エプロン姿の結衣が得意げに生クリームで飾られたケーキを指差す。傍らに立つ凜も、珍しく髪に小麦粉をつけたまま笑っていた。テーブルの上には、結衣が選んだという星形のろうそくが七本、行儀よく並んでいる。「上出来だ。世界で一番のケーキ屋だな」 結衣の頭を撫でながら、俺は改めて思う。評議会だの、紋章だの——書斎の引き出しの奥に眠らせたままの一件よりも、この些細な日曜日の方が、俺にとってはよほど重要だ。 そう思った矢先、玄関のインターホンが電子音を鳴らした。来客の予定はなかったはずだ。しかも警備室からの取り次ぎもなく、直接この階まで通されている。俺は違和感を覚えた。 扉の向こうに立っていたのは、黒のスーツに身を包んだ、見知らぬ白髪の男だった。年齢の見当がつかないほど姿勢が整い、値踏みするような灰色の瞳だけが、やけに若々しく光っている。「私はエドモンドと言います。評議会の使者です」 招かれてもいない男は、玄関先で脱いだ革靴を揃えることもせず、断りもなくリビングへ足を踏み入れた。結衣が朝から磨き上げた床の上を無遠慮な足取りで進んでいく。風船とケーキを一瞥し、口の端をわずかに歪めた。「これは驚いた。仮にも一族の当主を名乗る者の住まいが、田舎の子供会のような有様とはな」「用件を言え」 俺は結衣を背に庇うように、一歩前へ出た。エドモンドは意に介した様子もなく、革張りの手帳を開く。「三日で出頭せよという書状を一月も放置するとは。分家の若造にしては、いい度胸だ」「俺には俺の優先順位がある。子供の誕生日を差し置いてまで、名前も知らない相手に頭を下げる理由はない」「その物言いこそが、本家の血に相応しくないという証だ」 エドモンドの視線が、俺の背後に隠れる結衣へと滑る。「その娘が後継者だそうだな」 
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所詮、拾われただけの女

 結衣の誕生日会から二日後の朝。京都支社の役員フロアは、週明けの定例会議を前にして、電話の呼び出し音と足早な靴音で満ちていた。 重蔵の一件で空席だらけになった役員室も、今は凜が選んだ新しい顔ぶれで埋まっている。三十年分の膿を出し切った支社は、ようやく自分の足で歩き始めたところだった。「兄さん、今期の再建計画です。赤字部門の整理は予定より二か月前倒しで進んでいます」 凜が差し出したファイルの端には、結衣が貼った小さな苺のシールがついていた。ケーキの脇にカードを叩きつけられた一件を、この支社の人間は誰も知らない。 知らせるつもりもなかった。その時までは…… 会議が始まる五分前に、受付から内線が入った。『会長、お約束のないお客様が、すでにエレベーターに……。警備が止めようとしたのですが、本社発行の入館許可証をお持ちで——』 報告が終わる前に、会議室の扉が開いた。 白髪に黒のスーツ、灰色の瞳—— エドモンドは随員を二人従え、居並ぶ役員たちには目もくれずに、円卓を回り込んで俺の正面に立った。「定例会議には間に合ったようだな」「誰の許可でここに入った」「許可?」 エドモンドは鼻で笑った。「一条の名を冠する建物に評議会の者が許可を取る必要などない。分家では、そんなことも教わらんのか」 円卓にざわめきが広がる。若い役員の一人が、助けを求めるように凜を見た。 凜が一歩前に出る。「副会長の一条凜です。ここは経営会議の場です。ご用件でしたら、正式な手続きを通して——」「黙れ」 エドモンドは一言で遮ると、灰色の瞳で凜を頭から爪先まで眺め回した。「身寄りのない孤児を一条の家が情けで屋敷に置いた。評議会の記録には、お前のことがそう書かれている」 ファイルを持つ凜の指先から、血の気が引いていく。「それが副会長とはな。血も家名も持たない者が、評議会の者と対等に口を利けると思うな。——所詮、拾われただけの女だ」 会議室が静まり返った。 役員たちは凜から目を逸らし、誰も口を開かない。 この沈黙が凜にとって何を意味するのか、俺は知っている。円卓で誰にもかばってもらえなかった日のこと。鎖に繋がれた地下室で、自分は本当に家族なのかと問い続けた夜のこと。 俺は椅子から立ち上がった。「エドモンド。今の言葉は、ここにいる全員が聞いた。議事録にも残る。撤回する
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頭を下げる練習は要らない

