All Chapters of 娘より間男を選んだ妻へ、無職の俺が一条財閥の後継者だと知っても、もう遅い: Chapter 91 - Chapter 100

100 Chapters

利用されただけの寵愛

 一条本社ビル、地下の保護施設。 黒幕の名を口にしかけて凍りついた樹は、あの一言以来、貝のように口を閉ざし続けていた。恐怖に支配された男から無理に言葉を引き出そうとすれば、かえって沈黙を固くするだけだ。俺はひとまず矛先を変えることにした。「絵里香のいる部屋へ行って、樹の取り調べ音声を聞かせてやれ。俺はモニター室から繋ぐ」 俺の指示を聞き、凜が険しい表情のまま頷いた。「兄さん、本当にあの女に聞かせるんですか。あれを聞いて壊れない人間はいないと思いますが」「壊れてもらわなければ困る。樹に守られる価値など、あの女には最初からない——それを自分の耳で理解させてやる」 結衣の誕生日を平気で踏みにじったあの女に、これ以上の温情をかける理由はどこにもない。俺はモニター室へ足を向けた。 隔離房のモニター越しに絵里香の姿が映し出される。壁にもたれ、焦点の合わない目で虚空を見つめていた。かつて祝賀パーティーのステージで人々の視線を独占していた女の面影は、もうどこにもない。「絵里香、お前に聞かせたいものがある」 俺の声に絵里香がのろのろと顔を上げた。「……何よ。今さら私を笑いに来たの」「笑いに来たわけじゃない。お前が今も信じているものを壊しに来ただけだ」 凜がタブレットを操作し、取り調べの録音を再生する。感情の抜け落ちた樹の声が、狭い房に響き渡った。『絵里香? ああ、五人目の駒だよ。金づるが太かったから、少し長く飼っただけだ』「……嘘よ」 絵里香の唇が震えた。「こんなの切り貼りした音声に決まってる。樹くんは私だけを本当に愛してくれてた……!」「それなら、これも切り貼りだと言うのか」 凜がタブレットの画面を切り替える。四人の女性の顔写真が並んだ。アパレル、美容クリニック、飲食チェーン、輸入雑貨——いずれも野心的な女性経営者だ。積み上げてきた経歴、そして成り上がろうとした野心の形が絵里香自身と恐ろしいほど重なり合っている。「過去七年間、樹はまったく同じ手口で、まったく同じ立場の女を渡り歩いてきた。お前はその五人目に過ぎない。特別でもなんでもない、ただの獲物だ」 絵里香の顔から表情が抜け落ちていく。震える指先が写真の一枚——自分と瓜二つの経歴を持つ女の顔に触れた。「私は……特別だって……頂点に立てる女だって、そう言ってくれた……」「あいつが興味を持
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戻れない場所への懇願

 一条本社ビル、地下の保護施設。面談室。 資産凍結手続きの最終確認——そのためだけに俺はここへ足を運んだ。用件はそれだけのはずだった。 扉が開いた瞬間、椅子に座らされていた絵里香が弾かれたように顔を上げる。かつて人前で見せていた完璧な化粧や隙のない身なりは、今の彼女には見る影もない。頬はこけ、髪は乱れ、数日前までビジネスクイーンと持てはやされていた面影は、どこにも残っていなかった。「隼人さん……!」 絵里香は椅子から崩れ落ちるように床に膝をつき、そのまま俺の足元へ縋りついてきた。「お願い、聞いて。私、間違ってた。全部あなたの言う通りだった。……もう一度、やり直させて。家族に戻して」 床に額を擦りつけんばかりの姿勢で絵里香は涙声を張り上げた。俺は表情を変えないまま、書類の束を机に置く。 同席していた凜が、冷ややかな一瞥を絵里香に向けた。「兄さん、彼女は反省や後悔はしていません。頼れる資産をすべて失った今、残された最後の担保として、兄さんに乗り換えようとしているだけです」 凜の指摘に絵里香の肩がびくりと震える。図星を突かれた反応だ。「そんな……違う、私は本当に……」「違わない」 俺は言葉を挟んだ。「お前が今すがっているのは俺じゃない。俺の肩書きと俺の財産だ。今までと、何一つ変わっていない」 絵里香は俺の手を両手で掴もうと腕を伸ばしてきたが、俺はその手が触れる前に一歩下がり、机の陰へ引いた。彼女の指先が虚しく宙を掻く。「違う……信じて。私、あなたの隣にいた頃が一番幸せだったの。あの時に戻りたいだけなのよ」 白々しい言葉が俺の耳を素通りしていく。 数年前、俺が無職の主夫だった時分、彼女はその俺を蔑み、罵り続けていた。生活費すら渡さず、結衣の前でさえ「甲斐性なし」と嘲笑っていた口が、今さら、どの面下げて幸せだったと語るのか。 俺が黙って見返すだけで答えないでいると、絵里香は表情を変え、別の切り口を試みてきた。「……聞いて。結衣のためよ。あの子にはやっぱり、ちゃんとした両親が必要でしょう? 結衣のためを思うなら、私たち、もう一度家族としてやり直すべきじゃない?」 絵里香は縋る腕に力を込め、必死に論点をすり替えようとする。これまで散々踏みにじってきた娘の名前を、今になって己の延命の道具に使う——その浅ましさに、俺の中で何かが冷たく凝固して
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本当に裏切ったもの

