夜八時。リビングのテーブルには、結衣の名前が書かれたバースデーケーキと、不格好なリボンが結ばれた小さな箱が置かれていた。「パパ……ママ、まだお仕事終わらないの?」 五歳になる娘の結衣が、画用紙に描いた『ママへの似顔絵』を胸に抱きしめたまま、泣き出しそうな顔で俺を見上げている。 今日は結衣がずっと楽しみにしていた大切な誕生日だ。俺は娘の頭を優しく撫でると、スマートフォンを取り出して、妻である絵里香に電話をかけた。 数回のコールの後、苛立ちを含んだ声が耳に届く。『何? 今、ホテルで重要な祝賀パーティーをしているの。用がないなら電話してこないで』「今日は結衣の誕生日だ。ケーキを買って待っていると言ったはずだが」『だから何? 子供の誕生日なんて毎年あるじゃない。こっちは会社の命運を握る大事な日なのよ。定職にも就かず、家で主夫ごっこをしているだけのあなたには一生理解できないでしょうけどね』 凍てつくほど冷たい言葉だ。 その背後から、ひどく甘ったるい男の声が聞こえた。『社長ぉ、グラス空きましたよ。……ふふっ、今日は最高ですね、絵里香さん』『ちょっと、待ってよ、樹(いつき)くん……あぁもう、切るわよ!』 ブツッ、と乾いた電子音が鳴り、通話が切断された。「……ママ、こないの?」 ついに結衣の目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちる。 俺は湧き上がる怒りを噛み殺し、極めて穏やかな声で結衣を抱き寄せた。「ごめんな。ママは今日、どうしても外せない用事があるみたいなんだ。パパと一緒にケーキを食べよう」 泣きじゃくる娘をなだめ、ベッドで寝かしつける。 結衣の規則正しい寝息を確認した俺は、そっとドアを閉めてリビングに戻った。暗がりの中、虚空に向かって低く声を落とす。「結衣を守れ」『——承知いたしました』 どこからか、感情の読めない声が耳元のインカムに返ってくる。 俺は冷たい雨が降る夜の街へと歩み出した。足取りは重く、胸の奥で微かな未練が燻っている。(頼むから、全部俺の勘違いであってくれ……) 妻は不器用なだけで、家族への愛は残っているはずだ。あの男の声も、ただの酔った社員の戯言に違いない。そう自分に言い聞かせながら、俺は足早にホテルへと向かった。 ◇ 都内の高級ホテル、最上階の宴会場—— 扉を開けると、そこ
Last Updated : 2026-06-02 Read more