 エドモンドが去った会議室には、ロンドン駐在の財務責任者の悲鳴の余韻だけが残っていた。 誰も席を立たない。円卓の上には召喚状と、剥がれ落ちた赤い蝋の欠片が散っている。「……会長」 最初に口を開いたのは、財務担当の大垣常務だった。重蔵の時代から支社に残った数少ない古参で、凜が再建計画の数字を任せている男だ。「欧州の口座が凍結されたら、来月の決済に穴が開きます。現地法人の給与、取引先への支払い、それから——」「落ち着け」「落ち着けと言われましても!」 大垣の声が裏返った。「評議会というのが何者かは存じません。ですが、一晩で欧州の銀行を一斉に動かせる相手です。ここは一度、先方の要求を——」「頭を下げろとでも言うつもりか」 大垣は言葉に詰まり、それから凜の方をちらりと見た。「せめて、凜様の副会長の就任だけでも一時保留にするという形で……。先方の心証もありますし……」 円卓の空気が張り詰めた。何人かの役員が同じことを考えていたと言いたげに目を伏せる。 凜は表情を変えなかった。ファイルを閉じ、大垣に向き直る。「大垣常務、ご心配はもっともです。ですが、私が椅子を降りて凍結が解けるなら、それは交渉ではなく、脅しに屈したという前例になります。一度屈した組織は、次も同じ手で揺さぶられます」「しかし……」「それに」 凜は俺を見た。「会長を見て下さい。慌てた様子は微塵もありません」 十人以上の視線が、一斉に俺へ集まった。 俺はスマートフォンを取り出し、ロンドンの財務責任者へかけ直した。スピーカーに切り替え、円卓の中央に置く。「俺だ。凍結された口座だが、その残高を今ここで読み上げてくれ」『は、はい……ロンドン、パリ、チューリッヒの主要三口座で、合計……』 受話口の向こうで、紙をめくる音が止まった。『……三百四十万円、です。会長、これは……?』「既に一か月前に欧州の資金は国内と北米の口座へ移してある。残っているのは、口座を維持するための最低限の額だけだ」 会議室がどよめいた。大垣が口を開けたまま固まっている。「一か月前……? なぜ、そんな時期に……」「あの男が名乗った評議会から、最初の書状が届いたのが一か月前だ。重蔵の件を公表した会見の直後、俺の名前だけを宛名にした招待状が届いている」 円卓がざわめいた。役員の何人かが、初めて聞く話に
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値踏みする目

 午前六時ちょうど。 ペントハウスの車寄せに黒いセダンが一台滑り込んできた。車体のどこにも社名や紋章はない。運転席の男は降りてこず、後部座席のドアだけが内側から開いた。「おはようございます。時間どおりですね」 座席の奥にいたのは、三十手前に見える男だった。細いフレームの眼鏡に皺ひとつない紺のスーツ。膝の上にタブレットが一台載っている。「評議会分析官、梶谷玲司です。本日の移動に同行します」 名乗りながらも、梶谷は俺を見ていなかった。見ていたのは、俺の後ろに立つ凜だ。顔、手元の鞄、靴、それからもう一度顔。棚に並んだ品物の値札を確かめる目つきだった。「一条凜さん。あなたの審査担当も兼ねています。以後、よろしく」 凜が一礼して乗り込み、俺も続いた。ドアが閉まると、窓ガラスに遮光膜が下りて外の景色が消えた。「行き先は?」「到着すれば分かります。それと、お二人の携帯端末をお預かりします」 梶谷が差し出したのは、内側に金属の網が張られた小箱だった。「断ったら?」「構いません。その場合、一条隼人さんは召喚に応じなかったものとして記録されます」 一条隼人さん……。会長とも当主とも呼ばない。評議会の中で俺がどう扱われているのか、その呼び方ひとつで十分に伝わってきた。 俺は端末を箱に落とした。凜もそれに続く。連絡が途絶えた場合の手順は、昨夜のうちに大垣と楢崎へ渡してある。ここで揉めても得るものはないし、最初の一手で手の内を見せる理由もなかった。 車が動き出す。梶谷はタブレットを開き、凜に向き直った。「移動時間を無駄にしたくないので始めます。副会長就任の妥当性について、確認事項が三つあります」「審査は本拠地で行うのでは?」「一条凜さんの審査はもう始まっています」 梶谷が画面を指で送る。「第一に、学歴。経営に関する専門教育の記録なし。第二に、職歴。一条の屋敷で養育され、その後、支社の代理責任者に抜擢。第三に、実績」 指が止まった。「評議会の記録上、あなたの実績はゼロです」 凜の眉がわずかに動く。「ハイランド・キャピタルとの交渉は——」「記録では交渉を主導したのは本家法務部です。あなたの名前は同席者として載っているだけです」「それは事実と異なります」「事実かどうかは問題ありません。記録にないものは存在しない。それが評議会の原則です」 梶
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十三の椅子