 一条本社ビル、地下の保護施設。面談室。 これ以上、ここに留まる理由はない。書類を残し、俺は踵を返した。だがその背に、絵里香の声が縋りつくように飛んできた。「待って……! 待ってよ、隼人さん」 俺は扉の前で足を止めた。振り返ると、床にへたり込んだ絵里香が涙と鼻水で汚れた顔のまま、こちらを睨むように見上げている。「あなたが、最初から一条家の後継者だって言ってくれていたら、私は裏切らなかった。あなたが全部隠してたから、こんなことになったのよ」「何だと」「そうよ。無職の主夫のふりなんてしてなければ、私が樹くんに惹かれることもなかった。全部、あなたが最初から正体を隠していたのが悪いのよ」 自分の罪の重さを最後の最後で他人に押し付ける。これまで積み上げてきた身勝手さの、これが集大成だった。壁際で聞いていた凜が、あまりの言い草に絶句し、思わず声を漏らす。「これを本気で言っているとしたら、末期ですね」 凜の呟きが耳に届いているはずなのに、絵里香はなおも俺だけを見据え、必死に言葉を継いだ。「そうでしょう? 最初から言ってくれれば、私だって、あなたを選んでいたはずなのに」 俺の中で、これまで意識して抑え込んできた何かが輪郭を露わにする。数年分の記憶が一気に喉元までせり上がってきた。「後継者、か」 低く漏らした声に絵里香がびくりと肩を震わせた。俺はゆっくりと絵里香の前まで戻り、膝を折って視線の高さを合わせる。至近距離で見る彼女の目には、もう反論を組み立てる余裕すら残っていなかった。「お前が裏切ったのは、俺という一条家の後継者じゃない」「えっ?」「苦しい時期を一緒に過ごした夫と、お前の帰りを待っていた娘だ。お前が結衣の誕生日に何をしたかは、一生消えない傷として残る」 絵里香の顔から抗弁の言葉が消えていく。「五歳の結衣が、お前のために描いた似顔絵を胸に抱いて待っていた夜を覚えているか? 生クリームのケーキが、ひび割れて乾いていくのを俺は一人で見ていたんだ」「や……やめて」「お前は電話の向こうで笑っていたな。『子供の誕生日なんて毎年ある』と。あの日、俺は何度も自分に言い聞かせたよ。お前は不器用なだけで、家族への愛情は残っているはずだと。だが、お前が本当に選ぶべきだったものが何なのか——今さら思い出したところで、もう遅い」 絵里香の口から、言葉にならな
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閉ざされた面会室

 一条本社ビル、地下の保護施設。面会室前の廊下。 絵里香が完全に崩れ落ちたのを見届けたあの時、凜は少し前、俺への目配せで、面談室を後にしていた。 今日、結衣は俺に会うため上階で待っていたはずだ。凜はその足で結衣のもとへ向かい、次の一手を確かめていた。母親に会いたいかどうか、幼い本人の意思を—— 面談室を出た俺の前に凜が結衣の手を引いて立っていた。結衣は少し緊張した面持ちで、俺の姿を見つけると小さく駆け寄ってくる。「兄さん、結衣ちゃん本人に確認は取りました。……『会ってみたい』と、自分から言い出しました」 絵里香を許す気は、欠片ほども残っていない。だが、母親に会うかどうかを結衣自身に選ばせもせず、俺の判断だけで一方的に断ち切ってしまえば、いつかこの子は「本当は会いたかったのに」と、未練を抱え続けることになりかねない。結衣自身の目であの女の本性を確かめさせておく——それが、この先ずっとあの女の影に振り回されないための一番確実な免疫になる。 凜の言葉に頷き、俺は結衣の前にしゃがみ込んだ。「怖くなったら、いつでもやめていい。パパがすぐ隣にいるからな」 結衣は小さく頷き、俺の手をぎゅっと握り返してきた。その小さな手のひらの温もりだけが、この施設の中で唯一まともな感覚だった。 面会室は分厚い透明なガラスで二つに仕切られている。連行された絵里香が、向こう側の椅子に座らされていた。ガラス越しにこちらを見た瞬間、絵里香の表情が驚愕から歓喜へと一変する。「結衣……! 結衣、来てくれたのね……!」 絵里香が椅子を跳ね除けるように立ち上がり、ガラスに駆け寄った。だがその勢いに、結衣の身体がびくりと竦む。 小さな指が俺のスラックスの生地をきつく握りしめた。結衣はガラスの向こうの女を、探るような目でじっと見つめる。数秒の沈黙の後、結衣はゆっくりと顔を背け、俺の脚の後ろに隠れるように身体を寄せた。「……ママじゃない。知らない人」 か細いが、はっきりとした声だった。 その一言に、絵里香の顔から表情がごっそりと抜け落ちる。「な……何言ってるの、結衣。ママよ、ママでしょう……!」 絵里香はガラスに両手を叩きつけた。乾いた音が面会室に何度も響き渡る。「結衣、こっちを見て! お願い、ママを見て……!」 結衣は顔を背けたまま、俺の脚から離れようとしなかった。 ガラス
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最後の司法取引

 一条本社ビル、地下三階の尋問室。 窓一つない灰色の壁に蛍光灯の白い光が降り注ぐ。椅子に座る樹の顔つきは、数日前とはまるで別人だった。うなだれていたはずの目に悪あがきの光が戻っている。乾いていた指先が机の端を落ち着きなく叩いていた。 絵里香が完全に壊れたという話は房越しに漏れ聞こえてきたのだろう。護送官同士の雑談か、隣房の看守の声か——その経路までは知らないが、樹はその噂を自分に都合のいい形へ作り替えていた。「隼人さん、俺は取引をしたいんだ」 俺が席に着くなり、樹は身を乗り出した。両手首の拘束具が鈍い音を立てる。「取引だと」 黒幕の名前を教える。だから、俺の減刑と身の安全を保証してくれ。あんたが本当に欲しいのは俺の首じゃない、その名前だろう」「書面にサインでもして欲しいのか」 俺が突き放すように問うと、樹は一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑みを取り繕った。「口約束でいい。あんたは約束を破るような人間には見えない」 浅ましいほど分かりやすい算段だった。絵里香が完全に潰れた今、自分に残された価値は情報だけだと踏んだのだろう。だが、こんな男の言葉一つで手心を加えるつもりなど最初からない。俺は隣室に控える凜へ目配せだけ送り、あえて交渉のテーブルに着いた。「いいだろう。お前が本当にその名前を知っているなら、な」 俺はあえて乗った素振りを見せた。樹の顔に安堵の色が広がる。それを見た瞬間、確信が深まった。この男はまだ、自分に交渉のカードが残っていると錯覚している。「約束は守ってもらうぞ。俺が知っているのは……」 樹が語り始めたのは、俺が求めていた核心そのものではなかった。「黒幕と直接連絡を取る時に使う合言葉だ。『満月の夜、白鷺は北へ渡る』——この言葉を告げれば、向こうから、こちらに接触してくる。連絡手段は使い捨ての端末で毎回番号が変わる。俺が知っているのは、それだけだ」「名前は」 俺の問いに、樹の表情が初めて揺らいだ。「……知らない。本当に知らないんだ。黒川さんも、俺も、あの人の顔も名前も、一度も見せてもらったことがない。指示は全部、この合言葉を通した仲介者経由でしか届かなかった」 内心で舌打ちした。樹自身、末端の捨て駒として使われていたに過ぎなかったとは…… 駒にすら正体を明かさない徹底ぶりが、警戒の深さを物語っている。黒幕にとって、樹とい
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女王への断罪