 機体が高度を下げ始めたのは、離陸してから十時間以上が過ぎた頃だった。 腕時計だけは取り上げられなかった。針は日本時間の夕方を指している。窓の下には、雪をかぶった山並みと、その谷間を埋める深い森が広がっていた。日本の山ではない。 滑走路は森を切り開いた一本きりで、管制塔も見当たらない。タラップを降りると、冷えた空気が肺に刺さった。 迎えの車で三十分ほど山道を登った先に、それはあった。 石造りの館だった。いや、館と呼ぶには大きすぎる。灰色の石壁が崖に沿って連なり、尖塔がいくつも霧の中に突き出している。正門の鉄扉には、剣を咥えた獅子と十三の星が打ち出されていた。「評議会の本拠地へようこそ」 梶谷が事務的に告げた。「一条凜さんは、こちらへ」 別の係員が凜の鞄を受け取り、左手の回廊を示した。凜は一度だけ俺を振り返り、小さく頷いてから歩き出した。背筋はまっすぐだった。 俺は本館の奥へ通された。部屋で荷を解く暇もなく、係員が扉を叩く。「十三家の方々が大広間でお待ちです。顔合わせの席になります」               * 大広間は聖堂ほどの天井の高さがあった。 中央に黒檀の長卓が置かれ、その周りに十三の椅子が並んでいる。背もたれには、それぞれ違う家紋が彫られていた。椅子はほとんど埋まっていて、国籍も年齢もばらばらの男女が一斉にこちらを見た。 長卓の端に凜が立っていた。別棟から連れてこられたのだろう。目が合うと、凜は目だけで無事を伝えてきた。「これが噂の……日本の分家の坊やか」 最初に声を上げたのは、赤ら顔の太った男だった。ワイングラスを揺らしながら、周りに聞こえるように笑う。「見たぞ、あの記者会見。一族の人殺しを自分から国中に晒してみせた」「身内の恥を、カメラの前で得意げに」 扇子を手にした銀髪の婦人が、口元を隠して続けた。「この評議会の家々は、三百年、どんな醜聞も内々で片づけてきました。外に漏らした家など、ひとつもありませんわ。それを、就任したばかりの若造が」「内紛を世間に晒した恥知らず、というわけだ」 赤ら顔の男がグラスを掲げると、あちこちから失笑が漏れた。長卓の奥では、エドモンドが腕を組み、薄く笑いながらこちらを眺めている。 凜の指先が、スカートの脇でわずかに握られた。 俺は長卓の前まで進み、足を止めた。「一つ聞きた
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預かりの宣告

 翌朝九時。 聴聞の間は、昨夜の大広間よりひと回り狭く、窓がひとつもなかった。壁は石が剥き出しのままで、天井から吊られた鉄の燭台が長卓の上に黄色い光を落としている。 十三の椅子は半円に並べ替えられていた。その内側に木の椅子が一脚だけ置かれている。俺の席だ。十二家の視線を正面から受ける位置だった。 半円の端、一条の家紋が彫られた席は今日も空いていた。卓上には、昨夜と同じ真鍮の名札。『一条家代表 一条重蔵』。誰も片づけようとしない。片づけないこと自体が、評議会の答えなのだろう。 凜は壁際の傍聴席に座らされていた。俺との間には係員が二人立っている。目が合うと、凜は手帳の表紙に指を一本置いてみせた。結衣のシールがある場所だ。大丈夫、という合図だった。 長卓の脇には書記席がある。そこに梶谷がいた。タブレットを開いたまま、顔を上げずにいる。 議長が杖で床を打った。「これより、一条隼人の当主資格に関する聴聞を開く。審問官、始めよ」 エドモンドが立ち上がった。手にした革の書類挟みを、わざとゆっくり開く。「評議会の皆様。本日お諮りするのは、ただひとつ。この男に、一条という名を預けておいてよいか、どうかです」 灰色の瞳が俺を見下ろした。「資質の欠如を順に申し上げます」「第一に、この男は評議会の承認を受けずに当主を名乗った。三百年続く継承の手続きを知らなかったでは済まされません」 十二家の何人かが頷く。「第二に、評議会の一員である一条重蔵を評議会に諮ることなく裁判にかけ、牢へ送った」 エドモンドは空席の名札を指差した。「三十年この席を守ってきた者を分家の若造が独断で引きずり下ろした。評議会への明白な越権です」「第三に、一族の内紛を記者会見で世間に晒した。昨夜の席で皆様もご覧になったとおりです」 赤ら顔の男が鼻で笑った。昨夜、グラスを掲げていた男だ。「第四に」 エドモンドの声が一段低くなった。「この男は数年間、身分を隠し、無職の男として暮らしていた。その間に妻を他の男に奪われ、家庭ひとつ守れなかった」 聴聞の間に、はっきりとした失笑が広がった。銀髪の婦人が扇子の陰で笑っている。「妻ひとつ繋ぎとめられない男に、一族を束ねられるとお思いですか」 俺は表情を動かさなかった。絵里香のことを、ここで持ち出してくるとは思っていた。調べれば出てくる話だ。
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