 地検の記者会見場は、朝から詰めかけた報道陣のフラッシュで埋め尽くされていた。 壇上に立った主任検事が起訴内容を読み上げていく。「株式会社エリカ・パートナーズ代表取締役、桐島絵里香被告人の罪状は、詐欺罪、業務上横領罪、および黒川商会との共謀による組織的な資金洗浄への関与。捜査の結果、被害総額は現時点で把握できているだけでも数十億円規模に上ります。求刑は実刑を前提としたものになる見通しです。あわせて、国内外を問わず被告人名義の個人資産についても、全額の凍結と追徴保全の手続きが完了しております」 検事の言葉に記者席がどよめいた。かつて「京都の若き女帝」「ビジネスクイーン」と持て囃された女に残されていた最後の砦——その資産が、文字通りゼロになった瞬間だった。 俺は自宅の執務室で、その中継を眺めていた。凜が届けてくれた週刊誌各誌の見本刷りがデスクの上に積み上がっている。 一面には、かつて絵里香が誇らしげに口にした台詞の数々が、皮肉たっぷりの見出しとともに躍っていた。『一条グループ? ええ、もはや過去の遺物ですわ』——祝賀会の壇上で放ったその言葉は、いまや彼女自身への痛烈な嘲りとして誌面を飾っている。『無職の主夫ごっこをしている間に、私はあなたを完全に超えたのよ』——この一文の隣には、手錠をかけられ護送車へ押し込まれる、崩れきった彼女の写真が並んでいた。 見出しの文字はどれも容赦がなかった。『虚飾の女帝、粉飾の果てに転落』『実の娘にすら拒まれた「セレブ社長」の末路』 ネットのコメント欄を覗いても、同情の一文字すら見当たらない。誰もが手のひらを返し、面白がって石を投げることだけに夢中になっていた。 かつて彼女を担ぎ上げていたインフルエンサーたちのSNSは、この数日で一人残らず更新が止まっている。共演していた投稿は軒並み削除され、最初から関わりなどなかったかのように、彼女の痕跡だけが丁寧に消されていた。取引を続けていた企業も、公式サイトからそのブランド名を外している。 擁護する声は、もうどこにも見当たらない。 見本刷りを一枚めくった凜が、傍らでタブレットの画面を差し出してきた。「兄さん、エリカ・パートナーズは本日付で破産手続き開始の決定が下りました。かつて業界トップを豪語していた会社の看板は、もう跡形もありません。取引先だった大手アパレルも百貨店も、揃
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凪の日々

 土曜の朝。一条ペントハウスのリビングには、数日前まで報道各局を騒がせていた喧騒が嘘のような、柔らかな陽射しが差し込んでいた。窓の外に広がる京都の街並みも、今日ばかりは牙を隠し、穏やかな顔を見せている。「パパ、約束の日だよ! 今日、ケーキ作る日!」 結衣がパジャマのまま、俺の腕を両手で引っ張ってくる。大きな瞳は期待に輝き、寝癖のついた前髪がぴょこんと跳ねていた。「ああ、忘れてないさ。今日は結衣とパパの二人だけの特別な仕事だ」 キッチンに立つと、銀色の作業台に卵と小麦粉、真っ赤な苺のパックが並んでいる。凜が朝一番に取り寄せさせたものだ。 何年も前、ろうそくに火の灯ることさえなかったあのケーキを思い出す。乾いてひび割れた生クリームと、母親の帰りを待ちわびていた小さな背中——あの光景を今度こそこの手で塗り替える番だった。「結衣、ここを混ぜてくれ。パパが支えているから、思い切りやっていいぞ」「うん!」 踏み台の上で泡立て器を握る結衣の小さな手に俺はそっと手を添えた。生クリームが白く泡立っていく様子を、結衣は真剣な顔で見つめている。頬に飛んだクリームを指で拭ってやると、くすぐったそうに笑い声を上げた。 その笑顔を見ながら、俺はこれまでの日々を振り返っていた。母の遺した最後の手がかり、黒川という男の底なしの悪意、白鷺銀行が隠していた腐敗、そして樹と絵里香が選んだ、あまりにも呆気ない末路。 刃を研ぎ続けるだけだった日々を踏み越えて、ようやくこの穏やかな朝に辿り着いた。「パパ、苺、王冠みたいに並べていい?」「いいとも。結衣の好きなようにやってくれ」 不格好でも構わない。あの日欠けたままだったものを、この手でもう一度満たせるなら、それでいい。 オーブンの中でスポンジ生地が膨らんでいく様子を、結衣は椅子の上に膝立ちになって覗き込んでいる。焼き上がりを待つ間、生地の切れ端を味見させてやると、結衣は頬いっぱいに頬張って目を丸くした。「おいしい! 結衣、大きくなったらケーキ屋さんになる!」「それはいい夢だ。パパが一番のお客さんになってやる」 他愛のない会話に、俺は柄にもなく喉の奥が熱くなるのを感じた。 リビングの扉が開き、凜が顔を覗かせた。手には分厚い報告書を抱えている。「兄さん、次の案件について、少しよろしいでしょうか」 いつもの張り詰めた声。だが
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牙を研ぐ老獪 〜重蔵の暗躍〜

 一条本家、母屋から渡り廊下で繋がった離れ。 表向きは隠居した老人の茶室に過ぎないが、この四畳半こそが、一条財閥の裏側を数十年にわたって操り続けてきた本当の玉座だった。 一条重蔵——一族の誰もが「本家の良心」と呼び、宴席では孫を可愛がるように隼人へ祝いの品を欠かさなかった老人。その顔の裏に、これほど昏い野心を隠し続けてきたと知る者は、この家に一人もいない。 重蔵は茶筅を置き、正座した膝の上で乾いた指を組んだ。庭の池を打つ雨音だけが響く座敷で、皺だらけの横顔には隠居した好々爺らしい穏やかさなど微塵も残っていない。「大叔父様、ご報告がございます」 障子の外で膝をついた楢崎が一枚の書類を畳の上に滑らせた。長年、重蔵の影として汚れ仕事を担ってきた男の声にすら、隠しきれない緊張が滲んでいる。「京都支社の廃棄倉庫に眠っていた、あの日の監視映像が復元されました。隼人様と凜様の手によって……。大叔父様のお姿も、はっきりと映り込んでいる状態です」 重蔵の表情は動かなかった。「知っている。あの映像が復元されたことも、そこに儂の顔まで映り込んでいたこともな。隼人たちが儂を追い詰めるだけの証拠を、まさかここまで早く揃えてくるとは思わなかった」「加えて、地下三階の尋問記録を扱う班の中に、こちらの息のかかった者がおります。その報告によれば、樹という男が我々との連絡に使っていた合言葉——『満月の夜、白鷺は北へ渡る』を既に白状したとのこと。黒川はまだ大叔父様のお名前までは吐いておりませんが、時間の問題かと」「黒川、か……」 重蔵の口元が小さく歪んだ。用済みだと切り捨てる一文を打たせたのは、他ならぬ重蔵自身だった。何十年も便利に使い潰してきた駒だ。あの男が沈む海の底で誰の名を叫ぼうと、今さら重蔵の足元に届く波などありはしない。 重蔵は湯呑みを置き、静かに問うた。「先夜、隼人に繋がせたあの電話には、どんな反応を見せた」「動揺は面に出さなかったそうですが、通話履歴の解析をすぐさま指示したとの由。図太い男です」 楢崎は淡々と報告を続けた。「上等だ。あの程度の揺さぶりで尻尾を出すほど、若造も甘くはないということか。ならば次の段階へ進むまでだ」 書類を捲る指先だけが、この場で唯一、感情らしきものを宿していた。 数十年前、京都支社の帳簿から決して目を逸らさなかった一人の女—
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仕組まれた横領、消えぬ疑惑

 一条本社ビル、最上階の執務室。 結衣とケーキを焼いたあの穏やかな週末から、まだ数日しか経っていない。凪いだ水面の下で何かが動き始めていると、あの晩の電話が告げていた通りになった。 朝一番、監査部からの緊急報告書がタブレットに表示された瞬間、俺は珈琲を口に運ぶ手を止めた。「地方支社の口座から、過去三ヶ月で計十二回、不審な資金移動が確認されました。移動先はいずれもペーパーカンパニー。そして——承認権限を持つのは、凜様のIDのみです」 報告に上がってきた監査担当の声が微かに硬い。 画面に並ぶログを一枚ずつ捲る。承認印、ログイン記録、操作端末のIPアドレス、さらには生体認証の照合結果まで。どれを見ても、凜のものと寸分違わず一致していた。第三者が横から割り込む余地など、本来ならどこにも存在しない設計だ。 だが、それだけではなかった。「もう一件、報告がございます。大叔父様——重蔵様に関する内部捜査資料、京都支社の廃棄倉庫から復元されたあの監視映像の解析データ一式が、外部へ流出した痕跡が見つかりました。流出元として記録されているアクセス経路も、凜様の端末と一致しています」 二つの爆弾が同時に、しかも同じ人物の名の下に転がり込んできた。 俺は画面を睨んだまま、口の中で小さく呟いた。「——出来すぎているな」 黒川と樹が仕掛けてきた罠は、いつも底の浅い欲と焦りが透けて見えた。だが、これは違う。承認履歴一つ、タイムスタンプ一つに至るまで、矛盾なく凜の輪郭をなぞって作り込まれている。本物の横領犯なら、まず残さない類の証拠だ。潔白を証明しようにも、証拠そのものが完璧すぎて、逆に凜自身の首を絞める仕掛けになっている。 その違和感を確信に変える暇もなく、本家評議会からの緊急招集がかかった。 評議会の広間、重厚な円卓を囲むように、古参の重鎮たちが顔を揃えている。上座に座る征之が書類を叩きつけるように円卓へ置いた。「血の繋がらぬ小娘に、いつまでも一条の中枢を任せておいた結果がこれだ。横領、そして機密情報の流出。代理責任者としての権限を即刻停止し、正式な査問にかけるべきだと進言する」 凜は微動だにせず、円卓の中央でまっすぐに征之を見返した。声、佇まいにも、動揺の欠片すら滲ませない。だが円卓の下、膝の上に置かれた指先だけが、白くなるほど固く握り込まれているのを俺は見逃さ
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単独潜入、閉じる罠

 凜は評議会の広間を出てからというもの、誰とも会っていない。 凜は鏡を見た。 エレベーターの鏡に映る自分の顔はいつも通り、寸分の乱れもなく整っている。だがしかし、指先の震えだけは、まだ完全には消えてはいない。『血の繋がらぬ小娘』『証拠は既に揃っている』 老人たちが投げつけてきた言葉の一つ一つが、耳の奥にこびりついて離れなかった。 ——兄さんに、これ以上頼るわけにはいかない。 拾われてきた身でありながら一条の中枢に居座り続けられたのは、誰よりも役に立つ女であり続けたからだ。その根拠が崩れかけている今、真犯人を突き止めるところまで兄さんの手を借りては、自分の存在価値そのものが揺らいでしまう。 凜はそう思い込んでいた。 隼人はいつも対等な右腕として扱ってくれる。だからこそ、これ以上、守られるだけの存在に成り下がるわけにはいかなかった。 この汚名だけは、自分の手で完全に晴らし、証拠ごと隼人の前に突きつけてみせる——それが拾われた恩に報いる唯一の方法だと信じていた。 執務室に戻った凜のスマートフォンに、暗号化された匿名のメッセージが届いたのは、深夜過ぎのことだった。『流出の真犯人を示す資料がある。京都支社の旧社屋、地下資料室。今夜二十三時、単独で。第三者を伴えば、この証拠は永久に処分する』 差出人は特定不能。だが添付された断片データの一部は、凜自身が解析した流出経路の特徴と完全に一致していた。黒川の残党にしては、あまりにも手際が良すぎる。 罠かもしれない。そう分かっていながら、凜の指は既に応答の準備をしていた。 ——これを逃せば、次の機会はもう来ない。 念のため、腕時計型の発信機と緊急通報アプリを起動させ、二時間おきに定時連絡を入れる設定だけを組んでおく。隼人には、まだ何も告げていない。 京都支社の旧社屋は母が単身乗り込んだあの頃のまま、時が止まったように朽ちていた。割れた窓ガラスの隙間から、街灯の光が斜めに差し込んでいる。錆びついた正面扉を押し開けると、埃と黴の臭いが鼻を突いた。 周囲に監視カメラの類は見当たらない。だが死角のない配置、複数の退路を確保できる導線—— かつて隼人の母がこの建物で誰かに命を狙われたのだとしたら、犯人はきっとこの場所の造りを知り尽くしていたのだろうと、凜は場違いな考えを頭の隅に押しやった。 地下資料室へ続く
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